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2.奥様と呼ばれる檻

Penulis: 中岡 始
last update Tanggal publikasi: 2026-05-01 06:54:29

応接室の花は、すでに整っていた。

けれど美緒は、もう一度だけ花器の向きを確かめた。床の間の掛け軸に対して、枝先がわずかに右へ流れている。ほんの少しのことだった。誰も気づかないかもしれない。けれど、佳乃子は気づく。

この家では、気づかれないことよりも、気づかれたときにどう見えるかが大切だった。

美緒は花器を両手で持ち、音を立てないように数ミリだけ動かした。陶器の底が畳の上の薄い板に触れる、そのわずかな感触にまで神経が向く。朝から動き続けているせいか、指先が少し冷えていた。

応接室は、客を迎えるための部屋というより、久世家が久世家であることを証明するための部屋に見えた。

磨かれた座卓。季節に合わせて替えられる掛け軸。古いが手入れの行き届いた茶箪笥。壁際には、先代たちの写真が小さな額に収まっている。どれも古く、静かで、重みがある。部屋全体に、ほのかな香の匂いが漂っていた。強すぎてはいけない。弱すぎてもいけない。来客が部屋に入った瞬間、上品だと感じる程度でなければならない。

美緒は窓を少しだけ開けた。

庭の木々が朝の光を受けて、葉の先を光らせている。高台にあるため、遠くに町の屋根が少し見えた。外の空気は澄んでいるのに、応接室へ戻ると、閉じた場所の静けさが肌にまとわりつく。

茶器の数を確かめる。来客は三人と聞いている。佳乃子を含めて四客。念のため、もう一客。湯呑みの模様の向き、菓子皿の色、茶托の艶。座布団は客の膝が座卓に近すぎない位置に置く。佳乃子の席は床の間に近い側。美緒は入口近くに控える。呼ばれたときすぐ動ける位置で、けれど会話の邪魔にならない場所。

この部屋に、美緒が座る場所はなかった。

それは当然のことのようで、だからこそ改めて考える機会もなかった。美緒がそこにいる意味は、席に座ることではない。席に座る人たちが気持ちよく話せるように、気配を消して動くことだった。

手土産を置く台に白い布をかけ、端を指で整える。来客用のスリッパは玄関に並べた。廊下から応接室までの通り道に埃がないか、もう一度だけ視線を滑らせる。

大丈夫。

そう思ってから、美緒はすぐに打ち消した。

大丈夫かどうかを決めるのは、自分ではない。

廊下の向こうから、衣擦れの気配が近づいてきた。佳乃子だった。

今日の佳乃子は、淡い若草色の着物を着ていた。帯は控えめだが上質で、胸元には小さな真珠の帯留めがある。髪はいつものようにきれいにまとめられ、朝から少しの乱れもない。美緒が一日かけても届かない落ち着きが、佳乃子には自然に備わっているように見えた。

佳乃子は応接室の入口で立ち止まり、部屋全体を一目で見た。

「きれいに整えてくれたのね」

美緒は少しだけ肩の力を抜きかけた。

「ありがとうございます」

「丁寧でいいわ」

佳乃子はそう言いながら、ゆっくりと床の間へ歩いた。そして、美緒が直したばかりの花器に指先を添える。枝先をほんの少しだけ戻すように動かした。美緒が数ミリ整えたものを、別の数ミリで上書きする。その動作は静かで、美しかった。

「悪く取らないでね。こういうところに、その家の格が出るの」

「はい。勉強になります」

佳乃子は次に茶器へ目を向けた。美緒が用意した菓子皿を一枚手に取り、棚の中の別の皿と入れ替える。白磁に薄い金の縁取りがあるものだった。美緒の選んだ皿より、少し華やかで、少し近づきがたい。

「今日は私のお客様ではなく、久世家のお客様ですからね」

「承知しました」

「美緒さんは丁寧なのだけれど、少し遠慮が出すぎるのよ」

佳乃子は責めるようには言わなかった。むしろ親切に教えている声だった。

「控えめなのは悪いことではないわ。でも、久世家の嫁として立つときは、控えめでいるだけでは足りないの。場にふさわしい華やかさも、覚えていかないと」

「はい。気をつけます」

褒められたはずなのに、美緒の背筋は少しずつ硬くなっていった。

佳乃子は怒らない。ただ、正しい位置へ戻すように、美緒の判断をそっと退ける。美緒が選んだもの、美緒が整えたもの、美緒が考えたこと。それらは否定されるのではなく、より正しい形へ直される。だから、美緒は傷ついたと言えない。

未熟なのは自分だ。

そう思う方が、ずっと簡単だった。

「美緒さん」

「はい」

「お茶を出したら、少しこちらで控えていてちょうだい。相川さんは気さくな方だけれど、少し目の利く方だから」

「はい」

「ご親族の小田島さんもいらっしゃるから、言葉遣いだけ気をつけて。あの方は昔から久世家をよくご存じなの」

「承知しました」

佳乃子は満足したように小さく頷いた。

「あなたは真面目だから大丈夫よ」

その言葉に、美緒は微笑んだ。

「ありがとうございます」

真面目だから大丈夫。

けれど、大丈夫でいるために必要なものが、毎日少しずつ増えていく気がした。

来客が到着したのは、午前十時を少し過ぎた頃だった。

最初に来たのは、地元銀行支店長の妻である相川夫人だった。上品なグレーのスーツに、淡い色のスカーフを巻いている。続いて、老舗百貨店の外商部長の妻である榊夫人。華やかながらも品のある人で、指先の宝石が光を受けて控えめにきらめいた。最後に、久世家の遠縁にあたる小田島律子が来た。七十代に近い年齢だが背筋が伸び、目元が鋭い。

美緒は玄関で佳乃子の半歩後ろに控え、深く頭を下げた。

「本日はお越しいただき、ありがとうございます」

相川夫人が美緒を見て、にこやかに目を細めた。

「まあ、美緒さん。今日もおきれいね」

「恐れ入ります」

「久世家の若奥様がいらっしゃると、佳乃子さんもお楽でしょう」

佳乃子は柔らかく笑った。

「ええ、よく気がついてくれて助かっています」

助かっている。

その言葉は今朝、怜央からも聞いた。嬉しいはずだった。けれど、佳乃子の言葉の中で自分がどこにいるのか、美緒には一瞬分からなくなった。

榊夫人が靴を脱ぎながら、美緒へ視線を向けた。

「怜央さんも、こんな奥様がいてお幸せね。お仕事に集中できるでしょう」

「いえ、私はまだ至らないことばかりです」

「まあ、謙虚でいらっしゃる」

小田島がゆっくりと頷いた。

「よくできたお嫁さんね。今どき、こういう方は少ないわ」

「ありがとうございます」

美緒は笑顔で頭を下げた。

美緒さん、と呼ばれているのに、その言葉は美緒自身へ届いていない気がした。褒められている。認められている。そう受け取ればいいはずなのに、胸の奥に薄い膜が張る。

よくできたお嫁さん。

怜央さんの奥様。

佳乃子さんを助ける人。

そこに篠原美緒だった頃の自分は、どこにもいなかった。

応接室では、佳乃子が中心に座り、来客たちが自然にその周りを囲んだ。美緒は茶を出し、菓子を配り、膝をついて一人ずつの前に置いていく。湯呑みの向き、茶托の角度、手の引き方。どれも佳乃子に教えられた通りにする。

相川夫人が茶を受け取りながら、美緒を見上げた。

「美緒さんもお座りになれば?」

美緒は一瞬だけ迷った。

その一瞬を、佳乃子が拾った。

「この子は気が利くから、少し動いてくれる方が落ち着くみたいなの」

佳乃子の声は穏やかだった。

「ね、美緒さん」

「はい。こちらで失礼いたします」

美緒は微笑み、入口近くへ下がった。

座る機会を失ったというより、最初からそこにはなかったのだと理解する方が楽だった。来客の一人が気遣ってくれた。その気遣いを、佳乃子が自然に整え直した。誰も悪いことをしていない。だから、美緒は何も感じてはいけない。

会話は、地元の文化行事から始まった。来月の茶会、百貨店の催事、商工会の記念式典。どれも久世家と関わりのある話ばかりだった。

「久世さんのところは、やっぱり地元の柱ですものね」

榊夫人が言った。

「昔から、地域のよいものをきちんと外へ出してくださるでしょう。うちの外商でも、久世物産さんの商品は根強い人気がありますのよ」

佳乃子は控えめに微笑んだ。

「ありがたいことです。主人たちも、地域の方々に支えられてここまで来られましたから」

「でも、これからは怜央さんの時代でしょう」

相川夫人が弾むように続けた。

「若いのに華があって、頼もしいわ。支店でも評判ですよ。ああいう後継者がいらっしゃるなら、久世物産さんも安泰ですね」

美緒は湯を足す手を止めないようにした。

怜央が外でどう見えているかは、分かっているつもりだった。身なりがよく、話し方も滑らかで、人を不快にさせない。会食では相手を褒め、地元の集まりでは前向きな言葉を選ぶ。久世家の長男として見られることに慣れている。

けれど、美緒が家で見る怜央は違う。

資料の場所を忘れる。面倒なことは美緒へ回す。佳乃子の機嫌を美緒に任せる。莉奈の相談も、当然のように美緒へ振る。悪い人ではない。少なくとも、美緒はまだそう思おうとしている。けれど、夫人たちが語る若き後継者と、今朝コーヒーを半分残して出ていった怜央が、同じ人間のようには思えなかった。

誰も嘘をついているわけではない。ただ、美緒が知っている怜央と、彼女たちが語る怜央が、同じ人間に思えなかった。

「美緒さんも、お忙しいでしょう」

小田島がふと話を向けた。

「久世家の嫁ともなれば、家のことだけでも大変でしょうに、怜央さんのことも支えていらっしゃるんだから」

「いえ、私など。お義母さまに教えていただいてばかりです」

佳乃子が微笑んだ。

「美緒さんは真面目なの。少し真面目すぎるくらい」

「まあ、それはよいことですわ」

相川夫人が笑う。

「でも、真面目すぎると疲れてしまうでしょう。若いご夫婦には、少し肩の力を抜くことも大切よ」

若いご夫婦。

その言葉から自然に、別の話題が流れ込んできた。

榊夫人が、知人の家に生まれた孫の話をした。小田島が、遠縁の跡取りの名前を出した。久世家と付き合いのある家の誰それに男の子が生まれた、初節句がどうだった、内祝いが立派だった。そういう話が、上品な茶の香りの中で穏やかに続いた。

やがて、相川夫人が美緒を見た。

「そういえば、美緒さんのところは、そろそろ?」

湯呑みを持つ指先が、ほんの少しだけ止まった。

すぐに、美緒は笑顔を整えた。

「授かりものですので」

その声は、自分でも驚くほど穏やかだった。穏やかに聞こえるように、何度も練習してきた声だった。

「怜央さんのお子さんなら、きっと可愛らしいでしょうね」

榊夫人が悪気なく言う。

「久世家も次の代が楽しみですわね」

小田島が頷いた。

「跡継ぎのことは、どこの家でも大事なことですもの」

美緒は笑っていた。

顔の筋肉が、きちんと動いていることを自分で確認するような笑顔だった。心の中で何かが縮こまる。子どものことは、誰かに責められるたびに痛むのではない。何気ない世間話の中で、当然のように自分の身体と未来が久世家の予定に組み込まれるとき、痛みが遅れてやってくる。

佳乃子が穏やかに場を受けた。

「若い二人のことですから」

その一言で終わるのかと思った。

けれど佳乃子は、美緒の方へわずかに視線を向けた。

「美緒さんは少し真面目すぎるところがありますから、気を楽にすればいいのだけれど」

「そうねえ。気にしすぎるのもよくないわ」

相川夫人がうなずいた。

「美緒さん、頑張りすぎてしまうのね」

美緒は、また頭を下げた。

「ありがとうございます。気をつけます」

何に気をつけるのか、自分でも分からなかった。

頑張りすぎないこと。気にしすぎないこと。久世家の嫁としてきちんとすること。怜央を支えること。子どもを授かること。場を乱さないこと。佳乃子に恥をかかせないこと。

それらは、すべて同じ方向を向いているようで、少しずつ美緒の中で絡まり合っていた。

茶を入れ替えるために下がろうとしたとき、榊夫人が思い出したように言った。

「美緒さんは、たしか銀行にお勤めだったのよね」

美緒は顔を上げた。

「はい。結婚前は、地方銀行に勤めておりました」

その話題に触れられた瞬間、胸の奥に小さな明かりが灯った。

銀行にいた頃、美緒には美緒の机があった。名札があり、担当先があり、提出する資料には自分の名前が入っていた。融資先の経営者の話を聞き、決算書を読み、資金繰り表を一緒に確認した。相手の不安を数字の形に直し、必要な書類を整え、上司へ説明する。地味で、緊張も多く、楽な仕事ではなかった。けれど、あの頃の美緒は、自分の判断で誰かの役に立っていた。

「でも、今は奥様業に専念されているのよね」

榊夫人はにこやかに続けた。

「久世家に入られたら、それだけでお忙しいでしょう」

明かりが、ふっと弱まった。

佳乃子が湯呑みに手を添えながら言った。

「銀行でのお勤めも、今の美緒さんには役に立っていると思いますよ。怜央のこともよく支えてくれていますし」

「まあ、そうでしょうね。数字に強い奥様がいらっしゃるなんて、怜央さんも心強いわ」

「本当に」

小田島が頷いた。

「嫁に来てからも、前の経験を家のために生かせるのはよいことです」

家のため。

怜央のため。

久世家のため。

美緒は唇を開きかけた。

銀行でのことは、今も少しは役に立っていると思います。

そう言うつもりだった。けれど、その言葉さえ、ここでは久世家のために回収されてしまう気がした。自分が学んできたこと、自分が積み上げてきたもの。それらは、この部屋では自分のものとしては扱われない。

美緒は微笑んだ。

「まだ至らないことばかりですが、少しでもお役に立てればと思っております」

佳乃子が満足そうに頷いた。

銀行にいた頃、美緒の机には美緒の名前があった。

けれど今、彼女に与えられている名前は、久世家の若奥様だった。

相川夫人が美緒の所作を見て、感心したように言った。

「美緒さん、本当によく気がつくわね」

「恐れ入ります」

佳乃子は柔らかく笑った。

「ええ、よくやってくれています」

その言葉に、美緒は一瞬だけ安堵した。

だが、佳乃子は続けた。

「ただ、まだ少し遠慮が強いの。久世家の嫁としては、控えるだけではなく、場を持たせることも覚えていかないと」

美緒の安堵は、音もなく畳まれた。

「この子は真面目すぎて、何でも自分で抱え込んでしまうところがあるのよ。怜央を支えるには、もう少しおおらかさも必要ね」

「それは佳乃子さんが教えて差し上げないと」

小田島が言った。

「久世家のお嫁さんは、ただ控えていればいいというものではありませんものね」

「ええ。少しずつ」

佳乃子の視線が、美緒へ向く。

美緒は笑って頭を下げた。

「勉強します」

何を、どこまで学べば合格なのか分からないまま、美緒はそう言った。

その後も会話は和やかに続いた。文化行事の話、百貨店の催事の話、久世物産の創業記念行事の話。誰も声を荒げない。誰も美緒を直接責めない。むしろ、皆が美緒を褒めてくれる。

だからこそ、美緒は自分がなぜ少しずつ疲れていくのか、分からなかった。

一度、茶器を下げるために廊下へ出たとき、スマホが小さく震えた。

怜央からだった。

美緒は応接室の声が聞こえる位置を避け、廊下の端で電話に出た。

「はい」

「母さんの客、もう来てる?」

怜央の声は明るかった。外の空気をまとっているような、少し軽い声だった。

「はい。相川様と榊様、小田島様がお見えです」

「機嫌どう?」

一瞬、美緒は言葉に詰まった。

自分のことを聞かれたわけではない。佳乃子の機嫌。来客の様子。家の空気。怜央が気にしているのは、そこだった。

「問題ないと思います」

「ならよかった。あと、今日の夜、会食入った。夕飯いらないから」

「分かりました」

「母さんにはうまく言っておいて」

「承知しました」

「助かる」

怜央はそう言って、すぐに電話を切った。

通話終了の画面が、手の中で白く光っていた。

助かる、という短い言葉だけで、美緒はまだ少し安心してしまう。そのことが、今はまだ悲しいことだとは分からなかった。

必要とされている。

そう思えば、胸の中にある小さな空白を見ないで済む。怜央が自分を頼ってくれる。母の機嫌も、家のことも、会食の連絡も、美緒に任せてくれる。それは妻として信頼されているということなのだと、美緒は思おうとした。

応接室へ戻る前に、鏡のように磨かれた廊下の窓に自分の顔が映った。

笑顔を戻さなければ。

美緒は一度だけ息を吸い、応接室へ戻った。

来客が帰ったのは、昼前だった。

玄関では佳乃子が完璧な笑顔で見送った。相川夫人も榊夫人も小田島も、口々に楽しかったと言い、美緒にもまた声をかけた。

「美緒さん、お茶をありがとう」

「本当に気持ちよく過ごさせていただいたわ」

「怜央さんをしっかり支えてあげてね」

「はい。ありがとうございます」

美緒は頭を下げた。

門の外へ車が出ていき、重い門が閉まる。屋敷に静けさが戻った。

佳乃子は小さく息をついた。

「少し疲れたわね」

「お疲れさまでした」

「片づけをお願いできる?」

「はい。私がやっておきます」

「助かるわ」

佳乃子はそう言って、自室へ戻っていった。

美緒は応接室へ戻った。

先ほどまで笑い声で満ちていた部屋は、香の匂いだけを薄く残して静まり返っていた。座布団はわずかに斜めになり、菓子皿には小さな欠片が残っている。茶器には口紅の跡がつき、湯呑みの底には冷めた茶が少し残っていた。

美緒は袖を邪魔にならないように押さえ、茶器を一つずつ盆に乗せた。

相川夫人の湯呑み。榊夫人の菓子皿。小田島が使った茶托。佳乃子の湯呑み。どれも丁寧に扱う。高価なものだからというより、壊してはいけないものが、この家には多すぎる。

茶器を洗いながら、さっきの言葉が頭の中で繰り返された。

久世家の若奥様。

怜央さんを支えてあげてね。

そろそろ、よいお知らせも。

お仕事は、もうされていないのよね。

美緒は水音を聞きながら、自分が何と答えたかを思い出す。

恐れ入ります。

まだ至らないことばかりです。

授かりものですので。

少しでもお役に立てればと思っております。

どれも正しい返事だった。相手を不快にさせない。佳乃子の顔を立てる。久世家の嫁として失礼がない。自分でも、うまくできたと思う。

けれど、うまくできたはずなのに、胸の奥が重かった。

ひどいことを言われたわけではない。むしろ褒められた。よくできたお嫁さんだと言われた。きれいだと言われた。気が利くと言われた。怜央は幸せだと言われた。

ならば、この疲れは何なのだろう。

美緒は洗い終えた湯呑みを布巾の上に伏せた。水滴が白い布に小さく広がる。

幸せそうに見えることと、幸せであることは、同じなのだろうか。

その問いが胸に浮かんだ瞬間、美緒は慌てて目を伏せた。

そんなふうに考えてはいけない。

自分は恵まれている。久世家に嫁ぎ、怜央の妻になり、立派な屋敷で暮らしている。父も母も、きっと安心している。周囲もそう見ている。ならば、この息苦しさは、自分の感じ方の問題なのかもしれない。

もっとおおらかに。

もっと華やかに。

もっと気を楽に。

もっと久世家の嫁らしく。

頭の中で、いくつもの言葉が重なった。

片づけを終えたあと、美緒は手帳を開いた。来客の名前、手土産の内容、礼状を出す相手、次回の茶会の日程、佳乃子に確認すること。それらを細かく書き込んでいく。忘れないために。失礼のないように。次に同じ場面が来たとき、少しでも正しく動けるように。

手帳の余白に、ふと、自分の名前を書きそうになった。

美緒。

それだけの文字。

けれどペン先は止まったままだった。

久世家の若奥様。

その呼び名は、丁寧で、きれいで、誰から見ても恵まれたもののように聞こえる。けれど美緒は、その呼び名で呼ばれるたび、自分の名前が少し遠くなる気がした。

久世家の若奥様。怜央の妻。佳乃子の嫁。地元の名家に入った、よくできたお嫁さん。

呼び名は増えていく。

そのぶん、美緒という名前だけが、少しずつ薄くなっていく。

そのとき、スマホが短く震えた。

画面を見ると、莉奈からだった。

お義姉さん、今日おうちにいますよね? ちょっと相談したい資料があって。

美緒は画面を見つめた。

ほんの一瞬だけ、指が止まる。

応接室にはもう誰もいない。佳乃子の声も、来客の笑い声もない。香の匂いだけが残る静かな部屋で、美緒は自分の呼吸が浅くなっていることに気づいた。

お義姉さん。

また別の呼び名が、美緒を探している。

断ってもいいのだろうか。

今日は少し疲れているからと、言ってもいいのだろうか。

そう考えたのは、本当に一瞬だけだった。莉奈は困っているのかもしれない。怜央の妹だ。久世家の家族だ。数字のことなら、美緒が見た方が早い。そうすれば、怜央も困らない。佳乃子にも迷惑がかからない。

美緒は返信欄を開いた。

大丈夫です。

送信すると、画面に既読がつく前に、美緒はスマホを伏せた。

呼び名は増えていく。

久世家の若奥様。

怜央の妻。

佳乃子の嫁。

莉奈のお義姉さん。

そのどれもが丁寧で、必要とされているように聞こえる。けれど、美緒は洗い終えた茶器の白い列を見つめながら、胸の奥で何かが静かに閉じていくのを感じていた。

まだ、それを言葉にはできなかった。

ただ、自分の名前だけが、少し遠かった。

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    美緒を母に会わせようと思ったのは、交際を始めてからしばらく経った頃だった。きっかけは、母からの電話だった。「最近、少し変わったでしょう」開口一番にそう言われて、鷹宮は黙った。「何がですか」「帰ってくる時間」「母さんには関係ないでしょう」「ええ。だから理由を聞いているわけじゃないの」怜子はあっさり答えた。昔からそうだった。聞かない。ただ、気づいたことは口にする。「会わせたい人ができたら、そのうち連れていらっしゃい」それだけ言って、話題は父の健康診断へ移った。電話を切ったあとも、その言葉が残った。会わせたい人。美緒を思い浮かべた。すぐに連れていこうとは思わなかった。むしろ、そこで鷹宮は自分でも意外なほど慎重になった。美緒にとって、家という言葉がどういうものなのか。鷹宮はすべてを知っているわけではない。久世家で何があったのか、美緒から細部まで聞いたこともない。聞こうともしてこなかった。ただ、分かっていることはある。誰かの妻であること。家に入ること。その家の役割を当然のように背負わされること。美緒は一度、それを経験している。だから。鷹宮家へ来てほしい。その一言を口にすることさえ、鷹宮は少し迷った。自分にとっては、ただ両親に恋人を紹介するだけでも。美緒には違う意味に聞こえるかもしれない。家族に会う。親に認めてもらう。将来を確認される。結婚はいつなのか。子どもはどうするのか。仕事は続けるのか。鷹宮家の人間としてどう振る舞うのか。そんな意味を、美緒が勝手に読み取るとは思っていない。問題は、そう読ませる状況を自分が作ってしまわないか

  • 御曹司の妻を辞めた日、私は社長になった〜久世家を出た元嫁は、格上エリートと人生を再建する   40.恋人になっても、代表は代表

    あの夜から、二人の関係には一つだけ新しい名前がついた。店を出て駅まで歩き、改札の少し手前まで来たところで、鷹宮は足を止めた。美緒も立ち止まる。「篠原さん」「はい」「一つ、確認してもいいですか」美緒が少し首を傾げた。「どうぞ」鷹宮は、言葉を選んだ。これまでなら、必要以上に関係を定義しないことを選んだかもしれない。曖昧なままでも、二人の気持ちは伝わっている。そう考えることもできた。だが、それでは美緒に判断を委ねたことにならない。自分はどうしたいのか。それを先に示すべきだった。「私は、これからも仕事とは別に、篠原さんと会いたいと思っています」美緒は黙って聞いている。「経営相談の相手としてでも、仕事上の知人としてでもなく」そこまで言えば、意味は十分に伝わるだろう。それでも鷹宮は曖昧にしなかった。「交際してほしい、という意味です」美緒の目がわずかに見開かれた。数秒の沈黙があった。鷹宮は待った。ここまで来ても、答えを急がせるつもりはなかった。やがて美緒が、小さく笑った。「はい」鷹宮はその一言を聞いた。「私も、そうしたいです」胸の奥に静かな安堵が広がった。もっと大きな感情が来るのかと思っていた。高揚とか。衝動とか。けれど実際には、長く置いていたものが、ようやくあるべき場所へ収まったような感覚だった。「分かりました」鷹宮が答えると、美緒が少しだけ笑みを深くした。「そこも、鷹宮さんらしいですね」「何がですか」「交際を申し込んだ返事に、分かりましたって」鷹宮は一瞬黙った。「おかしかったですか」「少しだけ」美緒が笑う。鷹宮も、わずかに口元を緩めた。その夜、駅で別れた。手をつなぐこともなかった。抱き寄せることも。ただ、次は仕事ではない日に会う約束だけをして、それぞれの方向へ帰った。それで十分だった。少なくとも、鷹宮には。交際を始めたからといって、翌朝から仕事の形が変わったわけではない。鷹宮の受信箱には、これまでと同じように投資先からの報告が届き、三崎からは検討案件が送られてくる。美緒からも連絡が一件来ていた。件名は、事業体制について。鷹宮はメールを開いた。藤崎との業務委託契約について、法人化後の切り替えが完了したこと。久世物産の実行管理について、次回から確認方法を一部変更する

  • 御曹司の妻を辞めた日、私は社長になった〜久世家を出た元嫁は、格上エリートと人生を再建する   4.美緒なら分かるだろ

    怜央からのメッセージは、短かった。莉奈の資料、今日中に見られる?美緒は、ダイニングのテーブルに広げた企画書を前にして、その文字をしばらく見つめていた。今日中に。莉奈が言った「ちょっと相談」という言葉より、その四文字はずっと重かった。けれど、怜央からの頼みだと思うと、重いと感じる自分の方が間違っているような気がした。窓の外では、庭の木々が夕方の光を受けて暗い影を落とし始めている。昼間には明るく見えた苔の色も、今は深く沈み、飛び石の縁だけがかすかに白く浮いていた。古い振り子時計の音が、廊下の奥から一定の間隔で届く

  • 御曹司の妻を辞めた日、私は社長になった〜久世家を出た元嫁は、格上エリートと人生を再建する   3.お義姉さんならできますよね

    スマホの画面には、莉奈の名前が表示されていた。お義姉さん、今日おうちにいますよね? ちょっと相談したい資料があって。美緒は、洗い終えた茶器を布巾の上に伏せたまま、その文面を見つめた。ちょっと相談。その言葉は軽かった。少なくとも、断るほど重いものには見えなかった。けれど美緒は知っている。久世家で使われる「ちょっと」は、たいてい、その言葉より少し重い。応接室には、まだ香の匂いが薄く残っていた。先ほどまで来客たちの笑い声が満ちていた部屋は、今は静まり返っている。茶器は洗い終えた。菓子皿も拭いた。座布団も元の位置に戻

  • 御曹司の妻を辞めた日、私は社長になった〜久世家を出た元嫁は、格上エリートと人生を再建する   1.重い門の内側

    久世家の朝は、門が開く前から始まる。まだ空は薄く青く、庭石の縁には夜の湿り気が残っていた。高い塀の向こうから、坂道を上ってくる車の音がかすかに聞こえる。新聞配達のバイクが一度止まり、また遠ざかっていく。その音は門の内側へ届く前に、どこかよその世界のものになった。美緒は玄関先に立ち、新聞受けから取り出した朝刊を両手でそろえた。重い門は、まだ閉じている。外から見れば、それは久世家の格式を示すものなのだろう。代々この地方都市で名を知られてきた旧家にふさわしい、堂々とした門構え。高い塀の内側には手入れされた庭が広がり、松の枝は季節に合わせて整えられている。飛び石には落ち葉ひとつ残されておらず、

  • 御曹司の妻を辞めた日、私は社長になった〜久世家を出た元嫁は、格上エリートと人生を再建する   37.見落とされている価値

    鷹宮に見せた事業計画書を、帰宅してからもしばらく開けなかった。地域ブランド事業支援計画書。作成者、久世美緒。封筒から出した紙の束は、机の上に置かれている。持っていく前と同じ枚数で、同じ重さのはずだった。それなのに、美緒には少し重くなったように見えた。創業動機と理念が混ざっています。鷹宮の声が、まだ耳の奥に残っている。怒りや悔しさは、動き出す力になります。ですが、それは理念にはなりません。必要なのは、誰を見返すかではなく、誰の価値をどう届けるかです。

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