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第12話

作者: 瑶影
研究室に入った初日、スマートフォンの銀行アプリが通知を表示した。

口座に多額の振り込みがあった。

備考欄には「補償」と記されている。

以前私は受け取りを拒否したが、榊は強引に振り込んだらしい。

何の補償なのか理解できなかった。

愛していなかったのに、弄ぶつもりで結果のない関係を続けたことか?

父の会社に投資せず、倒産させたことか?

それとも桜井を偏愛したことか?

かつてはこれらのことで彼を恨んでいた。

だが今は吹っ切れた。

人の心をコントロールすることはできないが、愛していた頃の私は本気だった。

私はただ善意を貫き、彼を利用するつもりなどなかった。それで十分だ。

榊がどうであれ、もうどうでもいい。

この金を使う気はない。国内の口座を動かせば、私の居場所がバレる。

これらの金は専属の弁護士と財務顧問が定期的に慈善団体へ寄付してくれる。これも榊の罪滅ぼしになれるだろう。

しかし榊はあきらめていない。

彼と桜井の結婚は連日トレンドを賑わせた。

#榊司 桜井咲子、天が認めたカップル

#桜井社長、婿を褒めたたえる

#榊司、榊グループCEO就任

誰も知らないが、その主人公は毎日SNSで私にメッセージを送り続けている。

思い出の消えたあのアカウントに。

【どこにいる?】

【なぜ黙って去った?】

【前から決めていたんだな。家も車も売って、パスポートを持ち歩いて、身体検査も要らないって。とっくに気づくべきだった】

【俺が鈍かった。君はわざと隠したな】

【安藤、君は永遠に傍にいると思っていた】

【君に会いたい。どんなことがあってもここで君と繋がるっていいたのに】

【君は嘘つきだ】

利益を選んだ男の偽りの深情け。

見るだけで吐き気がした。

恋とは盲目になるヴェールのようだ。

剥がれ落ちた時、愛した相手がただの俗物だと気づく。欲深く、欠点だらけで、言葉にすら嫌悪を感じてしまう。

私はアカウント削除を申請した。

ちょうどその時、瀬川が研究室のドアをノックした。

この辺りで公共交通を利用する安全性は心配なもので、今日は一緒に車を見に行く約束だった。

真っ赤なスポーツカーに一目惚れした。

だが最終的に選んだのはSUVだった。

「好きなのはこっちじゃないんだろう?なぜ選んだ?」

瀬川は鋭く私の視線を察知した。

「スポー
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