Masuk私、西園寺万里香(さいおんじ まりか)は、夫の相徳保一(あいとく やすかず)が社長を務める会社のパーティーに来ていた。受付係の葛籠寿奈(つづら じゅな)がゲームに負け、罰として男性を一人選んでキスをすることになった。 寿奈は顔を赤らめ、おそるおそる保一のほうを見た。 「社長、お願いが……」 言い終わらないうちに、保一がゆっくりと口を開いた。 「失せろ」 会場がざわつき、あちこちで笑い声が上がった。 保一が筋金入りの愛妻家だということは、誰もが知っている。ここ数年、他の女にまともに目を向けたことすらない。 スマホのパスコードは今も私の誕生日のままだ。出張のたびに予定を報告してくる。風呂に入っているときでさえ、ビデオ通話をしてくる。 あの子、保一に突っ込むなんて本当に馬鹿ね。 そう思っていた。だが、10年後の自分からの電話が偶然つながり、電話の向こうからひどく皮肉な笑い声が聞こえてきた。 「万里香、本当に馬鹿なのはあなたよ。あなたが相手にもしないあの女、保一が5年も囲っているの。あの女は可哀想なふりをして、あなたの家族や親友をみんな取り込んでいく。 あなたは味方を全部失う。狂ったように復讐して、家族を失って、最後は保一に病院へ閉じ込められ、二度と出られなくなる……」 その声に、背筋が凍り、頭が真っ白になった。切ろうとしたそのとき、電話の相手が続けた。 「信じられないなら、後ろの個室のドアを開けてみなさい」
Lihat lebih banyak2年目の冬、堂馬グループの海外事業の年間報告書がまとまり、数字は約束の倍を超えていた。引き継ぎのメールを送った瞬間、窓の向こうにはチューリッヒの旧市街が広がっていた。雪が赤い屋根の上へ、次々と静かに落ちていく。パソコンを閉じ、ホットワインを注いで窓にもたれた。長い時間、外を眺める。誰かを追いかける必要のない日々は、こんなにも静かだった。国内の情報は断片的に届いていた。相徳グループが倒産したというニュースを見たのは、ローマでの乗り継ぎ待ちのときだった。「巨大グループ、すぐに崩壊」――見出しは仰々しかったが、指を止めずに流し読んだ。その後、保一は多額の借金を抱え、家も車も売り払われたらしい。郊外の古いアパートに移り、最低賃金の仕事を転々としていると聞いた。深夜、反射ベストを着て交差点で代行の依頼を待つ姿を見たという人もいた。寒さに縮こまりながら、電動バイクの上で煙草を吸っていた。頬がこけて、頬骨が浮き出ていた。昔仕立てたスーツは色あせ、襟が擦り切れている。仕事の合間にも酒をあおっていた。乗客から酒の匂いがきついと苦情が入っても、気にする様子もなかったらしい。きっと酒以外のことは、すべてどうでもよくなってしまったのだろう。寿奈の転落は、もっと早かった。保一が倒産したその月に子を処分し、貿易商の男と逃げた。その男は彼女の貯金をすべて巻き上げて失踪し、彼女は夜の店に売られた。地方の風俗店で、厚化粧で客の相手をしているのを見かけたという話も聞いた。私はその情報を流し読みして、二度と開かなかった。世界一周の航空券を予約したのは、帰国の前日だった。急ぐ理由はなかった。この2年で、金よりも疲労がたまっていた。自分を取り戻す時間が必要だった。最初に向かったのはアイスランドだった。黒い砂浜は風が強く、立っているのがやっとだった。ダウンジャケットを着込み、溶岩石の上に座って波の音を聞いた。音は大きいのに、心は不思議と静かだった。そこから南へ下った。トスカーナの冬はそれほど寒くなかった。陽の光は淡い。山あいの小さなワイナリーに泊まると、毎朝、窓から差し込む光で目が覚めた。階下には女将が焼いたパンと熱いコーヒーが用意されていた。サンダルのまま葡萄畑を歩くと、石が足の裏を刺激して、生きていることを実感させた。モロッコの市場は騒がしかった。手織り
堂馬グループ本社の社長室で、龍徳が書類に目を通していた。保一が偽装結婚などという馬鹿な真似をしているとは、彼も予想していなかった。本当なら、保一と寿奈の不倫を暴いて世間に叩かせようと思っていた。だが、下手に動けば万里香まで泥を被ることになる。だから、あえて静観している。これまで商売の世界で、保一は警戒すべき相手だった。万里香のことは、かなり前から引き抜こうと狙っていた。ところが、彼女は自ら自分の前に現れ、相徳グループの株式半分と中核技術を差し出した。挙げ句、彼女自身もこちら側へ来た。勝負がつくのが早すぎて、かえって張り合いがない。そう思っていたところで、龍徳がふと顔を上げる。部屋の入り口に、万里香が立っていた。堂馬グループの本社に彼女が来るのは、あの一件以来初めてだ。……社長室に通されると、龍徳は書類から顔を上げ、私を見て軽く眉を上げた。「本気か?」と彼は言い、私が差し出した契約書に目を落とした。「ええ。2年間ください。2年後には、堂馬グループの海外事業を立て直し、利益を倍にしてみせます」龍徳がじっとこちらを見た。「君の条件は?」「2年後、私を自由にしてください」彼は一瞬動きを止め、私の顔を見つめた。私が「堂馬社長?」と声をかけると、我に返ったように小さく笑い、ペンを取った。「契約成立だ。相徳は、君のような女を手放すとは、よほど目が節穴だったらしいな」サインを終えた彼が、契約書をこちらへ差し出しながら言った。「前から目をつけていた人材が、自ら来てくれるとはな。悪い気はしない」私は軽く笑って、一礼して社長室を出た。社長室を出たところで、スマホが鳴った。母からだった。「万里香……お昼、空いてる?家族三人でご飯でもどうかと思って。話がしたいの……」私はあっさりと言った。「結構です。もうすぐ海外へ発ちますから。口座番号を送ってください。これから毎月、生活費を振り込みます。30年近く育ててもらった分は、それで返すつもりです。親子の関係は、これで終わりにしましょう」「万里香……」電話の向こうで、母が泣き崩れる声がした。スマホには数件、友達申請が届いていたが、どれも承認しなかった。空港に着くと、SIMカードを抜いてゴミ箱に捨てた。価値のない人間関係など、とっくに捨てていればよか
寿奈は、ドア越しに保一と万里香の通話を最初から最後まで聞いていた。ここ数日、保一が社長室に籠もったせいで、寿奈は彼とまともに顔を合わせられず、まるで失恋したみたいだった。以前の彼なら、どんなに忙しくても、人目を盗んで彼女の席まで来てはからかい、防犯カメラの死角で壁に押しつけ、キスをした。あの背徳感こそが、保一の愛の証だと信じていた。それなのに、今の保一は寿奈をまるで空気のように扱う。万里香がいなくなった今、毎日目の前にいるのに、保一は寿奈をちらりとも見なかった。食事に誘うどころか、顔を合わせることすら避けられている。何度か会いに行っても、秘書に止められるばかりで、その落差に寿奈は壊れそうになっていた。そして今日、社長室の前で、保一が電話の相手に言い放った言葉を聞いてしまった。――寿奈のことは愛していない。あいつへの優しさはすべて、腹の子のため。産んだら海外へ追いやって、あの女とよりを戻すつもりだと。これまで必死に演じてきた可憐な自分が、怒りで崩れ落ちた。寿奈は秘書の制止を振り切り、保一の前に飛び込んだ。保一は万里香との電話の直後で不機嫌そのものだった。顔を上げ、彼女を見ると、素っ気なく言った。「何しに来た。出て行け」秘書に視線を移し、問い詰める。「俺の許可なく誰も入れるなと言ったはずだ」秘書がうつむいた。「ですが……葛籠さんが無理にでも入ると言って聞かなくて」保一は眉間を押さえた。「最近疲れてるんだ。お前にかまってる余裕はない。話があるなら後で聞く。家で大人しくしてろ。ここで俺の邪魔をするな」寿奈は言葉を遮られ、さらに感情を荒げた。「邪魔ですって!?あなたは私の夫でしょう。妻が会いに来て邪魔になるなんて、まさか、あの女とまだ連絡を取り合ってるんじゃないでしょうね」保一は立ち上がり、寿奈の首を片手で掴んだ。「寿奈、俺の限界を試すな。前から言ってるだろ。子どもを産んだら、お前は自分の居場所へ帰れ。余計なことを考えるな。お前は俺の後継ぎを産むだけだ。俺の妻は最初から最後まで万里香だけだ。わかったなら、家でおとなしくして、無事に産め。今すぐ海外へ送ってもいいんだぞ」寿奈は愕然とした。自分が保一にとって、腹の子を産む道具でしかないことなど、本当はとっくに知っていた。けれど、それを本人の
龍徳はやはり只者ではなかった。私が渡した中核技術を手に入れると、一気に動き出す。取引先を囲い込み、戦略で優位に立ち、メディアを使って世論を操作する。三方向から同時に攻め込んだ。相徳グループはあっという間に防戦一方となった。ここ数日、保一は眠らずに社長室へ籠もり続けている。私の技術支援を失った会社は、まるで烏合の衆のようだった。追い詰められた末、ついに保一から電話がかかってくる。「今、時間ある?少し話がしたい」その声を聞いたとたん、笑いが込み上げてくる。今さら何を話すというのか。「何を?私を騙して偽装結婚した話?」保一は何も言い返さない。いずれ調べられるとわかっていたのだろう。受話器を握る手に力が入っているらしく、声がわずかに震えている。「説明する時間をもらえないか」「いいわよ。説明して」一呼吸置いて、保一が話し始めた。「寿奈は先生の娘だ。先生が亡くなる間際、あの子を俺に託した。結婚したのも、先生への義理があったからだ。妊娠は想定外だった。産まれたら海外へ行かせて、離婚を成立させ、それから改めてお前と籍を入れるつもりだった。俺が何とかできると思っていたんだ」理屈も筋も通っている。だからこそ、笑えて仕方ない。「そう。じゃあ、彼女をプロジェクトに入れて、私を開発部から外して権限を奪ったのも?保一、私を子供だと思ってるの?」保一は声を荒らげず、必死に言葉を継いだ。「あのときはお前が寿奈を傷つけたから、彼女が取り乱して子を堕ろすと言い出して、仕方なくやったことだ。信じてくれ。総務部へ移したのは表向きで、開発部がお前なしで回るわけがない。俺だって、お前がいないと駄目なんだ」思わず乾いた笑いが漏れた。電話越しでなければ、その甘ったるい口調に流されていたかもしれない。でも、あの電話で10年後のことを聞いてしまった今は、もうだまされない。小さく息をつき、静かに言った。「10年後、寿奈が双子を連れて会社の株式を全部奪い、私はあなたに捨てられ、精神病院に閉じ込められる夢を見たの。あなたの考えがわからなくなったし、信じて賭けるのが怖くなった。だから目を覚ました。保一、あなたはいらない。これで終わりにしましょう」保一の声から余裕が消えた。「俺がそんなことをするわけがない。5年前、お前が流産して、次