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その日、アイスランドでは雪が降っていた。俺はちょうどオーロラのタイムラプス撮影を終えたところで、指先はすっかりかじかんでいた。耳に当てたスマホの向こうから、ひどく掠れた彼女の声が聞こえてくる。「泰介、今更何を言っても遅いってわかってる。でも、本当に後悔してるの。毎日ずっと考えてる。もしあの日のパーティーで、私があなたのことを『聞き分けがいいだけ』なんて言わなかったら……もしあの時、すぐに追いかけていたら……もしフォトスペースをなくしてなかったら……もしもっと早く、あなたの辛さに気づけていたら……」言い終える頃には、彼女の声は、もう途切れ途切れになっていた。「私たち、今日のような関係にはならなかったんじゃないかな」俺は遠く広がる白い雪原を見つめながら、静かに答えた。「永梨。『もしも』の話なんて、もう意味がないんだ」電話の向こう側が、しんと静まり返る。俺は淡々と続けた。「お前が俺を傷つけたのは、決して一度きりじゃない。何度も、何度もだ。俺だって、ある日突然、気持ちが冷めたわけじゃない。何度も失望を重ねて、とうとう気持ちが尽きただけだ。だから今、お前がどれだけ後悔していたとしても、それはお前自身が抱えるべき問題だ。もう、俺には何の関係もないんだ」永梨が声を詰まらせ、すがるように俺の名前を呼ぶ。「泰介……」俺は無言のまま、通話を切った。それからというもの、彼女からの直接の連絡はぱったりと途絶えた。たまに、共通の友人を通じて近況を耳にするくらいだ。彼女は多くの付き合いや会食を断るようになったらしい。洋司とは二度と連絡を取っていないという。実家が用意した見合いの話も、すべてきっぱりと断ったそうだ。彼女はようやく、かつて俺が心から期待していたような人間になったようだった。誰に対しても潔く、節度があり、他人との境界線をきちんとわきまえている。けれど、今さらそんな永梨を、俺はもう求めていなかった。1年後、俺の撮ったドキュメンタリーが映像賞を受賞した。授賞式はレイキャビクのホールで開かれた。壇上でカメラが俺を映し出した時、俺は仕立てのいい白いスーツを着ていた。「アイスランドに感謝します。この風と雪のおかげで、俺はもう一度、自分自身を知ることができま
その後、洋司の評判はSNS上で完全に地に落ちた。発端は、あのパーティーの夜の動画が出回ったことだった。永梨が彼の長所を10個、すらすらと挙げたこと。永梨が最も多くLINEでやり取りしていた相手が、洋司だったこと。永梨が俺たちの結婚式を、少しずつ彼の好みに塗り替えていたこと。ひとつひとつを切り離して見れば、単なる「仲のいい友人関係」で片付けられたかもしれない。だが、それらをすべて繋ぎ合わせてみると、誰の目にも、明らかに不快な関係として映った。グループチャットでは、容赦のない皮肉めいたコメントが飛び交い始めた。【そんなに仲がよかったのに、なんで親友を裏切って彼女を奪おうとしてるの?】【もう結婚するってとこまで来て誓いの言葉まで手伝うとか、普通に距離感おかしすぎ】【どこが親友なんだよ。これ、本人の目の前で堂々と一線を越えにいってるだろ】すぐに、過去の出来事まで次々と掘り返されるようになった。俺の誕生日の夜、永梨は会社の急用で夕食に付き合えないと言っていた。けれどその同じ時間に、洋司が、女性の手が半分だけ写った写真を投稿していた。その女性の手首につけられていた腕時計は、間違いなく俺が永梨へ贈った誕生日プレゼントだった。俺の胃の持病が悪化したあの夜、永梨は「もう遅いから」と、俺ひとりでタクシーを呼んで病院へ行かせた。けれどその夜、彼女が洋司と一緒にバーの前で運転代行を待っている写真を、別の誰かが撮ってSNSに上げていた。そこには、洋司が彼女の肩を抱き寄せ、ふたりで楽しそうに笑う姿が写っていた。それから、俺がタキシードを試着した日。永梨は3時間も遅刻してきた。「渋滞だった」と彼女は言い訳をした。だが後になって判明したのは、彼女が洋司の仕事用の宣材写真の撮影に付きっきりになっていたという事実だった。友人から送られてきたスクリーンショットの数々を眺めていると、俺の胃の奥から、吐き気が込み上げてきた。ふと、何年も前、洋司と知り合ったばかりの学生の頃を思い出した。彼が雨に濡れて熱を出した時、俺が背負って保健室まで運んだこと。彼が失恋して夜中まで酒を飲んだ時、俺が一緒にグラウンドに座り込み、冷たい夜風に当たってやったこと。あの時、彼は笑って言っていた。「泰介、お前が結婚する時は、俺が絶
俺がそう言い放った瞬間、永梨は突然その場に跪き、冷たい雪の上に膝をついた。膝が雪の上に打ちつけられ、鈍い音が響いた。「泰介、私が悪かった。もう二度と洋司には会わない。洋司とのLINEのトーク履歴も、全部消すから。結婚式だってやり直す。何でもあなたの言う通りにする。だから、お願い、戻ってきて……」遠巻きに様子を窺っていた同僚たちが歩み寄ろうとするのを、俺は首を振って制した。目の前で雪の上に跪く永梨を見下ろしても、胸の奥に憎しみは湧いてこない。痛みすらない。ただ、すべてが終わった後の、凪いだような静けさだけが広がっていた。「永梨……俺が欲しかったものを、お前はこれまで一度も与えることができなかった。今はもう欲しくない。だから、お前ももう与えなくていい」彼女が弾かれたように顔を上げる。その瞳には、すべてを失ったような絶望の色が浮かんでいた。「でも私、あなたを愛してる。本当に、愛してるの……」「それなら、愛していたということにしておけばいい」俺は静かに告げた。「俺も、愛していたよ。でも、俺たちはここまでだ」そう言い残し、俺は彼女の横を通り抜け、ホテルの中へと歩き出した。永梨がすがりつこうと手を伸ばすが、すぐさま同僚たちに阻まれる。彼女は雪の上に跪いたまま、俺の名前を何度も叫び続けた。「泰介!陣内泰介!一度だけでいいから、振り返って私を見てくれない……?」俺は振り返らない。ホテルのガラス扉が、ゆっくりと閉まっていく。彼女の声は、ガラス扉と吹雪の向こうに遮られた。その後数日間、永梨はアイスランドを離れようとしなかった。毎日ホテルの前で俺を待ち続け、俺の好きな椿の花を、温かいコーヒーを、厚手のマフラーを差し入れてきた。けれど俺は、そのどれも一度として受け取らなかった。花はフロントから返され、コーヒーは扉の前で手つかずのまま冷え切り、マフラーは未開封のまま彼女の手元へと戻された。1週間後、洋司もアイスランドにやって来た。彼は目を真っ赤にして、俺に詰め寄ってきた。「泰介、お前、一体どうしたいんだよ!まだ永梨を許す気はないのか」俺は撮影資料を整理していた手を止め、視線だけを彼へ向けた。「お前こそ、勘違いしてないか。俺と永梨がもう
スマホが、また短く鳴った。今度は、結婚式のプランナーから届いたファイルだった。【塩出様、こちらは陣内様が式の取りやめを決められる前に確認された、最終案です。よろしければ、記念としてお手元に残していただければ、とのことでした】永梨が震える指でファイルを開く。1ページ目は、当初の白い椿を基調とした結婚式。2ページ目は、後に赤いバラへと変更された案。横に添えられた修正メモの1つ1つには、こう書かれていた。【塩出様より「東原様の提案」とのことで変更】【塩出様より、東原様のお好みに合わせて変更】【塩出様より、東原様のご意見に従い変更】1行、また1行と。まるで見えない手で、何度も何度も頬を張られているようだった。永梨は、ここでようやく理解した。俺は突然、この結婚式が要らなくなったんじゃない。彼女がずっと前から、この結婚式の中の俺を、少しずつ洋司に置き換えていたのだ。俺はただ、自分のものではない場所に、これ以上立っていたくなくなっただけだったのだと。彼女は両手で顔を覆った。それでも、涙は指の隙間から零れ落ちた。……一方、飛行機が分厚い雲の層を抜けた頃、空の端がうっすらと朝の光を帯び始めていた。俺は窓際の席に深く座り、眼下に遠ざかっていく街並みをただ眺めていた。スマホの電源を切る直前、プランナーから最後のメッセージが届いていた。【陣内様、手続きはすべて完了いたしました】俺は【ありがとうございます】とだけ返信し、それからスマホの電源を完全に切った。窓の外に広がる雲海は、長く続く雪景色のようにひどく静かだった。俺はゆっくりと目を閉じる。物分かりよく振る舞う必要もなければ、物分かりがいいと褒められる必要もない。そんな当たり前の自由が、こんなにも心を軽くするなんて、俺は初めて知った。アイスランドに着いて3日目の夜、俺は初めてオーロラを見た。緑色の光が夜空いっぱいに揺らめいた時、俺は雪の上に立ったまま、ふと何年も前の記憶を思い出した。昔、俺はオーロラの写真を永梨に送ったことがある。【永梨、いつか一緒に見に行かない?】彼女の返信は早かった。【行こう。結婚式が終わったら、一緒に行こうね】その後、俺はこの言葉をずっと心の奥に留めていた。式の準備に心が折れそ
永梨はスマホを握りしめたまま、見る見るうちに表情を険しくしていった。「アイスランドに行ったんですか?それは、いつ決まったんですか」プランナーは、少し言葉を選ぶように答える。「陣内様は、かなり前にオファーを受けていたそうです。ご決断されたのは、今日になってからだと伺っております。それと、結婚式の損失はすべてご自分で負担するので、塩出様に対応していただく必要はない、とも仰っていました」永梨には、それがまるで馬鹿げた冗談のように聞こえた。「私が出る必要がない?取りやめになったのは、私たちの結婚式ですよ!」プランナーは、慎重に言葉を続ける。「塩出様。陣内様は昨夜、はっきりとそう仰っていました。この結婚式は、もう自分の望んだ形じゃなくなった、と」その一言が、鋭い針のように永梨の胸に突き刺さった。彼女は無意識のうちに、パソコンの画面を振り返る。洋司は、まだビデオ通話に繋がったままだった。彼は困ったように髪をかきむしり、目を赤くしていた。「永梨、泰介が怒ったの、僕のせいかな。僕、あいつに説明しに行こうか」以前の永梨なら、洋司がこう言えば真っ先に彼を慰めていただろう。けれど今この瞬間、彼女の頭をよぎったのは、昨夜、俺が涙をこぼしていた姿だった。あの目には、悲しみのほかに、すべてを断ち切るような決意だけが残っていた。永梨は、急に不安に駆られた。プランナーとの電話を切ると、震える指で俺に電話をかけた。1度目、応答なし。2度目も、応答なし。3度目には、無機質なアナウンスが流れた。「おかけになった電話は、電源が入っていないか……」永梨はその場に立ち尽くした。胸の奥にあった小さな不安が、ようやく本物の恐怖へと姿を変えていく。彼女は書斎を飛び出し、寝室ががらんとしていることに気づいた。クローゼットの中から、俺がよく着ていた服が半分近く消えている。デスクの上にあったはずのパスポートケースも見当たらない。玄関の棚の上には、あの黒曜石のカフスボタンが置かれたまま。そしてその隣には、俺が7年間つけ続けた指輪が置かれていた。永梨の指先が、ビクッと震えた。あの指輪は、彼女が大学を出たばかりの頃、半年かけて給料を貯め、ようやく買ったものだった。あの時、彼女は照れて耳
翌日、スーツケースを引きながら書斎の前を通りかかると、扉がわずかに開いていた。隙間から、永梨の押し殺したような笑い声が漏れてくる。パソコンでビデオ通話をしていたのだ。洋司はパジャマ姿のままベッドのヘッドボードにもたれ、誓いの言葉の原稿を手にしていた。「永梨、この一節、堅すぎるだろ。『泰介、7年間そばにいてくれてありがとう』って」そう読み上げてから、彼はくすりと笑う。「なんか、送別会の挨拶みたいだな」永梨も釣られて笑った。「私、こういうの書くの苦手なんだよね」洋司が頬杖をつき、画面越しの彼女を見つめる。「じゃあ、『あなたは春のように、私の心を軽くしてくれる人』って書けば?こっちの方がロマンチックじゃない?」永梨は数秒黙り込み、それから声を落とした。「……その1文、洋司らしい表現だね」画面の向こう側が、一瞬だけ静まり返る。やがて、洋司が小さく尋ねた。「それ、本当に泰介に向けて読むつもり?」永梨はすぐには答えなかった。しばらく間を置いてから、ようやく口を開く。「式では泰介に向けて読むけど、心の中では洋司にこっそり聞かせていると思えばいいでしょ」俺は扉の外に立ち尽くしたまま、胸の内側を薄い刃で静かに切り裂かれたような感覚を覚えていた。俺は結婚式のために、こっそりと3枚にもなる誓いの言葉を書いた。何度も何度も書き直し、気恥ずかしいほど大げさな言葉はすべて削り、一番偽りのない想いだけを残した。以前、永梨に尋ねたことがある。「誓いの言葉、一緒に考えようか?」彼女はこう答えた。「そういう形式ばったこと、別に必要なくない?」そうか。形式がいらないわけじゃなかった。俺と一緒に考える時間が、いらなかっただけだ。洋司がふいに画面へ顔を寄せ、軽く笑った。「じゃあ、もうちょっとこっち寄って」永梨が眉をひそめる。「何するの?」彼は答えなかった。ただ画面越しに、そっとカメラのレンズにキスをしたのだ。馬鹿げていて、それでいて挑発的な口づけだった。永梨は避けなかった。ただ数秒黙り込み、小さくため息をつく。「洋司。これからは、もうこういうことをしないで。私、もうすぐ結婚するんだから」洋司が目を伏せ、拗ねたような声を出す。「わかってるよ。だ