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もう二度と、あなたのもとへは帰らない

もう二度と、あなたのもとへは帰らない

By:  マリモCompleted
Language: Japanese
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長年、性欲がないと言っていた夫の榊怜司(さかき れいじ)が、教え子の写真を見ながらひとりで欲を満たしていた。妻の私、榊汐里(さかき しおり)は、あの子に夫の心が移ったのだろうと察した。 その後、三崎莉央(みさき りお)が手術中に技術を見せつけようとして失敗し、母は寝たきりになってしまった。私は怜司に、莉央を刑務所へ送るか、私と離婚するか、二つに一つの選択を迫る。 ひと晩ベランダで冷たい風に吹かれていた夫は、翌日、莉央の重大な過失を示す証拠を提出した。それ以来、彼は医療関係者の間でも妻に頭の上がらない男として知られるようになり、私たちは以前のように仲睦まじく暮らしていた。 ――妊娠が分かり、彼を驚かせようと、こっそり夫の病院の表彰式へ出かけたあの日までは。 会場に入るなり、壇上で賞を手にスピーチをする若い女性の姿が目に入り、全身から血の気が引いた。そこにいたのは、刑務所にいるはずの三崎莉央だったのだ。

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Chapter 1

第1話

「この3年間、支えてくださった榊教授に心から感謝しています。今日、この賞をいただけたのも……」

壇上の莉央を見上げる怜司は、誇らしさを隠しきれずにいた。周囲からは、羨むような声が漏れ聞こえてくる。

「榊教授ってば、あのときも三崎先生をかばい通したもんね。義理のお母さんが手術台で死にかけたのに、責任を問わなかったんだから」

「それだけじゃないよ。教授の強力なバックアップのおかげで、三崎先生はうちの病院の賞を総なめにしている。理想のカップルだよね」

気づいたときには、頬は冷たい涙で濡れていた。私のために必ず責任を取らせると誓った夫は、まるで花を慈しむように、あの子を大切に守り育てていたのだ。

壇上から下りた莉央は、急にひどく傷ついたような顔をして、怜司の胸へ飛び込んだ。

「まだ3年も前のことを言ってくる人がいるの。怜司さんも、私が悪いと思う?」

怜司は彼女の髪を愛おしそうに撫でながら慰めた。

「ばかだな。あの件はお前のせいじゃない。俺がついてるんだから、誰にも文句は言わせないさ。あんなことより、お前が楽しく過ごせるほうが大事なんだ。俺がいるから、気にするな」

莉央が感激して何度も涙を拭うそのそばで、私の心はすっかり打ち砕かれていた。

母が寝たきりになってからの3年間、私はずっとふさぎ込み、薬に頼ってどうにか今日まで生きてきた。そんな私を心配して、怜司は飲み込んだ睡眠薬を何度も吐かせてくれた。

「怖がらなくていい。俺がいるから」

あのときと同じ言葉が、今はひどく空々しく響いた。

問いただそうと一歩踏み出した矢先、莉央が恥じらうように避妊具を怜司の白衣のポケットへ忍ばせたのが見えた。

「受賞のお祝いだから、今日は5回してもいいよ。途中でやめてなんて言わないから」

怜司の喉仏が動き、その顔にかすかな欲がにじんだ。

結婚を控えた頃、怜司は【性欲低下】の診断書を私に見せ、「結婚しても、満足させられないかもしれない。それでもいいか、よく考えてほしい」と言っていた。

それでも予定どおり結婚し、どうにか彼を喜ばせようとあれこれ試したが何をしても駄目で、8年間で体を重ねたのは数えるほどしかなく、ひどいときには寝室から追い出されることさえあったのだ。

親密に寄り添う2人を見ているうちに、うっかりスマホを落としてしまった。振り向いた怜司の顔には明らかな動揺が走ったが、すぐに平静を取り戻すと、私を警戒するように莉央をかばう仕草を見せた。

「先に家まで送るよ」

怜司が私の肩をかすめて通り過ぎていく。私は壁に手をついて、どうにか体を支えていた。ふくらんだお腹にも何かが伝わったのか、下へ引っ張られるような強い痛みが走った。

さっき送った【サプライズがあるの。楽しみ?】というメッセージには、返事がなかった。

納得のいく説明が欲しくて電話をかけてもすぐに切られ、かけ直すと電源まで落とされていた。

もう、答えは出ている。私は弁護士に電話をかけ、「離婚協議書を作ってください」と頼んだ。

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第1話
「この3年間、支えてくださった榊教授に心から感謝しています。今日、この賞をいただけたのも……」壇上の莉央を見上げる怜司は、誇らしさを隠しきれずにいた。周囲からは、羨むような声が漏れ聞こえてくる。「榊教授ってば、あのときも三崎先生をかばい通したもんね。義理のお母さんが手術台で死にかけたのに、責任を問わなかったんだから」「それだけじゃないよ。教授の強力なバックアップのおかげで、三崎先生はうちの病院の賞を総なめにしている。理想のカップルだよね」気づいたときには、頬は冷たい涙で濡れていた。私のために必ず責任を取らせると誓った夫は、まるで花を慈しむように、あの子を大切に守り育てていたのだ。壇上から下りた莉央は、急にひどく傷ついたような顔をして、怜司の胸へ飛び込んだ。「まだ3年も前のことを言ってくる人がいるの。怜司さんも、私が悪いと思う?」怜司は彼女の髪を愛おしそうに撫でながら慰めた。「ばかだな。あの件はお前のせいじゃない。俺がついてるんだから、誰にも文句は言わせないさ。あんなことより、お前が楽しく過ごせるほうが大事なんだ。俺がいるから、気にするな」莉央が感激して何度も涙を拭うそのそばで、私の心はすっかり打ち砕かれていた。母が寝たきりになってからの3年間、私はずっとふさぎ込み、薬に頼ってどうにか今日まで生きてきた。そんな私を心配して、怜司は飲み込んだ睡眠薬を何度も吐かせてくれた。「怖がらなくていい。俺がいるから」あのときと同じ言葉が、今はひどく空々しく響いた。問いただそうと一歩踏み出した矢先、莉央が恥じらうように避妊具を怜司の白衣のポケットへ忍ばせたのが見えた。「受賞のお祝いだから、今日は5回してもいいよ。途中でやめてなんて言わないから」怜司の喉仏が動き、その顔にかすかな欲がにじんだ。結婚を控えた頃、怜司は【性欲低下】の診断書を私に見せ、「結婚しても、満足させられないかもしれない。それでもいいか、よく考えてほしい」と言っていた。それでも予定どおり結婚し、どうにか彼を喜ばせようとあれこれ試したが何をしても駄目で、8年間で体を重ねたのは数えるほどしかなく、ひどいときには寝室から追い出されることさえあったのだ。親密に寄り添う2人を見ているうちに、うっかりスマホを落としてしまった。振り向いた怜司の顔には明らかな動揺
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第2話
家へ戻ると、意外にも怜司がすぐあとから帰ってきた。いつになく体を寄せてくる彼からは、私の知らない生々しい色気が漂っている。「もう1か月近くしてないだろ。ずっとしたがってたじゃないか」あんなところを見られておきながら、こんな手でごまかすつもりなのか。私は力いっぱい彼を振りほどき、「触らないで!」と叫んだ。「さっき三崎莉央を見たの。どういうことか説明してくれる?」と問い詰めると、以前なら私が怒るとすぐになだめようとした彼が、今は面倒そうな顔をしている。「もう済んだことだろう。莉央には将来があるんだ。あまり追い詰めるなよ」信じられない思いで見つめ、しばらくしてようやく、「じゃあ、お母さんは?一生寝たきりでも構わないっていうの?」と声を絞り出した。怜司は疲れたようにこめかみを押さえ、「忘れるなよ。お義母さんが毎月受けてる手術は、俺にしかできないんだ」と言い放った。耳を疑ったが、脅されているのだということははっきり分かった。母が危篤になったとき、私は三日三晩、手術室の前を離れなかった。彼は体を壊すほど無理をして母の手術に当たり、合間には食事を作って自ら食べさせてくれ、「お義母さんだって、こんなに悲しんでほしくないはずだよ。全部、俺に任せて」と言ってくれたのだ。この人さえいれば大丈夫だと、誰よりも頼りにしていたのに。彼がさらに何か言いかけたところで、けたたましく着信音が鳴った。すぐに出た怜司は、私にはなじみのない優しい声で莉央に答え、出ていこうとしてふと足を止めた。「そういえば、サプライズって何だったんだ?」お腹をそっと撫でたが、打ち明けようとしていた言葉は喉につかえ、「何でもない」としか言えなかった。彼は聞き返す余裕もなく、挨拶もせずに飛び出していった。ほどなくして通知音が立て続けに鳴り、2人のベッド写真が次々と届いた。添えられているのは、どれも別の国のホテルの名前だった。出張のたびに彼が買ってきてくれたお土産を、私は大切にガラスケースへしまってきたが、その陰で2人は関係を重ねていたのだ。私にくれたものは、浮気の埋め合わせにすぎなかった。込み上げる吐き気をこらえ、家を出るために荷物をまとめた。回復のための最後の手術が終われば、母を連れてここを離れられる。翌朝、病院からの突然の電話で目を覚ました。「榊さん、
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第3話
莉央は、行為のあとにベッドで寄り添う2人の写真を、私にメールで送ってきた。立て続けに打ちのめされ、私は床にへたり込んだ。絶望したままスマホを開き、SNSへ投稿を書き込んだ。【母が病床で生死の境をさまよっているのに、榊医師は、以前、手順を守らず医療事故を起こした教え子と不倫しています】瞬く間に話題になったのを見て、2人のベッド写真も続けて公開した。ネットには莉央を不倫相手だと罵り、刑務所に入れろという声があふれ、ようやく怜司から電話が来た。「汐里、何を考えてるんだ!莉央を脅したりして。お義母さんを助けてほしくないのか!」いきなり怒鳴られ、スマホを握る手に力が入った。目の奥が熱くなるのを感じながら、私は言い返した。「あの子がそんなに心配なら、早く来てお母さんの手術をしてよ」しばらくして、電話の向こうでうんざりしたように鼻で笑う声がした。「莉央を悪者にしたくて、そんな嘘までつくのか。手術の連絡なんて一度も来てないぞ!」電話を切られて数分後、私の投稿に思いがけないコメントがついた。多くの「いいね」を集めていたのは、夫の書き込みだった。【妻の榊汐里は精神疾患を抱えており、投稿の内容はすべて本人の妄想です。三崎医師が若く美しいことに嫉妬し、不適切な発言をしてしまいました。夫として、皆様にお詫び申し上げます。妻には三崎さんへ直接謝罪させますので、皆様にも見届けていただければと思います】精神疾患の診断書まで添えられていた。その直後から、私のスマホは鳴りやまなくなった。【病気なら病院へ行けよ。人に迷惑かけるな!】【若い子に嫉妬してばっかりのくそばばあ。母親が死んだって自業自得だろ!】【謝るまで母親の治療なんかしなくていい。そうでもしなきゃ、甘すぎるだろ!】浴びせられる罵声を聞きながら、何を言っても信じてもらえないのだと絶望していると、再び怜司から電話が入った。「今すぐ3階に来て、莉央に謝れ。嫌だと言うなら、お義母さんのことをよく考えるんだな」冷えきった声で、母の命を盾にしてくる。けれど手術室の状況は悪く、一刻も惜しかったため、私は3階へ走った。部屋に入るなり、配信中のカメラがいっせいにこちらを向き、その場にいた人たちも、私を奇異の目で見ていた。莉央は怜司の腕の中に隠れ、泣きじゃくっている。「奥さんのせいで、私
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第4話
血の気が引いた。「待ってください、私……すぐに行きます」と答え、一歩踏み出したところで、怜司が立ちふさがった。「謝りもせず、どこへ行くんだ。100回叩き終わるまで、この部屋からは出さないぞ!」もう限界だった。力も尽きかけていたが、それでも訴えた。「お母さんがもう危ないの。最期に会わせて!」けれど彼は少しも心を動かされず、逆らうことを許さない目を向けた。「俺の話が分からないのか?早くやれ!」周りの人たちまで私を蔑み、同調して声を上げる。「本当に頭がおかしいんだな。何かあれば母親を言い訳にして、責任逃れかよ!」「みんな、ドアを押さえろ。絶対に出すな!」必死に扉を叩き、爪を立ててかきむしると、そこに血の筋が残った。時間が過ぎるほど胸をえぐられるように苦しくなり、とうとう、言われたとおりにするしかなくなった。自分の頬を一度、また一度と叩き続けた。顔は血にまみれ、醜く腫れ上がっていく。「……98、99」100まで数えたときには、痛みであふれた涙が血と混じって流れていた。怜司は何とも言えない顔になったが、それでも「まだ謝ってないだろう」と私を解放しなかった。歯を食いしばり、得意げな莉央の前で額を床に打ちつけた。強い音が響く。額から血を流しながら、私は絞り出すように言った。「ごめん、なさい!」すると、ようやく彼の口調が変わった。「もういい。明日は時間どおりに行って、お義母さんの手術をする」説明しようとした、そのときだった。母の死亡を知らせる通知がスマホに届いた。「榊さん、お悔やみ申し上げます」その瞬間、私の心も死んでしまった。床に崩れ落ちると、周りの罵声も聞こえなくなった。怜司がとっさに私を支えようとする。けれど、そのとき莉央が声をかけた。「午後も手術があるでしょう。一緒に準備しよう?」その言葉に引き止められた怜司は、もう私を見ようともせず、莉央を抱き寄せて出ていった。母を見送る手続きをしなければと、どうにか立ち上がろうとすると、不意に足首をつかまれた。「謝れば終わりだと思ってるのか?甘いんだよ!」「三崎先生は、美人で、しかも優しい。今日は先生の代わりに、お前を懲らしめてやる!」いきなり下腹を蹴られ、温かいものが両脚を伝って流れ落ちた。「赤ちゃんだけは……お
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第5話
少し離れたところから聞こえた叫びに、手術室へ入ろうとしていた怜司が振り向いた。「何だって?」入口の警備員が、足をもつれさせながら駆けてきた。ひどく怯えているのか、言葉もうまく続かない。「さっき……奥さんが川のほうへ歩いていくのを見たんです。そのあと、水に落ちる音がして。もしかして、飛び込んだんじゃ……」それを聞いた怜司は、ほっと息をついた。「あいつが?飛び込むわけないだろう。母親を置いて死ねるわけがない」疑いもせずに手術室へ入ったが、手術中も隣の莉央は絶えず話しかけてきた。「怜司さん、終わったらホテルに行こうよ。すごくかわいいキャミソールワンピースを用意したの。びっくりするよ!」その言葉で、汐里も驚かせたいことがあると言っていたのを思い出したし、明日は義母の手術だった。怜司はなぜか胸騒ぎがして、「また今度にしよう」と答えると、莉央は露骨に不機嫌になった。「まだ汐里さんのこと考えてるの?本当にムカつくわ。ネットでもみんな、私のことを悪く言ってるのに。味方してくれないんだ」その言い草には、怜司もいい気がしなかった。「俺の前でまで、そんなことを言うな。3年前はお前のミスだっただろう。反省したと言ってたじゃないか」莉央はそれ以上、何も言えなくなった。手術を終えて出てくると、病院の前は大騒ぎになっていた。「防犯カメラに映ってたんだって! 榊汐里さん、本当に川へ飛び込んだらしいよ!」誰かが息をのんだ。「それに、どうしてあんなに血まみれなの? すごく苦しそうに見えるけど……」「ひどい連中だな。道路に放り出して、そのままにしたのかよ!」怜司は慌てて人をかき分け、川へ駆け寄った。だが、周囲にはすでに規制線が張られていた。「下がってください」そう止められても、怜司は前へ出ようとした。「妻が溺れてるんだ! 早く助けてくれ!」汐里が何より水を怖がることを、彼は知っていた。「すでに水中を捜索しています。ご家族はこちらでお待ちください」職員が根気よくなだめても、不安は募るばかりだった。謝れと言っただけで、本当に川へ身を投げるなんて。見物人が防犯カメラの映像を見ていると分かると、怜司は我を忘れ、そのスマホを奪った。映像には、傷ついた体で足を引きずりながら、川へ向かう汐里の姿が映っていた
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第6話
怜司は目を見開き、「どういうことだ?」と聞き返した。「奥様は、おそらくもう……」残念そうに言いかけた職員に、「どうして死んだなんて言えるんだ!見つかってもいないのに!」と取り乱し、危うく周囲の人を傷つけそうになった。そのそばで、莉央は満足そうに笑っていた。「亡くなったんだったら、お葬式の準備をしようよ。安らかに眠れるようにしてあげないと」口を挟むなり、振り向いた怜司に頬を叩かれた。「よくそんなことが言えるな!汐里が死んだら、お前に何かいいことでもあるのか!」呆然と頬を押さえた莉央は、それ以上何も言えなくなった。そこへ職員が、防犯カメラの映像から切り出した画像を見せた。「奥様の出血は、流産によるものではないかと見ています。誰がこれほどの暴行を加えたのか、ご存じですか?」医師である怜司は、よく見るとすぐに出血の理由を悟った。汐里が驚かせたいと言っていたのは、新しい命を授かったことだったのだ。辺りを見回すと、さっき汐里をはやし立てていた男に気づいた。その服には血がついている。「誰の指図で殴ったんだ!」男は怯えて脚を震わせ、莉央をちらりと見た。「三崎莉央さんに金をもらって、見物に来たんです。それ以上は、言えません……」怜司は信じられない思いで莉央を見た。「お前だったのか?ネットで汐里を叩いていた連中も、お前が雇ったのか?」企みが露見してうろたえた莉央が、「私……えっと……」と言いかけると、また平手打ちが飛んだ。「まだ言い逃れする気か!お前が汐里を追い詰めて、川へ飛び込ませたんだぞ!」そこで、ふと思い当たった。「病院からの電話も、お前が勝手に切ったんだな?」シャワーを浴びていたとき、確かに着信音は聞こえていた。莉央には迷惑電話だと言われ、あとで確かめようとしたときも、甘えてベッドへ引き戻された。そのまま、すっかり忘れてしまったのだ。ここまで卑劣な女だったとは、思わなかった。見破られた莉央は、哀れっぽく訴えた。「怜司さん、あのときのことをばらされるのが怖かったの。刑務所になんて入りたくなくて……」3年前も、こうして泣いて頼まれたから見逃し、事実を隠してやったのだ。その女が今、義母を死なせ、汐里を川へ追い込んだ。怜司は絶望して目を閉じた。「ここまでするとは思わなかった。
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第7話
幼なじみの桐谷航(きりたに わたる)が川から私を助け上げ、急いで病院へ運んでくれた。その途中で行き先を変えてもらい、怜司の知らない小さな病院で手当てを受けた。川岸では皆が私の「遺体」を捜していたが、生きていることを知らせるつもりはなかった。怜司にはこのまま諦めて、二度と私に関わらないでほしかったからだ。彼から連絡が来ないよう、電話もそれ以外の連絡先もすべてブロックし、別の街へ移った。航の会社で働けることになり、忙しくも充実した日々を送っていた。そんなある日、同僚たちがスマホを見ながら、驚いた様子で話し始めた。「三崎莉央って、医者なのにこんなことしてたんだ。前は名医だと思ってたのに」「不倫相手の男に告発されたんだって。もう、ただじゃ済まないね」「その男、今は奥さんを必死で捜してるらしいよ。いい気味だよね。奥さんも戻らなきゃいいのに。またつらい思いをするだけでしょう」教えてもらったリンクを開くと、怜司が証拠をすべて公開し、莉央を告発していた。3年前の医療事故についても詳しく説明し、投稿の最後で母と私に謝罪していた。【私の不適切な対応により、義母を死なせてしまいました。深く悔やんでいます。亡くなった義母に、そして妻に、心からお詫びします】コメント欄は、怜司への批判で埋まっていた。【亡くなってから謝っても遅いだろ。そのときは不倫相手と寝てたくせに】【奥さんが精神病だなんて、よくそんな嘘をつけたね】【奥さんは二度とお前に会いたくなくて、川に飛び込んだのかもな。自惚れるなよ】投稿は大きな騒ぎになり、怜司はその日のうちに病院を解雇された。共通の友人のSNSには、バーでひとり酔いつぶれる姿も載っていたが、あんなに惨めな姿になっても、もう私の心が動くことはなかった。3か月後、私の暮らすマンションの前に、怜司が現れた。思わず距離を取ったが、離れようとするたびに近づいてくる。私にまた会えたことが、うれしくて仕方ないようだった。「汐里、生きてたんだな。そうだと思ってた……どうして連絡してくれなかったんだ?ネットで謝ったのは見ただろう?まだ怒ってるのか?」これで許してもらえると思っているらしい。その言い方に、腹立たしさのあまり笑いそうになった。何度か謝れば、私がすべて水に流して、また夫婦に戻れるとでもいうのだろうか。
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第8話
怜司は呆然としていたが、やがて勢いよく名前を書きつけた。「先にひとり暮らしに音を上げるのは、お前のほうだ。賭けてもいい」私が怜司なしで生きていけるはずはないと、たかをくくっているのだろう。人生の半分をともに過ごし、私はこの先もずっと怜司を頼って生きていくつもりだった。けれどそれは、彼を愛していた頃の話だ。落ち着いて協議書をしまい、淡々と答えた。「言っておくけど、この3か月、ひとりでもうまくやってたわ」怜司は、服装にも肌の手入れにも気を配っている私を見つめた。自分と別れても元気に暮らしていることが、つらいようだった。「前は、服も俺が買ってたのに。健診も、エステも、俺が連れていってたのに……」確かにそうだった。でも、それくらい自分でもできる。そのことを、彼は忘れているのだ。つぶやき続ける怜司にはもう構わず、バッグを握りしめて背を向けた。母が亡くなってから3か月、ようやく遺骨を墓に納めることができた。その墓地にまで、思いがけない人がやってきた。顔をすっかり隠し、サングラスまでかけて、おどおどと近づいてくる。莉央だった。「何しに来たの?」莉央は周りに誰もいないことを確かめ、サングラスを外した。「取引よ。訴えを取り下げて、あのときの責任も問わないでくれるなら、怜司さんを返してあげる」思わず笑ってしまった。莉央は怜司を手に入れるためなら手段を選ばず、ついには人の命まで奪った。それほどまでに私と張り合い、怜司を奪うことに執着していた。けれど、彼女はまだ気づいていない。私の中にはもう、怜司への愛情など残っていないことに。「もう自首したら?これ以上あがいても、どうにもならないでしょう」莉央は私を見下すような顔をした。「その年で怜司さんを手放せるわけないじゃない。何を気取ってるの?訴えを取り下げなくても、あなたの思いどおりにはさせないわよ。怜司さんに頭を下げて頼めば、3年前みたいに助けてくれるんだから!」あの頃とは状況が違う。今の怜司は自分の立場さえ危ういのだから、莉央を助けている余裕などあるはずがない。「ここは母のお墓なの。帰って」相手にせず追い返そうとすると、莉央は腹を立てて私を殴ろうとした。けれど、その手が届く前に、こちらから頬を打った。莉央は信じられないという顔をし、やり返そ
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