第2話

知枝の頭の中で警報が鳴り響き、無意識のうちに健司の腕を振りほどいた。

健司は一瞬きょとんとしたが、彼女が昨夜自分が帰らなかったことに怒っているのだと思った。

「知枝、ごめん。俺が悪かった。もう二度としないから」

謝るときの彼の声は、いつも少し甘く、怠けたようで、それでいて人を惹きつける響きを持っている。

「あなたの約束ほど価値のないものはないわ」

知枝は振り返り、意味ありげな目で彼を見た。「酔っぱらって帰らない夜、あなたはいつも同じことを言うの」

「……」

健司は一瞬、息を呑んだ。そのとき確かに見えた――彼女の瞳に、今まで一度も見たことのない冷たい光が。

その瞬間、ポケットの中のスマホが震えた。

「悪い、ちょっと電話に出る」

そう言い残し、健司はスマホを手にバルコニーへ向かい、ガラス扉を閉めた。

知枝はその場に立ち尽くし、ガラス越しに彼の姿を見つめている。

朝の日差しがちょうどよく差し込み、彼の立ち姿を照らしている。相変わらず優雅で、自信に満ちた男だ。

けれど、眉と口元に浮かんでいる甘やかな笑みが、今はただ薄気味悪く見えた。

あの頃、知枝が彼を好きになった理由があった。

目が曇っていたとはいえ、まったくの間違いではなかったのかもしれない。でも今にして思えば、それは浅はかさ以外の何物でもなかった。

一晩かけて痛みを噛み締めた今、知枝はもう「愛しているかどうか」を問う気持ちを持っていない。

ただ、この醜い人生の過ちを、一刻も早く正したい。母の幸子をはじめ、岸元家の無念を、必ず晴らすために。

選択を誤ったと気づいたなら、たとえこれまでどれほど尽くしていても、すぐに損切りすべきだ。

それは、父が幼い頃から知枝に叩き込んだ経営の鉄則である。そして今、それを結婚生活に適用するときが来たのだ。

健司がスマホをしまうのを見て、知枝は思考を切り替え、無表情のまま彼に近づいた。「また用事？」

「うん、仕事のこと」

彼は話題を軽く逸らしながら言った。「そうだ、おじさんが今日帰国する。今夜は実家で食事だ。用事が片付いたら迎えに来る」

津雲グループは大手企業であり、社長の津雲三郎（つくも さぶろう）は年を重ねても上品で洒脱な人物。彼は三度の結婚歴があり、四人の息子と二人の娘がそれぞれの妻との間に生まれた。

その中で最も年下の子は、今日帰国予定の津雲安雄（つくも やすお）だ。健司にとっては、二歳年上の叔父にあたる。

安雄は知枝の学生時代の先輩でもあった。学内では彼に関する噂が絶えず、少女たちの間ではまるで神のように語り継がれていた存在だった。

しかし、彼は人生の絶頂期に事故で下半身不随となり、その後、海外へ渡って消息を絶った。

今思えば、彼と知枝が顔を合わせたのは、たった一度だけだ。ずいぶん昔のことにもかかわらず、あの息を呑むような美しい顔を、彼女は今でもはっきりと思い出せる。

「知枝？」

健司は彼女の様子に気づき、眉をひそめた。やはり、どこかいつもと違う気がする。

「わかってるわ」

知枝は適当に答えた。「このあと美南に会う約束があるの。話が終わったら自分でタクシーを呼んでそっちに行くから、迎えはいいわ」

「どこか具合でも悪いのか？」健司が手を伸ばし、彼女の額に触れようとした。

知枝はすっと身をかわした。「平気よ。あなた、仕事があるんでしょ？早く行かないと。私は出かける準備をするわ」

彼女がファミリークロークに向かって歩く後ろ姿を見送りながら、健司は少し考え込み、スマホを取り出して秘書に電話をかけた。

「今年の夏コレクション、有名ブランドの新作をすべてまとめて知枝に送れ」

……

約束の時間どおりに、知枝は茶室に現れた。

美南は、薄化粧をした彼女の顔を見て思わず驚いた。「ちょっと、旦那が他の女に子ども作ったのに、あなたよく化粧なんかする気になれるね？」

「浮気されたからこそ、化粧しなきゃでしょ」

知枝は何気なくエルメスのカバンをテーブルに置き、顔を上げて尋ねた。「例の鑑定報告書は、本物なの？」

「ええ、検査機関に確認したけど、確かに本物よ」

美南は疑わしげな目で知枝を見つめた。「ねえ、知枝、ショックで頭がおかしくなったんじゃないの？」

「どういう意味？」知枝は眉をひそめた。

「じゃあ何？今泣き崩れて、自殺しようとする方がよかったって言うの？」

「知枝……」

美南は言葉を飲み込み、眉間にしわを寄せた。

二人は高校時代からの親友である。美南は、知枝がどれほど健司を愛していたかを、誰よりもよく知っている。

卒業後、知枝が彼と結婚し、家庭に尽くすと決めたとき、二人は一度大げんかをした。

それでもこの五年間、美南は知枝の幸せそうな姿を見て、この恵まれた少女が自分なりの人生を歩むことを、ようやく受け入れられたのに――まさかこんなことになるなんて。

美南は考えれば考えるほど、やりきれない気持ちで胸が苦しくなった。

「知枝、あなたが現実を受け入れにくい気持ちはよくわかる。

でも、今は冷静に考えた方がいいと思う。結婚して五年、あなたはすでに鳥籠の中に閉じ込められたカナリアのような存在よ。その籠から出たら、どこへ飛ぶつもり？

それに、津雲家と間宮家は縁組のおかげで密接に協力してる。間宮社長が離婚を認めると思う？

目をつぶって見逃せばいいじゃない。その私生児さえ――」

「美南」

知枝は彼女の言葉を遮り、かすかに声を震わせた。「あなたは、もう私には何もできないって思ってるの？」

かつて、美南は知枝を最も親しい友人として誇りに思っていた。誰よりも眩しい存在だと信じていた。

なのに結婚して五年が経つうちに、いつの間にか美南の中で知枝はダメな女になっている。

「私はただ、現実を見てほしいだけよ……」

美南は苦しそうに眉をひそめた。知枝の離婚願望を応援したいが、彼女がその結果で壊れてしまう姿は見たくない。

「大丈夫。私は自分が何をしてるか、ちゃんとわかってる」

知枝は一呼吸おき、心の中の苦しみを抑えた。「信頼できる探偵を雇って、健司と沢原さんが会ってる証拠を集めてほしい。

それから、あの子のことも調べて。健司が浮気したという動かぬ証拠になるわ。

半月あれば十分だ。その間にすべて片付けて、きれいに離婚する」

美南の心配そうな目を見つめ、知枝は静かに微笑んだ。「美南、信じて。離れられないのは私じゃなくて、健司の方よ」

五年間の結婚生活で、知枝は完璧な妻として尽くしてきた。

鉄舟重工の数々のプロジェクトで陰の立役者となり、さらに三郎が家業を健司に継がせる決心をしたのも、彼女が提案したデジタル化推進計画がきっかけだ。

よく考えてみると、健司が彼女から離れられないのは、優しいからではなく、彼女を利用する価値があるからだ。

美南は黙ったままだ。

彼女は、なぜ知枝がそこまで自信を持てるのか分からないが、今の知枝の瞳に、かつてのあの強さを見た気がした。

美南は思わず知枝を信じて、頷いた。「わかった、手伝うわ」

知枝が茶室を出た頃には、すでに夕暮れ時だ。

タクシーを拾い、津雲家の本邸へ向かった。

車内でスマホを取り出し、持ち出すべきものをメモに書き出した。細かい項目がずらりと並んでいる。

そのとき、画面にメッセージが表示された。

【師匠、お願い！来月のレースに出るから！俺、国のために戦いたい！手伝ってくれないはずがないよね】

【忙しい。また今度】

知枝が返信を終えたとき、タクシーが止まった。

「お客さま、着きましたよ」

運転手の声に顔を上げた瞬間、庭の奥で車を降りる二人の姿が知枝の目に入った。

――健司と蛍。

夕陽に照らされた真紅のワンピースが、遠くでひときわ眩しく輝いている。

二人は笑いながら話し、蛍は時折、健司の耳元に顔を寄せて囁いた。その親密な仕草に、健司はまるで慣れているかのように受け入れた。

知枝の胸がじわりと痛んだ。息が浅くなるような、静かな痛みだ。

彼女は目を逸らし、スマホで支払いを済ませてタクシーを降りた。そして健司のもとへ歩き始めた。

ちょうどそのとき、知枝の義母・津雲典子（つくも のりこ）が別荘から出てきた。彼女は真っ先に知枝に気づいたはずなのに、目を向けることもなく、笑顔で蛍のもとへ歩いていった。