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3.お義姉さんならできますよね

ผู้เขียน: 中岡 始
last update วันที่เผยแพร่: 2026-05-02 17:55:51

スマホの画面には、莉奈の名前が表示されていた。

お義姉さん、今日おうちにいますよね? ちょっと相談したい資料があって。

美緒は、洗い終えた茶器を布巾の上に伏せたまま、その文面を見つめた。

ちょっと相談。

その言葉は軽かった。少なくとも、断るほど重いものには見えなかった。けれど美緒は知っている。久世家で使われる「ちょっと」は、たいてい、その言葉より少し重い。

応接室には、まだ香の匂いが薄く残っていた。先ほどまで来客たちの笑い声が満ちていた部屋は、今は静まり返っている。茶器は洗い終えた。菓子皿も拭いた。座布団も元の位置に戻した。けれど、身体の奥に残った疲れまでは、片づけることができなかった。

美緒はスマホを持ったまま、返事を打とうとして指を止めた。

本当は、少しだけ座りたかった。

朝から自分のために淹れたお茶は、結局ほとんど口にしていない。来客の対応を終えたあとも、礼状の宛先を手帳に書き、佳乃子に確認することをまとめ、茶器を洗っていた。時計を見ると、昼を過ぎている。遅い昼食を取るなら今しかなかった。

けれど、莉奈は怜央の妹だった。佳乃子の娘で、久世物産の広報部にいる。久世家の中で、明るく、華やかで、いつも誰かに可愛がられている人。そんな莉奈が「相談」と言っている。

断るほどのことではない。

そう思うより早く、美緒の指は動いていた。

大丈夫です。

送信してから、美緒は画面を見つめた。

大丈夫です、と打つのに、ほとんど時間はかからなかった。大丈夫かどうかを確かめるより先に、その言葉だけが指に馴染んでいた。

すぐに既読がついた。

ありがとうございます! 午後少し寄りますね。

文末についた明るい絵文字を見て、美緒は小さく息を吐いた。莉奈らしいと思った。頼みごとをしているのに、重さがない。悪びれたところもない。その軽さに救われることもあれば、少しだけ胸が引っかかることもある。

美緒はスマホを伏せ、布巾に伏せた茶器へ視線を戻した。

久世家の若奥様。

さっきまで応接室で呼ばれていたその言葉が、まだ耳の奥に残っている。そこへ今度は、お義姉さん、という呼び名が重なった。

呼ばれ方が変わるたび、求められる役割も変わる。

美緒は布巾を絞り、応接室の机をもう一度だけ拭いた。ほんの小さな菓子くずが指先に触れる。それを取り除くと、座卓はまた何事もなかったように艶を取り戻した。

何事もなかったように見せること。

この家で求められているのは、たぶんそれなのだと思った。

莉奈が来たのは、午後二時を少し回った頃だった。

玄関のチャイムが鳴り、美緒が出ると、門の内側に莉奈が立っていた。柔らかいピンクのブラウスに、白いジャケット。手には小ぶりなブランドバッグと、透明なファイルケースを持っている。爪は淡いラベンダー色に塗られ、小さなストーンが光っていた。髪はゆるく巻かれ、近づくと甘い香水の匂いがした。

莉奈は美緒を見つけると、明るく手を振った。

「お義姉さん、急にすみません」

「いえ。どうぞ、お入りください」

美緒はスリッパをそろえた。莉奈は慣れた様子で靴を脱ぎ、片手でスマホを見ながら玄関に上がった。バッグが腕から滑り落ちそうになると、莉奈は何気なくそれを美緒に差し出した。

「あ、これちょっと持ってもらっていいですか」

「はい」

美緒はバッグを受け取った。軽い。けれど、その自然さに一瞬だけ言葉が遅れた。莉奈は悪気なく笑い、ファイルケースを胸に抱え直した。

「今日もおうちのことですか? ほんと、お義姉さんってすごいですよね。こういう家のこと、全部ちゃんとできるの」

「そんなことないですよ」

「私、絶対無理です。朝からお茶出したり、お客様の相手したり、そういうの向いてなくて」

莉奈は廊下を歩きながら、肩をすくめる。

「でもお義姉さんって、そういう裏方のこと向いてますよね」

美緒は足を止めなかった。

莉奈の言葉はいつも明るい。明るいぶんだけ、そこに含まれる小さな棘に気づいた自分の方が、意地悪なのではないかと思ってしまう。

「お茶を淹れますね」

「ありがとうございます。あ、でもそんなにちゃんとじゃなくて大丈夫です。すぐ終わると思うので」

すぐ終わる。

その言葉を聞いて、美緒は少しだけ安心しようとした。

居間には午後の光が差し込んでいた。午前中の応接室とは違い、家族が使う部屋のはずなのに、ここにもどこか整いすぎた静けさがあった。美緒は莉奈を座らせ、温かいほうじ茶を用意した。莉奈は座るなりスマホをテーブルに置き、ファイルケースから資料を取り出した。

表紙には、明るい色でタイトルが印刷されていた。

久世物産・秋の地域特産ギフトフェア。

淡いオレンジと深い赤を基調にした華やかなデザインだった。老舗菓子、地元の酒造メーカーの商品、特産ジャム、加工食品。写真はどれも明るく、若い女性が好みそうな雰囲気に整えられている。限定パッケージ、百貨店催事、SNSキャンペーン、インフルエンサー招待。ページをめくるたび、楽しそうな言葉が並んでいた。

莉奈は得意げに身を乗り出した。

「どうですか? 可愛くないですか」

「華やかですね。写真も見やすいと思います」

「ですよね。久世物産って、どうしても古いイメージあるじゃないですか。贈答品とか、冠婚葬祭とか、そういう堅い感じ。だから、若い人にも刺さる感じにしたくて」

「いい視点だと思います」

美緒は素直にそう言った。

久世物産が古い印象を持たれていることは、美緒も感じていた。地元では名の通った会社だが、若い世代に向けた見せ方は弱い。莉奈の企画には、確かに目を引く力があった。色も、写真も、キャッチコピーも、今の空気を取り込もうとしている。

ただ、ページをめくるうちに、美緒の指先が少しずつ遅くなった。

原価の欄がない。

販促費は概算と書かれているが、金額の根拠が見えない。インフルエンサー招待、撮影費、限定パッケージの制作費、百貨店への手数料。それらがどこまで含まれているのか分からない。売上見込みは明るい数字で並んでいるが、過去実績との比較がない。発注数の根拠も弱い。在庫が残った場合の扱いも書かれていなかった。

見るつもりはなかった。

けれど、数字の空白は、美緒の目には小さな穴のように見えた。放っておけば、そこから何かが崩れていく。

莉奈はほうじ茶に口をつけ、軽く笑った。

「ざっくりでいいんです。細かい数字って、あとからどうにでもなりません?」

美緒は資料から目を上げた。

「あとから確認することもできますが、先に見ておいた方がいい部分もあると思います」

「やっぱりそうですか」

莉奈は少しだけ顔をしかめた。

「私、コンセプト担当なので、そういう実務っぽいところは苦手で」

「数字は、どなたが確認される予定ですか」

「え、たぶん怜央兄さん?」

莉奈の返事は軽かった。

「でも兄さんも忙しいし、ざっと見てもらえたらいいかなって。お義姉さん、元銀行員でしたよね?」

その言い方に、責める響きはなかった。むしろ、便利な道具を思い出したような明るさだった。

美緒は資料をもう一度見下ろした。

元銀行員。

その言葉は、自分の過去につながるもののはずだった。けれど莉奈の口から出ると、それは久世家の中で必要なときだけ呼び出される資格のように聞こえた。

「経理の方には、もう見せていますか」

美緒が尋ねると、莉奈は分かりやすく肩を落とした。

「森川さんに出すと、すぐ細かいこと言われるんですよね。せっかく可愛い企画なのに、数字数字って」

森川という名には覚えがあった。久世物産の経理部長で、以前、怜央の資料を届けに行ったときに一度だけ会ったことがある。無口で愛想はないが、資料の読み方がとても正確な人だった。

美緒は、莉奈の言葉に小さく引っかかった。

数字数字って。

けれど、数字を見ないまま進めた企画は、誰かの現場へ負担として落ちていく。銀行にいた頃、美緒はそういう会社を何度も見てきた。売上はあるのに利益が残らない。話題にはなるのに資金繰りが苦しくなる。華やかな企画の裏で、誰かが在庫を抱え、誰かが支払いに追われる。

「数字を見るのは、企画を止めるためではないと思います」

美緒は、できるだけ柔らかく言った。

「進めるためにも、確認しておいた方が安心です」

莉奈は少し不満そうに唇を尖らせたが、すぐに笑顔へ戻った。

「ですよね。だからお義姉さんに見てもらいたかったんです」

「私で分かる範囲でしたら」

「お義姉さんなら、うまく整えてくれますよね」

その言葉は、まるで褒め言葉のようだった。

美緒は返事を探した。

「整えるというより、確認だけなら」

「変に難しくしなくていいんです。役員の人たちが見て、いい感じって思えばいいので」

美緒の指先が、資料の端を押さえたまま止まった。

「役員の方がご覧になるんですか」

「たぶん。怜央兄さんが明日使うかもって」

莉奈の「たぶん」は軽かった。けれど、その軽さの下に、美緒には重いものが沈んでいるように見えた。

明日。

役員。

怜央が使う。

軽い相談のはずだったものが、急に別の形を帯び始める。美緒は資料のページをそっと戻した。表紙の明るい色が、さっきより少しだけ頼りなく見えた。

「それでしたら、もう少し数字を確認した方がよいかもしれません」

「そんなに変ですか?」

莉奈の目が少しだけ不安げになる。

美緒はすぐに言葉を選んだ。

「企画の方向は分かりやすいと思います。ただ、発注数の根拠や、販促費の内訳がまだ見えないので」

「やっぱり数字かあ」

莉奈は背もたれに体を預けた。

「そこ、私が説明しなきゃダメですか? 怜央兄さんが話すなら、見た目だけ整ってればいいと思うんですけど」

美緒は小さく息を吸った。

見た目だけ整っていればいい。

その言葉は、莉奈だけのものではない気がした。久世家の中に流れている考え方そのものに近かった。外からどう見えるか。誰にどう見られるか。立派に見えるか。華やかに見えるか。中身が追いついていなくても、まず形を整える。

美緒は資料の中の売上見込み表を見つめた。

数字は、見た目だけでは整わない。

そのとき、廊下の方から佳乃子の足音がした。

「莉奈、また美緒さんに頼っているの?」

声は穏やかだった。だが、その一言で、莉奈は少し甘えたように笑った。

「だって、お義姉さんの方がこういうの得意なんだもん」

佳乃子は居間に入り、テーブルの上の資料へ目を向けた。莉奈の企画書を一枚手に取り、色使いを眺める。

「華やかね」

「でしょう? 若い人向けにしたくて」

「莉奈は発想はいいのだけれど、細かいところはまだ勉強中だから」

佳乃子はそう言って、美緒を見た。

「美緒さん、無理のない範囲で見てあげてちょうだい」

「はい」

反射のように返事が出た。

「家族の中で得意な人が支え合うのは、悪いことではないでしょう」

「はい。確認してみます」

「あなたが見てくれれば安心だわ。怜央も助かるでしょう」

佳乃子の言葉は、褒め言葉の形をしていた。

けれど、美緒はその形の奥に、逃げ道が静かに閉じていく気配を感じた。

無理のない範囲で、という言葉ほど、範囲の見えないものはなかった。

無理かどうかを誰が決めるのか。どこまでなら範囲内なのか。今日中なのか、明日の朝なのか。確認だけなのか、修正までなのか。美緒がそれを尋ねようとすると、佳乃子は先に微笑んだ。

「美緒さんなら、きっとほどよく整えてくれるわね」

ほどよく。

曖昧な言葉だった。だが、その曖昧さの中に、結果だけは求められている。

「できる範囲で、見てみます」

美緒はそう答えた。

莉奈はぱっと表情を明るくした。

「ほんとですか? 助かります」

その明るさに、美緒は少しだけ胸を撫で下ろしそうになった。困っていた人を助けられるなら、それは悪いことではない。莉奈が喜んでいる。佳乃子も安心している。怜央の仕事にも役立つかもしれない。

自分が少し頑張れば、全部丸く収まる。

そう思う癖が、美緒の中には深く染みついていた。

佳乃子は用があると言って居間を出ていき、莉奈はスマホを手に取り、誰かから来たメッセージへ返信し始めた。美緒はその間に、資料を一枚ずつ確認した。

売上見込みが、過去の百貨店催事の実績よりかなり高い。目標値なら分かるが、その根拠がない。限定パッケージの制作単価は未記入。撮影費は販促費に含まれているのか不明。インフルエンサー招待の交通費と謝礼も抜けている。百貨店側の手数料率が古い。仕入れ原価は前年の資料からそのまま引かれている可能性がある。

在庫リスクについては、一行もなかった。

美緒はページの余白に、鉛筆で小さく印をつけた。線を引きながら、銀行時代に見た決算書のいくつかが頭をよぎる。売上は伸びているのに、利益が残らない会社。話題性のある商品を作ったものの、在庫を抱えて資金繰りが悪化した会社。取引先に無理な納期を押しつけ、次の年には関係が切れてしまった会社。

資料の上では、どの企画も明るく見える。

だが、明るい資料ほど、影になった数字を見落としやすい。

美緒は取引先一覧に目を落とした。老舗菓子店、酒造メーカー、小さな加工食品会社。どれも久世物産と長く付き合ってきた会社ばかりだ。短納期で限定パッケージを作るとなれば、現場には負担がかかる。小さな工場では、包材を変えるだけでも手間が増える。売れ残ったとき、返品条件が曖昧なら、その負担はどこへ行くのだろう。

危ない、と最初に思ったのは、自分のためではなかった。

莉奈が困る。怜央が困る。久世家が困る。取引先が困る。その順番で、美緒の中に理由が積み上がっていく。

これは私が口を出すことではない。

そう思いながらも、見てしまった以上、知らないふりはできなかった。

「どうですか? 変じゃないですよね?」

莉奈がスマホから顔を上げた。

美緒は鉛筆を置いた。

「企画の方向は分かりやすいと思います。若い方に向けたいという意図も伝わります」

「よかった」

「ただ、数字の部分は少し確認した方がいいと思います」

莉奈は分かりやすく肩を落とした。

「やっぱり数字かあ」

「売上見込みと、実際にかかる費用の差が少し見えにくいので」

「そこ、そんなに大事ですか?」

美緒はすぐには答えられなかった。

大事です、と言えば莉奈を責めるように聞こえるかもしれない。大丈夫です、と言えば資料はそのまま進んでしまう。

「大事だと思います。企画を通すためにも、あとで困らないためにも」

莉奈は唇を尖らせたあと、少し身を乗り出した。

「私、こういう企画で久世物産のイメージ変えたいんです。古くさいって言われるの嫌じゃないですか」

その声には、確かに熱があった。

莉奈なりに、久世物産の未来を考えているのだろう。古い会社を新しく見せたい。自分の感覚で変えたい。そういう気持ちそのものは、否定されるべきものではない。

美緒は莉奈の顔を見た。

莉奈の言葉には、確かに熱があった。ただ、その熱がどこを燃やすのかを、莉奈自身はまだ知らないように見えた。

「変えたいという気持ちは、とても大事だと思います」

美緒は静かに言った。

「でも、数字を整えないまま進めると、せっかくの企画が続かなくなってしまうかもしれません」

「続かない?」

「売れたように見えても、利益が残らないことがあります。あと、取引先さんに負担がかかりすぎると、次につながらなくなることも」

莉奈は少し困ったように笑った。

「お義姉さんって、ほんと真面目ですよね」

その言葉に、美緒は微笑むしかなかった。

「すみません」

「謝らなくていいです。そういうところが頼りになるんですから」

莉奈は資料の束を軽く叩いた。

「で、これ、どのくらいで直せそうですか?」

美緒は時計を見た。午後三時前。夕食の準備もある。佳乃子から頼まれている礼状の下書きも残っている。怜央のクリーニングも受け取らなければならない。

「確認するには、少し時間が必要だと思います」

「ですよね」

莉奈は困ったように眉を下げた。

「でも、明日の朝までに怜央兄さんに渡さなきゃいけなくて」

美緒は思わず聞き返した。

「明日の朝、ですか」

「はい。すみません。もっと早く相談すればよかったんですけど」

莉奈の声は申し訳なさそうだった。けれど、その申し訳なさは軽く、すぐに次の言葉へ移った。

「でも、お義姉さんならできますよね」

明るく、信頼しているような声だった。

責められたわけではない。命令されたわけでもない。むしろ、頼られている。そう思えば、断る理由が見つからなくなる。

美緒は資料に視線を落とした。

疲れている。

本当は、そう言えばよかったのかもしれない。今日は朝から来客があって、まだ昼食もきちんと取れていない。明日の朝までに見るのは難しい。経理の森川に確認した方がいい。そう言えたら、どれだけよかっただろう。

けれど、莉奈が困るなら。

怜央が明日使うなら。

佳乃子が安心すると言ったなら。

久世家の名前に関わるなら。

断る理由は、ひとつずつ消えていった。

「できる範囲で、確認します」

美緒はそう答えた。

莉奈の表情が、ぱっと明るくなる。

「ありがとうございます。ほんと頼りになる」

できる範囲で、と美緒は言った。けれど莉奈の表情を見た瞬間、その範囲を決める権利が自分にはないことを悟った。

莉奈は資料をまとめ、美緒の前へ差し出した。

「データも送りますね。紙の方が見やすいかなと思って、一応持ってきたんですけど」

「ありがとうございます」

「できたら夜に送ってもらえます? 私、明日の朝ちょっとバタバタしそうで」

夜。

その言葉が、美緒の中で静かに落ちた。

「分かりました」

「ほんと助かります。私、こういうの苦手で」

莉奈は立ち上がり、スマホを確認した。

「あ、もう行かなきゃ。友達と展示会行く約束してて」

「そうなんですね」

「これも仕事の参考になるかなって。最近のパッケージとか見たいし」

莉奈は悪びれずに笑った。自分の企画のために動いているのだろう。まったく遊びというわけでもないのかもしれない。そう考えると、美緒は何も言えなかった。

玄関まで見送ると、莉奈は靴を履きながら振り返った。

「お義姉さんって、ほんと頼りになりますよね。怜央兄さんも助かると思います」

「いえ。確認だけですから」

「またまた。お義姉さんが見てくれたら安心です」

莉奈は片手を振り、門の外へ出ていった。

甘い香水の匂いが、玄関に薄く残った。車の音が遠ざかると、屋敷の静けさが戻ってくる。美緒は玄関に立ったまま、莉奈から預かった資料を抱えていた。

頼られたのだと思えば、少しは楽だった。

押しつけられたのだと思うには、莉奈の笑顔はあまりに無邪気だった。

居間へ戻ると、テーブルの上に莉奈の資料を広げた跡が残っていた。湯呑みには、ほとんど飲まれていないほうじ茶が冷めている。美緒はそれを片づけ、資料を丁寧に揃えた。

資料は薄いファイル一冊分だった。それなのに美緒の腕には、まるで誰かの責任ごと渡されたような重さが残った。

「莉奈は帰ったの?」

廊下から佳乃子の声がした。

美緒は立ち上がった。

「はい。先ほど」

佳乃子は居間に入り、資料を見た。

「莉奈のこと、お願いね」

「はい。確認してみます」

「あなたが見てくれれば安心だわ。あの子は発想は悪くないのだけれど、どうしても細かいところが苦手でしょう」

「そうですね。企画の方向は、分かりやすいと思います」

「怜央も助かるでしょう」

佳乃子は穏やかに笑った。

「こういうところで家族を支えられるのが、美緒さんのよいところね」

美緒は一瞬、言葉を探した。

よいところ。

その言葉は、褒め言葉だった。佳乃子から認められているようにも聞こえる。けれど同時に、美緒の役割を決める言葉でもあった。

家族を支える。

怜央を助ける。

莉奈を困らせない。

そのために自分の時間が消えていくことは、久世家の中では美緒の長所として数えられる。

「ありがとうございます」

美緒は、そう答えた。

佳乃子は満足したように頷き、廊下の奥へ戻っていった。

居間に一人残されると、急に部屋が広く感じられた。午後の光は少し傾き始めている。庭の影が畳の端に伸び、古い振り子時計の音だけが、規則正しく響いていた。

美緒は椅子に座り、資料を開いた。

表紙の色は明るい。地域特産品を若い世代へ届ける。久世物産の新しい魅力を発信する。そこに書かれた言葉は前向きだった。莉奈の熱も嘘ではない。

けれど、その下に並ぶ数字は頼りなかった。

美緒は手帳を引き寄せ、確認する項目を書き出した。原価。販促費。百貨店手数料。発注数の根拠。在庫対応。取引先納期。過去実績。利益率。

書き出すほど、見るべきところが増えていく。

これは、ちょっと相談、ではない。

そう思った瞬間、スマホが震えた。

怜央からだった。

莉奈の資料、今日中に見られる?

美緒は画面を見つめた。

相談だったはずのものが、いつの間にか怜央の仕事になっている。

それでも、美緒の指は返信欄に置かれた。何と返せばいいのかは、ほとんど考えるまでもなかった。

確認しておきます。

送信ボタンを押すと、家のどこかで古い振り子時計が鳴った。

まだ夕方だった。

けれど美緒の夜は、もう自分のものではなくなっていた。

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    美緒を母に会わせようと思ったのは、交際を始めてからしばらく経った頃だった。きっかけは、母からの電話だった。「最近、少し変わったでしょう」開口一番にそう言われて、鷹宮は黙った。「何がですか」「帰ってくる時間」「母さんには関係ないでしょう」「ええ。だから理由を聞いているわけじゃないの」怜子はあっさり答えた。昔からそうだった。聞かない。ただ、気づいたことは口にする。「会わせたい人ができたら、そのうち連れていらっしゃい」それだけ言って、話題は父の健康診断へ移った。電話を切ったあとも、その言葉が残った。会わせたい人。美緒を思い浮かべた。すぐに連れていこうとは思わなかった。むしろ、そこで鷹宮は自分でも意外なほど慎重になった。美緒にとって、家という言葉がどういうものなのか。鷹宮はすべてを知っているわけではない。久世家で何があったのか、美緒から細部まで聞いたこともない。聞こうともしてこなかった。ただ、分かっていることはある。誰かの妻であること。家に入ること。その家の役割を当然のように背負わされること。美緒は一度、それを経験している。だから。鷹宮家へ来てほしい。その一言を口にすることさえ、鷹宮は少し迷った。自分にとっては、ただ両親に恋人を紹介するだけでも。美緒には違う意味に聞こえるかもしれない。家族に会う。親に認めてもらう。将来を確認される。結婚はいつなのか。子どもはどうするのか。仕事は続けるのか。鷹宮家の人間としてどう振る舞うのか。そんな意味を、美緒が勝手に読み取るとは思っていない。問題は、そう読ませる状況を自分が作ってしまわないか

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    あの夜から、二人の関係には一つだけ新しい名前がついた。店を出て駅まで歩き、改札の少し手前まで来たところで、鷹宮は足を止めた。美緒も立ち止まる。「篠原さん」「はい」「一つ、確認してもいいですか」美緒が少し首を傾げた。「どうぞ」鷹宮は、言葉を選んだ。これまでなら、必要以上に関係を定義しないことを選んだかもしれない。曖昧なままでも、二人の気持ちは伝わっている。そう考えることもできた。だが、それでは美緒に判断を委ねたことにならない。自分はどうしたいのか。それを先に示すべきだった。「私は、これからも仕事とは別に、篠原さんと会いたいと思っています」美緒は黙って聞いている。「経営相談の相手としてでも、仕事上の知人としてでもなく」そこまで言えば、意味は十分に伝わるだろう。それでも鷹宮は曖昧にしなかった。「交際してほしい、という意味です」美緒の目がわずかに見開かれた。数秒の沈黙があった。鷹宮は待った。ここまで来ても、答えを急がせるつもりはなかった。やがて美緒が、小さく笑った。「はい」鷹宮はその一言を聞いた。「私も、そうしたいです」胸の奥に静かな安堵が広がった。もっと大きな感情が来るのかと思っていた。高揚とか。衝動とか。けれど実際には、長く置いていたものが、ようやくあるべき場所へ収まったような感覚だった。「分かりました」鷹宮が答えると、美緒が少しだけ笑みを深くした。「そこも、鷹宮さんらしいですね」「何がですか」「交際を申し込んだ返事に、分かりましたって」鷹宮は一瞬黙った。「おかしかったですか」「少しだけ」美緒が笑う。鷹宮も、わずかに口元を緩めた。その夜、駅で別れた。手をつなぐこともなかった。抱き寄せることも。ただ、次は仕事ではない日に会う約束だけをして、それぞれの方向へ帰った。それで十分だった。少なくとも、鷹宮には。交際を始めたからといって、翌朝から仕事の形が変わったわけではない。鷹宮の受信箱には、これまでと同じように投資先からの報告が届き、三崎からは検討案件が送られてくる。美緒からも連絡が一件来ていた。件名は、事業体制について。鷹宮はメールを開いた。藤崎との業務委託契約について、法人化後の切り替えが完了したこと。久世物産の実行管理について、次回から確認方法を一部変更する

  • 御曹司の妻を辞めた日、私は社長になった〜久世家を出た元嫁は、格上エリートと人生を再建する   4.美緒なら分かるだろ

    怜央からのメッセージは、短かった。莉奈の資料、今日中に見られる?美緒は、ダイニングのテーブルに広げた企画書を前にして、その文字をしばらく見つめていた。今日中に。莉奈が言った「ちょっと相談」という言葉より、その四文字はずっと重かった。けれど、怜央からの頼みだと思うと、重いと感じる自分の方が間違っているような気がした。窓の外では、庭の木々が夕方の光を受けて暗い影を落とし始めている。昼間には明るく見えた苔の色も、今は深く沈み、飛び石の縁だけがかすかに白く浮いていた。古い振り子時計の音が、廊下の奥から一定の間隔で届く

  • 御曹司の妻を辞めた日、私は社長になった〜久世家を出た元嫁は、格上エリートと人生を再建する   2.奥様と呼ばれる檻

    応接室の花は、すでに整っていた。けれど美緒は、もう一度だけ花器の向きを確かめた。床の間の掛け軸に対して、枝先がわずかに右へ流れている。ほんの少しのことだった。誰も気づかないかもしれない。けれど、佳乃子は気づく。この家では、気づかれないことよりも、気づかれたときにどう見えるかが大切だった。美緒は花器を両手で持ち、音を立てないように数ミリだけ動かした。陶器の底が畳の上の薄い板に触れる、そのわずかな感触にまで神経が向く。朝から動き続けているせいか、指先が少し冷えていた。応接室は、客を迎えるための部屋というより、久世家が久世家であることを証明するための部屋に見えた。磨かれた座卓。季節に合わ

  • 御曹司の妻を辞めた日、私は社長になった〜久世家を出た元嫁は、格上エリートと人生を再建する   1.重い門の内側

    久世家の朝は、門が開く前から始まる。まだ空は薄く青く、庭石の縁には夜の湿り気が残っていた。高い塀の向こうから、坂道を上ってくる車の音がかすかに聞こえる。新聞配達のバイクが一度止まり、また遠ざかっていく。その音は門の内側へ届く前に、どこかよその世界のものになった。美緒は玄関先に立ち、新聞受けから取り出した朝刊を両手でそろえた。重い門は、まだ閉じている。外から見れば、それは久世家の格式を示すものなのだろう。代々この地方都市で名を知られてきた旧家にふさわしい、堂々とした門構え。高い塀の内側には手入れされた庭が広がり、松の枝は季節に合わせて整えられている。飛び石には落ち葉ひとつ残されておらず、

  • 御曹司の妻を辞めた日、私は社長になった〜久世家を出た元嫁は、格上エリートと人生を再建する   37.見落とされている価値

    鷹宮に見せた事業計画書を、帰宅してからもしばらく開けなかった。地域ブランド事業支援計画書。作成者、久世美緒。封筒から出した紙の束は、机の上に置かれている。持っていく前と同じ枚数で、同じ重さのはずだった。それなのに、美緒には少し重くなったように見えた。創業動機と理念が混ざっています。鷹宮の声が、まだ耳の奥に残っている。怒りや悔しさは、動き出す力になります。ですが、それは理念にはなりません。必要なのは、誰を見返すかではなく、誰の価値をどう届けるかです。

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