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息子の願いは、私を替えることだった
息子の願いは、私を替えることだった
Author: 花木 ひなた

第1話

Author: 花木 ひなた
息子が突然、白血病だと告げた。一番の願いは、杏奈お姉ちゃんが一度でいいからウェディングドレスを着る姿を見ることだ、と。

夫もそれに同調した。「杏奈と一度、形だけの結婚をする。息子の治療が落ち着いたら、また君と籍を戻すから」

私はその申し出を受け入れ、夫と離婚した。

市役所を出ると、私・結城沙織(ゆうき さおり)と榊原彰人(さかきばら あきと)との婚姻関係は、法的に終わりを告げた。

私たちの離婚届受理証明書を手に、息子榊原陽翔(さかきばら はると)と橘杏奈(たちばな あんな)は興奮した様子だった。

息子は物珍しそうにその書類を覗き込んだ。「やった、杏奈お姉ちゃん、これでやっとパパと結ばれるね」

そう言った後で、まずいと思ったのか、はっと口を押さえて私の顔を窺った。

その様子を見て、彰人が私の手を握り、なだめるように言った。「君は永遠に俺の妻だよ。それは変わらない」

杏奈は瞳を潤ませ、申し訳なさそうに言った。

「辛い思いをさせてごめんなさいね、沙織。

私の願いを叶えるために、あなたたちにこんな面倒をかけるなんて」

私は何も答えなかった。

私の慰めの言葉がなかったからか、彼女はぽろぽろと涙をこぼし始めた。

そして、私と彰人の腕を掴み、今にも市役所に引き返そうとする。

「沙織が怒ってるわ。彰人、早く籍を戻して。私のせいで家庭がめちゃくちゃになるなんて……」

彰人と息子は、慌てて杏奈を囲んで慰め始めた。

息子が私の腕を掴み、杏奈の前に引きずった。あまりに強い力で、私はよろけて倒れそうになる。

「ママ、早く杏奈お姉ちゃんに謝って。『喜んで離婚した』って言ってよ」

私は強く握られて痛む手首をさすりながら、彼に尋ねた。

「これで、安心して治療を受ける気になった?」

彼は顔から血の気が引き、こくりと頷いた。

私はそれ以上何も言わず、背を向けて道端でタクシーを拾った。

息子が私を引き留める。

「ママ、僕のこと、怒ってる?

僕はただ、ずっとパパを待ってる杏奈お姉ちゃんが可哀想で、二人を一緒にしてあげたかっただけなんだ」

私は答えず、ただ彼のジャケットの襟を直してやった。

「寒くなるから、体に気をつけて」そう言って、車に乗り込んだ。

乗り込む時、彰人が「沙織、一緒に帰ろう」と叫ぶ声が、微かに聞こえた。

私は彰人の声ごと、車の外に閉じ込めるように、力いっぱいドアを閉めた。

家?彼らの計画を知ったあの日から、私に家なんてもうなかった。

静かで狭い車内が、少しだけ私に安心感をくれた。私が行き先を告げてから、前の運転手はそれ以上何も言わず、静かに車を走らせた。

抑えていた感情が、一気に逆流してきた。堪えても堪えても、涙が頬を伝って落ちた。

記憶が、あの日に引き戻される。

息子に彰人との離婚を承諾すると、彼はようやく安心して治療を受ける気になった。

私は息子の体を気遣い、栄養食を作って病院へ向かった。

病室のドアの前まで来た時、息子の嘲るような声が聞こえてきた。

「あのバカなママ、ちょろいよな。病気だって言ったら、何でも言うこと聞くんだから」

私は呆然とした。私の前ではいつも素直で可愛かった息子が、どうしてこんな言葉を。立ち尽くしていると、別の声が響いた。

「陽翔くんのおかげよ。じゃなかったら、お姉ちゃんの長年の願いは、いつ叶ったか分からないもの」

夫の幼馴染、杏奈だった。

陽翔が慰めるように言う。

「杏奈お姉ちゃん、そんなこと言わないでよ。小さい頃から僕のこと見ててくれたし、パパのそばにずっといてくれたじゃない。これくらい、当然だよ」

彰人が言った。「結婚したら、家族三人で盛大にお祝いだな」

「もちろん……」

ドアの内側は、和やかな笑い声に満ちていた。

ドアの外の私は、手で口をしっかり押さえて、胸に突き刺さる衝撃と痛みを押し殺して、病院を後にした。

丹精込めて作った栄養食を、私はトイレに流した。水面に浮かぶ油のしずくを見ていると、息子と夫の言葉が蘇り、強烈な吐き気がこみ上げてくる。

私は便器に抱きつき、天地がひっくり返るほど吐き続けた。なのに、涙は一滴も流れなかった。

息子が病気だと分かってから、私は会社と病院を往復する毎日だった。治療費のために、周りの全ての人に頭を下げてお金を借りた。

彼が安心して治療に専念できるように、杏奈が可哀想だから離婚してあげて、という無茶な願いさえ、私は聞き入れた。

それなのに、すべてが、周到に計画された罠だったなんて。

携帯のバイブ音が、私を現実に引き戻した。手に取ると、親友の早乙女瑠璃(さおとめ るり)からだ。

【前に振り込んだ200万円で足りる?足りなかったらまた借りてくるから。陽翔くんのこと、お医者さんは何て?】

私は彼女に200万円を送り返した。【もう大丈夫。陽翔は病気じゃなかったから】

相手から【?】とだけ返信が来た。

すぐに、【どういうこと?】と続く。

もう文字を打つ気力もなく、私は後部座席で体を丸めた。

瑠璃からの電話が鳴った。慌てて出ると、聞こえてきたのは、なぜか聞き覚えのある男の声だ。

「今どこにいる?そっちへ行くから」

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