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第五十二話

Author: 麻木香豆
last update Last Updated: 2025-08-21 05:47:26

ふぅ、と余韻を噛みしめつつドアを開けると――玄関にはあたふたしている時雨とさくらが立っていた。あまりにも不自然な距離に、藍里はすぐに悟る。

「……覗いてたでしょ」

「い、いや、別に……覗き見とかじゃなくて!」

「そうそう、ただ心配で……でも、案の定キスしてたから」

視線を泳がせる二人。どう見てもドアの覗きスコープから覗いていたのは明らかだ。藍里は真っ赤になって叫ぶ。

「もぉ! なにやってんのよ!」

「ごめんごめん、そんなつもりじゃなかったんだって!」

と必死に手を振る時雨を、さくらが肩で小突きながら宥める。

「藍里、片付けしよ。時雨くんはもう休んでていいから」

「いや、僕もやるって。さくらさんだって明日仕事でしょ」

だがさくらは静かに首を振った。その横顔は少し真剣で、どこか決意めいたものがあった。

「もうね、これからは私もやることにしたの。あ、ちゃんと家賃分としてお金払うけど」

「いや……むしろもう、お金なんかいらない。それより、さくらさんも弁当屋で一緒に働こうよ!」

時雨が必死に言うと、さくらは呆れ顔で彼の額を指で弾いた。

「まだ給料も貰ってないのに、何言ってるのよ」

「い、痛っ」

「それに私だって、これからはちゃんと家事もやるし。仕事は今の方が効率いいけど……まぁ弁当屋のことは考えておくわ」

時雨の顔に一瞬、影が落ちる。それでも無理に笑って頷いた。

「……そっか」

「はいはい、じゃあ時雨くんは先にお風呂。私と藍里で片付けるから」

「うん、わかった。二人とも、よろしくお願いします」

頭を下げて部屋へ消える時雨。その背中を見送り、藍里とさくらは二人だけで台所に立った。流し台の前に並ぶのは、実に初めてのことだった。

藍里は洗った皿を受け取り、水を切ってマットに並べていく。時雨の横で手伝うときは、彼の手際の良さに圧倒されつつただ付いていくばかりだったが、さくらは違った。ささっと乱暴に洗ってはどんどん藍里に渡してくる。その様子に、昔綾人が「雑だ」と指摘していた姿がふと脳裏をかすめたが――今はもういいか、と胸の中で流した。

ふと横顔を見る。ノーメイクの母の表情は、どこか昔よりも若返ったようにも見える。

「なぁに、人の顔じろじろ見て。ちゃっちゃとやって風呂入って、早く寝なさい」

「うん……なんかね、マ
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