LOGIN長年、性欲がないと言っていた夫の榊怜司(さかき れいじ)が、教え子の写真を見ながらひとりで欲を満たしていた。妻の私、榊汐里(さかき しおり)は、あの子に夫の心が移ったのだろうと察した。 その後、三崎莉央(みさき りお)が手術中に技術を見せつけようとして失敗し、母は寝たきりになってしまった。私は怜司に、莉央を刑務所へ送るか、私と離婚するか、二つに一つの選択を迫る。 ひと晩ベランダで冷たい風に吹かれていた夫は、翌日、莉央の重大な過失を示す証拠を提出した。それ以来、彼は医療関係者の間でも妻に頭の上がらない男として知られるようになり、私たちは以前のように仲睦まじく暮らしていた。 ――妊娠が分かり、彼を驚かせようと、こっそり夫の病院の表彰式へ出かけたあの日までは。 会場に入るなり、壇上で賞を手にスピーチをする若い女性の姿が目に入り、全身から血の気が引いた。そこにいたのは、刑務所にいるはずの三崎莉央だったのだ。
View More怜司は呆然としていたが、やがて勢いよく名前を書きつけた。「先にひとり暮らしに音を上げるのは、お前のほうだ。賭けてもいい」私が怜司なしで生きていけるはずはないと、たかをくくっているのだろう。人生の半分をともに過ごし、私はこの先もずっと怜司を頼って生きていくつもりだった。けれどそれは、彼を愛していた頃の話だ。落ち着いて協議書をしまい、淡々と答えた。「言っておくけど、この3か月、ひとりでもうまくやってたわ」怜司は、服装にも肌の手入れにも気を配っている私を見つめた。自分と別れても元気に暮らしていることが、つらいようだった。「前は、服も俺が買ってたのに。健診も、エステも、俺が連れていってたのに……」確かにそうだった。でも、それくらい自分でもできる。そのことを、彼は忘れているのだ。つぶやき続ける怜司にはもう構わず、バッグを握りしめて背を向けた。母が亡くなってから3か月、ようやく遺骨を墓に納めることができた。その墓地にまで、思いがけない人がやってきた。顔をすっかり隠し、サングラスまでかけて、おどおどと近づいてくる。莉央だった。「何しに来たの?」莉央は周りに誰もいないことを確かめ、サングラスを外した。「取引よ。訴えを取り下げて、あのときの責任も問わないでくれるなら、怜司さんを返してあげる」思わず笑ってしまった。莉央は怜司を手に入れるためなら手段を選ばず、ついには人の命まで奪った。それほどまでに私と張り合い、怜司を奪うことに執着していた。けれど、彼女はまだ気づいていない。私の中にはもう、怜司への愛情など残っていないことに。「もう自首したら?これ以上あがいても、どうにもならないでしょう」莉央は私を見下すような顔をした。「その年で怜司さんを手放せるわけないじゃない。何を気取ってるの?訴えを取り下げなくても、あなたの思いどおりにはさせないわよ。怜司さんに頭を下げて頼めば、3年前みたいに助けてくれるんだから!」あの頃とは状況が違う。今の怜司は自分の立場さえ危ういのだから、莉央を助けている余裕などあるはずがない。「ここは母のお墓なの。帰って」相手にせず追い返そうとすると、莉央は腹を立てて私を殴ろうとした。けれど、その手が届く前に、こちらから頬を打った。莉央は信じられないという顔をし、やり返そ
幼なじみの桐谷航(きりたに わたる)が川から私を助け上げ、急いで病院へ運んでくれた。その途中で行き先を変えてもらい、怜司の知らない小さな病院で手当てを受けた。川岸では皆が私の「遺体」を捜していたが、生きていることを知らせるつもりはなかった。怜司にはこのまま諦めて、二度と私に関わらないでほしかったからだ。彼から連絡が来ないよう、電話もそれ以外の連絡先もすべてブロックし、別の街へ移った。航の会社で働けることになり、忙しくも充実した日々を送っていた。そんなある日、同僚たちがスマホを見ながら、驚いた様子で話し始めた。「三崎莉央って、医者なのにこんなことしてたんだ。前は名医だと思ってたのに」「不倫相手の男に告発されたんだって。もう、ただじゃ済まないね」「その男、今は奥さんを必死で捜してるらしいよ。いい気味だよね。奥さんも戻らなきゃいいのに。またつらい思いをするだけでしょう」教えてもらったリンクを開くと、怜司が証拠をすべて公開し、莉央を告発していた。3年前の医療事故についても詳しく説明し、投稿の最後で母と私に謝罪していた。【私の不適切な対応により、義母を死なせてしまいました。深く悔やんでいます。亡くなった義母に、そして妻に、心からお詫びします】コメント欄は、怜司への批判で埋まっていた。【亡くなってから謝っても遅いだろ。そのときは不倫相手と寝てたくせに】【奥さんが精神病だなんて、よくそんな嘘をつけたね】【奥さんは二度とお前に会いたくなくて、川に飛び込んだのかもな。自惚れるなよ】投稿は大きな騒ぎになり、怜司はその日のうちに病院を解雇された。共通の友人のSNSには、バーでひとり酔いつぶれる姿も載っていたが、あんなに惨めな姿になっても、もう私の心が動くことはなかった。3か月後、私の暮らすマンションの前に、怜司が現れた。思わず距離を取ったが、離れようとするたびに近づいてくる。私にまた会えたことが、うれしくて仕方ないようだった。「汐里、生きてたんだな。そうだと思ってた……どうして連絡してくれなかったんだ?ネットで謝ったのは見ただろう?まだ怒ってるのか?」これで許してもらえると思っているらしい。その言い方に、腹立たしさのあまり笑いそうになった。何度か謝れば、私がすべて水に流して、また夫婦に戻れるとでもいうのだろうか。
怜司は目を見開き、「どういうことだ?」と聞き返した。「奥様は、おそらくもう……」残念そうに言いかけた職員に、「どうして死んだなんて言えるんだ!見つかってもいないのに!」と取り乱し、危うく周囲の人を傷つけそうになった。そのそばで、莉央は満足そうに笑っていた。「亡くなったんだったら、お葬式の準備をしようよ。安らかに眠れるようにしてあげないと」口を挟むなり、振り向いた怜司に頬を叩かれた。「よくそんなことが言えるな!汐里が死んだら、お前に何かいいことでもあるのか!」呆然と頬を押さえた莉央は、それ以上何も言えなくなった。そこへ職員が、防犯カメラの映像から切り出した画像を見せた。「奥様の出血は、流産によるものではないかと見ています。誰がこれほどの暴行を加えたのか、ご存じですか?」医師である怜司は、よく見るとすぐに出血の理由を悟った。汐里が驚かせたいと言っていたのは、新しい命を授かったことだったのだ。辺りを見回すと、さっき汐里をはやし立てていた男に気づいた。その服には血がついている。「誰の指図で殴ったんだ!」男は怯えて脚を震わせ、莉央をちらりと見た。「三崎莉央さんに金をもらって、見物に来たんです。それ以上は、言えません……」怜司は信じられない思いで莉央を見た。「お前だったのか?ネットで汐里を叩いていた連中も、お前が雇ったのか?」企みが露見してうろたえた莉央が、「私……えっと……」と言いかけると、また平手打ちが飛んだ。「まだ言い逃れする気か!お前が汐里を追い詰めて、川へ飛び込ませたんだぞ!」そこで、ふと思い当たった。「病院からの電話も、お前が勝手に切ったんだな?」シャワーを浴びていたとき、確かに着信音は聞こえていた。莉央には迷惑電話だと言われ、あとで確かめようとしたときも、甘えてベッドへ引き戻された。そのまま、すっかり忘れてしまったのだ。ここまで卑劣な女だったとは、思わなかった。見破られた莉央は、哀れっぽく訴えた。「怜司さん、あのときのことをばらされるのが怖かったの。刑務所になんて入りたくなくて……」3年前も、こうして泣いて頼まれたから見逃し、事実を隠してやったのだ。その女が今、義母を死なせ、汐里を川へ追い込んだ。怜司は絶望して目を閉じた。「ここまでするとは思わなかった。
少し離れたところから聞こえた叫びに、手術室へ入ろうとしていた怜司が振り向いた。「何だって?」入口の警備員が、足をもつれさせながら駆けてきた。ひどく怯えているのか、言葉もうまく続かない。「さっき……奥さんが川のほうへ歩いていくのを見たんです。そのあと、水に落ちる音がして。もしかして、飛び込んだんじゃ……」それを聞いた怜司は、ほっと息をついた。「あいつが?飛び込むわけないだろう。母親を置いて死ねるわけがない」疑いもせずに手術室へ入ったが、手術中も隣の莉央は絶えず話しかけてきた。「怜司さん、終わったらホテルに行こうよ。すごくかわいいキャミソールワンピースを用意したの。びっくりするよ!」その言葉で、汐里も驚かせたいことがあると言っていたのを思い出したし、明日は義母の手術だった。怜司はなぜか胸騒ぎがして、「また今度にしよう」と答えると、莉央は露骨に不機嫌になった。「まだ汐里さんのこと考えてるの?本当にムカつくわ。ネットでもみんな、私のことを悪く言ってるのに。味方してくれないんだ」その言い草には、怜司もいい気がしなかった。「俺の前でまで、そんなことを言うな。3年前はお前のミスだっただろう。反省したと言ってたじゃないか」莉央はそれ以上、何も言えなくなった。手術を終えて出てくると、病院の前は大騒ぎになっていた。「防犯カメラに映ってたんだって! 榊汐里さん、本当に川へ飛び込んだらしいよ!」誰かが息をのんだ。「それに、どうしてあんなに血まみれなの? すごく苦しそうに見えるけど……」「ひどい連中だな。道路に放り出して、そのままにしたのかよ!」怜司は慌てて人をかき分け、川へ駆け寄った。だが、周囲にはすでに規制線が張られていた。「下がってください」そう止められても、怜司は前へ出ようとした。「妻が溺れてるんだ! 早く助けてくれ!」汐里が何より水を怖がることを、彼は知っていた。「すでに水中を捜索しています。ご家族はこちらでお待ちください」職員が根気よくなだめても、不安は募るばかりだった。謝れと言っただけで、本当に川へ身を投げるなんて。見物人が防犯カメラの映像を見ていると分かると、怜司は我を忘れ、そのスマホを奪った。映像には、傷ついた体で足を引きずりながら、川へ向かう汐里の姿が映っていた