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那知神山のハクサンコザクラ

那知神山のハクサンコザクラ

作家:  別れ無し完了
言語: Japanese
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概要

幽霊目線

愛人

ひいき/自己中

カウントダウン

心臓を逸生に移植してから五年後、私は人工心臓の拒絶反応で病室のベッドの上で息を引き取った。 意識が消えていくその瞬間、閻魔の声が耳元に響いた。 「笹本千遥――おまえに執着する者が人間界にいるせいで、おまえは輪廻に入れぬ。 五日の猶予を与える。その間に現世へ戻り、執念を解け」 再び目を開けたとき、私は死の五日前に戻っていた。 手には北東部行きの乗車券が握られている。 逸生とは三十歳になったら神山で結婚式を挙げようと約束していた。 前の人生では、その切符を病院のゴミ箱に捨ててしまった。 だが今回は、人でごった返す駅で列車に乗り込んだ。 まさか列車に乗り込んだ時に、同じく北東部へ向かう逸生と、彼の婚約者に出会うとは思わなかった。

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第1話

第1話

心臓を瀧澤逸生(たきざわ いつき)に移植してから五年後、私は人工心臓の拒絶反応で病室のベッドの上で息を引き取った。

意識が消えていくその瞬間、閻魔の声が耳元に響いた。

「笹本千遥(ささもと ちはる)――おまえに執着する者が人間界にいるせいで、おまえは輪廻に入れぬ。

五日の猶予を与える。その間に現世へ戻り、執念を解け」

再び目を開けたとき、私は死の五日前に戻っていた。

手には北東部(ほくとうぶ)行きの乗車券が握られている。

逸生とは三十歳になったら神山で結婚式を挙げようと約束していた。

前の人生では、その切符を病院のゴミ箱に捨ててしまった。

だが今回は、人でごった返す駅で列車に乗り込んだ。

まさか列車に乗り込んだ時に、同じく北東部へ向かう逸生と、彼の婚約者に出会うとは思わなかった。

寝台列車の入口で立ち止まり、高い背中を茫然と見つめてしまった。

瀧澤逸生と別れて五年。

もう二度と再会することはないと思っていた。

再び会うとき、自分の命が「カウントダウン」に入っているなんて想像もしなかったし、彼の隣に別の女性がいるとも思わなかった。

背後の乗客に押され、急かされる。

「前の人、早く進んでくださいよ!」

私は慌てて視線を引き戻し、「すみません」と取り繕って通り過ぎようとした。

だが逸生が、低い声を投げかける。

「笹本千遥。五年ぶりだ。挨拶もなく立ち去るつもりか?」

氷のように冷たい声に、かすかな嘲りが混じる。

私はその場に釘付けになった。

彼の隣に座る女性もこちらを見やる。

「逸生、知り合い?」

逸生は私の顔に二秒ほど視線をとめ、それから逸らした。

「ただの友人だ」

友人?なんて都合のいい呼び方。

私は目を伏せ、爪が掌に食い込む。

魂であっても痛みを感じるのだと、その瞬間初めて知った。

無理やり笑みを作り、できるだけ自然に言葉を紡ぐ。

「大学の同級生です。何度か顔を合わせただけの」

女性は納得したように頷き、私に手を差し出した。

薬指のダイヤモンドが光を反射する。

「奇遇ですね。はじめまして、私は林雅(はやし みやび)。逸生の婚約者です。

今回北東部へは、神山(しんざん)でウェディングフォトを撮るために行くんです」

神山。

その名前が、鋭い針のように胸に突き刺さった。

二十四歳の誕生日の夜。

逸生は旅行雑誌の神山の写真を指差し、憧れに満ちた目で言った。

「あそこの神山は神の山で、愛し合う二人を一生守ってくれるんだって。三十歳になったら、あそこで結婚しよう?」

あの頃、私たちは確かに愛し合っていた。

彼が二十五歳で心不全を患うことも、私が彼と唯一心臓が適合した存在になることも知らなかった。

目の奥が熱を帯び、私は瞬きをした。

雅は手を引き、変わらぬ調子で尋ねる。

「笹本さんも北東部に旅行ですか?」

喉が詰まって言葉が出ない。

どう答えればいい?

閻魔の恩赦で五日だけ現世に戻ってきた魂だと?

病院の集中治療室で、私の身体は今も眠り続けていると?

死んでもなお三十歳の約束を忘れられず、執念に囚われて戻ってきたのだと?

それらの言葉は喉に詰まり、水を含んだ綿のように重く、吐き出すことも飲み込むこともできない。

私は雅の目を避け、視線を伏せながら、こっそり逸生に目をやった。

彼は大きく変わっていた。

仕立てのスーツを纏い、精悍で堂々としていて、かつて病に蝕まれ骨と皮ばかりだった姿とは別人のようだ。

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コメント

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松坂 美枝
閻魔様は何故こんな仕打ちを… 主人公の未練は断ち切れたかもしれないが… 男が珍しく死ななかったな
2025-10-08 10:14:24
0
9 チャプター
第1話
心臓を瀧澤逸生(たきざわ いつき)に移植してから五年後、私は人工心臓の拒絶反応で病室のベッドの上で息を引き取った。意識が消えていくその瞬間、閻魔の声が耳元に響いた。「笹本千遥(ささもと ちはる)――おまえに執着する者が人間界にいるせいで、おまえは輪廻に入れぬ。五日の猶予を与える。その間に現世へ戻り、執念を解け」再び目を開けたとき、私は死の五日前に戻っていた。手には北東部(ほくとうぶ)行きの乗車券が握られている。逸生とは三十歳になったら神山で結婚式を挙げようと約束していた。前の人生では、その切符を病院のゴミ箱に捨ててしまった。だが今回は、人でごった返す駅で列車に乗り込んだ。まさか列車に乗り込んだ時に、同じく北東部へ向かう逸生と、彼の婚約者に出会うとは思わなかった。寝台列車の入口で立ち止まり、高い背中を茫然と見つめてしまった。瀧澤逸生と別れて五年。もう二度と再会することはないと思っていた。再び会うとき、自分の命が「カウントダウン」に入っているなんて想像もしなかったし、彼の隣に別の女性がいるとも思わなかった。背後の乗客に押され、急かされる。「前の人、早く進んでくださいよ!」私は慌てて視線を引き戻し、「すみません」と取り繕って通り過ぎようとした。だが逸生が、低い声を投げかける。「笹本千遥。五年ぶりだ。挨拶もなく立ち去るつもりか?」氷のように冷たい声に、かすかな嘲りが混じる。私はその場に釘付けになった。彼の隣に座る女性もこちらを見やる。「逸生、知り合い?」逸生は私の顔に二秒ほど視線をとめ、それから逸らした。「ただの友人だ」友人?なんて都合のいい呼び方。私は目を伏せ、爪が掌に食い込む。魂であっても痛みを感じるのだと、その瞬間初めて知った。無理やり笑みを作り、できるだけ自然に言葉を紡ぐ。「大学の同級生です。何度か顔を合わせただけの」女性は納得したように頷き、私に手を差し出した。薬指のダイヤモンドが光を反射する。「奇遇ですね。はじめまして、私は林雅(はやし みやび)。逸生の婚約者です。今回北東部へは、神山(しんざん)でウェディングフォトを撮るために行くんです」神山。その名前が、鋭い針のように胸に突き刺さった。二十四歳の誕生日の夜。逸生は
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第2話
私は目の奥の感情を隠して、「はい、ちょっとぶらぶらしに行こうかと」と答えた。「そうなんですか!」雅の目がぱっと輝き、彼女は親しげに逸生の腕にしがみついた。「私と逸生は那知町(なちまち)に二日ほど滞在してから、神山に行く予定です。もし急ぎじゃなければ、一緒にどう?大勢のほうが賑やかですし」その言葉が終わると同時に、逸生の視線もこちらへ向かってきた。その目は深く沈み、まるで海を隠しているみたいだった。私はまともに見返せず、慌てて首を横に振った。「すみません、それは......私にはもう時間がないので」そう言った直後、列車がトンネルに入って、灯りが一気に暗くなる。どこか懐かしい視線が私に注がれている。私は服の裾を握りしめ、指先が布に食い込みそうだった。列車がトンネルを抜け、また光が差し込むと、その視線もようやく引いていった。逸生は雅の話をうつむいて聞いていて、横顔の輪郭が陽射しに照らされてやわらかく見えた。雅はさらに彼の腕に身を寄せ、少し甘えるような口調で言った。「そちらの社長さん、ケチなんですね。休み、こんな少ししかくれないなんて」私は答えず、ただテーブルのコップを持ち上げ、水を飲むふりをした。きっと彼女は、私の「時間がない」という言葉を仕事の締め切りだと勘違いしたのだろう。それでいい。「あと四日しか生きられない魂」だなんて説明するより、ずっと簡単だ。席にはしばし静けさが降り、線路を走る列車の「ガタンゴトン」という音だけが響いていた。ふいに何か思い出したように、雅がぱっと目を輝かせ、私に視線を向けた。「笹本さんがこんなに綺麗ですし、彼氏は絶対いるでしょう?」私が顔を上げた時、ちょうど逸生の視線とぶつかった。胸がぎゅっと縮んだようになりながらも、私は小さく首を振った。「いいえ」「それならちょうどいい」雅は手を打ち鳴らした。「私、優秀な男性をたくさん知ってるから、今度紹介しますね!」「やめた方がいい」突然、逸生が口を開いた。私を見ながら、口元には淡い笑みを浮かべつつ、その目の奥には皮肉が滲んでいた。「笹本さんは、とても理想が高いんだ。雅が紹介した程度の相手じゃ、きっと眼中に入らないだろう」雅は一瞬驚き、その後不満そうに彼を押した。「逸生、そ
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第3話
「笹本さん、そんな言い方しちゃだめですよ。人を愛するっていうのは、その人の全部を受け入れることなんです」彼女は少し間を置き、どこか誇らしげでもあり、感慨深げでもあった。「私と逸生が出会った頃なんて、彼の仕事はようやく芽が出始めたくらいで、住んでいた部屋なんて今のこの個室より狭かったんです。でも私はただ彼がいいと思ったから、一緒に歩いてきて、こうして彼が成功するまで支えてきた。そういえば、逸生にも昔恋人がいましたけど、貧乏だからって逃げちゃったって。もし今の彼を見たら、あの人、後悔するかな」膝の上に置いていた手が、思わず大きく震えた。後悔?三年間、雨漏りする地下の部屋で暮らしたことを?一つのパンを二人で分けて食べたことを?自分の心臓を逸生に渡し、彼の世界を去ったことを?胸の奥から酸っぱさがこみ上げてくる。私は目を伏せ、かすかな声でつぶやいた。「......そうかもしれませんね」言い終えた途端、乾いた冷笑が響いた。気づけば逸生が横を向き、その口元の嘲りはますます深くなっていた。奇妙な沈黙が降りた。どれくらい経ったのか、車内の空気がひんやりしてきた気がする。雅は手をこすり合わせて言った。「寒くない?逸生、カーテン開けて、日を浴びましょうよ」私は心臓をぎゅっと掴まれたように緊張した。閻魔に言われた。魂の体は長く日を浴びられない。消散が早まるから。慌てて立ち上がる。「大丈夫です。私、ブランケットをもらってきますから」逸生の声は氷のように冷たかった。「聞こえなかったのか?僕の婚約者は日を浴びたいと言ってるんだ」シャッと音を立てて、彼はカーテンを勢いよく引き開けた。真昼の陽光が遮るものなく流れ込み、鋭く私の身体を照らしつける。肌にチリチリとした痛みが走る。私は陰に身を寄せ、ようやく不快感を抑え込んだ。それを見た逸生が、鼻で笑った。「太陽にすら耐えられなくなる程、いい暮らしをしてたんだな」その皮肉を聞き取りながら、私は黙ったまま何も言わなかった。何を言える?太陽が怖いのは、もう生きている人間じゃないからだと?病院のベッドにいる自分がもうすぐ息を引き取るのだと?逸生にとって私は、永遠に「金持ちじゃないと嫌」「わがままで薄情」な笹本
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第4話
窓の外を流れる夜の景色を見つめながら、胸の奥にびっしりと痛みが広がっていった。一生。彼らにとっての一生は、果てが見えないほど長い。でも私にとっては、夜が明ければ残りわずか四日しかない。歯を噛みしめ、身を翻して寝台へ。隣からカサカサと音がして、雅が逸生と昔のアルバムをめくっていた。雅の声は、まるでハチミツを溶かしたように甘い。「見て、これ、南フランチに行ったときの写真。ラベンダーの花言葉は『愛を待つこと』だって言ったよね。ついに私にめぐり会えたんだもの。それにこの一枚。アジーランドでオーロラを見たとき。震えながらも『寒くない』って強がってたっけ......」かつて私と逸生が指切りで約束した場所を、彼は雅と一緒にすべて巡っていた。涙が頬を伝い、枕を濡らす。布団を強く握りしめ、天井を見つめた。悲しむべきじゃない。逸生が平穏で幸せなら、それが私の望みだったはずだ。時が過ぎ、やがて声は小さくなっていく。残るのは鉄道を轟々と走る車輪の響きと、衣擦れの細やかな音。雅の声が甘く濡れて、熱を帯びていく。「逸生......キスして」狭い個室に、絡みつくような吐息が広がった。私は背を向け、布団に身を埋めた。翌日の昼、列車は終点駅に到着した。雅は逸生の腕に絡みつき、通路で振り返りながら言った。「笹本さん、本当に一緒に行かないのですか?それか住所を教えてください。私と逸生の結婚式には、招待状を送らせてください。笹本さんも祝福してくれたら嬉しいです」私は傘を差し、首を横に振った。「結構です。お二人には末永くお幸せに」逸生の表情が、一瞬で曇った。私は視線を逸らす。分かっている。私はその時まで生きられない。計算すれば、あと三十分。三十分後には、病院のベッドに横たわる「私」が血圧の急降下で救急室に運び込まれ、昏睡に陥り、二度と目を覚まさなくなる。意識が途切れる直前、「私」が思い出すのは、逸生と地下の狭い部屋で肩を寄せ合った日々。「千遥、あそこの神山は神の山で、愛し合う二人を一生守ってくれるんだって。三十歳になったら、あそこで結婚しよう?」あと四日。ちょうど三十歳の誕生日だった。けれど「私」は、もう辿り着けない。どうしても逸生の声が聞きたかった。たとえ
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第5話
受話器から聞こえてきた懐かしい声が、不意に逸生の耳を突き抜けた。彼は思わず顔を上げてこちらを見た。瞳に浮かんでいた嘲りが、一瞬にして驚愕へと変わる。「君は......」喉仏が激しく上下し、ようやく半分ほど言葉を吐き出したところで、受話器の中に突然ブーンという雑音が鳴り響き、すぐにツーという断続音にかき消された。逸生の呼吸が一気に荒くなり、親指が反射的に画面の再ダイヤルを狂ったように叩く。だが、その番号はまるで深海へ沈んだように、受話器からは無限の話し中音しか返ってこない。雅はその様子に驚いて、彼の腕に手を伸ばした。「逸生、どうしたの?何かあった?」逸生はまるで気づかないかのように、視線を私に釘付けにしたまま動かない。「さっきの声......君も聞こえたよな?」私は傘の柄を握る手に思わず力を込めた。聞こえないはずがなかった。あれは、死に際に病院の公衆電話から彼にかけた「私」の声。本来なら、もう交わるはずのない「私」の声。私は無理やり視線を逸らし、風に吹かれたら消えてしまいそうなほど小さな声で言った。「よく聞き取れなかったし、ただの間違い電話かも......」「間違い?」逸生の眉間がさらに深く寄る。「間違い電話で『神山』なんて言うか?間違い電話で『出るな』なんて言うか?千遥、最初からこういう電話があるって知ってたんだろ?」陽射しが急に刺すように強くなり、目の前が暗転していく。これ以上引き延ばせば、私の魂は逸生の目の前で風に散ってしまうだろう。私は日傘を傾けて光を遮り、背を向けた。「知らないって言ってるでしょ。もうここでお別れよ」タクシーに乗り込んだとき、バックミラー越しに後ろを見た。雅が逸生の腕を掴んで何か話している。けれど彼は地面に釘付けにされたように動かず、視線は車の流れを越えて、私の去っていく方向にまっすぐ注がれていた。車は走り出し、さらに遠くへと向かっていく。逸生、今度こそ本当にさようなら。......神山の麓に着いた頃には、すでに夕暮れが近づいていた。夕陽が雪を金赤色に染め、数頭の牛が尾を振りながら川辺で水を飲んでいる。私は御札や絵馬が吊るされた小さな宿に泊まることにした。女将は気さくな人で、熱い番茶を差し出しながら笑った。「
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第6話
彼女の声色には少し拗ねたような響きがあったが、視線はさりげなく私の顔をかすめていった。「笹本さんも神山にいらっしゃるなんて。早く言ってくれば、一緒に行けたのに」その言葉に潜む棘を私は聞き逃さなかった。きっと彼女は、あの夜以来、私と逸生の間にあるものを察していたのだろう。化粧水を塗る仕草や、アルバムをめくる親密な様子も、すべて私に見せつけるためだったのかもしれない。私は小さく息を吐いた。「お二人の邪魔はしたくないので」雅の目がぱっと輝き、何かを思い出したように口を開いた。「笹本さんは昔、ファッションデザイナーだったとお聞きします」胸が一瞬詰まる。二十五の頃、私は地下の作業場でウェディングドレスのデザインを描いていた。生成りのレースに、襟元には神山の高山植物――ハクサンコザクラの刺繍をあしらって。「ハクサンコザクラを身にまとって結婚したら、きっと幸せになれるよ」そう願ったのに、運命は皮肉だった。やがて彼は手術台に横たわり、私はデザイン画を引き出しにしまったまま、二度と開かなかった。伏せた視線の奥に滲む苦さを隠し、私は答えた。「まあね。もう昔のことですが」雅は私の手首を掴み、爪先でわざとらしく軽く押し込んだ。「ちょうどドレスのデザインで悩んでいました。見てくれません?逸生が、笹本さんのセンスがいいって」私は思わず手を引こうとしたが、その瞬間、逸生の声が横から落ちた。「報酬なら心配ない」彼は財布から札束を抜き取り、私の前に差し出した。「コンサル料ぐらい払える」雅が「やだ」と声を上げて彼を軽く押す。「逸生、笹本さんはそんなつもりじゃないのよ」私は札束を見つめ、ふいに昔を思い出した。逸生が初めての給料で、屋台の片隅で銀メッキの指輪を買ってくれた日のこと。「いつかもっと稼げるようになったら、ダイヤの指輪を買うよ」今なら彼には無数のダイヤを買う余裕がある。けれど、それはもう私のものではない。私は静かに雅の手を外し、冷静な声で言った。「わかりました。でもお金はいりません」逸生の眉間にしわが寄る。予想外の答えに、わずかに動揺したのかもしれない。雅は嬉しそうに笑い、バッグからタブレットを取り出した。「これを。このマーメイドラインが素敵だと思ってるけど
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第7話
彼は冷ややかに笑い、声には嘲りと説明のつかない感情が混じっていた。「この何年も......ずっとそうやって自分を放ってきたのか」私は答えなかった。もう生きている人間ではない。どんな寒さも、私には届かないのだから。やがて空が暗くなり、宿の灯りが一つひとつ点いていった。明日は五日目。あの閻魔が告げた「時限」が来る。部屋を出て、庭の石の腰掛けに座る。神山の夜空は押し寄せるほど低く、星々は視線を受け止めるほど濃く散らばっていた。この圧倒的な美しさも、今夜限り。もう二度と目にすることはできない。背後から足音。逸生が廊下に立ったが、近寄ってはこなかった。半ばの月光を隔て、私たちはただ黙って向かい合った。「逸生」私が口を開いた。ため息のように細い声で。「もう一度言わせて......結婚おめでとう、末永くお幸せに」「末永くお幸せに」が舌の上を転がるたび、苦みが走った。私と彼が辿り着けなかった結末を、そのまま彼らに渡そう。逸生の身体が大きく震え、月明かりが顔に落ち、緊張で固まった顎の線が浮かび上がった。突然、彼は笑い、私を見る目には軽蔑が滲んでいた。「この偽善者。吐き気がするよ」彼は踵を返し、革靴が石畳を打つ音が、静まり返った夜に鮮明に響いた。私は石の腰掛けに一晩中座り続け、夜が明ける頃には立ち上がる力も残っていなかった。時計は10時13分を指していた。あと5分で、病院の「私」の呼吸は止まる。医師が呼吸用マスクを外し、白布を掛け、「笹本千遥の死亡時刻」を宣告する。同時に私も、その声とともに風へと完全に溶けていくだろう。少し離れた広場では、雅が化粧を終えていた。赤い髪飾りが彼女の顔立ちをいっそう引き立てている。彼女は裾を持ち上げ、ゆっくりとスーツ姿の逸生へ歩み寄った。私は微笑んだ。彼のタキシード姿、彼女のウェディングドレス。背後には神山、証人は風にはためく祈願札。この人生、もう悔いはない。ゴォーン。遠くの寺院の鐘が鳴り響く。重く、長く。時計の針が10時18分を刻んだ。体がふっと軽くなり、風に持ち上げられるようだった。見下ろすと、手足が光の粒となって神山へと流れていく。最後の一瞥を逸生に向ける。彼は何かを感じ取った
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第8話
彼の声は冷静さを崩さなかった。「笹本千遥さんは五日前に委託契約書に署名され、ご自身の葬儀や後事の一切を病院に任せるとされました。明日の午前十時、斎場にて遺体のお別れ会を執り行います」通話が切れた時も、逸生はまだスマホを持ち上げたまま固まっていた。「逸生、どうしたの?」雅が慌てた声で問いかけ、手を伸ばそうとした瞬間、彼は乱暴に振り払った。「千遥はどこだ!」彼は雅の腕を掴み、骨が砕けそうなほど強く握り込んだ。「雅も見ただろ!彼女はさっきまでここにいたって!」怯えた雅は、思わず首を振る。「み、見てないよ......ずっと宿にいたんじゃないの?」言い終える前に、逸生は狂ったように宿へ駆け戻った。部屋の扉を乱暴に開け放ち、叫ぶ。「笹本千遥!出てこい!ここにいるのを知ってるんだ!」広い部屋の中は、誰もいなかった。彼は雪かきをしていた女将に飛びついた。「女将、数日前にここに泊まってた女性は?薄い色のコートを着た、痩せてる子だ!」女将は驚いて目を丸くする。「女性?いえ、この数日泊まられたのは、お客様とその彼女さんだけですよ」「嘘だ!」逸生は喉を裂くように叫んだ。「確かにここにいたんだ!接客しただろう!」女将の表情には作り物めいた影はなかった。彼の胸に重いものが沈み込む。もう時間がない。寒くないから。もう一度言わせて......結婚おめでとう、末永くお幸せに。まさか......まさか......逸生は宿を飛び出し、道端で必死に手を振った。タクシーが停まると同時に、彼は扉を開けて乗り込もうとする。「逸生、どこへ行くの?」追いすがる雅の目には涙が滲んでいた。逸生は振り向かない。「笹本さんを探しに行くんでしょ?」雅の声が一気に高くなる。「彼女は昔逸生を捨てた元カノよね?五年も経ってるのに、まだ忘れられないっていうの?!」タクシーのクラクションが苛立たしく鳴った。雅は彼の手首を掴み、目を真っ赤にして叫ぶ。「今行ったら、私たちは終わりよ!それでも行くの!?」逸生はようやく振り返り、彼女の赤く腫れた瞳を見つめる。喉仏が激しく上下し、長い沈黙のあと、かすかに三文字だけ吐き出した。「......ごめん」扉が乱暴に閉まり、タクシーは砂煙を上
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第9話
逸生は力が抜けたように、その場に座り込んだ。入院当初から千遥を看てくれていた看護師が一枚の紙を差し出す。そこでようやく、彼は自分が涙で顔を濡らしていることに気づいた。「ご愁傷さまです」「彼女は......どうして亡くなったんですか?」看護師の声はとても静かだった。「笹本さんは五年前に心臓提供の手術を受けて、その後は人工心臓で命をつないでいました。今回は急性の拒絶反応で......感染があまりにも重くて......」逸生は完全に固まり、呆然と看護師を見た。「心臓提供?誰に......?」「瀧澤逸生さん、という方に」ドーン。胸の奥で爆発のような轟音が響いた。逸生は胸を押さえ、心臓が狂ったように脈打つのを感じた。この心臓。自分を生き返らせたこの心臓は、もともと彼女のものだった。あの日「偽善者」と罵り、五年間も誤解し続けた相手は、すでに自分の半分の命を差し出していたのだ。窓から差し込む光が彼の蒼白な顔を照らした。逸生は口を開いたが、名前を呼ぶ代わりに、獣の呻きのような声しか漏れなかった。「千遥......」遺骨を引き取った日は、小雨が降っていた。彼は小さな木箱を抱きしめ、指先で表面に刻まれたハクサンコザクラの彫刻を何度もなぞった。殯館の入口で、雅が目を赤くして待っていた。「そこまで、彼女が大事?」逸生は振り返らず、会社譲渡の書類を差し出した。半分の財産が雅の名義に移されていた。「ごめん」この言葉を、彼は二人に対して負っていた。一人は千遥。もう一人は目の前の彼女。雅は書類を受け取り、雨の中、骨壺を抱えて去っていく彼の背中を見て、涙を流しながら笑った。「もう、抜け出せないのね」彼は振り返らなかった。再び神山に戻った時には、もう深秋だった。山裾の宿を買い取り、かつて千遥が泊まったその場所に住み始めた。宿の裏庭にある松の木の根元――神山を向いたその場所に、千遥を葬った。時折、山腹の寺に参り、祈りを捧げた。住持に「心に乱れがある」と言われても、彼はただ微笑むだけだった。雪は降っては溶け、店の看板は色褪せては掛け替えられる。そうして日々は静かに流れていった。ある夕暮れ、寺を後にしようとしたとき、一枚の祈願札が風に煽られ、足元に落
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