LOGIN湊が倒れたことで、病院で詳しい検査を受けることになった。その結果、彼はHIV陽性だと診断された。その知らせを聞いた瞬間、佐倉家も葉山家も、そして奈々と関係のあった男たちも、一様に顔を青ざめさせた。「お前だ……お前が俺にうつしたんだろ!」湊は血走った目で、同じように青ざめている奈々を睨みつけた。「違う……違う、私じゃないわ……!」奈々は震える声で否定した。けれど湊は、すべてを悟ったように深く目を閉じた。その時、ふと昔の記憶がよみがえったのだろう。奈々が海外から帰国したばかりの頃。仲間内の飲み会で、友人の一人が冗談めかして忠告してきたことがあった。「奈々のやつ、向こうで相当派手に遊んでたらしいぜ。湊、お前も変な病気とかうつされんなよ」あの時の湊は、鼻で笑って「うるせえよ」と切り捨てただけだった。けれど今はもう、笑うことなど到底できなかった。噂はあっという間に広がった。佐倉家と葉山家の醜聞は、一夜にして周囲の知るところとなった。二人が入院している病院にも、野次馬や週刊誌まがいの人間が押しかけるようになり、騒ぎを避けるため、別の病院へ移されたらしい。佐倉家も葉山家も、この一連の騒ぎですっかり疲弊していた。それからしばらくして、湊と奈々はぱたりと姿を消した。二人がどこへ行ったのか、はっきり知る者はいない。人目を避けるため、家族が海外へ送ったのだという者もいた。名前を変えて、もう二度と戻ってこないらしいと囁く者もいた。別の噂では、湊が奈々を突き飛ばし、奈々は階段から落ちて、お腹の子どももろとも助からなかったという。その後、湊も自ら命を絶ったのだと、まことしやかに語る者さえいた。噂は噂を呼び、いくつもの尾ひれがついて広がっていった。どれが真実なのか。あるいは、どれも真実ではないのか。私には分からない。そして、知りたいとも思わなかった。彼らがどんな結末を迎えようと、もう私には関係のないことだった。それからの日々は、驚くほど穏やかだった。娘は、いつの間にか一人で歩けるようになっていた。庭に舞い込んだ蝶を追いかけて、よちよちと芝生の上を歩いていく。小さな足取りはまだおぼつかないけれど、それでも一生懸命に前へ進もうとしている。その姿は、まるで小さなうさぎ
その言葉を聞いた瞬間、思わず乾いた笑いが漏れた。「父親、ね。あなたみたいな無責任な父親が、あの子に本当に必要だとでも思ってるの?」かつては、湊と結婚して子どもが生まれれば、ささやかでも温かい毎日を送れるのだと信じていた。朝、出勤前の湊が娘の頬にキスをする。夜、仕事帰りに私へ花を買ってきてくれる。週末には三人でベビーカーを押して公園へ行き、湊が娘に歩き方を教える。私は少し離れたところから、その姿を写真に撮る。そんな、どこにでもあるような幸せが、私たちにも訪れるのだと本気で信じていた。「あなた、自分がまともな父親だったって、胸を張って言える?」湊が反論しようと口を開きかける。けれど、何も言えなかった。「娘が高熱を出して入院した夜、私は救急外来で四時間、泣き叫ぶ娘を抱いてあやしていた。その時あなたは、奈々とバンジージャンプを楽しんでいたわよね。私からの着信には、一度たりとも出なかった。娘の夜泣きがひどかった時期、私は半月近くまともに眠れなかった。なのにあなたは『仕事が忙しい』って嘘をついて、奈々と旅行に行っていた。しかも、ご丁寧にその写真をSNSにまで載せてね」湊は娘を抱っこしたことなら、数えきれないほどある。けれど、それだけだった。あの子がどんな時に泣き、何をすれば安心するのか。何を口にできて、何を絶対に避けなければならないのか。いざ発作が起きた時、まず何をすべきなのか。父親であるはずの彼は、何一つ分かっていなかった。私は淡々と、事実だけを突きつけていった。自分の声が思った以上に落ち着いていて、少し驚いた。あれほど消えないと思っていた怒りも、悲しみも、恨みも。何度も傷つけられるうちに、もうほとんど残っていなかった。「この一年、私たちが一番そばにいてほしかった時、あなたはいつもいなかった。なのに奈々に何かあれば、何もかも放り出して駆けつけた。妻も娘も後回しにして、奈々だけを守ろうとしたじゃない」さっと血の気が引いていた湊の顔を見て、私は小さく笑った。「ねえ、知ってる?あなたが奈々とあの病室で抱き合っていた時、私と娘はすぐ隣の部屋にいたのよ。あの子が大きくなって、自分の父親がそんなみっともない男だったと知ったら……どう思うでしょうね。あなたに父親を名乗る資格なんてない」「
「ただいま。紗耶?」リビングは、がらんとしていた。半分だけ閉まったカーテンの隙間から、夕日が斜めに差し込んでいる。その光が、空っぽのベビーベッドと、床に散らばったままのおもちゃを虚しく照らしている。「おーい、パパ帰ってきたぞ」けれど、返ってきたのは自分の声だけだった。「どこだ……?二人ともどこにいる?」湊は振り返り、キッチンから出てきた家政婦を呆然と見た。「奥様なら、二日前にお嬢様を連れて出て行かれましたよ」家政婦は手を拭きながら、不思議そうに答える。「……何だって?」湊は一瞬、言葉を失う。「出ていった?どこへ!?どうして止めなかったんだ!」「その時、何度もお電話したんですよ。でも旦那様、お忙しいから『何かあるなら帰ってから聞く』とおっしゃって……」――電話。そうだ。二日前、家政婦から何度も着信があった。けれどあの時の湊は、病院で取り乱す奈々をなだめるのに必死だった。紗耶は家で頭を冷やし、そのうち自分から謝ってくる。そう思い込んで、ろくに確認もせず、着信を無視したのだ。まさかその頃、妻が痛む腰を庇いながら、アナフィラキシーの発作がようやく落ち着いた娘を抱え、一人で荷物をまとめていたとは思いもしなかった。まして、そのまま飛行機に乗り、実家へ帰っていたなんて。「あ、そうでした、旦那様」家政婦が思い出したように、封筒を差し出した。「奥様から、こちらをお渡しするよう言付かっております。『離婚に関するご連絡は、今後すべて弁護士を通してください』とのことでした」湊は震える手で封筒を受け取り、中の書類を引き出した。入っていたのは、記入済みの離婚届と、弁護士の連絡先だった。それを見た瞬間、湊はようやく思い知った。娘の誕生日の日、紗耶が「離婚する」と言い放ったのは、ただの当てつけではなかった。気を引くための脅しでもなかったのだ。紗耶は本気で離婚し、本気で自分の前からいなくなるつもりだった。それなのに湊は、ずっと奈々のことばかり見ていた。紗耶の苦しみも、失望も、悲しみも、何ひとつ見ようとしてこなかった。やがて日が落ち、リビングは暗く沈んでいった。いつもなら娘の泣き声や、妻の足音が響いていた家は、今は息が詰まるほど静まり返っている。湊は離婚届を握りしめた
奈々が公衆の面前でここまで辱められるのを見て、湊の庇護欲に火がついたのだろう。またしても彼は、奈々を庇うように前へ出た。「お前ら、いい加減にしろ!文句があるなら俺に言え!」だが、男たちは心底呆れたように湊を見下ろした。「お前、マジで頭湧いてんのか?そいつ、誰とでも寝るような女だぞ。そんなのを大事に庇ってるのは、お前くらいなもんだ」「なっ……」「奈々が急に帰国した本当の理由、知らないわけ?向こうで既婚者に手を出して、奥さんにバレて居場所がなくなったからだよ。俺たちだって、そいつに何度も言い寄られてるんだ。知らなかったのはお前だけだぞ。本当、救いようのない大馬鹿野郎だな」その暴露に、会場中がどよめいた。「ひっ」と甲高い悲鳴を上げた奈々は、見る見るうちに目に涙を浮かべる。「何言ってるの!?嘘よ、全部デタラメ!紗耶でしょ、紗耶があんたたちに言わせてるんでしょ!私を陥れるために、みんなでグルになって嘘をついてるのよ!」湊の袖にすがりつき、震える声で訴えかけた。「湊、信じないで……お願い、あんなの絶対に嘘だから……!」次々と突きつけられる事実を、すぐには受け止めきれないのだろう。湊は血の気の引いた顔で、呆然と立ち尽くしていた。だが、彼が何か言うより先に、会場の扉が再び開いた。制服姿の警察官が数名、足早に入ってくる。先頭の警察官は、迷うことなく奈々の前まで歩み寄った。「葉山奈々さんですね。乳児への殺人未遂の疑いがかかっています。署までご同行ください」その言葉に、奈々の両親はその場で崩れ落ちそうになった。「奈々……お前、一体何をした……?」「違う!私、そんなことしてない!」目を泳がせ、反射的に後ずさる奈々を見ても、警察官は表情一つ変えず、手元の端末を開いて見せた。「通報者から提出された映像と、病院の診断記録はすでに確認しています。記録を見る限り、あなたがあの子に危害を加えようとしたのは、今回が初めてではないようですね」その映像を見た瞬間、湊の顔からすっと血の気が引いた。「奈々……お前、俺の娘に何か飲ませたのか?毒でも盛ったのか?」奈々は必死に首を振った。「違う!毒なんかじゃない!私はただ、ヤギミルクを飲ませようとしただけよ!傷つけるつもりなんてなかったの!紗耶が大げさに騒
「どうしたら許してくれる?」「じゃあ、ワンって言ってみて」「……ワン」「ふふ。私のこと好き?それとも、あの女のこと?」「……」一斉に鳴り響いたスマホから生々しい音声が流れ出した瞬間、その場にいた全員が凍りついた。画面に映っているのが葉山奈々と佐倉湊であることは、誰の目にも明らかだった。「奈々、これはどういうことだ」葉山家も佐倉家も、この界隈では名の知れた家だ。自分の娘が妻帯者とただならぬ関係にある決定的な証拠を、大勢の招待客の前で突きつけられているのだから、奈々の父親の顔つきが険しくなるのも当然だった。次の瞬間、彼は手を振り上げ、奈々を思いきり張り飛ばした。「この恥知らずめ!こんな真似をして、うちの顔に泥を塗るつもりか!」打たれた頬を押さえたまま、奈々は呆然と立ち尽くした。「ち、違う……違うの……!」今まで黙って耐えてきた私が、謝りに来るどころか、こんな容赦のない形で反撃に出る。奈々も湊も、そんな展開は夢にも思っていなかったのだろう。湊は反射的に、奈々を背後に庇った。「誤解です、聞いてください!全部、妻が仕組んだことなんです!動画だってAIかなんかの合成です!妻には、あとできっちり謝罪させますから!」そう早口でまくし立てながら、湊は慌てて私に電話をかけてきた。もちろん、私は出ない。ただ、会場にいる友人がこっそり繋いでくれたライブ配信越しに、その無様な光景を冷ややかに眺めていた。まさかこの期に及んで、ここまで奈々を庇い立てするとは思わなかった。本当に、涙が出るほどお似合いの二人だ。すぐに、湊から立て続けにメッセージが届いた。【紗耶、今どこにいる!?あの動画をばらまいたのはお前か!】【お前、正気か!?俺と奈々をここまでコケにして、気が済むのか!】文字だけでも、湊が怒鳴り散らしている様子が目に浮かんだ。それでも私は一切返信せず、ただ淡々と画面をタップした。この前、奈々が匿名で送りつけてきた、湊との匂わせ写真。この一年間に撮られた、口移しで酒を飲む動画。ベッドで親密に寄り添う写真。密着して踊る姿。そのすべてを、私は一つ残らず送りつけた。まずは、会場にいる招待客全員のスマホへ。それから佐倉家と葉山家の親族のLINEグループ、湊の会社のグループ
真夜中、ようやく娘を寝かしつけ、ふうっと目を閉じたその時。隣の病室から、男女の笑い声が聞こえてきた。「少し会えないだけで俺がどれくらいつらいか、分かってるくせに。わざと拗ねてみせるなんて意地悪だな」男の声は、紛れもなく湊のものだった。そして奈々の声は、普段とは違って、甘くまとわりつくように響いていた。「だって、あなたがあの女を庇うからじゃない。私のことなんて、もうどうでもいいのかと思って」「悪かったって。どうすれば許してくれる?」「さあ?半日も私を放っておいたんだから、ちゃんと埋め合わせしてよね。私、あの女みたいにちょろくないから、簡単には機嫌直さないよ?」「じゃあ……これならどう?」「んっ……もう、バカ……そんなところに跡つけないでよ。見えたらどうするの」その先に続く音は、もう聞くに堪えない。「俺と奈々はただの幼なじみだ」つい数時間前までそう言い張っていた男が、今この瞬間、壁一枚隔てた向こう側で、情欲のままに奈々を抱いている。聞きたくもない卑猥な音が、何度も何度も鼓膜を叩く。ふとスマホが震え、見知らぬアカウントから一枚の写真が送られてきた。画面の中では、湊が奈々の首筋に顔を埋めている。露わになった湊の肩には、奈々がつけたものとしか思えない赤い引っかき傷がいくつも残っていた。気づけば、指先が白くなるほどスマホを握りしめていた。覚悟はしていたつもりだった。それでも、動かぬ証拠を突きつけられた瞬間、胸の奥が細く裂けるように痛んだ。その夜をどうやってやり過ごしたのか、よく覚えていない。いつ泣き疲れて眠りに落ちたのかも分からない。ただ、娘のただならぬ泣き声で、弾かれたように目を覚ました。視線を向けると、ベビーベッドの前に奈々が立っていた。手に持った何かを、嫌がる娘の口へ無理やり押し込もうとしていた。娘が苦しそうにえずき、口の端に白い泡を浮かべているのを見た瞬間、頭に血が上った。ベッドから飛び出し、奈々を娘のそばから乱暴に引き離した。次の瞬間には、床に倒れ込んだ奈々につかみかかり、気づけば無我夢中でその頬を打っていた。「あんた、この子に何したのよ!?」次の瞬間、背後から強い力で体を乱暴に引き剥がされる。そのまま床に叩きつけられ、腰の奥でゴキッと嫌な音が鳴る。