綾人は黙っていた。涙を堪えるため、必死に唇を噛みしめているのがわかる。 「あのね、このオーディション、私が自分で応募したんじゃないの。周りの人にすすめられて……でもね、正直すごく怖かった」 藍里は微笑みながらも、声が震えていた。 「お父さんたちが離婚してから、私……ずっと自分が何者なのかわからなくて。何がしたいのかも、わからなくて。 昔、お父さんがママに言ったでしょ?『藍里は可愛いけど不器用で、本番に弱くて、個性のない子』って」 「藍里……それは……」 「ずっと心に残ってた。可愛いって言ってくれたのは嬉しかったよ。でもね、その“個性がない”って言葉……ずっと私を縛ってたんだ」 「ごめん……ごめん、藍里……」 綾人は耐え切れず、立ち上がった。 「でもね、お父さんは……仕事を一生懸命やってくれて、私にもいつも優しくしてくれた。台本を読む練習だって、いつも付き合ってくれた」 「藍里っ……」 藍里の目から、涙が零れ落ちた。彼女はそれを拭わずに、まっすぐ父を見据える。 「これからはママのこと、私や時雨くんが守るから。大切な人もできたし、ちゃんと幸せ。でもね、昔の傷はきっと一生消えない。それでも私は……生きていくよ。だからもう、お父さんは気にしなくていい」 「藍里……すまない……すまない……っ」 ついに綾人は崩れるように床へ膝をついた。堰を切った涙が、頬を濡らす。 藍里は涙をこらえながら、ようやくセリフを口にした。 「……お父さん、今までありがとう」 そして一拍の間を置き、最後の言葉を告げる。 「さようなら」 会場の空気が凍りついた。 藍里は振り向きざま、ドアへと向かう。 「藍里ちゃんっ!」 時雨が慌てて立ち上がり、その後を追った。 ――次の瞬間、椅子を倒す音と共に綾人も立ち上がる。 待合室にいた応募者たちは突然現れた人気俳優に悲鳴を上げる。カメラのシャッター音が飛び交い、一気にロビーが騒然となった。 だが綾人は構わず走る。涙で顔を濡らしながら、必死に娘の背中を追いかけた。 「藍里……芝居をやらないか。また」 藍里は振り返り、ゆっくりと首を横に振った。「まだこれからのことは……考える。大学展もあるし」「そうか……でも久しぶりだな。綺麗になったな。もう身長、170
「お父さん、ありがとう」 演技審査は、ただその場で台詞を言うだけ――のはずだった。 いや、それだけでも十分難しい。 最初の受験者はタレント事務所に所属しているだけあって、立ち方や呼吸のリズム、目線の動かし方にまで計算を感じさせる。 その一方で、後に続く者たちは緊張のあまり声が震えたり、セリフをただ棒読みするだけで終わったりしてしまっていた。 審査員たちは何も言わず、無表情に見えるほど冷静だ。 だがその中で、ただ一人、舞台俳優・綾人だけが、ひときわ鋭く、真剣な眼差しを向けている。 何百人もの応募者を一日で見てきたのだろう。 少し疲れて見えるはずのその目には、それでも一瞬たりとも油断の色がない。 ――この一言で、どれだけの背景を描けるか。 この「ありがとう」という言葉の裏に、どんな父娘の物語を滲ませるか。 まだ台本の全貌すら公開されていないこのオーディションは、まさに受験者一人ひとりの解釈力が試される場だった。 四人目の演技が終わると、ついに藍里の番が回ってきた。 張り詰めた静寂の中、彼女が一歩前に出ると、その場の空気が一段と重くなる。 時雨は、椅子の端で固唾を飲みながら見守っていた。 ――目の前に、父がいる。 藍里は深く息を吸い、目を閉じる。 まぶたの裏には、幼い頃の記憶が甦った。 まだ若い綾人が、優しく微笑んでいる。舞台袖で膝を折り、小さな彼女に視線を合わせてくれたあの時の顔。 ゆっくりと目を開くと、そこにいる綾人の表情がわずかに揺れて見えた。 真剣そのものだった視線が、ほんの一瞬、柔らかさを帯びたのを藍里は見逃さなかった。 「お父さん……」 声に出した瞬間、その言葉は台本のセリフではなく、彼女の心からの呼びかけとなった。 綾人の肩がわずかに震える。俯いた顔を上げようとしない。 「お父さん」 もう一度、呼ぶ。だが彼は顔を上げない。 「あ……そうか、ずっとパパって呼んでたね。今さらパパって言うのも恥ずかしいから、お父さんって呼ぶね」 唐突な言葉に審査会場がざわつく。 隣の審査員が何か言いかけたが、綾人は小さく、しかしはっきりと呟いた。 「……続けてください」 藍里は、ゆっくり一歩、前へ出た。 「お父さん、あんまりテレビは見ないけど……昔より、ず
「そうなん?」 清太郎は驚き、思わず声をひそめた。 「殴られたり蹴られたりはなかった。でもね、毎日毎日暴言浴びせられて……死んだおばあちゃんにまでひどいこと言ってた。あんた、何も知らなかったでしょ」 清香は泣きながら清太郎の手を振り払った。差し出したハンカチも突き返される。 「私は全部見てたの。だから今も心療内科通ってる!」 「嘘だろ、あの性格で?」 「表向きはそう見えるだけ。強がってるだけなんだよ!」 清香の叫びは、清太郎の胸に重く突き刺さった。 彼にとって父は優しく尊敬できる存在で、祖母もまた大切な人だった。そんな家族の裏側を、彼はまるで知らなかった。 「でも……母さんが悩んでたのって、藍里の母ちゃんが逃げたからじゃないのか?」 「それもある。でも違うの。お母さんは誰にも相談しなかった。藍里ちゃんのお母さんとも話す機会があったのに、先に逃げられて……余計にショックだったのよ。『私は逃げられないのに』って」「……知らなかった」 清香は立ち上がり、涙を拭った。 「そこよ、そこなのよ!」 地下街の人々が驚いたように振り返る。「お母さん、自分の経験もあって、あんたには『女の子には優しくしろ』って口酸っぱく言ったのに……やっぱりお父さんに似てる。何もわかってない」「いや、その……」「そんなんじゃ藍里ちゃんを不幸にする! 私だって、このままじゃお母さんと同じになる。お母さんもそれを恐れてるのに、父さんは私の一人暮らしだって許さない……」 清太郎は呆然としたまま、泣きじゃくる清香を座らせた。 「……姉ちゃんもこっち来ればいいやん。父さん、今単身赴任中だし」 清香は力なく首を振る。「そんなことしたら、お母さんがかわいそうだよ。置いていけない」「……矛盾しとる」 清太郎は頭を抱えた。どうすればいいのかわからない。 その時、朗らかな声が響いた。 「なーにやってんの? 疲れたの? あと少しだから、清香、もっと買い物しましょー!」 路子が軽やかな足取りで戻ってきた。 「何泣いてるの、清香? ……あら、靴新しいのね」 「……清太郎が買ってくれたの。嬉しくて泣いちゃったのよ。そうね、まだ買い物したいな」 そう言って、清香は路子に付き従うように歩き出す。 「はぁ……」 清太郎は深いため息をつき、二人の後
その頃――藍里がオーディションの場で緊張に耐えていることなど露ほども知らない清太郎は、母方の叔母・路子と姉の清香に連れられて名古屋の地下街で買い物をしていた。 もう、歩き疲れて足が棒のようになっている。広大な地下街はまるで迷路のようで、数時間歩き回っただけで体力は底を尽きかけていた。 近くにあったベンチに倒れ込むように腰を下ろし、手にしたスマートフォンの画面をぼんやりと眺める。 藍里からのメッセージは当然のように届いていない。そもそも彼女は普段から滅多にメールやLINEをしない。そういう性格だとわかっているのに、「今どうしてるかな」とつい気になってしまう。 ――大学展には無事着いたんだろうか。時雨と二人、何も問題が起きていなければいいけど。 自分でもおかしいとわかるほどの心配性だが、それだけ藍里のことを気にかけている証拠でもあった。「ふぅ……」 ふと隣に誰かが座り込む気配。見れば、清香が疲れ切った顔でヒールを脱ぎ、ふくらはぎを揉んでいた。「姉ちゃんは名古屋なめとんのか」「なめてた。……こんなに歩くと思わなかった。足がもう……」 清香は顔をしかめて苦笑する。足首から踵にかけてのラインは真っ赤に擦れていて、薄いストッキングの上からでも痛みが伝わってくるようだった。「お前、それじゃ歩けんやろ。靴、買ったほうがええぞ」「やだよ、せっかくワンピに合わせてきたのに。スニーカーなんて似合わない」 口ではそう言っても、視線は自分の踵に釘付けだ。そこにはくっきりとした靴擦れができており、見るからに痛々しい。 清太郎は呆れたように肩をすくめると、清香の腕を軽く引いた。「ほら、文句言ってんと早く行くぞ。時間もったいない」「……ほんとあんた優しいよね」 清香がぼそりと呟く。 清太郎は言葉を飲み込んだ。本当は『あんたらが女には優しくしろって叩き込んだからやろ』と返したかったが、それは心の中にしまった。 二人で靴屋へ入り、清香の服に合うようなシンプルなスニーカーと靴下を選んでやる。清太郎がレジで支払いを済ませて渡すと、清香は少しだけ嬉しそうに微笑んだ。 その後、「お礼ね」と言って、清香はすぐそばのカフェでアイスコーヒーを買ってくれた。清太郎はコーヒーが特別好きでもなかったが、姉の気遣いを無駄にしたくなくて素直に受け取り、一口飲む。 再びベンチに戻る
藍里は背筋をまっすぐに伸ばし、まずは綾人を真っすぐに見つめ返す。 「自己紹介を、どうぞ」 隣の女性が促す。藍里は視線を綾人から外し、言葉を探すように口を開いた。 「百田藍里です」 そのとき、再び綾人と目が合った。瞬間、喉が詰まりかけたが、必死に視線を逸らして続ける。 「……生まれてすぐに△△テレビアカデミーの子役部門に入り、途中までレッスン生として活動していました」 会場がざわついた。エントリーシートには書かれていなかった経歴。審査員たちが顔を見合わせる中、ただひとり綾人だけが冷静に見つめている。 「昔子役をやっていたと……たしか、うちの事務所でね」 横から呟いたのは綾人ではなく、女性審査員のひとり。藍里は記憶を掘り起こす。確かに当時、事務所にいた事務員の顔だ。 母のさくらとも顔を合わせたことがある。しかし、子役の数が多すぎて、彼女は自分の存在を鮮明には覚えていないのだろう。 「……はい。エントリーの時点では記載しませんでしたが、いずれ知られることになるだろうと思い……」 ざわつきはさらに大きくなる。 「なるほど。現在は所属していないのですね。この推薦者の方は、その経歴をご存知だったのですか?」 「いいえ。転校したばかりなので知りません。ただ、彼女には本当に感謝しています。彼女が推薦してくれなければ、私はここに立つことはありませんでした。実は先ほど会場で偶然再会したばかりなんです」 その一言に、綾人のサングラス越しの視線が鋭く刺さる。 「転校を二度……ご家庭の事情があったのですか?」 突っ込んだ質問に、後列の時雨は椅子の上で思わず身を乗り出した。やめてくれ、そこまで聞くな――心の中で叫ぶ。 「はい……岐阜を離れ、神奈川で母と二人で暮らしました。その後、再び東海地方に戻ってきて。愛知に来てからは少し落ち着いたと感じています。岐阜ではないけれど、懐かしい匂いがあって……幼馴染と同じクラスになれたこともあって……」 言葉がまとまらない。呼吸が浅くなる。 「なるほど。……後ろにいる方は、彼氏さんですか?」 綾人の問い。凍りつく時雨。かつて刑事役で数多くの犯人を追い詰めたその眼光が、真正面から突き刺さる。 藍里ははっきりと首を横に振った。 「母の……恋人です」 場の空気が一瞬止まった。綾人は無表情のまま
順番に扉を開けて中へと入っていく。 控室のざわめきとはまったく違う、張り詰めた空気がそこにはあった。足を一歩踏み入れた瞬間、藍里はまるで冷たい水の中に沈んでいくような感覚を覚える。 先に入った一般参加の女の子たちや保護者が小さく息を呑み、思わず声を上げているのが聞こえた。理由は言うまでもない。 ――橘綾人が、そこにいたからだ。 後ろを歩く時雨の方が、むしろ緊張に押しつぶされそうなほど挙動不審になっている。肩が硬直し、視線が泳ぎ、落ち着きのない足取り。まるで自分がこれから審査を受けるのだと錯覚しているようだ。 藍里もまた、胸が早鐘のように鳴っていた。壇上に設けられた長机の背後に、五人の審査員が横一列に並んで座っている。照明に照らされるその姿は、ひとりひとりが異なる色の緊張を放っているようであった。 中年の男性、柔らかい雰囲気を漂わせた女性二人――そして、その中央に座る一人の男。 明らかに、そこだけ違う空気が流れていた。 橘綾人。 五年ぶりに目にした父の姿は、記憶の中の彼よりも遥かに洗練されていた。 輪郭のはっきりした顔立ち、きちんと整えられた髪。鍛え抜かれた体つきはスーツの上からでもわかり、皺ひとつないブランド服がその存在感をより際立たせていた。サングラス越しで瞳ははっきり見えないはずなのに、視線が合ったことを藍里は確信した。 その一瞬、綾人は明らかに動揺した。机上の書類を慌てて探り、藍里のエントリーシートを引き寄せる。そして再び顔を上げ、じっと娘を――いや、オーディションの参加者を見据えた。「綾人さん、綾人さん……」 隣にいた中年男性が小声で促す。綾人ははっとして、軽く咳払いをしてから取り繕うように笑った。「は、はい。すみませんね……あまりにも皆さん魅力的で、つい見入ってしまいました」 相変わらずの調子の良さ。 口先だけで整える癖は、五年経っても変わらないのだと藍里は胸の奥で冷めた感情を覚えた。 進行役の女性が場を仕切るように声を張る。「本日はお集まりいただきありがとうございます。今回のオーディションは橘綾人さんの新作で“娘役”を演じるキャストを探すものです。まずは右側の方から順に自己紹介をお願いします。演技は全員の自己紹介が終わった後に行います」 藍里の番は最後から二番目だった。順番を待ちながら、前に立つ参加者たちの声に耳