LOGIN藤堂樹と結婚して六年、彼は愛人を囲っていた。 その愛人は、息をのむほど綺麗な女だった。そして、少しでも声を荒げると、怯えた子犬のように首をすくめてしまう。 だから樹は、そんな彼女を壊れ物でも扱うかのように、決して大声を出したりはしなかった。 しかし、そのか弱い女は、決して大人しくはしていなかった。ある日、彼女は私の前に現れて騒ぎ立て、事を荒げた。その結果、樹は激怒し、彼女の頬に強烈な平手打ちを見舞ったのだ。 そして翌日。彼女は、首筋を埋め尽くすおびただしいキスマークの写真を、私に送りつけてきた。 【奥さん、藤堂社長って、とっても手荒なんだから。私、怖くって】
View More樹は大きな衝撃を受けたようで、「違う」と何度も繰り返したが、その声には力がなかった。なぜなら、それらはすべて紛れもない事実であり、彼自身、反論のしようがなかったからだ。「詩織、俺が……俺が馬鹿だった。でも、俺が愛しているのは、ずっとお前だけなんだ。ただ、魔が差して、あいつに誘惑されて……」「何もかもを他人のせいにしないで、藤堂さん。あなたは聖人君子じゃない。あなた自身の弱さが、誘惑に負けたのよ。弁護士には、もう一度離婚届を作成してもらいました。期日が来たら、サインしてください。円満に、終わりましょう」そう言い終えると、私は部屋に入り、二度と彼に視線を送ることはなかった。離婚届は、翌日私の手元に届いた。しかし、樹は書類を受け取るなり、私の目の前でそれを引き裂いた。「サインなんかするか。詩織、三年でお前を取り戻せないなら構わない。俺にはまだ三十年、いや、一生分の時間があるんだ。必ず、俺が変わったところを見せてやる。だから……詩織、俺のことを見ていてくれ。なあ、俺たち、昔はあんなに仲が良かったじゃないか。一生離れないって、そう誓っただろう?」樹は目を真っ赤にし、過去の思い出に縋るように訴えた。私たちは、共に黙り込んだ。私と樹は、奇妙な堂々巡りに陥っていた。私が求めるのは離婚、彼が求めるのは復縁。私たちは、決して交わることのない二本の平行線のように、ただそれぞれのゴールに向かって進んでいた。その日、ホテルの外に樹の姿はなく、私は彼がついに諦めたのかと、安堵のため息をついた。しかし、樹のお母さんから電話があり、樹が入院したと知らされた。私が病院に駆けつけた時、樹は点滴を受けていた。彼の執拗なまでのつきまといに心底うんざりしていたせいか、この数日、彼の顔をまともに見ていなかった。今改めて見ると、彼は驚くほど痩せ、頬はこけ、目の周りには深い隈が刻まれている。一体どれだけ無理をしていたのだろう。彼は私に気づくと、安心させるように、力なく微笑んだ。「詩織、来てくれたんだな。……朝飯、食ったか?お前に届けようと思ったんだが、階段で倒れちまってさ。心配かけて、ごめん。……そうだ。お前、ずっと俺と離婚したがってたよな……サイン、したよ。離婚しよう」離婚届は新しく作成されたもので、財産分与の欄には、彼の資
階段の外から聞こえる物音を背に、私は最後に告げた。「樹、もう終わったことなの。もう、私のことは忘れて」樹の震える声が、ドア越しに響いた。「いやだ、詩織。俺たちは、永遠に終わらない……」雲市に長く滞在するつもりはなかったので、いっそのことホテルに泊まることにした。どこで調べたのか、夕食に出かけようとドアを開けた私を待っていたかのように、樹がドアの前にうずくまっていた。力なく顔を上げたその姿は、まるで雨に濡れた子犬のようだった。ふと、十七歳の時のことを思い出す。樹は私と同じ大学でデザインを学びたがっていたが、彼のお父様は、どうしても彼に金融を学ばせようとした。樹はそのことでお父さんと大喧嘩し、真冬の深夜に家を飛び出し、藤堂家の人々をひどく心配させた。結局、私が彼を見つけたのは、二人でよく行った遊園地のベンチだった。あの時の彼も、まるで捨てられた子犬のように、薄着のまま体を丸めていた。私を見つけると、彼は力なく笑って言った。「自分の進みたい道さえ決められないなんて、ダサいよな。……笑うなよ、詩織」私は彼を笑ったりせず、手を引いて家に連れて帰った。あの不憫そうな目を見て、私の心が一瞬、ぐらりと揺れた。「詩織、起きたのか。俺は……ただ、君に会いたかったんだ。安心してくれ、邪魔はしない。ただ、少しでも君のそばにいさせてほしい」樹は唇をきつく結び、落ち着かない様子で自分の服の裾を弄っている。私は彼を無視してエレベーターに向かったが、彼は追いかけてはこなかった。ホテルの階下をしばらく散歩していると、ふと、私と樹が法的にはまだ離婚していないことを思い出した。そこで、三年前にお世話になった弁護士に連絡を取り、改めて離婚届を作成してもらった。再びホテルに戻ると、樹の姿はもうなかった。誰もいない廊下を見て、さすがの彼も諦めたのだろうか、と少しだけ思った。私の部屋は階段の真正面にあり、その階段の踊り場から、微かな光が漏れていた。胸騒ぎを覚えて、私はホテルの警備員を呼んだ。不審者かと思ったら、まさか樹だったとは。彼は階段に座り込み、膝の上にノートパソコンを広げて仕事をしていた。警備員の懐中電灯の光が眩しくて目を開けられずにいる彼を見て、警備員は訝しげな顔で私に尋ねる。「お客様、ご連絡
三年後、私は研修を終えて帰国し、ある著名なデザインコンペに参加した。偶然にも、コンペの開催地は故郷の雲市だった。慣れ親しんだはずの土地に足を踏み入れた瞬間、まるで知らない場所に迷い込んだかのような、不思議な感覚に襲われた。私と樹は、この人生でもう二度と会うことはないと思っていた。それなのに、三年後の再会がこんなにも早く訪れるとは。彼は、このコンペの特別ゲストだった。私がステージに立ち、自分の作品を紹介している間、彼は客席の最前列に座っていた。その強烈な視線は、針のように私の背中に突き刺さっていた。ようやくコンペが終わり、彼を避けて足早に立ち去ろうとした瞬間、太い腕に掴まれ、人気のない階段の踊り場に引きずり込まれた。間髪入れず、大きな影が覆いかぶさってくる。樹は両手を壁につき、私を彼と壁の間に閉じ込めた。いわゆる「壁ドン」の体勢だ。彼の目は赤く充血し、頬の筋肉が微かに震えている。絞り出すような、しゃがれた声が響いた。「……詩織。よくも、俺の前に戻ってこられたな。三年だぞ。この三年間、俺がお前をどれだけ探し回ったと思ってるんだ。心がないのか、お前は。一度も連絡をよこさないなんて……俺が、どれだけお前を……」そう言うと、彼は私の首筋に顔を埋め、子供のように嗚咽を漏らし始めた。「詩織、すまない。俺が、俺が本当に悪かった。……三年間、お前がいない時間は、長すぎた……」彼の両腕は私の腰に固く回され、まるで私が一瞬で消えてしまうのを恐れているかのようだった。今の彼の姿は、三年前、茉莉が私の前に現れて騒ぎ立てた日のことを、否応なく思い出させる。あの時も、彼はこうして私をきつく抱きしめ、泣きながら自分が間違っていたと言い、二度と過ちを繰り返さないと膝まずいて誓った。しかし、結果はどうだった? 彼は結局、茉莉を諦めきれなかったではないか。三年。彼の子供は、今頃もう二歳になっているのだろう。私は樹を押し返そうとしたが、抵抗する気力さえ湧いてこなかった。しばらくして、私は静かにため息をついた。「藤堂さん、放して」「いやだ」彼は泣きじゃくりながら首を横に振る。「放さない。詩織、もう二度とお前を放さない。あのクルーズ船の夜のような過ちを、二度と繰り返させないでくれ」私は目を閉じた。三年前の激しい
その言葉が終わるや否や、茉莉はつま先立ちになり、樹にキスをしようと顔を寄せた。樹の眼差しは氷のように冷たい。彼は自分の首に回された彼女の腕を乱暴に引き剥がすと、薄い唇をわずかに開いた。「……詩織に会いに行ったのか?」茉莉の体が凍りつき、その目の底に動揺が走った。しかし、ここで認めるわけにはいかない。もし樹に詩織を挑発したと知られたら、彼は決して自分を許さないだろう。あの平手打ちがどれほど痛かったか、今でも鮮明に思い出せる。あの夜、樹は本来、彼女と別れるはずだった。だが、彼女が泣き落としにかけ、あまつさえ薬まで使って樹を誘惑しなければ、こんなことにはならなかったのだ。だから、絶対に認めてはならない。「いいえ、樹さん……私のことを疑うの?あの日のあなたの警告を、私が忘れるはずないわ。どうしてまた奥さん会いに行ったりするの? 本当に、会いに行ってない。誓うわ」女の芝居がかった仕草を見て、樹は吐き気にも似た感情を覚えた。一体なぜ、自分は茉莉が詩織に似ているなどと思ったのだろうか。似ていない。全く、似ていない。詩織はこんなにあざとくないし、ましてや男に薬を盛るような卑劣な真似は絶対にしない。詩織が月ならば、茉莉はすっぽんだ。比べることさえおこがましい。樹の中で、茉莉に対する最後の甘い幻想も、未練も、完全に消え失せた。「樹さん、私を信じて。本当に、本当に奥様には会ってないから……」茉莉が涙ながらに訴えた、次の瞬間。樹の顔から表情が消え、強烈な平手打ちが彼女の頬を打った。「このクソアマが!まだ俺を騙すつもりか!俺の目が節穴だとでも思ったのか!詩織を挑発し、あまつさえ藤堂夫人の座を狙うだと?言っておくが、藤堂夫人の座は詩織だけのものだ。俺の妻にふさわしいのは、生涯、彼女ただ一人だ!お前ごときが、何様のつもりだ。ただの売女の分際で、偉そうにする資格がどこにある! 詩織を……俺の詩織を返せ!」樹は怒りのままに茉莉を蹴りつけた。その目は憎悪に血走り、もはや正気ではなかった。もしこの女が、甘やかされた末に増長し、詩織に会いに行きさえしなければ。詩織が自分の裏切りを知ることも、泣いて病院に運ばれることも、そして、絶望して自分の元から去っていくこともなかった。すべて、この北川茉莉という女のせいだ。茉