LOGINその場にいたのは、紗月だけが呆然としたわけではなかった。 応接室に入ってきた紗月を見て、美沙子と美月もまた、明らかに反応が遅れていた。 どうして紗月がここにいるのか――そう言いたげに、戸惑いを隠しきれない表情を浮かべていた。 美沙子は落ち着きなく視線を泳がせ、紗月を見てから、すぐに慎一の様子を窺う。 どうやら慎一が紗月を呼んだのだと察したのか、次の瞬間には大げさな笑みを顔に貼り付け、親しげに立ち上がった。「紗月、あなたも来ていたのね。ちょうど今、慎一とあなたの話をしていたところなのよ」 そう言いながら、紗月の手を取って自分の隣へ引き寄せようとする。 本来の狙いは、慎一から遠ざけることだった。だが、その動きは実行される前に止められた。「紗月、こっちだ」 慎一は立ち上がろうともしない。 ただ冷えた目で美沙子を見据えているだけで、その思惑はすべて見透かされていた。 その視線に射抜かれ、美沙子の笑みがわずかに引きつる。 慎一から見えない角度で、紗月へと鋭い視線を向けながらも、声だけは相変わらず甘く整えていた。「そうそう、紗月。母さんね、あなたを見たら嬉しくて、ついそばに引き寄せたくなっちゃって……慎一も、きっとあなたと一緒に座りたいって思ってるわよね」 その言葉に、紗月と美月の視線が同時に慎一へ向く。 慎一は相変わらず無表情のままだったが、口元だけがわずかに歪んだ。 それはほんのかすかな嘲笑のようだったが、その言葉を否定することはなかった。 紗月が席に着くと、空気は一気に静まり返る。 妙に落ち着かない沈黙。 美沙子はそわそわと腰を浮かせたような状態で、膝を小刻みに揺らしている。 隣の美月も同じように、紗月が入ってきてからずっと眉をわずかに寄せたまま、何かに怯えるようにしていた。 誰も口を開かない中、紗月はそっと慎一の方を見やり、それから美沙子へ視線を戻す。「……お母さん、今日はどうして……?」「あ、あはは……大したことじゃないのよ。ただね、私と美月で会社の近くを通りかかったから、もしかしたら慎一がいらっしゃるかと思って、少し顔を出しただけで……。まさか本当にいらっしゃるなんて。それに、日曜日なのにこうして会ってくださるなんて、本当にお優しい方で……」 どこか不自然な笑い。 その言葉に、慎一は思わず低く笑った。「そうか。
凛子がただの思いつきでそう言ったわけではない。 というのも、ここ最近、弟の優介が彼女の前でやたらと紗月のことを気にかける素振りを見せていたからだ。「紗月お姉さん、最近ちょっと疲れてるみたいで」「仕事が忙しすぎるんじゃないか」と、やけに心配そうに口にする。 さらには、紗月の結婚生活にまで勝手に踏み込んで、あれこれと気を回してくる始末で、凛子もさすがに頭の片隅に引っかかるようになっていた。 もっとも、優介が暇を持て余して余計なことを言っているだけだと、凛子は思っていたのだが。 それでも今回、久しぶりに顔を合わせてみれば、紗月の様子はやはりどこかおかしい。 化粧で隠してはいるものの、目の下の隈は薄く透けて見え、疲労の色を完全には消しきれていなかった。 それを見ていると、理由もなく胸が痛んだ。 まさかそんなことを突然聞かれるとは思っていなかったのか、紗月は一瞬言葉を失い、それからすぐに微笑みを浮かべる。「もちろんだよ。私に何かあるわけないじゃない。むしろ……凛子、今の私、たぶん一番幸せな時期かもしれない」 その笑顔には、確かに嘘のない幸福と、未来への期待が滲んでいた。凛子は何度か瞬きをしてから、ようやく胸を撫で下ろす。「よかった……。じゃあ最近、何かいいことあったんだ? 仕事忙しいって言ってたよね、誘ってもずっと仕事だって断られてたし。そんなに大変な仕事なの?」「最近、新しいプロジェクトに関わってて……すごく大事な案件なの。慎一も……私の成果を楽しみにしてるって言ってくれて。それに、もしかしたら本社に戻れるかもしれないんだ」 話しているうちに、紗月の表情は次第に明るくなっていく。その様子から、本当に嬉しいのだということが伝わってきた。 学生時代から勉強に打ち込むタイプだった彼女だ。 社会人になれば、きっと仕事にも全力で向き合うのだろうと凛子は思っていた。 そして今、紗月が満たされたように笑っているのを見て、凛子も素直に嬉しくなる。「よかったじゃん! じゃあさ、そのプロジェクトの成功を前祝いってことで、あとでご飯奢るよ」「奢る」という言葉を聞いた瞬間、優介がぱっと顔を上げた。「本当? じゃあ、ちゃんといいお店連れてってよ。……姉ちゃん、センスあんまり良くないし。紗月お姉さんが好きそうなお店、いくつか知ってるから紹介するよ」 弟の顔を
祖父の誕生日会が終わった翌週の日曜日は、めったに仕事に追われることのない日だった。 調査の進捗がすでに技術開発の条件を満たしたことで、本社チームは次の工程へ進むことを決定していた。 その連絡が蒼空から紗月に届いたのは、金曜の夜だった。 ちょうどそのとき、紗月はいくつかのデータを比較しながら検証を続けていた。 蒼空は社内メッセージで、本社の決定を簡潔に一言伝えただけで、それ以上の詳しい説明はなかった。 紗月はもう少し詳しい情報を知りたいと思い、追加で問いかけたが、返事は来ないままだった。 ――自分こそが、このプロジェクトの責任者のはずなのに。 プロジェクトが始まって一か月以上が経っているにもかかわらず、紗月はまだ本社のプロジェクトチームと直接接触したことがなく、顔を合わせたことすらなかった。 これまでやり取りがあったのは、蒼空ただ一人だけ。 違和感は当然、感じている。 けれど紗月にとっては、これが初めてのプロジェクト参加であり、初めての案件担当、そして初めての支社と本社の共同業務だった。 他の企業ではどのようにプロジェクトが進められているのかも分からない。 もしかしたら、どこもこんなものなのかもしれない。 そう自分に言い聞かせて、それ以上は深く考えないようにした。* 日曜日。 珍しく凛子から誘いを受け、紗月は一緒にクライミングジムへ行くことになった。 待ち合わせは午前十時。 そこは、凛子が留学に行く前、よく二人で通っていた場所でもある。 到着してみると、優介の姿もあった。 凛子の後ろにぴったりとくっつき、行儀よく立っている。 紗月の姿を見つけると、先ほどまで少し不機嫌そうだった表情がぱっと明るくなり、柔らかな声で話しかけてきた。「紗月お姉さん、やっと来てくれました。僕も一緒に遊びたいって言ったのに、姉ちゃんが止めようとするんです」 わざと甘えるような口調に、凛子はうんざりしたように白い目を向ける。「来るなって言ったのに、勝手についてきたのはそっちでしょ。……ごめんねさっちゃん、この子。邪魔になるから連れてこないって言ったのに、どうしても来るって聞かなくて」 相変わらずの姉弟のやり取りに、紗月は思わず笑ってしまう。「優介くんが来てくれて、私も嬉しいよ。凛子、優介くんのことはちゃんと見るから、心配しないで」「休みの
美月は階段を下りる前、わざとらしいほど柔らかく、無垢な笑みを紗月に向けた。 声もか細く、いかにも育ちの良さを感じさせる響きで、「お姉さま、下でお待ちしていますね。お義兄さまとご一緒に、早くいらしてくださいね」 そう言い残し、軽やかな足取りで姿を消していく。 その背中が階段の先に完全に見えなくなったのを確認してから、紗月はゆっくりと顔を戻し、慎一を見た。 慎一は書斎の机の向こう、椅子に腰を下ろしている。 机の上には、ほかにもいくつか届けられた贈り物が並んでいた。その中にひとつ、淡いピンクの包装紙で包まれたものがある。 明らかに、祖父への贈り物ではない。 事実もその通りだった。 紗月の視線に気づいた慎一は、そのピンクの包みを何のためらいもなく手に取り、脇のゴミ箱へと放り投げた。「紗月、お前に妹がいるなんて知らなかったな。……面白い子だ。じいさんの祝いだと言いながら、真っ先に義兄の俺に挨拶の品を持ってくるとは」「……」 その声には、好意の色は一切なかった。 あるのは、ただの嘲りだけ。 美月が見せたあのはにかみも、結局は一人芝居に過ぎない。当の相手である慎一には、まったく通じていなかった。 慎一は椅子から立ち上がると、書斎の奥にある本棚の前へと歩いていく。 そこには、祖父が飾っているいくつかの写真立てが並んでいた。写っているのは三人――祖父と慎一、そして紗月。 小学校の入学式から高校、大学に至るまで、どの写真にも三人だけが並んでいる。 そこに、他の誰かが加わったことは一度もなかった。「母親が会いに来たんだってな。……一応、祝ってやるべきか?」 家族の話題になると、慎一の声色はいつものような棘をわずかに失う。ほんの一瞬だけ、過去に戻ったかのような感覚が、紗月の胸をかすめた。 その声音には、紗月に向けた、言葉にしがたい感情が滲んでいた。 同じものを失った者同士のような、どこか歪んだ共感と、わずかな憐れみ。 ほんの一瞬。 その一瞬だけ、慎一は紗月との間に積み重なった憎しみや確執を忘れたかのように、振り返り、問いかける。「母親が戻ってきて……嬉しいのか」 その瞳は、底の見えない黒い海のようだった。希望も、感情も、波紋ひとつもない、ただ静かな闇。 かつて、二人は家族の話をしたことがある。 そのときの慎一も、まさにこんな目をし
美月のあまりにも行き届いた物言いに、紗月は思わず戸惑った。二階の方へ視線をやり、少し考えてから口を開く。「慎一とおじいさまは、二階の書斎にいると思うけど……呼んできたほうがいい、かな……?」 おずおずと問いかけたその言葉を、美沙子は笑顔で遮った。 そして先ほど美月の腕を取っていたのと同じように、今度は紗月の腕へと手を伸ばし、そのまま絡め取る。「いいのよ、そんな気を遣わなくて。それより最近、どうして母さんに連絡をくれなかったの? ずっと待っていたのよ。せっかく会えたんだもの、今日は紗月、母さんと一緒にいてくれるわよね?」 言い終えると同時に、美沙子はさりげなく美月へと視線を送る。 それを受け取った美月は、すぐに柔らかく微笑んで口を開いた。「そうですよ、お姉さま。せっかくですし、今日はゆっくりママとお話ししてあげてください。……お姉さまがいらっしゃらない間も、ママはずっとお姉さまのことを気にかけていたんです。本当に、お会いしたがっていらっしゃいましたから」 二人は言葉を重ねるように、美沙子の「想い」を大げさに語ってみせる。 けれど実際には、この間、紗月が仕事に追われて美沙子のことを思い出す余裕がなかったのと同じように、美沙子の方からも一度も連絡はなかった。 今日こうして娘を連れて祖父の誕生日会に現れたことも、紗月はまったく知らされていなかった。 それでも、言葉で囲い込まれるようにされてしまえば、紗月には強く拒むことができない。「……お母さん、ご飯はもう食べました? 何か取ってきましょうか」「いいわね、紗月。こうして一緒にいられるだけで、母さんは嬉しいわ」 美沙子はあえて紗月を別の方向へと連れていき、その場に美月だけを残した。 二階へと続く階段を見上げながら、美月はほんの一瞬、満足げに口元を緩める。 紗月の背中が見えなくなった瞬間、あからさまに白い目を向けた。 ――母の言う通りだ。 とっくの昔に捨てられていたこの姉は、やはりたいしたことがない。 朝倉のような家の当主と並ぶには、あまりにも不釣り合いだった。 そう思いながら、紗月の視界から外れた隙を狙い、美月は足早に二階へと上がっていった。 美沙子は紗月の腕を強く掴んだまま、片時も離そうとしなかった。 しばらくすると、紗月もその違和感に気づき始める。 美沙子の態度は先日の喫茶
今年の祖父の誕生日会が、これまでになく紗月にとって幸せに感じられた理由のひとつは、慎一が最初から最後まで彼女のそばにいてくれたことだった。 紗月が必死に引き留めたわけでも、祖父の前で仲の良い夫婦を演じてほしいと頼んだわけでもない。 最初から、彼は自らの意思で紗月の隣に立っていた。 贈り物を一緒に選ぶときも、祖父と食事を囲むときも、ずっと変わらずに。 もともと慎一は、もっと盛大な誕生日会を開くつもりでいた。 祖父は、自分の年ではあまりに派手な祝いは頭が痛くなるだけだと言い、結局は自宅でささやかな祝宴を開くことになった。 招かれたのは祖父の親しい友人が数名だけ。どちらかといえば、家族の延長のような、静かな集まりだった。 贈り物は、紗月と慎一が一緒に選んだものだった。 翡翠で作られた彫刻で、華やかで見事な造形に加え、縁起の良い意味も込められている。 祖父はこの歳になってから骨董品に強い興味を持つようになっており、慎一もそれを見越して選んだのだ。 品を見せたとき、祖父は目を細めて心から嬉しそうに笑い、紗月と慎一の手を取り、そのまま重ねるようにして強く握りしめた。「わしはもう、この先に望むものなんて多くはない。ただな……お前たちが、仲良く、ずっと一緒にいてくれれば、それでいいんだ……」 紗月は、自分の手の上に重なる慎一の手のぬくもりを感じた。 その指先がわずかに力を込める。まるで彼の意思で、自分を繋ぎ止めるかのように。 思わず頬が熱くなり、紗月は小さく俯いた。 照れているかのように。 その様子を見て、祖父はさらに嬉しそうに笑った。「そうだ、夫婦というのはそういうものだ。慎一、お前もようやく少しは分かってきたか」 慎一は軽く咳払いをして、その話題から目を逸らすように口を開いた。「じいさん、ほかにも用意してある。そっちも見てくれ」 午後になると、招待されていないはずの客が二人、別荘に姿を現した。 紗月の家族を名乗り、紗月を育ててくれた祖父の誕生日を祝うため、そして感謝を伝えるためだという。 門のところへ駆けつけた紗月の視界に入ったのは、美沙子。そして、その腕に親しげにしがみつく若い女性だった。 白いワンピースを身にまとい、首元にはダイヤのネックレス。光を受けてきらめくそれは、紗月よりもはるかに華やかで、場にふさわしい以上の装いだっ







