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九十九回のプロポーズ

九十九回のプロポーズ

By:  純情男子ヒツジCompleted
Language: Japanese
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私の夫がどれほど私を愛していたか? 当時私と結婚するために、プロポーズだけで九十九回もしてくれた。 そして百回目で、ようやく私は彼の粘り強さに心を動かされた。 海市で誰もが羨む斎藤夫人になった。 新婚当日、私は彼に九十九枚の「仲直り券」をあげた。 この仲直り券を使い切らない限り、ずっと彼のそばにいると約束した。 結婚して五年、彼は本命の女と過ごすたびに、仲直り券を一枚使った。 九十七枚目の仲直り券を使った時、夫は突然私が変わったことに気づいた。 私はもう泣きわめくこともなく、引き留めることもしなくなった。 ただ彼が秘書のことで理性を失った時に、そっと尋ねるだけだった。 「彼女のところに行くなら、私も仲直り券を使えるかしら?」 男は一瞬呆然とし、珍しく優しさを見せた。 「いいよ、まだ六十枚ちょっとしか使ってないし、使いたければ使えば」 私は頷いて、彼を行かせた。 彼は知らなかった。これが九十七枚目の仲直り券だということを。 そして私たちの仲直り券は、残りあと二枚だけだということを。

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Chapter 1

第1話

結婚して五年、斎藤健吾(さいとう けんご)と私・平田咲良(ひらた さくら)にはずっと子供がいなかった。

今日は斎藤グループが東城プロジェクトの獲得に成功した祝賀会だった。

そして健吾と私が一緒に妊活すると約束してから九日目でもあった。

だが、健吾の秘書・伊藤彩乃(いとう あやの)がシャンパンタワーを倒し、その酒が取引先にかかった時、健吾は反射的に彼女を庇った。

そして躊躇なく私に指示した。

「咲良、田中社長に謝れ」

私は一瞬呆然とし、信じられなかった。

取引先の方も眉をひそめ、怒って彩乃を指差した。

「斎藤社長、間違いを犯したのはこちらのお嬢さんです。彼女に謝っていただきたいですが」

彩乃は目を赤くし、助けを求めるように健吾の袖を引っ張り、まるで不当な扱いを受けたかのようだった。

健吾は優しく彼女の手を叩き、それから構わず私を見た。

「何をぼーっとしてるんだ、早く田中社長に乾杯しろ。

一杯でだめなら二杯、二杯でだめなら三杯、必ず田中社長の怒りを鎮めるんだ」

彼は私たちが妊活中だということを忘れていた。

それとも、そんなことどうでもよかったのだろう。

周りの人たちは忍びなく囁き合い、私を見る目には同情が満ちていた。

これが私の過ちでないことは誰もが知っていた。

健吾が彩乃を庇う気満々だということも、誰の目にも明らかだった。

私は断ろうと思ったが、健吾は予想していたかのように私に口の形で示した。

【仲直り券】

当時私と結婚するために、健吾は99回もプロポーズし、私も99回断った。

彼は諦めるだろうと思っていたが、百回目の時、健吾は私の家族と友人全員を呼んで、みんなの前で誓った。

「咲良、俺は生涯君だけだと決めた。もし承諾してくれないなら、君が結婚を承諾するまでプロポーズし続ける」

私は彼の粘り強い愛に心を動かされ、承諾した。

彼の愛に応えるため、新婚初夜に、私は特別に99枚の仲直り券を作った。

この仲直り券を使い切らない限り、私たちは永遠に別れないと約束した。

最初の三年間、健吾はとても大切にしてくれて、一枚も使わなかった。

しかし、彩乃が現れてから、たった2年で彼は96枚を使った。

今回が97枚目だった。

ワイングラスを持つ指がわずかに白くなり、私は無理に笑って取引先の方の前に歩いた。

「田中社長、乾杯させていただきます」

取引先の方はため息をつき、一口だけ飲めばいいと言ってくれた。

でも私は笑いながら赤ワインを全部飲み干した。

視線の端で、健吾が彩乃の鼻を愛おしそうに軽くつまんで、優しい声で話しているのが見えた。
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第1話
結婚して五年、斎藤健吾(さいとう けんご)と私・平田咲良(ひらた さくら)にはずっと子供がいなかった。今日は斎藤グループが東城プロジェクトの獲得に成功した祝賀会だった。そして健吾と私が一緒に妊活すると約束してから九日目でもあった。だが、健吾の秘書・伊藤彩乃(いとう あやの)がシャンパンタワーを倒し、その酒が取引先にかかった時、健吾は反射的に彼女を庇った。そして躊躇なく私に指示した。「咲良、田中社長に謝れ」私は一瞬呆然とし、信じられなかった。取引先の方も眉をひそめ、怒って彩乃を指差した。「斎藤社長、間違いを犯したのはこちらのお嬢さんです。彼女に謝っていただきたいですが」彩乃は目を赤くし、助けを求めるように健吾の袖を引っ張り、まるで不当な扱いを受けたかのようだった。健吾は優しく彼女の手を叩き、それから構わず私を見た。「何をぼーっとしてるんだ、早く田中社長に乾杯しろ。一杯でだめなら二杯、二杯でだめなら三杯、必ず田中社長の怒りを鎮めるんだ」彼は私たちが妊活中だということを忘れていた。それとも、そんなことどうでもよかったのだろう。周りの人たちは忍びなく囁き合い、私を見る目には同情が満ちていた。これが私の過ちでないことは誰もが知っていた。健吾が彩乃を庇う気満々だということも、誰の目にも明らかだった。私は断ろうと思ったが、健吾は予想していたかのように私に口の形で示した。【仲直り券】当時私と結婚するために、健吾は99回もプロポーズし、私も99回断った。彼は諦めるだろうと思っていたが、百回目の時、健吾は私の家族と友人全員を呼んで、みんなの前で誓った。「咲良、俺は生涯君だけだと決めた。もし承諾してくれないなら、君が結婚を承諾するまでプロポーズし続ける」私は彼の粘り強い愛に心を動かされ、承諾した。彼の愛に応えるため、新婚初夜に、私は特別に99枚の仲直り券を作った。この仲直り券を使い切らない限り、私たちは永遠に別れないと約束した。最初の三年間、健吾はとても大切にしてくれて、一枚も使わなかった。しかし、彩乃が現れてから、たった2年で彼は96枚を使った。今回が97枚目だった。ワイングラスを持つ指がわずかに白くなり、私は無理に笑って取引先の方の前に歩いた。「田中社長、乾杯させて
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第2話
「おバカさん、次はそんなに走らないでね。もし怪我でもしたらどうするんだ?」彩乃が彼の手をぎゅっと握り、瞳には笑みが満ちていた。「わかったよ、斎藤社長。私にいつも優しくしてくれてありがとう」そう、あんたには本当に優しくしてる。飲んだ酒が不意に喉に引っかかり、込み上げる刺激に目がじんと熱くなった。大丈夫。私は自分にそう言い聞かせた。どうせ、もう二枚しか残っていないのだから。パーティーが終わり、私はいつものように助手席のドアを開けようとした。その時、「カチッ」とドアがロックされる音が響いた。健吾が窓を下ろし、冷えた視線をこちらに向けてきた。「タクシーで帰れ。車、今洗ったばかりなんだ。酒臭えんだよ」彼は私の体に染みついた匂いがどこから来たのか忘れてしまったらしい。街灯よりも彼の嫌悪の色のほうが眩しく感じた。いつもの私なら慌てて水を飲んで、泣きながら必死に弁解していたかもしれない。ただ少し飲んだだけ、そんなに臭くないと。あるいは、その場で取り乱し、目を赤くして「どうして彩乃の代わりに私に謝らせたの?」と問い詰めていたかもしれない。でも今回は、ただ笑ってうなずいた。「わかった。気をつけてね」健吾のハンドルを握る手がふっと緩み、思わず私を見た。「咲良、君……」言いかけたその時、彩乃が笑顔で私を押しのけた。「斎藤社長、準備できたわ。行きましょ」彼女の肩には健吾のジャケットがかかっていて、ドレスにはシャンパンタワーを倒したときについた酒のシミが残っていた。濃厚なアルコールの匂いが鼻を刺す。だが健吾は少しも嫌がる様子はなく、自らドアを開けてやり、ジャケットを彼女の肩に丁寧にかけ直した。「外は寒い、風邪引くなよ」その一連のことを終えてようやく私に視線を送り、どこか後ろめたそうな顔をする。「誤解すんなよ。ただ彩乃は女の子だし、年も若いから、ちょっと気遣ってやってるだけだ」私は軽くうなずいた。「わかってるよ」彼が不安に思うかと、私はさらに言葉を足した。「仲直り券をもう使ったでしょ?私、怒らないから」健吾の動きが一瞬止まり、何か言おうとしたその時。彩乃がくしゃみをして、彼の注意はまたそちらに移った。「早く家に帰るんだ」言い捨てて、二人は車を走らせていった。遠ざ
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第3話
電話を切ったあと、私は静かにパソコンをシャットダウンした。 「別に、先生と離婚のことをちょっと話しただけ」 健吾の表情が一変し、ほとんど飛びかかるようにして私の前に来た。 「離婚?俺と離婚するつもりなのか?」私は二歩ほど下がり、適当に答えた。 「ちがうよ、ある案件で先生が私の意見を聞きたいって」 ようやく男は胸をなでおろし、手に持っていた紙袋を差し出した。 「ほら」 紙袋に描かれているのは、私が一番好きなケーキ屋のマークだった。 結婚する前、健吾は私を怒らせてしまうと、必ずこの店でケーキを買ってきた。 この店はとても人気があって、買うには毎回二時間近く並ばなければならない。 それでも彼は、私が「食べたい」と言ったら、雨の日でも風の日でも、自分で並びに行ったのだ。 時には私のほうが心配になって、「代わりに誰かに頼んだら?」と声をかけた時もあった。 けれど健吾はいつも決まって言うのだった。 「咲良、大丈夫だよ。君のためなら、俺は喜んでやる」 その言葉を思い出し、胸がじんわりと温かくなった私は、思わず目尻をやわらかくして紙袋を受け取り、開けた。 「まだ覚えててくれたんだ……え、これなに?」 袋の中を見た瞬間、嫌な予感が胸をよぎり、私は絶句した。 そこに入っていたのは、ケーキではなく、酒の匂いが残る二着の服――健吾のスーツジャケットと、今日彩乃が着ていたドレスだった。 私の問いかけに、健吾は珍しくばつの悪そうな顔をした。 「彩乃の服に汚れがついちゃってさ。どうせ君は家事に慣れてるし、一着でも二着でも同じだろ?だから一緒に持ってきたんだ」 そう言うと、何か思い出したように急に開き直った。 「まあいいじゃないか。仲直り券を一枚使えば済むだろ?どうせまだたくさん残ってるし、君も細かいこと気にすんなよ」 その一言で、私の喉に詰まった言葉はすべて飲み込まれた。 本当は伝えたかった。 健吾――もうないの。 あの99枚あった仲直り券、残っているのは最後の一枚だけ。 けれど結局、私はただ彼をじっと見つめ、それから無言で服を洗濯機に押し込んだ。 昔は、彼の服を少しでもきれいに保つために、絶対に洗濯機は使わず、自分の手で一枚ずつ洗っていた。 今思えば、私はなんて馬鹿だったんだろう
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第4話
長年家事をしてきたせいで、手の肌は確かに荒れてしまっていた。彼が嫌がるのも無理はない。 これ以上聞きたくなくて、私は少し取り乱しながら洗面所に逃げ込んだ。 十分後、健吾がドアをノックする。 「咲良、会社で急ぎが入った。ちょっと行ってくる。早く寝な」 私は小さく返事をした。 彼が出ていこうとしたところで、思わず声を上げる。 「健吾……もし帰ってこなかったら、仲直り券を使ってもいい?」 私は彼を見つめた。目尻にはまだ拭ききれなかった涙の跡が残っている。 健吾の足が止まり、すぐに振り返った。 「いいよ」 彼は軽やかに笑い、表情もいつものように穏やかだった。 「心配するなよ。十二時までには必ず帰る。仲直り券なんて使わせないから」 五年前とほとんど変わらない顔を見つめ、胸の奥に湧いた痛みをかろうじて押し込み、私は微笑んだ。 「うん、待ってる」 十二時まで、あと三時間。 私は代行サービスに高い金を払って、ケーキを一つ買ってきてもらった。 その頃、健吾のアシスタントがSNSに投稿していた。 「まだ残業中、会社に残ってるのは俺だけ」と不満たらたらだった。 健吾からメッセージが届いた。【今、会社に着いたよ。すぐ帰るから】 十二時まで、あと二時間。 アルバムを整理していたら、健吾が私にプロポーズした日の写真が出てきた。 心を動かされ、私もSNSに一言だけ投稿した。 【気付けば、もう五年だね】 すぐに彼が反応する。 【五年だけじゃないよ】 さらに夜景の写真を送ってきた。 【今夜の夜景がとても綺麗で、君を思い出した】 私は返信を打たなかった。 だって、その夜景の背後に写る高層ビルは会社の近くではなく、繁華街の中心。 そこには街で一番ロマンチックと評判のレストランがある。 やがて彩乃も我慢できず、私にしか見えない投稿をした。 【私こそ健吾の本命だわ】 写真の隅に写った健吾の左手。そこには結婚指輪がはめられていなかった。 十二時まで、あと一時間。 私はソファに沈み込み、結婚式の動画をループ再生しながら、配達のケーキを頬張った。 けれどどうしてだろう、食べれば食べるほどしょっぱくなっていった。 今後、きっとケーキなんてもう好きになれない。
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第5話
私は携帯の震動を無視して、そのまま電源を切った。 今この瞬間から、健吾との五年間の結婚生活は完全に終わりを迎えた。 ホテルでは、私のメッセージを見た健吾が、必死で返信を繰り返していた。 【離婚?ふざけるなよ。あれだけ仲直り券があるのに、こんなに早く使い切れるはずがないだろ】 【俺があげたプレゼント、気に入らなかったのか?もう一度選び直せばいいだろ?】 【咲良、電話に出ろ。ちゃんと話そう】 【なんで電源を切ったんだ?本当に怒ってるのか?】 健吾は、私が本当に彼を無視するとは信じず、何度も何度も諦めずに電話をかけ続けた。 39回目の冷たいガイダンスを聞いたとき、ようやく取り乱し始める。 「ありえない……ありえない……出かける前はあんなに普通だったのに……」 彼の脳裏には、私が仲直り券のことを口にしたときの様子がよみがえる。あまりにも穏やかで――それはまるで、心がすでに死んでいたかのようだった。 そう思い至った瞬間、健吾は慌てて服を引っ掛けるように身につけた。 その背に、彩乃が絡みつき、猫のように甘える。 「斎藤社長、今夜は一緒にいるって約束してくれたのに……」 だが健吾は焦りに駆られ、突き放すように彼女を振り払い、何の説明もなく部屋を飛び出していった。 道中、彼はしつこいほど電話をかけ続けたが、私が出ることは一度もなかった。 家に入った瞬間、あまりに急いでいたせいで、足が床に散らばったガラスの破片を踏みつけた。 ガラスが床と擦れて甲高い音を立てた。健吾はそこで初めて、足元にあるものに気づいた。――私たちの結婚写真だ。 粉々に砕けたガラスが、写真の中の二人の顔を無残に引き裂いていた。それはまるで私たちの壊れた結婚そのものだった。 健吾はゆっくりとしゃがみこみ、床から結婚写真を拾い上げ、慎重に破片をぬぐった。 写真の中、若い二人が互いを見つめ笑っている――その甘やかな笑顔に、彼の目尻が赤く滲む。 写真を元の場所に戻すと、彼は必死に家中を探した。 だが、空っぽになったクローゼットを見た瞬間、ついに私が本当に去ったのだと理解する。 健吾は力が抜けたようにリビングに崩れ落ち、前方のテレビ画面を無言で凝視した。 そこには、延々と繰り返されるプロポーズの映像――それが、この家に
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第6話
その場に立ち尽くしてしまった。 壁一面に並ぶガラスケースいっぱいに、彼が私へ贈ってきた品々が詰め込まれている。 だがよく目を凝らせば、中央には同じジュエリーが三組も並んでいた。 そのうち一組のレシートの日付は、まさに昨日。 彼の脳裏に、不意に昨日の出来事がよぎった。秘書に贈った「コリプス」のショール。 薄着で立っていた彩乃の姿を見て、すぐに人を飛ばしイタリアまで特注させ、当日のうちに手渡した。 値段も心遣いも、このショーケースに並ぶ宝石以上のものであった。 その瞬間、彼は深い思索に沈んだ。 いつから、彼が私に捧げた唯一無二の愛が、何度も繰り返される安っぽい埋め合わせになってしまったのだろうか?その夜、彼はリビングで飲み続け、酒棚の中のボトルをすべて空にしたが、答えは見つからないままだった。 健吾が会社に現れると同時に、彩乃が後を追って入ってきた。 「斎藤社長、昨日の契約書です」 彼女は書類を机に置き、手慣れた様子で健吾の隣へ歩み寄り、肩に手を置いた。 かつては、暗黙の了解で流れていた親しい仕草。 だが今、健吾の胸の内には不意に違和感が広がった。 身体を起こし、男は書類を開く。だが一枚目を目にしただけで眉間に皺を刻む。 基本条項すらまともに書けておらず、ましてや会社を破綻させかねない違約条項まで散見される。 隙だらけにも程がある。 以前なら、彼の手に渡る前に私が三度は精査し、会社の利益を守るためにリスクを徹底的に潰してきた。 だが今目の前にあるのは…… 健吾は書類を机へ叩きつけ、冷ややかに声を発した。 「この契約書は誰が作ったんだ?基礎的な能力すらないのか? 咲良を呼んでこい。法務部長のくせに、まだ仕事を続けるつもりか聞いてやる」 彩乃の顔色がさっと変わる。 「斎藤社長、それ……私が作ったものです」 彼の怒りは瞬時に消え失せ、言葉に詰まった。赤く潤んだ目で、いかにも傷ついたように立つ彩乃を見て、健吾は初めて無力感を覚えた。 彼女は涙を拭い、か弱く見上げてくる。 「ごめんなさい、斎藤社長。私が悪かったんです…… もしかして咲良さんのおっしゃる通りで、私はこのポジションに全然ふさわしくない、ただご迷惑をおかけするだけなのかもしれません……」 そう言って踵
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第7話
彼がどれほど心の中で自分を慰めようとしても、私の席がずっと空いたままなのを見ると、やはり苛立ちを抑えられなかった。 仕事を処理する時でさえ、どこか上の空になってしまう。 健吾は私の席が空いているのを見て、不安がどんどん大きくなった。 ついには我慢できず、人事部長を呼びつけた。 「斎藤社長、何かご指示でしょうか?」 「咲良は今日は休みか?」 彼は目の前の書類を見ながら、何気ないふうに尋ねた。人事部長はぽかんとした顔で彼を見た。 「平田部長は退職しました」 「何だって?!」 健吾のペンを走らせる手が止まり、白い紙面にインクが裂けるような跡が走った。 「いつの話だ?誰が許可した?俺は聞いてないぞ!」 人事部長は不思議そうに説明した。 「昨晩申請がありまして……今朝、社長が即決で承認されたんですよ」 その言葉に、健吾は頭を殴られたかのように呆然とした。 すぐにパソコンを開き、メールを一気に流し読みしていく。 やっと見つけた唯一の退職願を震える手で開くと、そこには【咲良】と署名されていた。 胸を覆う巨大な恐怖が、怒涛のように押し寄せてくる。 「今すぐ取り下げろ!すぐだ!」 人事部長は冷や汗を拭いながら震える声を絞り出す。 「斎藤社長……もう手続きは完了してます……」 その時、オフィスの外から彩乃が書類を手に入ってきた。 さっきまで見せていた悔しさなど跡形もなく、むしろどこか楽しげな目だった。 「斎藤社長、こちらファックスが届いてます」 男の視線が紙面に落ち、そこに記された「離婚協議書」の文字を捉えると、再び椅子に崩れるように座り込んだ。 長い沈黙の後、ようやく息を整えた彼は携帯を取り出し、親友に電話する。 掠れたかすかな声で言葉を漏らした。 「頼む、この送信元がどこか調べてくれ」 電話を切った健吾は、その後退勤時間まで一度も部屋を出なかった。 最後には私のオフィスを開け、私の席に腰を下ろした。 机の上の二人の写真を見つめながら、次々と脳裏に思い出がよみがえる。 九年前――大学のディベート大会で、私と健吾は初めて出会った。 その時の私は勢いに満ち、理路整然と相手を言い負かした。 当然のように、健吾も私の前に敗れ去った。 けれど彼は他の男たちとは
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第8話
たとえ海外の仕事であっても、彼はいつも、契約書をあらかじめサインし、最も信頼している私に任せていた。 「一体どうしたんだ?なんで急に国外に出るんだ?」 電話の向こうで理由を追及される。 健吾はしばし黙し、深く息を吐いた。 「咲良が……行ってしまったんだ……」 「……あ?」電話の向こうは動揺したようだったが、意外にもそれ以上は何も尋ねてこなかった。 「ひとつ聞かせてくれ。この三年、お前たちも俺が彩乃と一線を越えていると思っていただろ?咲良を裏切っていると感じていたか?」 その問いに、相手は沈黙した。 そして沈黙というのは、ときに最高の答えになる。 「……分かった」 男は苦々しい表情で口を開いた。 「俺が間違ってた。彩乃が現れてからというもの、無意識に惹きつけられてしまったんだ。 彼女が時々、若い頃の咲良に重なって見えるんだよ。あの明るさと眩しさ…… でも、混同しちゃいけなかったんだ。 この二年で、彼女がくれた99回のチャンスを全部使い切ってしまった。 別れるつもりなんて全くなかった。なのに……今度は彼女が俺を切り捨てた」 その声は低くかすれ、嗚咽を押し殺しながら震えていた。 長い沈黙の末、電話の向こうがやっと口を開く。 「……分かった」 通話が切れるとすぐに、一通のメッセージが届いた。 【ファクスはここから送られた。聞き込みすれば彼女の情報が掴めるはずだ】 ―― 十時間のフライトを経て、私は無事にイタリアへ到着した。 飛行機を降りた瞬間、先生と法律事務所の同僚たちが私を出迎えてくれ、心からの歓迎の意を表してくれた。これで三度目のパリ訪問だった。 これまでは出張ばかりで、契約書にサインしたらその日のうちに呼び戻されていた。 だが今は違う。仕事の重圧から解き放たれ、心が羽のように軽い。 今日からは、自分だけのために生きていけるのだから。 そして健吾は、もう二度とここには辿り着けない。 「咲良、君が戻ってきてくれて本当に嬉しいよ」 先生は、感慨深げに私を見つめた。 学生時代、私は数多い教え子の中で最も将来を嘱望された才女だった。唯一、先輩の黒田悠生(くろだ ゆうせい)にだけ及ばなかった。 だが健吾と共に歩む道を選んでしまい、先生の「一緒に海外へ
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第9話
「この二年間、俺が彩乃に執着していたのは、九年前の君の姿を彼女に重ねてしまったからだ。自分が彼女を好きだと錯覚していただけなんだ。けれど咲良、君が去ってから初めて気づいた。本当に好きなのはずっと君だったんだ」私は彼を嘲るように見つめ、込み上げる吐き気をなんとか抑え込んだ。 男の自己満足な「愛情」はまだ続いている。「この数年間の君の努力、全部見てきた。正直、君が仕事で見せる力に感動すると同時に、俺には重圧になった。咲良……君は変わったんだ。理性的で強くて、まるで冷たい機械のように見えた。だから彩乃が現れたとき、俺は本能的に惹かれてしまった。初めて出会った頃の君を、彼女の中に見てしまったんだ……咲良、俺は離婚したくない。君を失いたくもない。海外に行くのが怖い俺でも、君のためなら克服すると決めた。この気持ちを汲んで、どうか一度だけ許してくれないか?」そう言いながら、健吾は涙を流した。だが私の心に広がっているのは氷のような冷気だけだった。 これが私の愛した男なのか。浮気をしておきながら、なおも自分を正当化しようとする。 挙句の果てには、浮気した原因を私のせいにする。 私が「理性的で強いから」「プレッシャーを与えたから」――そのせいで彩乃を好きになったのだと?かつて彼に称えられた長所が、今では彼の「仕方なかった浮気」の理由になっている。 滑稽すぎて笑うしかない。「間違いは間違い。過ちには裏切りの代償を払うべきよ。謝れば済むなら、この世に警察なんて要らないでしょ?健吾、私たちはもう終わったの」そう言い切り、私は彼を通り過ぎて法律事務所へ足を踏み入れた。 健吾は追いすがらなかった。 私の性格を知っているのだ。 一度決めたら、絶対に振り返らないことを。 けれど私は気づいた。彼が会社の前に立ち尽くしているのを。 通行人の視線も、雨風や灼けつく日差しも気にせず、ただ己を罰するように一日中そこにいた。 だが、それにどんな意味があるというのか。 一度失った愛は、もう戻らない。 二年間、私は彼に九十九回もチャンスを与えた。けれど彼は毎回それを踏みにじった。 そんな男が、赦されるわけがない。丸一週間、健吾は欠かさず会社の前に現れた。毎回、涙ぐんだ顔を晒して。 直接のしつこい追及はなかった
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第10話
疲れた時には、時々リグリアの漁村に行って、一週間ほどのんびり過ごすことにした。 一年が過ぎ、私はついに法律事務所のパートナー弁護士となり、順調にキャリアを積み上げていった。 全てが良い方向に進んでいたが、ただ一つ、たまにマンションの下で健吾の悲しげな顔を見かけると、どうしても気分が曇った。 別れてから一年、彼は99通もの離婚協議書を受け取っていながら、頑なにサインしようとしなかった。 あの時、私に必死に迫ってきた時の勇気をまた振り絞り、同情を誘って、やり直したいと考えていたのだろう。 最初は、私の心にもほんの僅かに波紋が広がった。 だが、同僚から送られてきた知らせを見た後、その甘い情け心を自ら潰しきった。 国内では、健吾が私の両親を訪ね、涙ながらに全てを打ち明けて悔恨を口にしたらしい。 けれど彼は忘れていた。子どもの性格は親に似るということを。 私の目に砂が入るのを許さない、ましてや彼が私の両親の目に砂を入れようなど、言語道断だった。母は話を聞き終えるとすぐに彼を追い出し、その足で私に電話をかけてきて、離婚の決断を全力で支持してくれた。 ためらっていた心が、その時に完全に固まった。 それ以降、会社の下で健吾を見かけることは二度となかった。 二年後―― 私は国内の案件を引き受けることになった。 別居二年以上で離婚は成立していると考え、ついに帰国の飛行機に乗った。 飛行機が着陸した時、両親は私の艶のある肌を見て、ようやく胸を撫で下ろした。 「この数年、悠生が毎日あなたの写真や動画を送ってくれたから、私たちも安心できたのよ」 私は後ろを振り返り、唇に含み笑いを浮かべた。 「悠生、他人のプライバシーを侵害したらどうなるんだっけ?」 悠生は鼻をこすり、耳まで真っ赤になって答えた。 「そ、それは……事情が特殊で、家族の同意があれば、ある程度は酌量される……」 ちょっとしたやりとりで、両親のしんみりした空気が和らいだ。 一行は笑いながら自宅へ向かって歩いていった。 家に戻って父から聞いた話で、健吾が姿を消した理由を知った。 彩乃はのし上がるために、健吾との親密な写真をメディアに送ったのだ。会社は上場したばかりなのに、一気にスキャンダルに見舞われ、株価は急落。 私と関係の深
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