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【予備】

Author: 可和
last update publish date: 2026-09-15 11:34:02

――無、では、なかった。

意識が切れたと思った、次の瞬間。

奇妙な浮遊の中に――私は、いた。

肉体は、ない。

視覚も、ない。

だが、私という核だけが。

冷たく透き通った虚無の中を溶けもせず漂っている。

脳が止まった後も、なお在る、この核とは何だ。

死してなお消えぬ意識の残滓か。

それとも魂と呼ぶべき何かか。

ならばここが、いわゆる霊界と呼ばれるもの、だろうか。

だが、宗教めいた飾りは一切なかった。

三途の川も、お花畑もない。

あるのは、途方もない量の何かが流れ渦巻く、その奔流ほんりゅうのみ。

地鳴りのような音が四方八方から響き、光の粒が明滅めいめつしながら川のように流れていく。

誰かの、記憶。

未練。

歴史の、断片。

柳田の常民概念じょうみんがいねんに通底するような、『集合的無意識』の海。

その概念に、極めて近かった。

私は奔流に呑まれまいと、必死に自己の輪郭を保つ。

この無機質な流れに溶け、モノへと還元されるなど、あってはならぬ。

——私は、木崎数史郎だ。

まだ何一つ、満たされていない。

その時。

奇妙な匂いが、漂う。

思わず、在るはずのない鼻がひくつく。

それは生前、いかなる採訪さいほうでも、ついぞ嗅げなかった匂い。

濃い、獣の臭気。

鉄錆のような、血の匂い。

そして、もっと根の深い、つちかってきたことわりを真っ向から拒む、知り得ぬものの香り。

――いるのか。

魂が、歓喜に震えた。

探し求め、殺し尽くし、それでもなお出会えなかった『本物』が。

ズズッ。

不意に、凄まじい引きの力を感じた。

虚無の底の、底から。

何かが私を選び、手繰り寄せている。

まるで底知れぬ巨大な何かが、私の匂いを嗅ぎつけ、ねっとりと舌を這わせ、すくい上げようとするかのような。

離せ――いや。

離すな。

私は、矛盾した叫びを上げた。

だが、抗う力など端から意味をなさなかった。

引きずり込まれる。

ぐるぐると回りながら、堕ちていく。

堕ちていく、その最中。

一瞬だけ、何かを見た。

闇の奥に広がる、いびつな紋様を。

六角。

いや、あれは。

網、か。

世界の裏側に、巨大な網が張り巡らされている。

あまりに精緻せいきゅうで、あまりにも悍ましい。

それでいて、目を離せなかった。

なんと——美しい。

そう思った途端。

意識の糸が、ぷつり、と途切れ、視界は白く塗り潰された。

熱い。

狭い。

生温かく粘りつく何かが、全身に纏わりつく。

肺が押し潰され、息もできぬ。

ここは、水の中か。

いや。

もっと粘りの強い、生温かい液。

全身の肌が、分厚い膜のようなものに包まれている。

――胎の、中か。

壁を通して伝わる鼓動が、あまりにも冷たく規則正しい。

血の通った生き物の脈、というよりは、時計の秒針のようであった。

その硬い針の刻みを、掌に押し当てられている。

壁が、激しく収縮した。

――産み月、か。

私を、外へ吐き出そうとしている。

頭の骨が締めつけられ、固まらぬ関節が軋む。

流されるままに、狭い道を潜り抜けていく。

そして、外の気が、水に濡れた肌を叩いた。

冷たい。

息が、苦しい。

重く淀んだ空気。

湿った土と、古いかびと、むせ返るような白粉おしろいの匂い。

「……また、男か」

その声を聞いた瞬間。背筋を悪寒が駆け抜けた。

ひどく冷ややかな、女の声。

母親、なのだろうか。

「……まあ、いい。予備には、なるでしょう」

予備。

私は生まれ出た、その瞬間に、何かの部品として定められたのか。

胸の内で声を立てて嗤った。

面白い。

――ここは、地獄だ。

あの老婆の呪詛が、今まさに形を持ったかのような歪みではないか。

私は、まだ育ちきらぬ肺にありったけの空気を吸い込み。

産声を上げた。

その泣き声は反響し、誰かが気味悪く嗤う声に、かき消されたような気がした。

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