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第7話

作者: 遥かなる路
階段の外から聞こえる物音を背に、私は最後に告げた。

「樹、もう終わったことなの。もう、私のことは忘れて」

樹の震える声が、ドア越しに響いた。

「いやだ、詩織。俺たちは、永遠に終わらない……」

雲市に長く滞在するつもりはなかったので、いっそのことホテルに泊まることにした。

どこで調べたのか、夕食に出かけようとドアを開けた私を待っていたかのように、樹がドアの前にうずくまっていた。

力なく顔を上げたその姿は、まるで雨に濡れた子犬のようだった。

ふと、十七歳の時のことを思い出す。樹は私と同じ大学でデザインを学びたがっていたが、彼のお父様は、どうしても彼に金融を学ばせようとした。

樹はそのことでお父さんと大喧嘩し、真冬の深夜に家を飛び出し、藤堂家の人々をひどく心配させた。

結局、私が彼を見つけたのは、二人でよく行った遊園地のベンチだった。

あの時の彼も、まるで捨てられた子犬のように、薄着のまま体を丸めていた。

私を見つけると、彼は力なく笑って言った。

「自分の進みたい道さえ決められないなんて、ダサいよな。

……笑うなよ、詩織」

私は彼を笑ったりせず、手を引いて家に連れて帰った。

あの不憫そうな目を見て、私の心が一瞬、ぐらりと揺れた。

「詩織、起きたのか。俺は……ただ、君に会いたかったんだ。安心してくれ、邪魔はしない。ただ、少しでも君のそばにいさせてほしい」

樹は唇をきつく結び、落ち着かない様子で自分の服の裾を弄っている。

私は彼を無視してエレベーターに向かったが、彼は追いかけてはこなかった。

ホテルの階下をしばらく散歩していると、ふと、私と樹が法的にはまだ離婚していないことを思い出した。

そこで、三年前にお世話になった弁護士に連絡を取り、改めて離婚届を作成してもらった。

再びホテルに戻ると、樹の姿はもうなかった。

誰もいない廊下を見て、さすがの彼も諦めたのだろうか、と少しだけ思った。

私の部屋は階段の真正面にあり、その階段の踊り場から、微かな光が漏れていた。

胸騒ぎを覚えて、私はホテルの警備員を呼んだ。

不審者かと思ったら、まさか樹だったとは。

彼は階段に座り込み、膝の上にノートパソコンを広げて仕事をしていた。

警備員の懐中電灯の光が眩しくて目を開けられずにいる彼を見て、警備員は訝しげな顔で私に尋ねる。

「お客様、ご連絡
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