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第2話

Author: ししのこ
妹の言葉を聞いた瞬間、バーで悩んでいた男は、思わず勢いよく立ち上がった。

「本当か!?千里、やっと目が覚めたのか?俺、最初から言ってたよな、あの橘なんてロクなもんじゃないって。

拳も性格もヤバい、あんな奴のそばにいたら、お前が傷つくだけだって!

ちゃんと考え直したなら、それでいい。荷物はまとめたか?すぐに迎えに行く!」

電話口から聞こえる涼真の声は、興奮のあまり震えていた。千里の胸には、締めつけられるような痛みが広がった。体の怠さを無理に抑えながら、静かに口を開いた。

「兄さん、先に手続きして。

私は一ヶ月後に行く。こっちのことが全部片付いたら、もう戻らないから」

その言葉を聞いて、涼真はようやく海外移住に必要な準備を思い出し、大きく頷いた。そして電話を切って、急いで手続きを始めた。

通話が終わると、千里の目に静かな陰が差した。

一ヶ月。

正明が偽装死を図る前に、小林家と橘家の繋がりを完全に断ち切り、自分は橘家からも、正明自身からも先に抜け出す。

この三年間、彼に借りなんて一つもなかった。だからこそ、彼の偽死劇の後始末なんか、手伝う義理もない。

千里は、一人で五日間入院していた。

その間、正明は一度も顔を見せなかった。

血を抜かれ、皮膚まで提供させたというのに、彼は何の説明もなく、千里を病院に置き去りにした。

目覚めた彼女が何を思い、どんな気持ちでいるかなど、考えすらしなかったのだ。

千里は皮肉げに口元を歪め、無意識にこぼれていた涙を拭い、知人に頼んで離婚届の用紙を取り寄せてもらった。

退院の日、彼女はその離婚届を手に橘家へ戻った。

玄関前までくると、扉の向こうから声が聞こえてきた。

「正明、私のために千里さんを病院に放って、一週間もそばにいてくれて……

彼女、怒って帰ってこなかったりしないよね?

もう、私のためにお粥を並んで買いに行かなくていいし……ベッドのそばにいてくれなくてもいいから、千里さんの様子、見に行ってあげて……」

正明は雅美の足首を優しく揉みながら、目に甘さを浮かべていた。しかし千里の名前が出た途端、明らかな苛立ちがその表情を曇らせた。

「いいんだよ、あいつはどうせ俺から離れられない。

たとえ家を出ても、三日も経たずに泣いて戻ってくるさ」

千里の体がビクリと震えた。

彼の中では、彼女が自分を愛しすぎて逃げられないと、完全に思い込んでいた。だからこそ、ここまで傲慢に振る舞えるのだ。

千里は苦笑を浮かべ、唇を噛みしめて扉を押し開けた。

その瞬間、部屋が静まり返った。

正明の甘やかな表情は消え去り、雅美の背中を軽く撫でながら、千里を鋭い視線で睨んだ。

彼女が騒ぎ立てるとでも思っていたのだろう。

だが千里は何も言わず、一枚の書類を差し出した。

「……押して」

いつものように感情を爆発させると思っていた正明は、一瞬ぽかんとした。

かつて、彼女が仕事の申請書類をこうして持ってきたこともあった。

疑うこともなく、彼は認印を取り出し、眉をしかめながら離婚届に無意識のうちに印を押した。

だが何か言おうとしたそのとき――

スマホが震えた。

仕事の電話だと気づき、雅美に軽く声をかけて、書斎へ向かった。

離婚届を渡した後、千里は自室へ戻ろうとすると、背後から雅美の声が飛んだ。

「あなたが千里さん?正明から聞いてるわ。

何が何でも彼と結婚しようとした、しつこい小娘だって」

雅美はふっと笑った。

「彼に気に入られたくて必死なんだって?

じゃあ、コーヒー淹れてちょうだい。ホットでお願い」

髪を掻き上げたその首元に、ダイヤがきらめくネックレスが。

それは、正明が十二連勝を果たしたボクシング試合で手に入れた優勝の証。

永遠の愛を象徴するネックレスだった。

わざと見せつけて、挑発しているのだと千里はすぐに察した。

千里は眉をひそめ、口喧嘩をする気にもなれず、無言で背を向けようとした。

だが雅美はその反応を見越したように、柔らかく笑いながら続けた。

「もし断ったら、正明にいじめられたって言っちゃおうかな。

そうしたら彼、きっと怒るわよ。あなた、無事でいられるかしら?」

千里の指先がわずかに震え、瞳に陰が落ちた。

雅美の言う通りだった。正明は、彼女の言葉を疑うことはない。

千里は、まだここを出るまでに時間が必要だった。余計な争いは避けなければならない。

「……わかった。淹れてくる」

十分後、千里はコーヒーを運んできた。

雅美は一口含み、顔をしかめた。そして次の瞬間――

そのコーヒーを千里の顔にぶちまけた。

「なにこれ、まずすぎ!気持ち悪っ!」

怒りが収まらなかったのか、カップを掴み、彼女の頭に叩きつけた。

ガシャンッ!

「……っ!」

カップは床に砕け、千里の額から真っ赤な血が流れ落ちた。床に落ちたその血が、鮮やかな赤を描いた。

痛い。

それが、脳に響いた最初の感覚だった。

千里がまだ動けずにいると、雅美はふと何かに気づき、テーブルの水を手に取って自分の頭にかぶった。

「きゃっ!」

と悲鳴を上げて、わざとらしく床に倒れ込んだ。

ちょうどその時、正明が戻ってきた。

異変を察知し、慌てて駆け寄ってくる。

目に映ったのは、頭を抱えてうずくまる雅美の姿。怒りに我を忘れた正明は、千里を突き飛ばし、雅美を抱き上げた。

一切の手加減もなく。

千里はよろめきながら倒れ込み、両手で体を支えようとしたが、陶器の破片が手のひらに突き刺さり、そこから鮮血が噴き出した。

「雅美、大丈夫か?

足を捻ったか?火傷はしてない?」

雅美は怯えたように正明の胸に顔をうずめ、弱々しく首を振った。

「……私、平気。きっと、千里さんが怒ってるのよ。あなたがずっと私のそばにいたから……

私がうっかりコーヒーをこぼしちゃって、そしたら熱湯をかけられて、突き飛ばされて……

でも、大丈夫。千里さんが怒るのも無理ないし、責めるつもりはないの」

正明の目には、千里への憎悪がありありと浮かんでいた。

「お前って、本当にいつまで経っても変わらないな。汚い真似ばかりして、心まで腐ってる」

彼は雅美をかばいながら、テーブルに残っていた熱湯入りのカップを手に取った。

「俺、言ったよな?雅美に手を出すなって。

だったら、同じ目に遭ってもらう!」

その声と同時に、説明の機会も与えられぬまま、湯は千里に容赦なく浴びせられた。

彼女はとっさに腕で顔を庇い、その腕は真っ赤に焼けただれた。痛みに悲鳴を上げた。

前髪の隙間から、冷や汗が額をつたった。

さらに追い打ちをかけようと正明が一歩踏み出すが、千里は痛みを堪えながら必死に叫んだ。

「私、何もしてない!」

彼女は執事に監視カメラの映像確認を依頼していた。

「すべては、彼女が仕組んだの!」

執事がノートパソコンを抱えて正明の前に現れた。

雅美の策略が始まったその瞬間から、千里はすでに対応策を用意していた。

──だが、まさか。

映像が巻き戻され、事実が一つ一つ映し出される。

一瞬、正明の顔色が変わった。だが、雅美が彼の胸元で泣き出すと、彼の表情はたちまち元に戻った。

彼は雅美の髪を優しく撫でて、耳元で囁いた。

「大丈夫。わかってる、お前が悪くないって」

そして、雅美が涙を止めたのを確認すると、千里に視線を戻し、まるで施しでも与えるように言い放った。

「この件は、これで終わりだ。荷物をまとめて、客間に行け」

千里の傷口を見ることもなく、冷たい視線を最後に投げかけて背を向け、部屋を出ていった。

まさか。

これだけ証拠を突きつけても、彼は雅美を庇うのか。

千里は血にまみれた手を見下ろし、乾いた笑みを浮かべた。その瞳には、冷たく乾いた絶望だけが残っていた。

「……わかった。出ていくわ」
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