LOGIN「百合?」 驚いて振り返ると、秋明が目を丸くして百合を見上げていた。「秋明さん!? どうしてここに……」「それはこっちのセリフだ。とにかく乗れ。この山、熊やイノシシが出るぞ」「え、えぇ……」 まだ秋明のことは許していないが、このまま山の前でじっとしていても仕方がない。何より、熊やイノシシに襲われたら、たまったものではない。 渋々助手席に乗ると、車はゆっくり発進し、山を登る。「話したいことは色々あるが、どうしてこんなところにいるんだ?」「実は……」 ここで見つかったのなら隠しても無駄だと悟り、律子に会いに行こうとした経緯を秋明に話した。秋明は途中で口を挟むこと無く最後まで聞くと、ため息をつく。「春哉め、余計なことを……。そのことも話すから、少し車で待っててくれるか?」「お母様のお見舞いでしょ? 何も聞いたりしないから、同席させて」「駄目だ、待っててくれ。頼むから……」 秋明は切実な目で訴えてくる。そんな目をされては、強く出られない。「……分かった、待ってる。けど、ちゃんと話して。それと、これ。代わりに渡しておいて」 百合はお見舞いの品が入った紙袋を、秋明に手渡す。「これは?」「お見舞い。さすがに手ぶらでは行けないから」「分かった、渡しておこう」 秋明は後部座席から小さな花束と紙袋を持って、病院に入っていく。 百合は助手席で待ちながら、秋明に何を聞くか整理する。 何故矢絃と破局するように仕組んだのか、何故自分と結婚したのか、何故春哉を殺人者呼ばわりするか……。 他にも聞きたいことはあるが、まずはこの3点だ。 秋明は思ったよりもはやく戻ってきた。彼は車に乗ると、カーナビを操作する。「個室の店がある。そこで話そう」「分かったわ」 その店につくまで、走行音しか聞こえなかった。 病院から20分ほどのところにある蕎麦屋につくと、ハイカラさんの格好をした店員に案内される。全室個室らしく、飲食店にしては物静かな廊下だった。 部屋に入って注文をすると、秋明が口を開いた。「まずは謝罪させてくれ。赤ん坊のこと、あんな言い方してすまなかった」 秋明は深々と頭を下げる。「お前がまだ矢絃に未練があるように思えて、ひどい言い方をしてしまった……」「まさか、あんな人に未練なんてないわ。でも、赤ちゃんは別。確かにあの人の子でもあるけど、
「あなたが春哉さんに何言われてるか知らないけど、急いで帰らないといけないの。あなたの事情で、お客を引き止めていいと思ってるの?」「そんなつもりじゃ……」「じゃあ、どんなつもり?」「あ……えっと……」 ただでさえ青かったフロントの顔が、どんどん青ざめていく。目には薄っすら涙が溜まり始めた。少し離れたところからスタッフがこちらに向かって歩いてくるのが見えた。加勢されて大事になったら困る。「じゃあ、私帰るから」 そう言い捨て、百合はフロントに背を向けて歩く。後ろでフロントがすすり泣く声が聞こえたが、自分には関係ないと割り切り、ホテルを出た。 もしかしたら春哉に、百合を行かせたら給料カットだの、ボーナス無しだのと脅されているのかもしれない。だが、それはあくまでもフロントの事情であって、客である百合が気にすることではない。「まずは駅ね」 探偵からのメールを見て、駅に向かう。探偵いわく、妻夫木律子は東京ではなく、他県の病院にいるらしい。それも、設備が揃った大学病院などではなく、山奥にある小さな病院に。(お見舞いだし、なにか買っていかないとね) 駅のすぐ近くにある複合施設に入ったが、思えば百合は、律子がどんな病気で入院しているのか知らない。食物アレルギーや、制限があるかもしれない。 花がいいと思ったが、これから電車に乗って移動するのだから、あまりいい選択とは言えない。 検索しながら考えて、フリーサイズのパジャマとハンドクリームに決めて購入し、改札を通る。(財閥の人間が、どうしてこんなところに?) 電車に揺られながら、画像検索で見つけた病院の写真を見る。2階建ての木造建築で、白ではなく淡めのパステルピンクのペンキで塗られている。 病院というより、アイスクリーム屋やケーキ屋といったほうがしっくりくる外観だ。 病室の写真もベッドに目を瞑れば、ロッジの一室に見える。とても財閥の人間が入院しているようには見えない。 電車を降りると、百合は地図アプリを頼りにバスを乗り継ぎ、なんとか病院がある山の前まで来れた。道は舗装されているが、アスファルトはところどころヒビが入っている上に、急斜面だ。ヒールで登るにはかなり厳しい。「レンタカー、この近くにあるかしら?」 最初は靴を買おうと思ったが、靴擦れして足を痛めるのがオチだ。レンタカー会社が近くにないか調べよ
「嘘をついてまで兄弟を陥れようとするなんて、本当に最低……」 嘘自体をあまり好まないが、人を陥れるための嘘は特に嫌いだ。自分の夫がそういう人なのが、恥ずかしくて仕方がない。百合はスマホの電源を切り、汗を流してから眠った。 翌朝、スマホの電源をいれると、またしても秋明から何通ものメールや不在着信があった。その中に、探偵からのメールが紛れ込んでいた。「もしかして、もう分かったの?」 探偵からのメールを開いてみると、妻夫木律子の居場所、料金、支払先の口座が書かれていた。百合はさっそくネット銀行で料金を支払い、荷物をまとめておく。あと1日滞在する予定だったが、事情が変わった。 ビュッフェが心残りだが、時間に余裕が出来た時にでもまた来ればいいだけの話だ。 レストランに入って朝食を食べていると、ひとりのスタッフが百合のところに来る。「お食事中申し訳ございません。妻夫木百合様で間違いないでしょうか?」「えぇ、そうですけど……。どうかなさいました?」「こちら、春哉様からです」 スタッフは二つ折りにされた紙を百合に差し出す。百合が紙を受け取ると、スタッフは一礼して仕事に戻る。「なにかしら?」 紙を開いてみると、『せっかく泊まってくれたのに、あまりおもてなしできなくてごめんね。また一緒にディナーを楽しもう』と書かれていた。「ごめんなさいね、それは無理よ」 百合は紙をポケットにしまい、食事を済ませて部屋に戻ると、荷物を持ってフロントに鍵を返しに行った。 フロントは鍵の番号を見るなり、少し困ったような顔をする。「お客様、滞在予定は2日とうかがっておりますが……」「急用ができたんです。もちろん、キャンセル料はお支払いします」「いえそんな、お客様からお金は取れません!」 フロントの慌てた様子を見たところ、どうやら本当に百合に支払わせるつもりはなかったらしい。「そう。それじゃ、会長によろしく伝えておいて」「お。お待ち下さいお客様……!」 背を向けようとすると、フロントに呼び止められる。春哉に頼まれたのか知らないが、迷惑極まりない。あえて不機嫌を隠さずにフロントを睨みつける。「まだ何か?」「本当に、お帰りになるのですか?」 フロントは帰られたら困ると目で訴えてくる。顔色も真っ青だ。おそらく、春哉に帰さないように言われているのだろうが、百合からした
「来たね。さっそくいただこうか」「はい」(流石は海外で起業して成功した会長……。ガードが固いわね……) 百合なりに情報を引き出そうとしたが、成果は得られなかった。その後も食事をしながらの会話で様々な質問をしてみるが、やんわりかわされてしまう。 結局何も引き出せないまま、食事は終わってしまった。「ふぅ、ごちそうさま。もう1杯ワインでも頼んでおしゃべりしたいけど、遅い時間だからね。もう寝よっか」「そうですね」 引き止めたいが、春哉も忙しいだろうと思い、断念した。それに百合の話術では、これ以上長引かせたところで、情報は引き出せない。 春哉のエスコートでエレベーターに乗る。百合はもしかしたら何かされるかもしれないと思って身構えていたが、最上階に着くと、春哉はおやすみの挨拶をして、さっさと自分の部屋に戻っていってしまった。(なにもなくてよかったけど、ちょっと拍子抜け……) 百合は部屋に戻ると、探偵にメールで依頼をした。依頼内容は秋明の母親の居場所について。あの兄弟は普通ではない。ただ単に不仲というわけではなく、何か因縁があるように思えた。 ふたりの母である律子なら、なにか知っているだろう。もしかしたら、アレグリアについても何か聞けるかもしれない。「律子さん、だっけ……。どんな人なのかしら?」 通知音が思考を邪魔した。画面を見ると、秋明から何通目か分からないメールが来ていた。「もう、しつこい……」 渋々メールを開けてみる。はじめは『今すぐ帰ってこい』といった旨のメールが多かったが、『春哉と一緒にいないだろうな?』に変わってくる。「何、浮気でも疑ってる?」 もしそうだとしたら滑稽だ。契約書には、世間にバレなければ相手を作っても構わないと書いてあった。 ことあるごとに契約を持ち出した男が、それを忘れて百合の浮気を非難していたとしたら、これ以上愉快なことはないだろう。 だが、次のメールでそんな考えは霧散し
レストランに入ると、1番景色の良い個室に案内される。大きな窓からは、ライトアップされたプールや夜景が見える。ほとんど初対面の義兄と来るには、少々ロマンチック過ぎる。「自慢のコース料理を頼んでおいたから、楽しみにしてて」「このホテルの料理はどれも絶品って聞いてたので、楽しみです」 百合の言葉に、春哉は嬉しそうに笑う。「あれ、もしかしてここのこと、知ってた?」「はい。特にビュッフェは、話題になってましたから」「ふふ、嬉しいな。明日は是非、ビュッフェを楽しんで。個人的には、ローストビーフがおすすめかな」「ワインが飲みたくなりそうですね」「もちろん、ワインもあるよ。あぁ、けど、百合さんは車で来てるんだっけ。ここには、何日滞在する?僕としては、いくらいてくれても構わないけど」「そうですね……。とりあえず、2日ほどいさせてもらってもいいですか?」 できれば1日で出ていきたいところだが、警戒していると思われたくなくて、2日と提案してみる。春哉は不思議そうに小首をかしげた。「そんなに短くていいの? もっといてもいいんだよ?」「色々予定がありますし、それに、長居をするのは罪悪感が……」「君は真面目だねぇ。けど、それなら明日のビュッフェでワインを飲んでも問題なさそうだね」 春哉はおかしそうにクスクス笑う。百合も合わせて笑った。「そうですね」「ところで、秋明はどうして君と結婚したのかな? 教えてくれる? 君の力になりたいんだ」 春哉の問いに、百合の肩が小さく揺れた。色々話したいとは思っていたが、すべてを話せるほど信用していない相手に、どこまで話すべきか考えあぐねる。「……何故、私を選んだのかは分かりません。何度か聞きましたけど、話してくれませんでした」「やっぱり、話さなかったか」 春哉はため息をつき、困ったような顔をする。「やっぱりって?」「秋明は昔から秘密主義なところあるからね。でも、君に何も話さないのは、あ
「ちょっとここで座って待ってて」 ホテルに入るとロビーのソファで座るように言われ、百合は大人しく待つ。春哉は受付に名刺を見せながら、何か話していた。 受付は春哉に鍵を渡すと、深々と頭を下げた。「おまたせ。こっちは君の部屋の鍵。さ、行こうか」「はい」 一緒にエレベーターに乗ると、春哉は最上階に着くまで、このホテルの見どころを教えてくれた。それは決して押し付けがましかったり、自慢しているようには聞こえず、おすすめの店を紹介するような感じだった。 最上階に着くと部屋の前まで案内してくれた。「荷物置いたら、廊下に出ておいで。一緒にレストランで食事をしよう」「何から何まで、ありがとうございます」「いいって。可愛い義妹のためさ。ま、ほぼ初対面だけどね」 春哉は冗談めかして笑ってみせた。 百合は部屋に入ってその豪華さに驚く。広々とした部屋に、上品な調度品が並び、暖色系が添えられ、あたたかな雰囲気がある。 秋明が経営するホテルのスイートルームも上品で華やかではあったが、この部屋のようなあたたかさはなかった。 荷物を置いて廊下に出ようとドアを開けると、春哉は誰かと電話をしていた。「あぁ、順調だ。……よしてくれ。あんな女、母親と思いたくない」 こちらに背中を向けていて、顔は見えないが、その声は百合に向けられていたものとは全くの別物だった。見つかるとまずいと思った百合は、音を立てないようにドアを閉める。(どういうこと? 昼間に母親のこと話す時は、嫌ってるようには見えなかったけど……) 母のことを話す春哉は、少し寂しそうには見えたが、恨んでいるようには見えなかった。それなのに何故、今はあんなに恨めしげに母を語るのだろう? 彼は誰と電話をしているのだろう? 百合は3分待ってからそっとドアを開けて様子見をしてみる。既に電話を終えたらしく、春哉は壁によりかかりながら百合を待っていた。(良かった、もう行っても問題なさそうね) ドアを開け、早足で春哉の元へ行く。
百合は秋明のオーラに圧倒され、言われるがままにキスをしてしまう。「あの女、妻夫木さんにキスをしたぞ!」「どういうことなの!?」 会場はどよめき、矢絃とマキは呆然としている。秋明は更に百合を抱き寄せ、人々に振り返る。「この女性は宝生百合といって、最近噂になっている高級ブランドのデザイナーであり、俺の婚約者でもある。そこの副社長のストーカーなどしていない」 秋明の言葉に、会場は更にどよめく。百合は何がなんだか分からず、固まっている。「なんだ、お前は! コイツに何をした!? お前もお前だ! 男だったら誰でもいいのか? このアバズレが!」 顔を真っ赤にして怒った矢絃が、ふたりの間に割
晩餐会当日、高級ホテルにあるきらびやかな会場には多くのセレブがいる。百合は暗い気持ちで壁の花を決め込む。 成功したデザイナーとはいえ、セレブの仲間入りを果たしたわけではない。矢絃がいなければ、このような場にはいられないだろう。(こんなところ、願い下げよ) 百合は矢絃から送られてきた日程を伝えるメールを思い出し、心の中で吐き捨てる。メールには日時と会場と、「本来はお前ごときが参加していい場ではない。晩餐会に出られること、感謝するんだな」という一文が添えてあった。 あれから矢絃はマキの家にでも転がり込んでいるのか、帰ってこず、母の藤子と数人の使用人と奇妙な同居生活をしていた。 藤子に
「何がおかしいの? 言っておきますけどね、私ひとりの稼ぎでも、母とやっていけるのよ」 更に言葉を続けるも、矢絃の勝ち誇った顔が崩れることはない。「出て行くだと? お前の母親は終身サービス契約にサインしている。違約すれば8千万だ」「8千万!? どういうこと……!?」 母の藤子は、矢絃が副社長を務める会社で清掃員として働いている。母は常々、「今の生活があるのは熊谷さんのおかげなんだよ」と言っていた。百合はてっきり、母は矢絃が自分を雇ってくれたことに感謝しているのかと思っていた。(そういえば、最近そういう言葉聞かなくなった……)「聞いてなかったのか? お前の母親が、契約書をまともに読ま
平日の昼下がり。スーツを着こなした女性が、長い黒髪をなびかせながら高級住宅街を歩く。彼女の名は宝生百合。有名ブランドのデザイナーとして成功した上に、大企業の副社長という肩書をもつ優しくて顔のいい婚約者がいる。 セレブが多いこの高級住宅街の住人に身近な成功者を聞いたら、多くの人が彼女の名前をあげるだろう。百合は元々、高級住宅街に住めるような身分ではない。富裕層とは縁のない一般家庭で産まれ、物心付く前から、母とふたり暮らしをしていた。 熊谷矢絃《くまがいやいと》という肩書も顔も完璧な男と婚約し、高級住宅街に住むようになった。彼とは政略結婚の予定ではあるが、矢絃は百合を大事にしてくれている。







