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02:深緑の森の主2

last update Last Updated: 2025-09-16 07:49:52

 直後、森の空気が一変した。

 近くの枝で木の実をかじっていたリスが、ピィッと甲高い警告の声を上げる。鳥たちが一斉に枝を蹴って空へと逃げていく。

 にわかに騒がしくなった森の中に、一陣の風が吹き抜けた。

(これは、血の匂い)

 風が運んできたのは、鉄錆と泥とが交じりあった生々しい血の匂いである。

(血……? この森に、これほど濃い血の匂いはそぐわないわ)

 エリアーリアの中で、疑念と警戒の意識が鎌首をもたげた。

 この森に、もちろん獣たちはいる。肉食の狼や熊が獲物を狩れば、血の匂いが漂うこともある。

 だがこの匂いは、彼女の知る森の営みから逸脱したものだった。食べるためではない、傷つけるためだけの悪意によるもの。

 エリアーリアはゆっくりと立ち上がった。深緑の瞳に宿るのは、先ほどまでの穏やかさではない。自らの領域を侵した者への、冷たい怒りの感情だった。

 彼女は迷いのない足取りで、結界が綻びた方向、血の匂いが濃い場所へと向かった。苔と土の上を歩く素足は足音を立てず、滑るように進んでいく。

 森の入口に近づくにつれて、木々はまばらになっていく。木漏れ日は陽射しとなって、エリアーリアの金の髪を弾いた。

 そしてまだ若い樫の木の根本に、それはいた。

 エリアーリアは思わず足を止めた。木の陰に身を隠して息を殺す。

 そこに倒れていたのは、一人の青年である。月の光を集めたような銀の髪は、今は泥と血に汚れて額に張り付いている。

 年頃は二十歳になるかならずか。ようやく大人になったばかりの若者だった。

(人間? なぜこんなところに)

 警戒は解かず、観察を続けた。

 青年が着ている衣服は切り裂かれて汚れていたが、生地の質感やわずかに見える金糸の刺繍は、ずいぶんと豪華なものに思えた。

 ひどく苦しそうな様子で、浅い息を繰り返している音が、静かな森の中に響いている。

 顔はやはり汚れていたが、品良く整っており、育ちの良さを窺わせた。

 エリアーリアは慎重に、一歩ずつ青年に近づいた。

 間違いない。この男はただの旅人ではない。森での暮らしが長い彼女でも分かる。こんな人間が、なぜ血まみれで魔女の森に倒れているのか。

 エリアーリアの百年の孤独と静寂に投げ込まれた、異質で危険な存在。

 面倒ごとの匂いしかしなかった。

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