和樹は俯いたまま、申し訳なさそうな目で言った。「母さん、助けてくれないか」「優子の世話?和樹、あなたは私の子供だから、できることは手伝うわ。優子をここに住まわせて、私が面倒を見ることはできるわ」和樹はさらに深く俯いて言った。「優子じゃなくて……蘭子さんの……」私は眉をひそめ、苦笑した。これが本当の目的だったのか。よくもまあ、この状況で、厚かましくも私に蘭子の世話を頼みに来るものだ。それとも、私が優しさで折れると思ったのか。私は表情を冷たくして言った。「和樹は考えが足りないだけかと思っていた。親子の縁があるから許してきたけど。今分かったわ。あんたには心がないのね。犬を飼う方がましだったわ。もう二度と来ないで。」和樹は何も言えず、しょんぼりと帰っていった。その後しばらく、彼らの消息は聞かなかった。後で聞いた話では、蘭子は高齢妊娠で入院を余儀なくされ、彰人は看病で家と病院を行き来するうちに倒れてしまったそうだ。二人とも入院することになり、和樹は会社の仕事と妊娠中の山田優子の世話で手一杯なのに、さらに二人の面倒まで見なければならなくなった。何度も看護師を頼もうとしたが、蘭子が嫌がって断り、さらには私に世話を頼むよう彰人に懇願したという。「お腹の子は和樹の弟なんだから、美咲さんにも責任があるはず」などと。その時初めて、彰人は激怒した。コップを投げつけ、黙れと怒鳴ったそうだ。病室は大騒ぎになった。彰人と蘭子は言い争い、和樹は止められず、諦めて帰ってしまった。その夜、蘭子は流産した。精神的なショックと年齢的なリスクで、赤ちゃんは守れなかった。彼女はベッドで泣き崩れ、彰人は冷ややかに座ったまま、慰める様子もなかった。若かりし日の初恋が、老いてなお続くと思っていた。蘭子は特別な存在だと信じていた。でも時が経ち、その想いはとうに終わっていたことに気づいた。自分の愚かさに気づくのが遅すぎた。そのせいで全てを台無しにし、私を何度も傷つけてしまった。今さら取り戻そうとしても、間に合うだろうか。彰人と高橋蘭子の離婚は、周囲で話題になった。うわさは耳に入ったが、私は関心がなかった。最近は料理教室に通い始め、新しいレシピを覚えることに夢中だった。彼らのことを気にす
そう言って、彼を振り返ることもなく立ち去った。彰人はあの後ろ姿を見つめ、初めて見知らぬ人のように感じた。あれはいつもの美咲ではなかった。彼女はいつも控えめで、無口で、目立たない人だった。彼が彼女と結婚したのは、蘭子との別れがあったこともあるが、彼女の穏やかな佇まいに心惹かれたからでもあった。離婚後、私は団体旅行に参加し、国内を旅して回った。共通の知人から事情を聞かれても、何も話さなかった。ただ相性が合わなかっただけと答え、離婚後も誰の悪口は言わなかった。伊藤彰人が何をしたとしても、幸せな時もあった。私も本当に愛していた。一緒に暮らさなくなっただけで、憎み合う必要はないと思った。蘭子は彰人の家に住むようになり、間もなく二人は結婚した。和樹は表向きは何も言わなかったが、内心では複雑な思いがあったようだ。蘭子はまだ五十歳で、妊娠の可能性もないわけではなかったから。私は一ヶ月以上も旅を続けた。以前は旅行に行きたくても、いつも遠慮があった。結婚後は彰人の都合を気にし、出産後は和樹の世話があった。結果として二十年以上、どこにも行けなかった。まるで井の中の蛙のように。だから和樹が父親に、なぜ裕福な家なのに母は世間知らずなのかと聞いていたのも納得できる。その時、彰人はこう答えたそうだ。「だから近づくな。愚かさが移るぞ」それ以来、和樹は送り迎えも勉強の相談も避けるようになった。「ママは頭が悪いから、近づいちゃダメなんだ。僕も馬鹿になったら、パパに嫌われちゃう」と言った。なんて皮肉なことだろう。今は、私の方が彼らと距離を置くことを選んだ。絵画の腕も上がり、SNSでフォロワーも増えた。時々依頼も来るようになり、受けている。穏やかな日々を送りながら、カルチャーセンターの仲間たちとボランティア活動もしている。山間部の子供たちに支援物資を届けたり。微力だと分かっていても、何もしないよりはいいと思っている。山から戻ると、マンションの前で和樹が待っていた。ちらりと見ると、優子のお腹が少し大きくなっていた。妊娠しているようだった。二人を部屋に通すと、和樹は複雑な表情で私を見つめた。しばらくして、やっと口を開いた。「母さん、どこにいたの?電話も通じなくて」「ああ」と私は曖昧に答えた。
ペットボトルの水を一口飲んで、額の汗を拭った。「ええ」「私のせいですか?美咲さん、私のことを気にしないでください。彰人さんと私は、ただの友人です。美咲さんを傷つけるつもりは全くありませんでした」蘭子は柔らかく微笑んで言った。「申し訳ありません。美咲さんの家庭を壊すつもりは全くなかったんです。私が戻ってきたのは、若い頃の心残りを埋めたかっただけ。あの時、彰人さんと別れることになっても、恨んではいません。気に病む必要はありません。一度会って別れるつもりでしたが、彰人さんのことが心配でまたしばらく残ってしまった。今度は美咲さんも彼を離れようとしている。女性にとって、家族こそが全てじゃないですか。理想を追いすぎないでください」私も微笑みを返した。「高橋さんの過去の思い出は私には関係ありません。でも、あの人を引き受けたいなら、どうぞ」彼女は口元を緩めて言った。「強がる必要はありません。彰人さんの良さは誰にも分かります。どんな女性でも、手放したくないはずです。私たちは昔は恋人でしたが、今は友人です。恋愛と友情の違いは分かりますよね。私の存在を気にしないでください。ただ、後悔したくないだけなんです。美咲さんは彰人さんの妻なんですから、分かってあげてください」私は立ち上がり、穏やかに言った。「君たちの思い出は好きなように作ればいい。私には関係ないことです。それに、高橋さん。恋愛と友情の区別くらい私にも分かります。本当に一緒になりたいなら、どうぞ。ただ、この年齢で変な噂を立てられたら困りますよね」蘭子の表情が一変した。私はその場を後にした。後で彼女が彰人に何か言ったようだ。その日の午後、彰人から電話があり、離婚を承諾すると。和樹は反対して、何度か押しかけてきた。彼の気持ちは分かるが、これは私の権利だ。誰にも後ろめたさはない。離婚届の受理まで、あと数日かかる。彰人の資産は十分なもので、半分以上もらっても、残りで一生贅沢に暮らせるほどだ。英会話教室にも通い始めた。学生時代は真面目に勉強しなかったから、今からは大変だ。家事から解放されて、時間に余裕ができた。食事と睡眠以外は、絵画と英語の勉強。海外旅行がしたいから。通訳は頼みたくないから、自分で必死に勉強している。昔少し習っていたから、そこま
「いい加減にしろ。確かに彼女とは昔付き合っていた。でも、それはもう過去の話だ。それだけのことを、いつまでも引きずるつもりか。それとも、この旅行が気に入らないのか。これは息子の希望なんだ。大切な時期だろう。お前だって息子の幸せを願うはずだ。それに蘭子は俺のために結婚もせずに待ってくれた。申し訳ない気持ちでいっぱいなんだ。息子も俺の気持ちを理解して、彼女に恩返ししたいと思ってくれている。それも反対するのか。美咲、いつからこんな意地の張る人間になったんだ」彼の言い逃れを聞きながら、私は気づいた。私は本当の彰人を全く知らなかったのだと。彼は自分の非を、いつも私のせいにしてしまう人だった。今まで息子のため、家庭のために黙っていた。でも、もう我慢する必要はない。私は彼の言葉を遮った。「伊藤彰人、離婚しましょう。離婚協議書はテーブルに置いてあります。確認してサインしてください。後日、区役所に行きましょう」そう言って電話を切った。私は口べたで、彼に言い負かされるだけ。もう無駄な言い合いはしたくなかった。穏便に離婚できれば、それでいい。和樹は私が離婚を決意して引っ越したと聞き、怒って押しかけてきた。私は心の中で嘲笑った。一ヶ月も連絡のなかった息子が、今更何を言おうとしているの?彼は怒りに震えながら、私を指差して言った。「いい加減にしてよ。五十過ぎて何を騒いでるんだ。離婚なんてとんでもない。父さんは蘭子おばさんと少し旅行に行っただけじゃないか。二人とも年なんだから、そんな心配要らないだろう。大目に見ればいいじゃないか。更年期でも来たのか。離婚するにしても、なんでこんな条件なんだ。父さんの財産の半分なんて、図々しいにも程がある」優子は隣で彼の腕を軽く引き、言葉を和らげるよう促した。そして私に申し訳なさそうに「お母さん」と呼びかけた。私は軽く頷いただけで、冷静に答えた。「和樹、君も結婚したんだから分かるはず。夫婦の共有財産というものを。お父さんの稼ぎの半分は私の権利よ。二十五年間、私は君たち親子の面倒を見てきた。家政婦を雇っていても、二十五年分の給料は相当なものよ。私の分を主張するのは当然でしょう」和樹は食って掛かった。「でも母さんは家政婦じゃないだろう。母親で、父さんの妻な
その後数日間、彼女は私を心配そうな目で見て、時々手作りのおかずを持ってきてくれた。私もお礼に小さな贈り物を返すようにした。時が過ぎるのは早いもので、彰人とは半月も連絡を取っていなかった。SNSを見ると、彼らは「家族」四人で車の旅行に出かけていた。蘭子は毎日のように写真を投稿していて、まとめて九枚も載せることもあった。ほとんどが彰人と手を繋いだ親密な写真や、頬を寄せ合うような写真ばかりだった。和樹からも連絡はなく、私もそれを受け入れることにした。この半月間、私は心から幸せだった。今までの五十年で感じたことのないような幸せを感じた。自分で選択できているから。誰かの足手まといでもなく、誰かに頼ることもない。私はただありのままの私だから。誰かの娘でも、妻でも、母でもない。私自身として生きている。彰人から再び電話がかかってきたのは、一ヶ月後のことだった。 息子の結婚後、初めて彼があの家に戻った時だった。しかし部屋は空っぽで、テーブルには厚い埃が積もり、冷蔵庫の中の食材は腐っていた。悪臭に顔をしかめながら、彰人は冷蔵庫を閉めた。何度か私の名を呼んだ後、部屋から私の持ち物が全て消えていることに気付いた。クローゼットには彼の服だけ、スリッパは一足減り、引き出しの私の常備薬もなくなっていた。彰人は苛立ちを隠せない様子だった。こんな年になって、まだこんな真似をするのかと私を叱りたいようだ。しかし埃まみれの部屋を見て、携帯を取り出して電話をかけてきた。見慣れた番号を見ながら、離婚の件はもう随分引き延ばしていたと思い電話に出ることにした。私が何か言う前に、彰人の怒りの声が響いた。「この前言ったことが分からないのか。もういい年なんだから、こんな家出みたいなことはやめろ。家の中はめちゃくちゃで、足の踏み場もない。これが妻のすることか。息子の里帰りの時のプレゼントもあんな程度で、家の恥をさらすつもりか」彰人の声は次第に高くなったが、すぐに諦めたように柔らかくなった。「どこにいる?迎えに行くから、帰って家の片付けをしてくれ」当たり前のような口調、命令するような物言い。まるで私が、彼の家の使用人のような気分になった。思わず苦笑いが漏れ、問い返した。「彰人、私は君にとって何なの?家政婦
財産分与は六対四にした。半々にしようかとも思ったけれど、そんな必要はないと思い直した。自分でも意外だった。こんな年になって、一生従順に生きてきた私が、離婚を切り出すなんて。若い頃は父の言う通りに、学校も、人付き合いも、仕事も、全て決められた道を歩いてきた。結婚してからは瑾也の望む通り、子育てと家事に専念する良妻賢母になった。今度は息子の言うことを聞くべきなのだろうか。何度も自分に問いかけた。でも答えはいつも同じだった。いいえ。もう十分。私も、自分の人生を生きたい。彼らは失った恋を取り戻したいというのなら。私だって、本来の自分、あの生き生きとした自分を取り戻したい。引っ越して初めての夜は、慣れない寝床で落ち着かず、早朝に目が覚めた。携帯を確認しても、着信もメッセージも何もなかった。瑾也は昨夜帰宅していないから、離婚届にも気付いていないはずだ。今日は山田優子の里帰りの日。贈り物は前もって用意していた。和樹は私の大切な子供だ。彼の人生の大切な節目を台無しにしたくなかった。よく考えた末、デリバリーサービスを使って、新居に贈り物を届けることにした。三十分後、配達員から連絡が入った。申し訳なさそうな声で言った。「あの……申し訳ございません。お荷物をお断りされまして……」携帯を握りしめたまま、胸が締め付けられた。やっと「ありがとうございます」と言えた。「よろしければ、お持ち帰りください。処分していただいても結構です。お手数おかけしました」「かしこまりました」電話を切る直前、向こうから和樹の声が聞こえてきた。「ママ、あの人って昔からケチだから、プレゼントもショボいんだよ。こんなものを義父に渡すなんて、家の恥さらしじゃないか。わざわざ届けさせるなんて、恥ずかしくないのかな」蘭子が優しく諭すように「まあまあ、そんなこと言わないの。気持ちは気持ちとして」和樹は慌てて頷いて、また同じことをすると冗談めかして言った。その後の一週間、瑾也とは一切連絡を取らなかった。何度か電話はかかってきたけれど、出なかった。瑾也は私が拗ねていると思い込んで、そのうち電話をかけてくるのも止めた。どうせ私のことを分かったつもり。今まで喧嘩をしても、長くても半日で折れていたから。彼からすれば、ただ