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愛、終わりて悔いなし

愛、終わりて悔いなし

By:  遥かなる路Completed
Language: Japanese
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藤堂樹と結婚して六年、彼は愛人を囲っていた。 その愛人は、息をのむほど綺麗な女だった。そして、少しでも声を荒げると、怯えた子犬のように首をすくめてしまう。 だから樹は、そんな彼女を壊れ物でも扱うかのように、決して大声を出したりはしなかった。 しかし、そのか弱い女は、決して大人しくはしていなかった。ある日、彼女は私の前に現れて騒ぎ立て、事を荒げた。その結果、樹は激怒し、彼女の頬に強烈な平手打ちを見舞ったのだ。 そして翌日。彼女は、首筋を埋め尽くすおびただしいキスマークの写真を、私に送りつけてきた。 【奥さん、藤堂社長って、とっても手荒なんだから。私、怖くって】

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Chapter 1

第1話

写真に写る、首筋を埋め尽くすほどのキスマークを、私――桜井詩織(さくらい しおり)は、ただ黙って見つめていた。

昨日、北川茉莉(きたがわ まり)と名乗る女が訪ねてきた。

「私は樹さんの恋人です。どうか、二人の関係から身を引いてちょうだい」

その言葉で私の頭は真っ白になり、すぐに夫――藤堂樹(とうどう いつき)が浮気をしたのだと理解した。

女は少し顎を上げ、その目を爛々と輝かせている。甘やかされて育ったことが透けて見えるような、図々しい雰囲気をまとっていた。

私が衝撃から立ち直れずにいると、女はあろうことか、私に温かいコーヒーを浴びせかけた。

「ねえ、聞いてるの?樹さんと離婚して。私が、彼と結婚するの」

茶色い液体が、買ったばかりの白いワンピースに無残な染みを作る。濡れた顔が、自分のことながらみすぼらしく思えた。

女はそれでも飽き足らないのか、周囲のひそひそ声も好奇の視線もものともせず、勝ち誇ったように自分のお腹を撫でた。

「私、妊娠しているの。この子をきちんと認知してもらうために、こうしてあなたの前に現れたのよ。

あなたと樹が幼馴染で、結婚して六年になることも知っているわ。でも、二人が一緒にいた時間はもう十分でしょう。樹はもうあなたを愛していない。あるのは情だけ。

あなたも現実を見て、自分から彼の元を去ることね。そうすれば、彼も慰謝料くらいは弾んでくれるかもしれないわ。

さもなければ、彼に追い出されることになるんだから、恨まないでよ」

樹が、私を追い出す? 私は思わず、ふっと笑みを漏らした。

女は私を指さして罵る。

「何がおかしいのよ、気でも狂ったんじゃないの?」

私は彼女の顔をまっすぐに見つめた。陶器の人形のように整った清純な顔立ちをしているけれど、その実、頭は空っぽなのだろう。

私は彼女に微笑みかけた。

「お嬢さん。あなたがここに来たこと、樹は知っているのかしら?」

女は顔を真っ赤にして、私を指さし、口汚く罵り続けた。

私は首をかしげ、彼女の背後から大股で歩いてくる樹の姿を捉えた。

樹は険しい表情で女の腕を掴むと、その頬に強烈な平手打ちを見舞った。

女の顔はみるみる赤く腫れ上がり、口の端から一筋の血が伝う。

茉莉は目に涙を浮かべ、信じられないといった様子で、か弱く樹を見つめた。

「樹さん……わ、私を叩いたの……?」

彼女がか弱い花のように泣きじゃくるも、樹は表情一つ変えず、氷のような眼差しで冷たく言い放った。

「消えろ」

女は悔しさを滲ませながら、顔を覆って走り去った。

彼女が去った後、樹は心配そうにティッシュを取り出し、片膝をついて、私の顔のコーヒーの染みを優しく拭ってくれる。

「詩織、大丈夫か?あいつの言うことなんて気にするな。何の関係もない、でたらめだ」

私はうつむき、彼の瞳をまっすぐに見つめ返した。底知れないほど深いその瞳からは、微かな罪悪感すら読み取れない。

目頭が熱くなり、私はそっと彼の頬に手を伸ばした。

「樹、教えて。彼女は、誰なの?」

樹の唇が微かに震え、目尻が潤む。

彼が答えようとしないので、私はなおも問い詰めた。自分の顔が熱くなり、呼吸が荒くなるのを感じながら。すると彼は我を失い、慌てて言葉を重ねた。

「ごめん、ごめん詩織。俺が悪かった。殴ってくれても、罵ってくれてもいい。どんな罰でも受けるから。だから、頼むから泣かないでくれ。君は、泣いちゃいけないんだ」

彼も、私が泣いてはいけないことを覚えていてくれた。

私は自嘲気味に笑うと、心臓に鋭い痛みが走った。

樹はひどく狼狽し、何度も信号を無視して、病院まで車を飛ばした。

彼が半狂乱で医者を呼ぶ姿、その目に浮かぶ恐怖の色を見ていると、ふと昔のことを思い出した。

私が五歳の時、一度誘拐されたことがある。

犯人は私の喉にナイフを突きつけ、父に身代金を要求した。

あの時の私はひどく怯え、息もできないほど泣きじゃくり、助け出された後は一時期、失語症に陥った。​​

その間、樹は毎日私に会いに来ては、隣で遊んでくれた。彼は細心の注意を払って私に寄り添い、面白い話をしてくれる。私が何の反応も示さなくても、彼は気にもしなかった。

ある時、彼がクラスメイトと喧嘩をした。相手は太った子で、樹の上にのしかかり、彼は窒息しそうになった。

私はとっさに声を上げ、先生を呼んだ。それがきっかけで、私は少しずつ話せるようになった。

樹は私以上に喜び、私にもっと話させようと、それから毎日その太った子にちょっかいを出しに行った。

後になって知ったが、樹が喧嘩をしたのは、その太った子が私のことを「おし」と呼んだからだった。

樹は誰にも私をいじめさせなかったし、「おし」と呼ぶことさえ許さなかったのだ。

その後、言葉は取り戻せたものの、泣くと呼吸が苦しくなり、ひどい時には窒息しそうになるという後遺症だけが残った。

それから、樹は私をいっそう大切にしてくれるようになり、「俺は絶対に詩織を泣かせない。ずっと笑顔でいさせてみせる」と言ってくれた。

それなのに今、私は彼のせいで、救急救命室で手当てを受けている。
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