LOGIN一緒に暮らす場所を決めるとき、鷹宮は最初、自分の部屋を使えばいいと考えた。一人で暮らすには十分すぎる広さがあり、立地にも不満はない。美緒の事務所へも、鷹宮の会社へも通えない距離ではなかった。家具も一通り揃っている。新しく借りる理由は、数字だけを見ればほとんどない。だから、美緒にそう話した。「今の部屋でも、二人なら十分だと思います」夕食のあと、美緒が持ってきたノートを二人で見ながらだった。結婚すると決めてから、住む場所について何度か話している。美緒は鷹宮の言葉を聞き、「そうですね」と答えたあと、少し考えた。「ただ、一つだけ」「何ですか」「私の机、置けますか」鷹宮は答えようとして、止まった。机。美緒の仕事机。考えていなかった。正確には、美緒が仕事をする場所については考えていた。書斎にもう一つ机を入れればいいと思っていたし、スペースもある。だが、その書斎は現在、鷹宮の仕事部屋だった。壁際には本棚があり、デスクの横には投資先の資料を入れるキャビネットがある。オンライン会議もそこで行い、休日に仕事をするときも使う。そこへ美緒の机を入れる。物理的には可能だった。「書斎なら入ります」鷹宮が答えると、美緒が尋ねた。「鷹宮さんも、そこで仕事をしますよね」「はい」「同時に使って、大丈夫ですか」また、鷹宮は止まった。「私は大丈夫です」「私は、たぶん気になります」予想していなかった答えだった。「音ですか」「それもありますけど」美緒は少し笑った。「資料を見られないようにしないといけないので」鷹宮はすぐに理解した。リブランシュには顧客の経営情報がある。売上。原価。
プロポーズをする日を、鷹宮は特別な記念日にはしなかった。高級ホテルも、夜景の見えるレストランも選ばない。美緒が仕事を終えたあとに無理なく来られて、二人で落ち着いて話せる場所、それだけを基準にした。店を予約するとき、個室にするか少し迷ったが、完全に閉じられた空間はやめた。静かではあるものの、周囲にはほかの客もいる小さなレストランだった。以前、初めて仕事ではない食事をした店とは別だが、大げさな演出がなく、二人で話すための場所として十分だというところは似ていた。当日、美緒は予定どおりの時間に来た。「お待たせしました」「いえ。私も今来たところです」実際には十分ほど前からいたが、それを言う必要はない。美緒が席につき、メニューを開いた。「今日は、お仕事どうでした?」「予定どおりです。篠原さんは?」「少し押しましたけど、終わりました」「藤崎さんは?」「今日は先に帰しました。最近、私より残ろうとするので」「代表が残ると、社員も帰りにくくなりますよ」「言われました」「誰に?」「藤崎さんに」鷹宮は少し笑った。「なら、聞いた方がいいですね」「はい。反省しています」そんな、いつもと変わらない会話から始まった。美緒も、今日の食事に何か特別な意味があるとは思っていないようだった。それでよかった。料理が運ばれ、二人で食べた。美緒が最近受けた案件の話を少しし、鷹宮も投資先であったことを話す。ただ、どちらも相談ではない。こんなことがあった、こう考えたと話せば、相手はそれを聞き、時々意見を返す。恋人になってから、そういう会話が増えた。以前なら、美緒が仕事の話をすれば、鷹宮は自然に問題点を探していた。何を確認すべきか、どこにリスクがあるか、次の判断は何か。今は、必ずしも答えを出す必要はないと分かっている。美緒も同じで、鷹宮の仕事の話を聞いたからといって、すぐ
美緒との結婚を初めて具体的に考えたのは、鷹宮家で両親と食事をした数日後だった。きっかけらしいきっかけはない。美緒から結婚の話をされたわけでも、母から何か言われたわけでもなかった。むしろ怜子はあの日以来、美緒についてほとんど何も聞いてこず、帰り際に、「また時間が合えばいらしてね」と言っただけだった。次はいつなのか、今後はどうするのか、そんなことは一度も言わない。美緒自身も、あの日のことを必要以上に話題にはしなかった。ただ一度、「またお会いしたいです」と言っただけだった。それなのに鷹宮の中には、以前にはなかった考えが残っていた。この先も、美緒と一緒にいたい。恋人として会い、食事をし、休日を過ごす。それだけではなく、もっと長い時間を、日常そのものを美緒と共有したいと思うようになっていた。結婚。言葉にすれば簡単だった。鷹宮にとって、それまで結婚は特別複雑なものではなかった。互いに一緒にいたいと思い、生活を共にし、必要な手続きをして家族になる、それだけだと思っていた。少なくとも、自分について考える限りでは。だが、美緒に同じ意味でその言葉を渡していいのかとなると、そこで引っかかった。ある夜、仕事を終えて自宅へ戻った鷹宮は、ネクタイを外してリビングのソファへ腰を下ろした。照明を一つだけ点け、テーブルには帰宅途中に買った水とスマートフォンを置く。鞄の中には翌日の資料が入ったままだった。いつもなら少しだけ確認するところだが、その日は開かなかった。代わりに、美緒のことを考えた。初めて会ったとき、彼女は久世美緒だった。それが当然だったし、鷹宮も何も疑わなかった。久世怜央の妻であり、久世家の人間として紹介され、資料にも周囲の言葉にも、その名前が使われていた。けれど、久世という名前の下で、美緒自身の名前はどれだけ残っていただろう。鷹宮は、最初に見た資料を思い出した。誰が数字を整
美緒を母に会わせようと思ったのは、交際を始めてからしばらく経った頃だった。きっかけは、母からの電話だった。「最近、少し変わったでしょう」開口一番にそう言われて、鷹宮は黙った。「何がですか」「帰ってくる時間」「母さんには関係ないでしょう」「ええ。だから理由を聞いているわけじゃないの」怜子はあっさり答えた。昔からそうだった。聞かない。ただ、気づいたことは口にする。「会わせたい人ができたら、そのうち連れていらっしゃい」それだけ言って、話題は父の健康診断へ移った。電話を切ったあとも、その言葉が残った。会わせたい人。美緒を思い浮かべた。すぐに連れていこうとは思わなかった。むしろ、そこで鷹宮は自分でも意外なほど慎重になった。美緒にとって、家という言葉がどういうものなのか。鷹宮はすべてを知っているわけではない。久世家で何があったのか、美緒から細部まで聞いたこともない。聞こうともしてこなかった。ただ、分かっていることはある。誰かの妻であること。家に入ること。その家の役割を当然のように背負わされること。美緒は一度、それを経験している。だから。鷹宮家へ来てほしい。その一言を口にすることさえ、鷹宮は少し迷った。自分にとっては、ただ両親に恋人を紹介するだけでも。美緒には違う意味に聞こえるかもしれない。家族に会う。親に認めてもらう。将来を確認される。結婚はいつなのか。子どもはどうするのか。仕事は続けるのか。鷹宮家の人間としてどう振る舞うのか。そんな意味を、美緒が勝手に読み取るとは思っていない。問題は、そう読ませる状況を自分が作ってしまわないか
あの夜から、二人の関係には一つだけ新しい名前がついた。店を出て駅まで歩き、改札の少し手前まで来たところで、鷹宮は足を止めた。美緒も立ち止まる。「篠原さん」「はい」「一つ、確認してもいいですか」美緒が少し首を傾げた。「どうぞ」鷹宮は、言葉を選んだ。これまでなら、必要以上に関係を定義しないことを選んだかもしれない。曖昧なままでも、二人の気持ちは伝わっている。そう考えることもできた。だが、それでは美緒に判断を委ねたことにならない。自分はどうしたいのか。それを先に示すべきだった。「私は、これからも仕事とは別に、篠原さんと会いたいと思っています」美緒は黙って聞いている。「経営相談の相手としてでも、仕事上の知人としてでもなく」そこまで言えば、意味は十分に伝わるだろう。それでも鷹宮は曖昧にしなかった。「交際してほしい、という意味です」美緒の目がわずかに見開かれた。数秒の沈黙があった。鷹宮は待った。ここまで来ても、答えを急がせるつもりはなかった。やがて美緒が、小さく笑った。「はい」鷹宮はその一言を聞いた。「私も、そうしたいです」胸の奥に静かな安堵が広がった。もっと大きな感情が来るのかと思っていた。高揚とか。衝動とか。けれど実際には、長く置いていたものが、ようやくあるべき場所へ収まったような感覚だった。「分かりました」鷹宮が答えると、美緒が少しだけ笑みを深くした。「そこも、鷹宮さんらしいですね」「何がですか」「交際を申し込んだ返事に、分かりましたって」鷹宮は一瞬黙った。「おかしかったですか」「少しだけ」美緒が笑う。鷹宮も、わずかに口元を緩めた。その夜、駅で別れた。手をつなぐこともなかった。抱き寄せることも。ただ、次は仕事ではない日に会う約束だけをして、それぞれの方向へ帰った。それで十分だった。少なくとも、鷹宮には。交際を始めたからといって、翌朝から仕事の形が変わったわけではない。鷹宮の受信箱には、これまでと同じように投資先からの報告が届き、三崎からは検討案件が送られてくる。美緒からも連絡が一件来ていた。件名は、事業体制について。鷹宮はメールを開いた。藤崎との業務委託契約について、法人化後の切り替えが完了したこと。久世物産の実行管理について、次回から確認方法を一部変更する
食事が終わりに近づく頃には、店の中の客も少し減っていた。窓の外には夜の街の灯りが浮かび、ガラスに室内の明かりが淡く映っている。鷹宮はコーヒーカップへ手を伸ばした。結局、今夜はほとんど仕事らしい話をしなかった。法人化の話は少しした。藤崎のことも、美緒の会社のことも聞いた。だが、結論を出すためではなかった。美緒が話したから聞き、自分も思ったことを返した。それだけだった。不思議なくらい、時間は短く感じた。いつもの面談なら、終わる時間を意識する。確認事項がすべて片づいたか。次に何をするか。どこまでが今日の範囲だったか。今夜は、そのどれも必要なかった。それでも鷹宮は、この時間が終わりに近づいていることを、少し惜しいと思っていた。美緒がカップを置く。「鷹宮さん」「はい」声の調子が少し変わった。鷹宮は顔を上げた。美緒は何かを言おうとして、一度だけ視線を落とした。仕事の相談をするときとは違う。資料を確認するときとも違う。鷹宮には、その先に何が続くのか分からなかった。「少し、お話ししてもいいですか」「もちろんです」美緒はすぐには話さなかった。鷹宮は待った。急かす必要はない。彼自身にも、今夜は伝えようと思っていたことがあった。ただし、どう伝えるかはまだ決めきれていない。仕事ではない食事に誘った。美緒は来てくれた。迷惑ではなかったとも言った。それだけで、自分に都合のいい結論を出すつもりはなかった。鷹宮が美緒を一人の女性として望んでいることと、美緒が鷹宮をどう見ているかは別の話だ。だから今夜、自分の気持ちを伝えるとしても、答えを求めるつもりはなかった。美緒が会社を作ろうとしている時期でもある。久世物産の再建も、まだ終わっていない。仕事上の相談相手だった男から突然個人的な感情を渡されれば、その関係をどう扱うかまで考えさせることになる。それを避けたくて、ここまで待った。少なくとも、自分が必要だから選ばれるような関係にはしたくなかった。美緒の生活から鷹宮の助言がなくなっても。仕事の紹介がなくなっても。困ったときに最初に思い出す相手でなくなっても。そのあとで、美緒が鷹宮を選ぶなら。そういう関係でありたかった。「私」美緒が口を開いた。「前に、鷹宮さんに言われたことを、ずっと覚えています」「何ですか」
怜央からのメッセージは、短かった。莉奈の資料、今日中に見られる?美緒は、ダイニングのテーブルに広げた企画書を前にして、その文字をしばらく見つめていた。今日中に。莉奈が言った「ちょっと相談」という言葉より、その四文字はずっと重かった。けれど、怜央からの頼みだと思うと、重いと感じる自分の方が間違っているような気がした。窓の外では、庭の木々が夕方の光を受けて暗い影を落とし始めている。昼間には明るく見えた苔の色も、今は深く沈み、飛び石の縁だけがかすかに白く浮いていた。古い振り子時計の音が、廊下の奥から一定の間隔で届く
スマホの画面には、莉奈の名前が表示されていた。お義姉さん、今日おうちにいますよね? ちょっと相談したい資料があって。美緒は、洗い終えた茶器を布巾の上に伏せたまま、その文面を見つめた。ちょっと相談。その言葉は軽かった。少なくとも、断るほど重いものには見えなかった。けれど美緒は知っている。久世家で使われる「ちょっと」は、たいてい、その言葉より少し重い。応接室には、まだ香の匂いが薄く残っていた。先ほどまで来客たちの笑い声が満ちていた部屋は、今は静まり返っている。茶器は洗い終えた。菓子皿も拭いた。座布団も元の位置に戻
応接室の花は、すでに整っていた。けれど美緒は、もう一度だけ花器の向きを確かめた。床の間の掛け軸に対して、枝先がわずかに右へ流れている。ほんの少しのことだった。誰も気づかないかもしれない。けれど、佳乃子は気づく。この家では、気づかれないことよりも、気づかれたときにどう見えるかが大切だった。美緒は花器を両手で持ち、音を立てないように数ミリだけ動かした。陶器の底が畳の上の薄い板に触れる、そのわずかな感触にまで神経が向く。朝から動き続けているせいか、指先が少し冷えていた。応接室は、客を迎えるための部屋というより、久世家が久世家であることを証明するための部屋に見えた。磨かれた座卓。季節に合わ
久世家の朝は、門が開く前から始まる。まだ空は薄く青く、庭石の縁には夜の湿り気が残っていた。高い塀の向こうから、坂道を上ってくる車の音がかすかに聞こえる。新聞配達のバイクが一度止まり、また遠ざかっていく。その音は門の内側へ届く前に、どこかよその世界のものになった。美緒は玄関先に立ち、新聞受けから取り出した朝刊を両手でそろえた。重い門は、まだ閉じている。外から見れば、それは久世家の格式を示すものなのだろう。代々この地方都市で名を知られてきた旧家にふさわしい、堂々とした門構え。高い塀の内側には手入れされた庭が広がり、松の枝は季節に合わせて整えられている。飛び石には落ち葉ひとつ残されておらず、