Mag-log in「警告、だろうな……。大人しく従えとでも言いたいのか……」 秋明の言葉が百合に重くのしかかる。自分はとんでもない人間に関わってしまったと、今更気づいてしまった。「私、とんでもないことを……」「フロントのことは気にするな。お前が悪いわけじゃない。まずは帰ろう」「そうね……」 秋明は百合を励ますように肩を軽く叩いたが、百合の気持ちは軽くならない。 少し前まではようやく父が遺してくれたものを見れるとドキドキしていたが、今はもう、それどころではない。(私が予定通り滞在してたら、あの人は……) 罪悪感が押し寄せ、フロントとのやり取りが何度もリフレインする。 無知は罪。知らなかったからと言って、すべてが許されるわけではない。その理屈が通るのなら、法律を知らずに殺人をした者も無罪になる。(私が殺したようなもの、よね……) だが、百合を裁く法律は、少なくとも日本にはない。罰せられないことが、苦しかった。 家につくと、秋明に連れられ、百合の自室に行く。壁際には今までなかった机が設置されており、その上に古びた金庫が置かれていた。 金庫は金具や南京錠で机に固定されている。「勝手に部屋に入ってすまない。だが、これはお前の部屋に置いておくべきだと思ったんだ」「いいの、ありがとう……」「俺は部屋を出た方がいいか?」「いいえ、ここにいてちょうだい」「……分かった」 秋明は室内を軽く見回すと、元々あったテーブルの椅子に座り、百合を見守る。(遺書には、あのシグネットリングに暗証番号があるって書かれてたわね……) 母から渡されたシグネットリングの内側を見ると、確かに数字が彫られていた。その数字は以前藤子から聞いたふたりの結婚記念日だった。それを見て、胸が苦しくなる。(父さんは、本当に母さんを愛していたのね……) そんな父が秋明の父親の勝手で殺害されたと思うと、やるせない。 深呼吸を何回か繰り返すと、シグネットリングを金庫のくぼみにはめこみ、暗証番号を入力する。金庫は重々しい音を立てながら、数センチほど開く。 百合は震える手で金庫の扉を大きく開いた。古びたにおいに一瞬顔をしかめ、中を見る。 金庫の中は二段に区切られており、下の段には現金が、上の段にはジュエリーケースと書類が入っている。 現金は100万円の束がいくつも並んでいる。ざっと2000万はあ
「分かった、隠し事は無しだ。だが、母さんにはまだ会わせられない。それは分かってくれ」 「分かった、もうあなたのお母様に会おうとしない」 百合が言うと、秋明は安堵したように口角を上げる。 「それを聞いて安心した。そうだ、お前にまだ、あのことを話せてなかったな」 「あのこと?」 百合が小首をかしげると、秋明は不敵な笑みを浮かべ、身を乗り出す。 「宝生家の金庫を、取り返した」 百合は驚きのあまり目を見開く。熊谷家に騙され、奪われたという宝生家の、アレグリアの希望。それがようやく、本来の所有者である百合の元に戻ろうとしている。 驚き、喜び、感動などがないまぜになり、うまく言葉を発せない。 そんな百合を見て、秋明は嬉しそうに笑う。 「いい反応だ。その顔を見られただけでも、金庫を取り返した価値があった」 「からかわないで。でも、本当に? 一体、どうやって?」 「野暮なこと聞くな。さぁ、帰ろう」 「えぇ……!」 会計を済ませると、ふたりは家に向かう。車で2時間以上かかる距離が、もどかしい。 なんとなくスマホを見ると、ニュースアプリの通知があった。開いてみると、熊谷家に空き巣が入ったというニュースだ。 記事によれば、高価な装飾品や絵画、腕時計のコレクションなどが盗まれたという。 「もしかして、この空き巣って……」 「さぁな。俺は別に、書類や金庫を盗んでくるように命令なんかしてないぞ」 わざとらしく言う秋明に、百合は吹き出す。 「ふふ、そうね」 すました顔をして運転する秋明の横顔を見て、百合はある決心をする。 「ねぇ、秋明さん。帰ったら、遺書を見せるわ。それと、遺書と一緒に入ってたものも」 「いいのか?」 「えぇ。あなたは私のために、金庫を取り返してくれた。それなら、私も誠意を見せないと」 「百合……。分かった、帰ったら見せてくれ」 1時間ほど運転した後、ふたりは小休憩をするためにコンビニに立ち寄り、飲み物を買う。買ったばかりのお茶を飲みながら時間を確認しようとスマホを見ると、速報の通知が来た。 百合達が住む街の近くで、殺人事件が起きたというニュースだ。「やだ、隣街で殺人事件ですって」「物騒だな……」 記事を読もうと通知をタップし、百合は絶句する。事件の被害者は、百合にしつ
「アイツは、悪魔だ……。俺の母さんを、階段から突き落としたんだ……」 「なんですって!? 警察には……?」 「父がもみ消した。というか、信じてくれなかった……。当時、春哉はまだ10歳くらいだったしな……」 「10歳って、まだ子供じゃない……」 百合は戦慄した。もし彼が言っていることが事実なら、春哉は殺人未遂犯だ。しかもそれを小学生の頃にやったというのだから恐ろしい。 「秋明さんは、見たの……?」 「決定的瞬間は見ていない。けど、メイドと一緒に家に帰ってきたら、母さんが階段から落ちてきた……。その後、春哉が降りてきた……」 話を聞く限り、春哉が突き落したと思っても仕方がない。だが、百合は信じられなかった。それは秋明への不信感などではなく、小学生の少年がそんなことをするだろうかという疑念だった。 「本当に、そんな小さな子が……」 「信じられないか? だが、子供の殺人犯は実在する。最年少の殺人犯が何歳か知ってるか? 2歳だぞ?」「2歳!?」「それも日本でな。母親のカミソリで、生後3ヶ月くらいの妹を何度も切りつけたらしい。小学生の殺人犯だっているさ」 信じがたい話ではあるが、疑ってばかりでは話は進まない。 「目撃者とか、いないの……?」 「いたさ。2階で仕事をしていたメイドが、春哉が母さんを突き落とすところを見ていたし、母さんも春哉にやられたと言っていた。だが父は、目撃者のメイドを解雇して、母さんには見間違いだと言い聞かせた」「酷い……」「アイツは昔からそうだ。優しそうな笑顔で、他人を地獄に突き落とす。好きな女の子に好きな人がいれば、ソイツに大怪我をさせて、悲しんでる女の子に寄り添ったり、嫌いな奴がふたり以上いれば、ソイツらが潰し合うように仕向ける。サイコパスなんだよ、春哉は」 背筋に悪寒がぞわりと走る。あのまま春哉のホテルに泊まり続けていたら、自分も何かされていたかもしれない。「母さんは、半身不随で動けない。東京の病院じゃすぐ見つかると思って、ここに入院させてる。無理言ってボディガードも置かせてるんだ」「そう、だったのね……」「お前の父親を殺させるように仕向けたのだって、春哉だ。だからお前とは会わせたくなくて、アイツの存在は黙ってた」「私の父さんを? なんで、春哉さんが……」「父は藤子さんが好きだった。だからこそ
「百合?」 驚いて振り返ると、秋明が目を丸くして百合を見上げていた。「秋明さん!? どうしてここに……」「それはこっちのセリフだ。とにかく乗れ。この山、熊やイノシシが出るぞ」「え、えぇ……」 まだ秋明のことは許していないが、このまま山の前でじっとしていても仕方がない。何より、熊やイノシシに襲われたら、たまったものではない。 渋々助手席に乗ると、車はゆっくり発進し、山を登る。「話したいことは色々あるが、どうしてこんなところにいるんだ?」「実は……」 ここで見つかったのなら隠しても無駄だと悟り、律子に会いに行こうとした経緯を秋明に話した。秋明は途中で口を挟むこと無く最後まで聞くと、ため息をつく。「春哉め、余計なことを……。そのことも話すから、少し車で待っててくれるか?」「お母様のお見舞いでしょ? 何も聞いたりしないから、同席させて」「駄目だ、待っててくれ。頼むから……」 秋明は切実な目で訴えてくる。そんな目をされては、強く出られない。「……分かった、待ってる。けど、ちゃんと話して。それと、これ。代わりに渡しておいて」 百合はお見舞いの品が入った紙袋を、秋明に手渡す。「これは?」「お見舞い。さすがに手ぶらでは行けないから」「分かった、渡しておこう」 秋明は後部座席から小さな花束と紙袋を持って、病院に入っていく。 百合は助手席で待ちながら、秋明に何を聞くか整理する。 何故矢絃と破局するように仕組んだのか、何故自分と結婚したのか、何故春哉を殺人者呼ばわりするか……。 他にも聞きたいことはあるが、まずはこの3点だ。 秋明は思ったよりもはやく戻ってきた。彼は車に乗ると、カーナビを操作する。「個室の店がある。そこで話そう」「分かったわ」 その店につくまで、走行音しか聞こえなかった。 病院から20分ほどのところにある蕎麦屋につくと、ハイカラさんの格好をした店員に案内される。全室個室らしく、飲食店にしては物静かな廊下だった。 部屋に入って注文をすると、秋明が口を開いた。「まずは謝罪させてくれ。赤ん坊のこと、あんな言い方してすまなかった」 秋明は深々と頭を下げる。「お前がまだ矢絃に未練があるように思えて、ひどい言い方をしてしまった……」「まさか、あんな人に未練なんてないわ。でも、赤ちゃんは別。確かにあの人の子でもあるけど、
「あなたが春哉さんに何言われてるか知らないけど、急いで帰らないといけないの。あなたの事情で、お客を引き止めていいと思ってるの?」「そんなつもりじゃ……」「じゃあ、どんなつもり?」「あ……えっと……」 ただでさえ青かったフロントの顔が、どんどん青ざめていく。目には薄っすら涙が溜まり始めた。少し離れたところからスタッフがこちらに向かって歩いてくるのが見えた。加勢されて大事になったら困る。「じゃあ、私帰るから」 そう言い捨て、百合はフロントに背を向けて歩く。後ろでフロントがすすり泣く声が聞こえたが、自分には関係ないと割り切り、ホテルを出た。 もしかしたら春哉に、百合を行かせたら給料カットだの、ボーナス無しだのと脅されているのかもしれない。だが、それはあくまでもフロントの事情であって、客である百合が気にすることではない。「まずは駅ね」 探偵からのメールを見て、駅に向かう。探偵いわく、妻夫木律子は東京ではなく、他県の病院にいるらしい。それも、設備が揃った大学病院などではなく、山奥にある小さな病院に。(お見舞いだし、なにか買っていかないとね) 駅のすぐ近くにある複合施設に入ったが、思えば百合は、律子がどんな病気で入院しているのか知らない。食物アレルギーや、制限があるかもしれない。 花がいいと思ったが、これから電車に乗って移動するのだから、あまりいい選択とは言えない。 検索しながら考えて、フリーサイズのパジャマとハンドクリームに決めて購入し、改札を通る。(財閥の人間が、どうしてこんなところに?) 電車に揺られながら、画像検索で見つけた病院の写真を見る。2階建ての木造建築で、白ではなく淡めのパステルピンクのペンキで塗られている。 病院というより、アイスクリーム屋やケーキ屋といったほうがしっくりくる外観だ。 病室の写真もベッドに目を瞑れば、ロッジの一室に見える。とても財閥の人間が入院しているようには見えない。 電車を降りると、百合は地図アプリを頼りにバスを乗り継ぎ、なんとか病院がある山の前まで来れた。道は舗装されているが、アスファルトはところどころヒビが入っている上に、急斜面だ。ヒールで登るにはかなり厳しい。「レンタカー、この近くにあるかしら?」 最初は靴を買おうと思ったが、靴擦れして足を痛めるのがオチだ。レンタカー会社が近くにないか調べよ
「嘘をついてまで兄弟を陥れようとするなんて、本当に最低……」 嘘自体をあまり好まないが、人を陥れるための嘘は特に嫌いだ。自分の夫がそういう人なのが、恥ずかしくて仕方がない。百合はスマホの電源を切り、汗を流してから眠った。 翌朝、スマホの電源をいれると、またしても秋明から何通ものメールや不在着信があった。その中に、探偵からのメールが紛れ込んでいた。「もしかして、もう分かったの?」 探偵からのメールを開いてみると、妻夫木律子の居場所、料金、支払先の口座が書かれていた。百合はさっそくネット銀行で料金を支払い、荷物をまとめておく。あと1日滞在する予定だったが、事情が変わった。 ビュッフェが心残りだが、時間に余裕が出来た時にでもまた来ればいいだけの話だ。 レストランに入って朝食を食べていると、ひとりのスタッフが百合のところに来る。「お食事中申し訳ございません。妻夫木百合様で間違いないでしょうか?」「えぇ、そうですけど……。どうかなさいました?」「こちら、春哉様からです」 スタッフは二つ折りにされた紙を百合に差し出す。百合が紙を受け取ると、スタッフは一礼して仕事に戻る。「なにかしら?」 紙を開いてみると、『せっかく泊まってくれたのに、あまりおもてなしできなくてごめんね。また一緒にディナーを楽しもう』と書かれていた。「ごめんなさいね、それは無理よ」 百合は紙をポケットにしまい、食事を済ませて部屋に戻ると、荷物を持ってフロントに鍵を返しに行った。 フロントは鍵の番号を見るなり、少し困ったような顔をする。「お客様、滞在予定は2日とうかがっておりますが……」「急用ができたんです。もちろん、キャンセル料はお支払いします」「いえそんな、お客様からお金は取れません!」 フロントの慌てた様子を見たところ、どうやら本当に百合に支払わせるつもりはなかったらしい。「そう。それじゃ、会長によろしく伝えておいて」「お。お待ち下さいお客様……!」 背を向けようとすると、フロントに呼び止められる。春哉に頼まれたのか知らないが、迷惑極まりない。あえて不機嫌を隠さずにフロントを睨みつける。「まだ何か?」「本当に、お帰りになるのですか?」 フロントは帰られたら困ると目で訴えてくる。顔色も真っ青だ。おそらく、春哉に帰さないように言われているのだろうが、百合からした
百合は秋明のオーラに圧倒され、言われるがままにキスをしてしまう。「あの女、妻夫木さんにキスをしたぞ!」「どういうことなの!?」 会場はどよめき、矢絃とマキは呆然としている。秋明は更に百合を抱き寄せ、人々に振り返る。「この女性は宝生百合といって、最近噂になっている高級ブランドのデザイナーであり、俺の婚約者でもある。そこの副社長のストーカーなどしていない」 秋明の言葉に、会場は更にどよめく。百合は何がなんだか分からず、固まっている。「なんだ、お前は! コイツに何をした!? お前もお前だ! 男だったら誰でもいいのか? このアバズレが!」 顔を真っ赤にして怒った矢絃が、ふたりの間に割
晩餐会当日、高級ホテルにあるきらびやかな会場には多くのセレブがいる。百合は暗い気持ちで壁の花を決め込む。 成功したデザイナーとはいえ、セレブの仲間入りを果たしたわけではない。矢絃がいなければ、このような場にはいられないだろう。(こんなところ、願い下げよ) 百合は矢絃から送られてきた日程を伝えるメールを思い出し、心の中で吐き捨てる。メールには日時と会場と、「本来はお前ごときが参加していい場ではない。晩餐会に出られること、感謝するんだな」という一文が添えてあった。 あれから矢絃はマキの家にでも転がり込んでいるのか、帰ってこず、母の藤子と数人の使用人と奇妙な同居生活をしていた。 藤子に
「何がおかしいの? 言っておきますけどね、私ひとりの稼ぎでも、母とやっていけるのよ」 更に言葉を続けるも、矢絃の勝ち誇った顔が崩れることはない。「出て行くだと? お前の母親は終身サービス契約にサインしている。違約すれば8千万だ」「8千万!? どういうこと……!?」 母の藤子は、矢絃が副社長を務める会社で清掃員として働いている。母は常々、「今の生活があるのは熊谷さんのおかげなんだよ」と言っていた。百合はてっきり、母は矢絃が自分を雇ってくれたことに感謝しているのかと思っていた。(そういえば、最近そういう言葉聞かなくなった……)「聞いてなかったのか? お前の母親が、契約書をまともに読ま
平日の昼下がり。スーツを着こなした女性が、長い黒髪をなびかせながら高級住宅街を歩く。彼女の名は宝生百合。有名ブランドのデザイナーとして成功した上に、大企業の副社長という肩書をもつ優しくて顔のいい婚約者がいる。 セレブが多いこの高級住宅街の住人に身近な成功者を聞いたら、多くの人が彼女の名前をあげるだろう。百合は元々、高級住宅街に住めるような身分ではない。富裕層とは縁のない一般家庭で産まれ、物心付く前から、母とふたり暮らしをしていた。 熊谷矢絃《くまがいやいと》という肩書も顔も完璧な男と婚約し、高級住宅街に住むようになった。彼とは政略結婚の予定ではあるが、矢絃は百合を大事にしてくれている。







