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潮は海岸にキスせず、去っていった

潮は海岸にキスせず、去っていった

By:  黒霧の海Completed
Language: Japanese
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橘叶夢(たちばな かのん)は役所の入口に立ち、雨宮八雲(あまみや やくも)に99回目のプロポーズをした。 八雲はやはり来ず、ただ電話で淡々とこう言った。 「今結婚したら、命にかかわることになる。もう少し待とう」 叶夢が何か言う前に、八雲は電話を切った。 そばにいた友人は事情がわからず、二人が婚姻届を出す瞬間を記録しようとカメラを構えていたが、叶夢の表情を見て固まってしまった。 「八雲さんと十数年も幼なじみなんでしょう?あんなに仲が良かったのに、今日来ないの?」 叶夢は苦笑して、答えなかった。 かつて二人の関係はとても良く、ほとんど完璧と言っても過言ではない。 八雲はほぼ叶夢の人生そのものを占めていた。

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Chapter 1

第1話

橘叶夢(たちばな かのん)は役所の入口に立ち、雨宮八雲(あまみや やくも)に99回目のプロポーズをした。

八雲はやはり来ず、ただ電話で淡々とこう言った。

「今結婚したら、命にかかわることになる。もう少し待とう」

叶夢が何か言う前に、八雲は電話を切った。

そばにいた友人は事情がわからず、二人が婚姻届を出す瞬間を記録しようとカメラを構えていたが、叶夢の表情を見て固まってしまった。

「八雲さんと十数年も幼なじみなんでしょう?あんなに仲が良かったのに、今日来ないの?」

叶夢は苦笑して、答えなかった。

かつて二人の関係はとても良く、ほとんど完璧と言って過言ではない。

八雲はほぼ叶夢の人生そのものを占めていた。

幼稚園の時、八雲はよろよろと歩きながら、自分のお菓子を叶夢に差し出した。

小学校の時、八雲は叶夢と一緒に通学するため、わざわざ自転車で街を大きく遠回りした。

大学に入ると、八雲は叶夢が告白されるのを見て、初めて喧嘩をした。

彼は鼻から血を流しつつ、幼い頃から書き溜めてきた1001通のラブレターを不器用に渡した。

「お願い、あいつと付き合わないでくれ」

付き合うようになってからは、二人はまるで一心同体のように仲間内で知られていた。

どんな場にも、叶夢のそばには必ず八雲がいた。

八雲が成功して名声を得た後、会社の名前さえ彼女の名前にちなんで付けられた。

叶夢は、このまま一生幸せに過ごせると思っていた。

しかし、叶夢の熱狂的なファンが現れたその日から、すべてが途絶えた。

専業主婦になった後、叶夢は八雲との恋愛日常を漫画にしてネットに連載し、多くのファンを得た。

水村思乃(みずむら しの)もその一人だ。

彼女はその漫画に夢中になり、さらには男主人公の八雲を愛してしまった。

思乃は大金を使って情報を集め、叶夢の住所を突き止めた。

そして、八雲のクールな顔立ちを目にした瞬間から、彼への猛烈なアプローチが始まった。

1度目、彼女は八雲のキャラクターがプリントされた服を着て、団地で大声で告白したが、八雲に管理会社を通じて追い出された。

2度目、彼女は八雲のオフィスに押し入り、強引にキスをしようとしたが、また追い出された。

3度目、叶夢が作家のパーティーに出席している間に、彼女は八雲の部屋をこじ開け、ベッドに潜り込んだが、八雲は冷ややかに出て行き、ストーカー被害を受けたと警察に通報した。

叶夢は自信があった。十数年の関係がある八雲が、そんな恥知らずな女を好きになるはずがないのだ。

だが、彼女が初めて漫画に番外編を残し、八雲との結婚が間近だと書いたとき、思乃は手首を切る自殺写真をネットにさらした。

「叶夢、これは命にかかわることだ。もう少し待とう」

八雲は初めて叶夢を置き去りにして、ドアを開けて飛び出していった。

2度目に結婚を口にした時、思乃は大量の睡眠薬を飲んだ。

3度目に結婚を口にした時、思乃はビルから飛び降りようと騒いだ。

……

99度目、思乃は何もせずとも、八雲はそれでも叶夢を拒んだ。

叶夢は手にした婚姻届をぎゅっと握りしめ、笑い出した。だが笑いながら、涙がこぼれ落ちた。

人の命がどうとか、大げさな話だ。ただ彼の心に、もう一人の大事な人が増えただけだ。

しかし、そんな馬鹿馬鹿しい言い訳を、叶夢は何度も信じてしまった。

顔の涙を拭って、彼女は心配する必要なんてないと思った。

彼女は橘家の令嬢だから。八雲が愛さなくても、愛してくれる人はいくらでもいるのだ。

叶夢は友人の中の一人の男の腕を引っ張って、役所に駆け込むと、婚姻届を机に叩きつけた。

「結婚手続きをしてください。今日は絶対に結婚するわ」

友人は驚いて慌てて止めた。

「結婚は人生の大ごと、遊びじゃないんだ。適当に誰かを連れてきて結婚なんてできない」

叶夢の血は頭に上り、何も耳に入らなかった。

堂々たる令嬢である彼女が、何度も頭を下げ、結婚を懇願したのに、八雲は首を縦に振ろうとしなかった。しかし、彼女と結婚したい人なんて他にいくらでもいる。

「申し訳ありません。あなたは既婚者ですから、手続きができません」

その言葉に叶夢は冷水を浴びせられたように打ちのめされた。自分が結婚している?なぜ彼女自身がそのことを知らない。

職員は根気よく説明した。

「こちらの記録では、1か月前に鈴木三郎(すずき さぶろう)という方と婚姻届を出しました」

叶夢は一歩後ずさり、よろめきそうになった。

鈴木三郎は……思乃の家の下働きではなかったか?

1か月前、八雲は別荘を買ってあげると提案した。

そのとき叶夢は、ようやく彼が腹を決めてくれたのだと思い、喜んで身分証明書など書類を渡したのだった。

友人の疑惑の眼差しを振り切り、叶夢は婚姻届を手に八雲の会社へ直行した。

八雲がどういうつもりなのか、彼女は問いたださなければならない。

だが会社に着くと、八雲の姿はなかった。

仕事中毒で有名な彼が会社にいなかった。秘書によれば、八雲は病院に行ったという。

病院に着くなり、叶夢は警備員に止められた。

「申し訳ありません、こちらは雨宮社長が貸し切りにしております」

その時、八雲が一人の女性を抱きかかえて入ってきた。叶夢は遠くからそれが見えた。

警備員は慌てて叶夢を脇に押しやり、道を開けた。

思乃は顔色が悪く、八雲の肩にもたれかかっていた。

「私、重すぎない?下ろして」

「重くない。ただ、力を抜けば君を落としてしまいそうだし、強く抱けば君を痛めてしまいそうだ。どちらも嫌さ」

その光景は叶夢の心を鋭く突き刺した。

胸に鉛のような塊がのしかかり、息ができない。

学生時代、いつもその手が彼女を離さず握っていた。

留学中にからかわれたとき、その手が彼女を守り、指一本たりとも傷つけさせなかった。

マイカー旅行中に事故に遭ったとき、その手で彼女を真っ先に車外へ押し出した。さらに、彼は自分の傷を顧みず、医師に彼女を先に助けてくれと懇願した。

だが今、その手は別の女を優しく抱きしめている。

「雨宮社長は奥さんにお優しいですね。足をくじいただけで病院を丸ごと貸し切るなんて」

「もちろんですよ。雨宮社長と奥さんの仲睦まじさは有名ですから。あんな彼氏、誰だって欲しいでしょ」

叶夢は隅でその言葉を聞き、口元を引きつらせたが笑えなかった。

あんなに良い男は、知らぬ間にすでに彼女を裏切っていた。

長年の恋は、実はとっくに終わっていたのだ。

八雲は角に立つ叶夢に気づかず、思乃を病室に運んで出てきた。

友人が肩を叩いてからかった。

「まさか本気で思乃さんを好きになったのか?彼女を喜ばせるために、叶夢さんを下働きと結婚させるなんて。叶夢さんの性格、知らないわけじゃないだろ」

八雲は眉を揉みながら答えた。

「もし思乃の望みを叶えなければ、彼女は本当に死んでしまう。叶夢には少し我慢してもらうしかない。どうせ彼女にはバレない」

「お前、一体どっちを選ぶつもりなんだ?」

八雲は病室の思乃を振り返り、笑みを浮かべた。

「十数年、叶夢と一緒にいた。初恋も初体験も全部彼女だった。でも時間が経つと、それが愛なのか分からなくなった。

思乃の必死な愛を見て、初めて自分がまだ他人に心を動かされることを知ったんだ。

落ち着いたら思乃を遠くに送って、叶夢とは偽の婚姻届を出せばいい。彼女は俺を愛してるから、俺から離れられないさ」

その言葉を聞き、叶夢は奈落の底に突き落とされたようだった。

十数年も付き合ってきた。その3000日を超える日々が、「時間が経つと」の一言で切り捨てられるのか。

よろめきながら病院を出る叶夢の顔は涙でいっぱいだった。

――違うわ、八雲。

離れられないなんてことはない。

ましてや、私の愛を頼りにして、こんな扱いをするなんて、絶対に許せない。

彼女はスマホを取り出し、秘書にその下働きの番号を調べさせた。

彼女は思乃のブログでその名前を目にしたことがあった。【痴呆じみた男を下働きにした】という記事には、若い男性の後ろ姿の写真が添えられていた。

下働きでも構わない。彼女の愛を与えれば、その人は輝く。

「もしもし、橘叶夢よ。婚姻届も出したのよ。時間があれば、結婚式をしない?」

向こうからは、どうやら空港の搭乗案内の声が聞こえてきた。

「いいよ。ただ、私の家は遠いから、結納の準備をしに一度戻らないと。10日待ってくれるか?」

その声は低く落ち着いていて、思乃が言うような痴呆とは違った。

「約束よ。10日後、嫁を迎いに来てね」

電話を切ると、叶夢は振り返って、もう一度涙を拭った。そして、高いヒールを鳴らして歩き出した。

――雨宮八雲、あなたなんて要らない。
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第1話
橘叶夢(たちばな かのん)は役所の入口に立ち、雨宮八雲(あまみや やくも)に99回目のプロポーズをした。八雲はやはり来ず、ただ電話で淡々とこう言った。「今結婚したら、命にかかわることになる。もう少し待とう」叶夢が何か言う前に、八雲は電話を切った。そばにいた友人は事情がわからず、二人が婚姻届を出す瞬間を記録しようとカメラを構えていたが、叶夢の表情を見て固まってしまった。「八雲さんと十数年も幼なじみなんでしょう?あんなに仲が良かったのに、今日来ないの?」叶夢は苦笑して、答えなかった。かつて二人の関係はとても良く、ほとんど完璧と言って過言ではない。八雲はほぼ叶夢の人生そのものを占めていた。幼稚園の時、八雲はよろよろと歩きながら、自分のお菓子を叶夢に差し出した。小学校の時、八雲は叶夢と一緒に通学するため、わざわざ自転車で街を大きく遠回りした。大学に入ると、八雲は叶夢が告白されるのを見て、初めて喧嘩をした。彼は鼻から血を流しつつ、幼い頃から書き溜めてきた1001通のラブレターを不器用に渡した。「お願い、あいつと付き合わないでくれ」付き合うようになってからは、二人はまるで一心同体のように仲間内で知られていた。どんな場にも、叶夢のそばには必ず八雲がいた。八雲が成功して名声を得た後、会社の名前さえ彼女の名前にちなんで付けられた。叶夢は、このまま一生幸せに過ごせると思っていた。しかし、叶夢の熱狂的なファンが現れたその日から、すべてが途絶えた。専業主婦になった後、叶夢は八雲との恋愛日常を漫画にしてネットに連載し、多くのファンを得た。水村思乃(みずむら しの)もその一人だ。彼女はその漫画に夢中になり、さらには男主人公の八雲を愛してしまった。思乃は大金を使って情報を集め、叶夢の住所を突き止めた。そして、八雲のクールな顔立ちを目にした瞬間から、彼への猛烈なアプローチが始まった。1度目、彼女は八雲のキャラクターがプリントされた服を着て、団地で大声で告白したが、八雲に管理会社を通じて追い出された。2度目、彼女は八雲のオフィスに押し入り、強引にキスをしようとしたが、また追い出された。3度目、叶夢が作家のパーティーに出席している間に、彼女は八雲の部屋をこじ開け、ベッドに潜り込んだが、八雲は冷ややか
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第2話
バーで叶夢は友人たちと集まり酒を飲んでいた。八雲と付き合って以来、彼女はこういう場所に来ることはほとんどなかった。個室に座りながら、彼女はようやく冷静さを取り戻しつつあった。十数年の愛情がすべて無駄だったと今さらながら思い知り、黙って酒をあおった。「久しぶりに出てきたのに、ここでやけ酒?クズ男のことは忘れて、これからの幸せ考えなよ」学生時代からの友人たちは、叶夢と八雲の歩みをずっと見守ってきた。だから誰もあえてその名前を口にしなかった。誰かがラブソングをリクエストした。前奏が流れると、叶夢の手がふと止まった。八雲が一晩中歌ってくれたことがあった。叶夢は旅行が好きだったが、その時は八雲が会議で同行できなかった。ちょうどその夜、地震が起きた。彼女は巨大な岩の下に押し潰され、絶望のまま月を見上げていた。八雲は夜通し車を走らせ、800キロを駆けつけると、素手で石を掘り返した。「寝るな、叶夢!気をしっかり持て!俺たちはまだこれからよ!歌ってやる。君は下手だって言うけど、元気出るだろ?俺を置いていくな、頼むから」最後は声を詰まらせながら必死に言う八雲を、叶夢はうっすら目を開けて見た。叶夢の頬に温かい雫が落ちた。それは、彼女にとって八雲の泣く姿を初めて目にする瞬間だった。曲が終わると同時に、叶夢は酒を飲み干した。愛は、口にしたその時だけ本物になるのだと痛感した。酔いが回った叶夢は、友人の一人に送られて帰宅した。ドアを開けると、八雲が陰鬱な顔で、よろめく叶夢をじっと見つめた。「一日中、全然返信してくれなかった。結局、男と飲みに行ってたのか?」彼は一気に叶夢をぐっと腕の中に引き寄せ、友人の男に向かって叶夢の所有権を示した。友人が何か言おうとしたが、叶夢は首を振った。「ありがとう、もう帰って。あとは私が話すから」友人が去ると、八雲は叶夢の手首を強く掴み、暗い目を向けた。「君が男と飲むのが嫌いだって、わかってるだろ?朝のことで拗ねてるのか?」八雲の独占欲は強かった。たとえ誰かが彼女をじっと見ただけでも、彼は怒りを込めて彼女にキスをした。だが、彼はもう別の女を好きになっている。なら、彼女が何をしようと関係ないはずだ。彼は彼女が外出するのを嫌う。しかし、彼女のこ
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第3話
叶夢は体を拭き、まっすぐゲストルームへ向かった。寝室を通り過ぎると、八雲が思乃の指の手当を優しくしているのが目に入った。彼の顔立ちはもともと鋭いが、その瞳は今まさに優しく光っていた。叶夢はその眼差しに見覚えがあった。彼はかつてそんな眼差しを彼女に向けられていた。その夜、叶夢は結婚式の準備をしている頃のことを夢に見た。満面の笑みでウェディングドレスを選ぶ彼女の横で、八雲は下で雨に濡れる思乃を見て罪悪感を抱いた。彼女はたくさんの料理を作って彼と分け合ったが、八雲はスマホで思乃の体調を気遣った。深夜、悪夢を見て戻ってきてほしいと頼む彼女に、八雲は思乃を抱きしめながら、忙しいと返事をした。愛にはすでに亀裂が入っていた。ただ彼女が気づいていなかっただけだ。目を覚ますと、叶夢はまだ朦朧としており、二日酔いで喉が渇いていた。外に出ると、思乃が食卓に座り、あざけるように彼女を見ていた。「水村家は橘家や雨宮家には及ばないけど、一般的な家庭ではないわ。彼のために、あなたは愛人になる気なの?」叶夢はアイランドカウンターに寄りかかり、水を一口飲んだ。「あなたの漫画を初めて読んだ時、彼に惹かれたのよ。あなたの横暴なお嬢様気質は彼には合わないわ。私こそが彼を救う人なの」思乃のあまりにも荒唐無稽な言葉に、叶夢はただおかしく思った。「あなたが愛したのは私の創作したキャラクターよ。救うなんて、おかしいと思わないの?」思乃はフォークを握りしめた。「でも私は八雲に一目惚れしたの。彼は漫画よりかっこいい。私が離れないように、あなたをうちの下働きに結婚させても、彼は断らなかったのよ。これが何を意味するか分かる?」叶夢は感情的な思乃を一瞥し、冷笑した。「何を意味って?それはつまり、彼自身も大した男じゃないってこと」「彼にとって、あなたがどんな人か知りたい?テストしてあげようか?」思乃は傍らのポットを掴み取り、中の熱湯を叶夢に浴びせかけた。突然の狂気じみた行動に叶夢は後ずさったが、避けきれず足に熱湯を浴びてしまった。激しい熱に焼かれ、叶夢は今にも倒れそうになった。足には、爪の甲ほどの水ぶくれがたちまち次々と浮かんだ。八雲は部屋に入った途端に、叶夢が傷を負っているのを目にした。「叶夢!」「どうし
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第4話
「今なんて言った?」叶夢の声が小さすぎて、八雲は聞き取れなかった。叶夢が言葉を続ける前に、思乃がまた涙をこぼした。八雲は少し迷ったが、結局外に出ていった。「戻ったら話そう」足の痛みに耐えながら、叶夢は必死に起き上がり、一人で病院へ行って手当てを受けた。私は自分で行ける。私は自分でちゃんと生きていける。私はもう、あなたを待たない。叶夢は前日の冷水に加え、足の火傷のせいで高熱を出した。彼女は一日中ベッドに横たわり、汗でシーツがすっかり濡れてしまっていた。朦朧とする意識の中、彼女の額に冷たいタオルを当ててもらい、水を少し飲まされた。目をゆっくり開けると、八雲がほっとした様子を見せていた。「そんなに強がらなくてもいいだろう。たまには高慢なお嬢様の仮面を下ろして、俺に弱さを見せてもいいだろ?もし俺が戻らなかったら、熱で頭おかしくなるぞ?」叶夢は辛うじて座り上げ、タオルを投げ捨てた。そして、笑みを浮かべて八雲を見た。「バカとバカは一番似合うんじゃない?」八雲の胸がざわついた。――彼女は気づいたのか?いや、そんなはずはない。婚姻届を出していないから、叶夢は知らないはずだ。心を整え、彼は彼女がただ拗ねているだけだと受け止めた。「思乃は重度の貧血で、出血すれば命に関わる。俺たちは十年以上一緒に過ごしてきたんだ。婚姻届を出さなくてもいいだろ?待ってくれ。彼女が諦めたら、盛大な結婚式を開いてやる」――待っているのは、彼女が諦めるときか?それとも、あなたが遊びに飽きるときか?叶夢は心の中の言葉を口にしなかった。目の前の男に、彼女はもはや何の未練も抱いていなかった。八雲の電話が鳴り、思乃の甘い声が聞こえた。「八雲、悪夢を見たの。来てくれない?」彼は慌てて音量を下げ、会社に会議があると説明した。叶夢は淡々と頷いた。八雲は彼女の青白い顔と伏せた瞳を見て、胸が少しざわついた。いつも情熱的で刺々しかった叶夢が、こんなにも脆い姿を目にして、八雲の情欲がわずかに呼び覚まされた。彼は唾を呑み込み、思わず言葉を発した。「残ってほしいなら、俺はここに残るよ」「いらない」そう言うと、叶夢は布団をかぶり、顔を背けた。八雲は心のざわめきを押さえた。叶夢は相変わらず誇り高いま
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第5話
叶夢は、八雲が思乃のために自分に手を上げるとは思わなかった。彼女の指先が傷ついたとき、八雲は心配して涙を流した。彼女がランニングで足を捻挫したとき、八雲は彼女を背負って3キロも走った。地震で怪我をして貧血になった彼女に、八雲は立てなくなるほど献血した。そんな彼は今、目の前で自分の顎をぎゅっとつまむ八雲の姿と、少しずつ重なり合っていく。――あなたにとって、あいつがどれだけ大事だと?でも、私が一番大事だと、あなたは言っていたはずなのに。叶夢は一筋の涙を落とした。その頑なな眼差しを見て、八雲はようやく我に返ったように手を離した。顔に残る指の跡を見て、彼は少し罪悪感を感じた。そのとき、彼の電話が鳴った。「もしもし?見つかった?すぐ行く」八雲は振り返りもせず、車に乗り込み、猛スピードで去っていった。叶夢は少ししびれた顔を撫で、ただ笑った。もうどうでもいい。お二人は仲良くやってくれればいい。その男はもういらない。叶夢は髪を整え、車を飛ばして空港へ向かった。川の上の橋を走っていると、後ろから3台の車が尾行してきた。最後のポルシェが急加速し、叶夢の車の前に回り込むと、無理やり停車させた。叶夢が車を降り、まだ言葉を発する前に、八雲が陰鬱な顔で降りてきた。「どこへ行く?」八雲は先ほどよりも怒りを増しているようで、声も冷たかった。「私がどこに行くか、まだ気にしてるの?」もう彼と絡みたくない叶夢はドアを開けたが、八雲は一気に彼女を自分のポルシェに押し込んだ。「八雲、正気なの!降ろしなさい!」八雲は叶夢の抗議を無視し、アクセルを全開にして病院へ直行した。「君はお嬢様だけど、思乃も人間だ。女の子の純潔を奪うような卑劣なこと、どうしてできるんだ?俺が間に合わなければ、思乃の人生は終わったんだぞ!」八雲は叶夢を病室に引き入れた。思乃は顔色が青白く、ベッドに横たわっていた。叶夢を見た瞬間、思乃は慌ててベッドから下り、叶夢の前にひざまずくと、頭を何度も床に打ち付けた。「私が悪かった。本当にごめんなさい。もう私に乱暴しないでください。本当に、人に顔を向けられません。どうか許してください」思乃の言葉を聞くと、叶夢の指先はぞくりと冷たくなった。「私はやってない……」
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第6話
叶夢はボディーガードに無理やり薄暗い霊安室に押し込まれた。遠くには火葬を待つ遺体さえ見える。部屋の冷たい空気が彼女の鼻腔に突き刺さる。叶夢は必死にドアを叩きながら叫んだ。「雨宮八雲!」「思乃に謝るまで、中でしっかり反省しろ。」彼女は角に縮こまり、必死に自分を抱きしめるしかなかった。この光景は、またしても叶夢の心に幼い頃の記憶を甦らせた。叶夢の母は重い病にかかり、叶夢の父に何度も電話をかけた。電話越しに流れる淫らな音に、母は思わず血を吐き出した。5歳の叶夢の手を握りしめて、母は言った。「叶夢、まず自分を愛しなさい。希望を男に託してはいけない」小さな彼女にはその言葉は理解できなかった。彼女はただ、母の抱擁が次第に冷たくなるのを感じ、どんなに押しても反応がないことだけが分かった。叶夢はこうして、母と一日一晩を共にした。母が死ぬ前のあの眼差しが、再び脳裏をかすめた。全身が震え、彼女はドアへと這い寄った。「開けて!お願い、開けて!助けて!」――母を助けてください。彼女はまるで再び5歳の自分に戻ったかのように、泣き叫び続けた。叶夢は丸一晩そこに閉じ込められた後、ようやく八雲がドアを開けた。髪は乱れ、目は虚ろな彼女の姿を見ると、八雲の胸はわずかに痛んだ。しかし、叶夢が嫉妬のせいで思乃の人生を壊そうとしていることを考えると、彼はまた心を鬼にした。「自分の過ちを知ったか?」叶夢は目を少し上げた。この一晩で、彼女の涙はすでに枯れ果てていた。「私が悪かった」彼女が間違っていた。愛を人生のすべてにしてしまうべきではなかったのだ。彼女が間違っていた。何度も彼に望みを抱くべきではなかったのだ。彼女が完全に間違っていた。長年愛した八雲を見つめながら、叶夢は言った。「雨宮八雲、もう満足?」その言葉に、八雲は胸が締めつけられ、彼女を抱きしめた。「嫉妬してるんだろう。俺は分かってるよ。君はただ俺を大事に思いすぎたから、あんなことをしたんだ。彼女にきちんと謝れば済むさ。叶夢、俺は君の名誉のために、俺たちのために、こうしたんだ」叶夢は外をぼんやり見つめた。昨夜、必死でドアを叩いたとき、指の爪は剥がれていた。本当にみっともない姿だ。「もうあなたを愛し
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第7話
目を再び開けると、叶夢はすでに病院のベッドに横たわっていた。「ここ数日、ちゃんと食事してなかったから、君が低血糖になったさ。俺はすごく心配したんだから」八雲は叶夢を支え起こそうとしたが、彼女は彼を押し返した。彼女の冷たい表情を見て、八雲は顔を撫でながら言った。「この数日、君をないがしろにしていた。少し外に出て気分転換しよう。償いさせてくれないか?」叶夢は顔を背けて、手を避けた。「水村と一緒にいればいいでしょ。あなたは優しい人なんでしょ?もし彼女のそばにいなければ、また自害したらどうするの?」八雲は彼女の皮肉を聞き流すふりをして、手を握り締めた。「ネットではもう騒ぎになってる。君がファンの命を顧みず、何度も結婚しようとしてると。俺は本当に君のためを思ってるんだ。観光地に行こう。そこで、君が思乃と仲良くやってる写真を撮って、騒ぎを抑えよう」叶夢は嘲笑した。彼らは長く知り合いすぎていた。八雲は嘘をつくと、目が少し揺れる癖があった。「あなたは私のためじゃない」八雲は見抜かれたことを悟ると、叶夢の手を握り締め、素直に打ち明けた。「思乃がわざと俺たちの関係を邪魔してるって、そう言う噂が広まってる。だから、その写真で誤解を解きたかったんだ」叶夢は八雲を見つめ、さらに部屋の外のボディーガードを見た。どうやら彼は自分を屈服させる決意を固めているらしい。交渉の余地は全くない。翌朝、八雲は叶夢と思乃を連れて観光地へ向かった。道すがら、彼はずっと人に写真を撮らせていた。思乃は笑顔で叶夢の手を引いていた。叶夢が少しでも抵抗すると、そばにいたボディーガードが無理やり彼女を写真撮影に協力させた。知らぬ間に、山頂の縁結びの神社に到着した。叶夢は八雲とここに来たことを思い出した。二人で買った絵馬をここに飾ったのだ。八雲と思乃は、後ろでカメラに収められた写真を一緒に見ている。それを見ると、叶夢は振り向いて、神社の裏の古木の下へ歩いた。【私たちはこの一生、ずっと一緒にいられる。この木は百年生きてきたけど、これからまた百年、私たちを見守ってくれるはずよ】しかし、その願いはもう要らない。叶夢はあちこち探して、ついにあの絵馬を見つけた。引き抜こうとした瞬間、背後に刃物が腰に押し当てられた
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第8話
八雲は思乃を抱きしめ、顔の汗を拭った。こんな野外での行動は、彼にとって初めてだった。一時の情欲で、気づけばもう日が暮れかけていた。「今日の写真を出せば、もう誰も君が他人の家庭を壊したとは言わない。これで安心したか?」思乃は服を整えながら、再び彼に寄り添った。「ただ永遠にあなたと一緒にいたいだけなの。こうしたのも、叶夢さんの評判に影響を与えないためよ」八雲はその時、叶夢がまだ裏山にいることを思い出した。身支度を整えた彼は、振り向きざまに彼女を探した。しかし、空はすでに暗く、神社の灯りも消えていた。広いテラスには、一人もいない。彼はボディーガードに、彼女をちゃんと見張るように言っていたはずだ。「八雲、焦らないで。さっきのこと、ボディーガードに見られたら困るからね。叶夢さんはもう帰ったのかな?」思乃の言葉に、八雲の胸に不安が芽生えた。もしかして叶夢は、さっき彼と思乃の様子を見たのでは……あれこれ気にする余裕もなく、彼は何度も裏山を探した。すると足元に、一つの絵馬を踏みつけてしまった。札の文字は少し薄れていたが、彼はすぐに自分の字だと分かった。【雨宮八雲と橘叶夢はこの一生、ずっと一緒にいる】これは、若い頃彼が叶夢と一緒に飾ったものだ。それを、彼女は自ら外してしまったのだ。心の動揺で、八雲は少し足元がおぼつかなかった。思乃が近づくと、彼が呆然と握りしめている札が目に入った。目に嫉妬と憎悪が光った。「この数日、叶夢さんが私ばかりにちょっかいを出してきたの。きっとボディーガードが去った後、自分で帰ったわ」思乃の言葉で、八雲の心は少し落ち着いた。叶夢は高慢だ。彼女は幼い頃から鎧をまとい、自分自身を守ってきた。誰もその心に入ることは許さなかった。もし彼を命のように愛していなかったら、彼女はこんなにも耐えるはずがない。八雲は車に乗り込み、アクセルを全開に踏み込んだ。しかし、部屋に戻ると、ドアを開けても中は空っぽで、異様なほど静かだ。彼はひとつひとつの部屋を探し回った。なぜか、家の中がいつもと違って、彼は何かが欠けているような気がした。彼について部屋に入った思乃は、彼の顔色が優れないのを見て、背後からしっかりと抱きしめた。「焦らないで」しかし、八雲は初めて彼
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第9話
彼の感情の高ぶりを見て、警察は仕方なく思乃を中に入れた。「八雲、お願いだから、そんなことしないで」思乃は手を伸ばして彼を支えようとしたが、赤く腫れた目の八雲は彼女を押しのけた。「俺は叶夢だけが欲しい!どけ!」彼の感情がますます激しくなるのを見ると、警察は強制的に彼を連れ去り、家に戻した。……それから3日が経った。八雲は寝室から一歩も出ていない。彼の世話をするため、思乃も正々堂々とその別荘に住み込んだ。八雲が日に日に痩せていくのを見て、彼女は少し嫉妬した。だが構わない。叶夢はもう死んだのだから。この障害がなくなれば、遅かれ早かれ彼女が雨宮夫人になる。住み込み早々、思乃は藤村に指示を出し、全ての部屋を掃除させた。死者の気配があると運が悪くなるからだという。八雲は外の喧騒を耳にしつつ、陰鬱な顔で使用人を指揮する思乃をじっと見つめていた。「勝手に飾りを動かしていいって、誰が許した?」「八雲、家の埃がひどいから、ちょっと位置を変えれば気分も良くなるかと思って……」思乃が言い終わる前に、八雲のビンタが頬を叩いた。ここにある全ての装飾や置物は、かつて彼と叶夢が少しずつ飾り付けてきたものだ。この女はよくも勝手なことをしてくれた。こいつ、数日遊ばれただけで、本当に雨宮夫人になったとでも思っているのか。思乃は見たことのない八雲の姿に震えた。その目は陰鬱で、顔には無精ひげが生えている。「私はただ、あなたを少しでも喜ばせようとしただけなの」八雲は思乃の涙を見ると、さらに苛立ちを募らせ、彼女の顎を掴んだ。「貴様がいなければ、叶夢は怒って出ていくこともなかった。貴様がいなければ、叶夢も死ななかった!」そして思乃を地面に叩きつけ、冷たい目で見つめた。「俺がまだ正気なうちに、元通りにしろ。さもなければ、彼女のところに送ってやる」数歩歩いたところで、八雲は再びリビングを振り返った。そして、部屋がなぜか空っぽになっている理由に気づいた。叶夢とのウエディング写真は消え、全てのツーショットも消えていた。そばにいた藤村は慌てて口を開いた。「前回、奥様が全てを壊しました。八雲様が送った贈り物も私たちに渡してくれましたが、受け取らずにそのまま置いてありました。それはちょうど、八雲様
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第10話
八雲は遠くから二人が歩いてくるのを見つめ、目を細めた。この体つき、なぜこんなに見覚えがあるのだろう。彼は思わず前に出て、はっきりと見ようとしたが、周りの賀客に押されて端に追いやられた。髪をまとめた叶夢は、優しく、魅力的に見えた。彼女はそばにいる飛鷹を見つめると、自然と微笑みがこぼれた。その笑顔に、八雲は一瞬立ちすくんだ。彼が夢中になっていた女性は、まさに自分の目の前で、生き生きと立っていたのだ。隣の思乃は、まるで幽霊でも見たかのように、叶夢を見つめた。彼女は死んでいなかったのか?あの谷で野獣に顔を食い荒らされたはずだ。だが、思乃が隣の飛鷹を見ると、もっと恐ろしい幽霊を見たかのように、思わず声を上げそうになり、慌てて口を押さえた。その人は、彼女の家の下働きである三郎ではないか?数か月前、思乃は自宅の前で倒れている人を見つけ、体に怪我を負っていた。彼女はその人が非常にハンサムで、どこかの社長かもしれないと思い、神様が賜わった縁だと考えた。しかし、その人は目を覚ましても何も覚えておらず、ずっとバカのように食べ物をねだっていた。思乃は最初、写真を撮ってネットに投稿し、自分のキャラ立ちを作り上げた後、彼を追い払おうとしていた。しかし、彼女の執事が好意で、ひそかに彼をかくまってくれた。痴呆気味の飛鷹を見た彼女はひらめき、彼に身分を与えた。さらに、甘えるように振る舞いながら、八雲に叶夢を彼に嫁がせるよう仕向けた。婚姻届を出して以来、思乃が叶夢に受けた屈辱を、すべてこの下働きにぶつけた。彼を殴ったり叱ったりして、食事も与えなかった。ところが、しばらく前に彼が突然姿を消した。思乃はただの見た目のいい愚か者だと思っていたので、逃げたなら逃げたで構わなかった。まさか彼が京市の薄井飛鷹だったとは思わなかった。叶夢は思乃の驚愕した視線に気づき、笑いながら飛鷹の耳元で言った。「三郎、あなたのご主人様はあそこにいるわよ?」飛鷹は微笑み、彼女の指を軽くつまんだ。「私にこう話していいのは君だけだ。私のご主人様も君だけだ」その言葉に、叶夢は頬を赤らめ、軽く彼を叩いた。八雲は二人を凝視した。彼は叶夢と十数年も一緒にいたのだ。目の前の人物が自分の愛した女性だとわからないはずがない。二人がじゃ
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