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第5話

Author: ごはんまん
結衣は足に激しい痛みを感じながら、遠くで誰かが自分の名を呼ぶ声に必死で応えようとした。

「風真……私、ここにいる……」

しかし、誰も返事をしてくれない。

ぱっと目を開くと、視界は血で霞み、車内には自分一人しかいなかった。

あの声で呼んでくれた人は、結局、助けには来なかった。

意識が遠のいたその瞬間、結衣は夢の中に落ちていった。

夢の中で、風真がロサンゼルスまで追いかけてきたあの日を思い出す。

当時、所属していたクラブに引き留められて帰れずにいた結衣を、風真は目を赤くしてクラブに乗り込み、「彼女を連れて帰る」とクラブ相手にレース勝負を申し込んだ。勝ったら結衣を連れて帰る、そう言い切った。

その頃、彼は結衣のためにプロのライセンスまで取得し、初めて本格的なレーシングカーで山道を攻めていた。結衣は助手席に座り、緊張しながら彼をサポートしていた。だが、コーナーでハンドル操作を誤り、車はガードレールを突き破り、崖の下へ転がり落ちた。

混乱の中、風真は身を呈して結衣を守り、頭を打って血を流しながらも決して彼女を離さなかった。最後の力を振り絞って、彼女を車の屋根の岩の上へと押し上げ、「しっかりつかまれ!」と掠れた声で叫んだ。

彼自身は、変形した車体とともに崖から落ちそうになり、半身が宙ぶらりんになりながらも、もう少しで命を落とすところだった。

助けられてからも、風真は結衣の腕の中で意識が朦朧としながら、「結衣……向こうは君にお金を稼いでもらいたいだけなんだ。俺は君に安全でいてほしい……これからどんなに危険でも、絶対に俺が守る。だから、一緒に帰ろう」と呟き続けていた。

結衣はその言葉に応えようとしたが、夢の光景は急に暗転し、意識はふっと引き戻された。

でも、今回ばかりは、彼はもう自分を守ってはくれなかった。

結衣はまぶたを震わせて目を開ける。一粒の涙が頬を伝い、枕元に落ちた。

ベッドのそばで、「結衣、目が覚めたんだね!」と明るい声が響いた。

看護師も笑顔で、「やっと目覚めてくれましたね。藤崎先生、あなたのこと一日中付き添っていましたよ、目が真っ赤になるまで。あんなに大事にしてもらえるなんて、私も妹になりたいくらいです」と声をかける。

結衣はまだぼんやりとした頭で、「妹?」と尋ねる。

看護師は「ええ、あなたは藤崎先生の妹さんですよね?」と答えながら、「今朝は奥さんの玲奈さんもお見舞いにいらして、泣きながら『結衣さんが目覚めたら必ず連絡してほしい』って頼まれましたよ」と続けた。

その瞬間、「パリン!」と音を立てて、風真の手からガラスのコップが床に落ちて砕けた。

看護師は驚き、すぐに片付けを呼びに出ていった。

その音で結衣もすっかり目が覚め、バラバラだった記憶が一気につながった。

風真が玲奈を抱えて去っていく背中、死にかけた自分が必死で手を伸ばしたのに、まるで空気のように無視された絶望。

結衣は風真を見つめ、彼の動揺を見抜いた。

口元を引きつらせ、冷たい声で言う。「説明して」

風真は一瞬動揺し、慌てて結衣の手を握る。「みんなが勝手に勘違いしたんだよ!俺たちが親しそうだったから、妹と間違われたんだ、絶対にそうだよ……」

「わかった。信じる」

結衣はそれをさえぎり、感情の一切こもらない声で言った。

風真はその言葉に詰まり、それ以上何も言えなくなった。

おかしい。本来の結衣なら泣いたり、怒ったり、玲奈を先に助けたことを責めたり、「どうして自分たちの関係を誤解されたままにしたの」と問い詰めたりするはずだ。

なのに今の結衣は、まるで何も感じていないかのように静かだった。

背筋を伝って恐怖が這い上がる。風真はなおも何か言いかけるが、結衣は「眠いの」とだけ言い、目を閉じた。

風真の胸に募るのは、やり場のない罪悪感だけだった。

「結衣、全部俺が悪いんだ。玲奈に運転させたのも後悔してる。ちゃんと玲奈には叱っておいたし……もし怒ってるなら、俺のこと、怒鳴っても叩いてもいい、我慢だけはしないでくれ」

結衣はそっと手を引き抜き、再び目を開いたときには、その瞳に生気はなく、ただ虚ろな光だけが残っていた。

「本当に、眠いの」

どうしてもおかしい。

風真は混乱し、手のひらからこぼれ落ちるような焦燥感に飲み込まれていった。

それでも謝罪の言葉を口にする前に、回診の医師に呼ばれて病室を出ることになった。

風真が出て行くと、結衣の目元に赤みが差した。

だけど今度ばかりは、どれほど胸が痛くても、もう涙は出てこなかった。

彼が病室を出ていったその瞬間、結衣の心も完全に死んだ。

乾いた目元をそっと拭い、結衣はただ静かに眠りたかった。目が覚めたら、この男のもとを去ろう。そう思った。

けれど、目を閉じた途端、隣のベッドから騒がしい声が聞こえてきた。

「泣かないの!隣のベッドのお姉さんはレーサーだったのよ。今は足を骨折して、もう二度と車を運転できなくなったのに、一度だって泣き言なんか言わなかったんだから。ちょっと足をくじいただけで、何をそんなに大げさに泣いてるの!」

「やだ!ぼく、足が折れるのは嫌だ、絶対に嫌だ!」

男の子の泣き声が病室中に響き、結衣の耳にも届いた。

足を骨折!?

結衣の頭の中で、何かが炸裂するような衝撃が走った。
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