Share

第3話

Author: 笠一つ
「知枝!」

健司が声をかけた。

その声に、典子はようやくしぶしぶながら知枝に目を向けた。「あなたも来たのね」

知枝は、典子が蛍の手を握っているのを横目で見ながら、蛍が微笑みを含んだ声で説明するのを耳にした。

「おばさんがどうしてもお会いしたいとおっしゃって……本当は、私の立場では今日の家族の集まりに出るのは少し場違いなのですが」

「どうして場違いなの?」

典子は満足そうに蛍を見つめた。

「私は蛍が好きなのよ。蛍を見ると本当に嬉しくなるわ。さあ、中に入りましょう。ゆっくりおしゃべりでもしよう!」

「あなたは台所を手伝ってきて」

それは知枝に向けた言葉だ。

そう言い残すと、典子は嬉々として蛍の手を引き、中へと入っていった。

健司が知枝のそばに寄ってきた。「俺も一緒に厨房に行くよ……」

「どうして?」

知枝は顔を向け、冷たい声で尋ねた。「あなたまで、誰があなたの妻か忘れたの?」

毎回津雲家の本邸に来るたびに、知枝は腰を下ろす間もなく、典子から台所仕事を命じられている。

理由は、「健司は舌が肥えていて、家の味に慣れているから、あなたももっと覚えて彼の世話をきちんとしなさい」というもの。

長年のことなので、知枝も慣れてしまっている。

たとえ手に火傷を負っても、健司がその手をそっと吹きかけてくれれば、不思議と痛みが和らぐように感じられた。

それに、リビングで年長者たちの相手をするよりも、台所にこもっている方が気楽だった。

けれど、今――どうして蛍はリビングにいられて、正式な「津雲家の若妻」である自分が台所に行かなければならないの?

健司は一瞬、意味が分からなかったようだ。「どういう意味だ? 行きたくないなら、行かなくていいじゃないか。そんなに怒ることはないだろ?

知枝、誰もお前に無理をさせたことはない」

彼は気持ちを落ち着かせるようにして、知枝の手をそっと取った。「お前が俺を愛してくれているから、いろいろしてくれるんだって分かってる。俺はお前の気持ちにちゃんと感謝してるんだ……」

――まただ。この馴染み深い、洗脳のような言葉。

一瞬、知枝の手に残る火傷の痛みが蘇った。まるで今もその熱が残っているかのように、ひりひりと。

知枝は彼の手を振り払い、言い返す気もなく、そのまま別荘の中へ歩き出した。

健司は眉をひそめた。自分が悪いと分かってはいるが、彼の忍耐はすでに限界に達している。

――ただ一晩帰らなかっただけだろう?

何もやましいことをしていないのに、なぜここまで不機嫌にされなければならないのか?

二人はほぼ同時にリビングに入った。

津雲家の人々はすでにほとんど集まっており、広いリビングは満席状態で、笑い声が飛び交っている。

ただ一人、車椅子に座った男だけが黙っている。彼こそが今日の主役だ。

その存在だけで、隅の空間さえ圧倒的な重みを帯びている。

知枝がリビングに足を踏み入れた瞬間、目を奪われた。

――安雄。

彼は深いモスグリーンのシャツを身にまとい、白磁のような肌を際立たせている。

袖をまくった腕には美しい筋肉の線が浮かび、そのしなやかで力強い様子が、彼の静かな雰囲気と不思議なほど調和している。

彼は英字新聞を手に取り、伏し目がちに読んでいる。その眉間には薄く影が落ちるような憂いが漂い、金縁の眼鏡の下で、狐のように切れ長の目が細められている。

――何年も経ったというのに、時の流れは彼の顔にわずかな痕跡すら残していなかった。

視線に気づいたのか、安雄がふと顔を上げた。

知枝はなぜか心臓をぎゅっと掴まれたような感覚に襲われ、慌てて目を逸らした。

「あなた、どうしてここに来たの?」

義母の典子の声が響き渡り、場の注目が一気に集まった。

知枝は心の中でため息をつき、口を開こうとしたその瞬間、隣の健司が先に話し始めた。

「母さん、今日は知枝の体調が良くないから、台所のことはやめておこう」

「卵も産めないメンドリが、何の体調不良なの?」

典子は皮肉たっぷりに言い返し、知枝を頭から足までじっと見つめた。

「元気そうじゃない。怠けたいだけでしょ?ご飯も作れないなんて、何の役に立つの?」

「お義母さん、卵を産むのはどのメンドリでもできますけど。

ヒヨコを孵せるかどうかは、メンドリだけの問題じゃありませんよ」

知枝はまるで理屈を述べるかのように、穏やかな声で言った。

怒りを含まないその口調が、かえって笑いを誘った。

リビングには一瞬の沈黙が訪れ、それを破るかのような小さな笑い声が混じった。

「あなた、今……健司のことを……?」

典子の顔は真っ赤になったが、プライドが高いため、なかなか言い出せなかった。

彼女は怒りに満ちて知枝を睨みつけた。

――この小娘は柔らかい綿のように見えるが、まさか中に針が仕込まれているとは。

健司は驚いた様子で、横から知枝を見つめた。

だが知枝の表情は穏やかで、かすかに無邪気ささえ漂っている――とても皮肉を言っているようには見えない。

「もういい」

三郎は眉をひそめ、不快そうに口を開いた。

「家族なんだから、座れ。くだらない言い争いはやめなさい」

「そうよ、知枝さん……」

「沢原さん、私たち夫婦のことに外野が口を出すのは、どうかと思うけど?」

蛍の言葉を、知枝がぴしゃりと遮った。

蛍の顔がこわばり、思わず健司の方を見た。

しかし、彼は気づかないふりをして、優しく知枝の肩を抱き寄せた。

「知枝、ほら、落ち着いて。おじいさんの言う通りにしよう」

その優しさは、まるで短気な妻をなだめる理想的な夫のような演技。

蛍の拳が静かに握りしめられた。その瞳の奥には、毒を含んだ嫉妬の炎がちらりと宿り、すぐに笑みの仮面で覆い隠された。

隣の典子はまだ怒りを収められず、遠巻きに知枝を睨みつけ、歯を食いしばりながら低く吐き捨てた。「津雲家に嫁いで五年も経つのに、いつまでも品がない」

蛍が小声でなだめた。「おばさん、そんなことをおっしゃると、健司が困ってしまいますよ」

「彼は私の息子よ。まさか他人の肩を持つはずないでしょ?」

典子は蛍の手を軽く叩きながら言った。

「健司は孝行者よ。いつだって私の味方だから、安心してね。

でも、健司のことも考えてくれて、あなたは本当に気が利くわ。あの口ばかりの知枝とは大違いね。あんな女、夫の顔に泥を塗らなきゃ気が済まないのよ」

そして典子は深いため息をついた。

「健司が早く結婚しすぎたのが悪い。そうでなければ、あなたのような人こそ彼にふさわしいのに」

蛍は慌てて手を振った。「おばさん、それはいけません。そんなこと、考えたこともありません!」

「やだわ、冗談よ」典子は仕方なく首を振った。「真面目な子ね。ちょっとからかっただけよ」

知枝は、その二人がこそこそ話しているのが自分の悪口だと分かっているが、もう気に留めない。

なぜなら、ずっと前から誰かの視線が、刺すように自分に注がれているのを感じているからだ。

その視線には、明らかに興味深く楽しんでいる様子が混じっている。

やがて、車椅子がカーペットをかすかに擦る音がして、遠ざかっていった。

知枝は閃き、すぐに立ち上がり、適当な理由をつけて席を外した。

中庭では、安雄が桜の木の下で電話をかけている。風が吹くたびに、ピンク色の花びらがひらひらと舞い落ちる。

知枝が近づくと、彼が流暢なフランス語で別れの挨拶をしているのが聞こえた。

低く響くその声には独特の色気があり、フランス語を話すとさらに艶やかで、耳をくすぐるように魅惑的だ。

「おじさん」

知枝はおそるおそる声をかけた。

安雄は振り返り、探るような目で彼女を見つめた。「何か用事でも?」

「ええ」知枝はこくりと頷いた。

――今日こそ、大きな賭けに出る。

「あなたと取引をしたい」

安雄は興味深そうに眉を上げた。「……ほう?」

Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • 愛の檻を抜けて、元夫の叔母になる   第100話

    「俺の教え子の言葉は、そのまま俺の考えでもある」昌成は真顔で口を開いた。「彼女を侮辱するのは、この小林昌成を侮辱するのと同じことだと思っていただきたい」「小林さん、それはさすがに言い過ぎでは……」近くにいた外国人の中年技術者が気まずそうに口を挟むと、周りの連中も気圧されたようにうなずいた。この業界で昌成の名を知らない者はいない。ラボ自体は小規模だが、背後には正体の知れない支援者がついており、この数年は彼らのプロジェクトを何度も救ってきた実績もある。今回のやり取りで自分たちに分がないことは重々承知しているので、内心は釈然としないままだったが、昌成の前ではもう知枝に手を出すような真似はできなかった。こうして場の空気は気まずいまま、話はうやむやに終わった。知枝は昌成を見上げ、「先生、さっきの私は、もう少し言い方を柔らかくした方がよかったでしょうか」と尋ねた。「いや、あれでよかった。よく言ってくれたよ。最初からあいつらがああいう連中だって分かってたら、わざわざ呼び出して紹介なんかしなかったさ」昌成は目を細めて笑い、「マイクたちは、ちょっと成功したくらいで、自分たちがどんなふうにここまで来たかすっかり忘れてる。今のあいつらには、君みたいに肝の据わった若いのから一発かましてもらうくらいがちょうどいいんだ」と言った。「あいつら、昔会った頃は、自分たちが若いときにどれだけ馬鹿にされてきたかって散々こぼしてたくせに――今じゃ、誰よりもふんぞり返ってるんだからな。いいか、俺が後ろにいると思っておけ。何か嫌味を言われても、遠慮する必要はない。言い返していい。後のことは全部、先生が引き受ける」話を聞き終えて、知枝はくすっと笑い、「なんだか私、トラブルばっかり起こす生徒みたいですね」と返した。昌成も笑って、「トラブル上等だろ。怖がって黙ってるほうがよっぽど損だ」と肩をすくめた。「ところで、さっき一人で回ってみてどうだった?何か得るものはあったか」「はい」知枝はうなずき、「ちょうど先生にお礼を言おうと思っていたところなんです。こんな場に連れてきてくださって、本当にありがとうございます」と頭を下げた。「本当ならおじさんに礼を言うところなんだろうけど……いや、離婚した以上、もうおじさんなんて呼ぶ立場じゃないよな」昌成は笑いなが

  • 愛の檻を抜けて、元夫の叔母になる   第99話

    彼女は子どもの頃からずっと機械の世界に触れてきたが、今ほど心を揺さぶられたことは一度もなかった。本当に、ここまで来た甲斐があったと感じていた。蓮はそれ以上言葉をつがず、憧れと熱で満ちたその瞳にすっかり囚われたように、じっと知枝を見つめていた。少し離れたところで、その様子を雪菜はじっと見つめていた。彼女は眉をひそめ、蓮をねめつけるように見上げる。目の前にいるはずの、大好きな兄――なのに、今の蓮はどこか「知らない人」に見えた。距離があっても、蓮のまとう危うい獲物を狙う者の気配が、ひやりと肌に触れてくるようだった。やがて知枝がスマホに目を落としてから、その場を離れていくのを見て、雪菜は歩き出し、蓮の方へ向かった。隣に並び、兄の視線を追うように人の波の向こうを見やると、昌成のそばへ戻っていく知枝の姿が目に入った。雪菜はあきれたように口を開いた。「お兄ちゃん、そんなに彼女のことが好きなの?」心の中で完璧だと思ってきた兄が、離婚歴のある女なんかを好きになるなんて、雪菜には到底受け入れがたかった。どうしても、その事実だけは飲み込めない。「そうだ」蓮はあっさりとうなずいて認めた。誰の前であろうとそう言う覚悟はあるくせに、いざ知枝を前にすると、途端に臆病になる。まして、知枝の方は明らかに自分を兄として見ていて、今は気持ちを打ち明ける時じゃない。押し寄せる独占欲を必死に押し込め、胸が焼けるような焦りを噛み殺しながら、蓮は無理やり視線をそらした。「余計なことはするなよ」それだけ雪菜に言い残し、蓮は踵を返してトイレへ向かった。今の自分には、冷たい水で顔を洗って、胸のざわつきをどうにか冷まし直す時間が必要だった。一方そのころ、知枝は昌成の紹介で、何人かの海外からの専門家たちと顔を合わせていた。彼らは一人ひとり笑顔を浮かべてはいるものの、その奥にある薄い拒絶感までは隠しきれておらず、ただ昌成の顔を立てて愛想よくしているだけなのだと、知枝には分かった。最初のうちは、彼らもたどたどしい言葉で知枝に挨拶してきた。だが話が進むにつれ、いつの間にか彼女をまるで置き去りにするように、彼ら同士だけで流暢なドイツ語を交わし始めた。彼らは知る由もなかったが、知枝はかつて交換留学でドイツに滞在していたことがあり、完璧とまではい

  • 愛の檻を抜けて、元夫の叔母になる   第98話

    三日間にわたって開かれる義肢・機械骨格の国際カンファレンスの会場には、世界中の大手テック企業が開発した最新の成果がずらりと並んでいた。会場全体は徹底して近未来的な空気に満ちていて、その中を歩いていると、本当に何十年も先の世界に紛れ込んだような気さえしてくる。知枝は昌成と一緒に会場へ足を踏み入れた瞬間、息をのんで言葉を失い、周囲を見回すことしかできなかった。順路に沿ってブースを回りながら、昌成はそれぞれの機械骨格の特徴と、その企業が得意としている研究分野を丁寧に説明していく。一通り話を聞き終えて、ようやく世界のテクノロジーがどれほどのスピードで進化しているのか、知枝は実感として飲み込めた。とくに自分がこれまでほとんど触れてこなかったスマートマシンの領域には、想像もつかないほどの可能性が広がっている。気がつくと、星が無数に瞬く海の中にひとり放り込まれたようで、その水の中ならいつまでだって自由に泳いでいられるような心地だった。そのきらきらした瞳に終始好奇心の光が宿っているのを見て、昌成は思わず口元を緩めた。ここ数年、昌成は海外で研究プロジェクトに携わってきたおかげで、この場に顔を出しているトップエンジニアの何人もと顔見知りになっている。知枝は、そんな人たちとの挨拶の時間を取らせまいと、「じゃあ私はひとりで見て回ります」と自分から申し出た。昌成がうなずいて許可してくれると、知枝はノートを抱えたまま会場のあちこちを回り、気になったことを書き留めていった。「知枝」蓮の声が不意に耳に飛び込んできて、知枝ははっとして振り向いた。「蓮さん」「義肢とか機械骨格、そんなに興味あるのか?」蓮は、びっしり文字の埋まったノートを見下ろしながら、「小林先生のラボは、ここ数年スマートマシンの分野を掘り下げてて、世界レベルの特許もいくつも持ってるって聞いてる」と言った。「また先生のもとで働けるようになったのは、本当に良かったと思う。俺も嬉しいよ」蓮の視線は、ふとした拍子に知枝の顔へ吸い寄せられ、そのまま離れなくなった。会場の照明はどこか夢のようで、その光に照らされた彼女の表情は、内側から熱を帯びて輝いているように見える。喉がひりつくほど急に乾き、蓮は小さく息をのみ込んだ。一瞬、本気でそのまま抱き寄せたくなる衝動が胸の奥で跳ね

  • 愛の檻を抜けて、元夫の叔母になる   第97話

    「二人もこの交流会に参加してるのか?」蓮が興味深そうに尋ねた。昌成はうなずき、「ああ、知枝はついこの前、うちのラボと契約したところで、今は俺のプロジェクトに付いてきてもらってる。義肢とか機械骨格に興味があるから、現場を見せておこうと思ってね」と答えた。「知枝、また先生のところで働いてるんですね?」蓮は嬉しそうに目を細め、「それは心強いですね。先生がそばにいてくだされば、きっと知枝はもっと伸びていけます」と言った。「俺なんて道案内みたいなもんだよ。どこまで行けるかは、結局彼女自身の腕次第だ」と昌成は控えめに言う。そのとき、ウェイターが蓮のそばに来て、耳元で何かをささやいた。蓮は思わず眉をひそめ、わずかにうんざりしたように「分かった」と短く返した。ウェイターを下がらせると、蓮は知枝の方を向き、真剣な声で「俺、まだ片づけなきゃいけない用事がある。あとでまた連絡するから、何か困ったことがあったら遠慮なく言ってくれ」と言った。「ありがとうございます、蓮さん」一言礼を述べて蓮の背中が遠ざかるのを見送ると、知枝は振り返って、昌成の探るような視線と目を合わせた。「七瀬社長は、ずいぶん君のことを気にかけてくれてるみたいだな」知枝は眉を曇らせ、「先生も、ネットのあの噂を見てしまったんですか」とぽつりとこぼした。昌成は小さく笑って、それ以上は何も言わなかった。このところの知枝の頑張りはずっとそばで見てきたし、今さら恋愛沙汰に足を取られるような子じゃないと分かっているから、わざわざ蒸し返す話でもないと感じたのだ。……一方そのころ、蓮は父親の席へと戻り、「親父」と声を掛けた。蓮の父親・七瀬源蔵(ななせ げんぞう)はあからさまに不機嫌そうに鼻を鳴らし、「呼びに行かせなきゃ、あの女と飯でも食うつもりだったのか?」と噛みついた。「蓮、お前ここがどういう席か分かってるのか。離婚した女なんかとべったりしてたら、お前の評判に傷がつくだけだぞ!」「離婚してたら、何か問題でも?」蓮の目の色は一気に冷え、「俺が本気で隣に座って一緒に食事したら、それがどうした。ここまで来るのに何を背負ってきたと思ってるんだ、今さら外野の噂が怖いとでも?」と言い返した。「お前ってやつは……!」源蔵は息を詰まらせて目をむき、「何て口の利き方だ。心配

  • 愛の檻を抜けて、元夫の叔母になる   第96話

    健司が帰ったあと、美南はすぐに知枝に電話をかけた。「もうね、健司、本気で頭どうかしてるとしか思えないの!結婚してたときは沢原のことばっかり気にしてたくせに、離婚した途端、今度はあんたにしがみついて離れようとしないなんて、どんな神経してんのよ?」電話に出た途端、美南は堰を切ったようにまくしたてた。知枝は、その勢いの中に紛れた言葉をつなぎ合わせて、健司が自分のところへ押しかけてきたらしいと理解し、その馬鹿馬鹿しさに思わず笑ってしまった。結局これが男という生き物の悪い癖で、手元から離れたものに限って惜しくなるのだろう。「でも安心しなって。私からは何もしゃべってないから」美南はひとつ息を吐き、「とにかく、あなたは海外での出張に集中しなよ。健司は今、保釈中で外出に制限かかってるから、帝都から出ることすらできないの。あなたのところまで行くなんて無理だからさ」と続けた。もともと美南の家に身を寄せたときも、知枝が持って行った荷物はスーツケースひとつきりだった。昨日も引っ越し自体はあっという間で、新しい部屋を整える暇もないまま、知枝は昌成に同行して義肢・機械骨格の国際カンファレンスに参加するため国外へ飛ぶことになった。今、知枝はF国にいて、主催者側が手配したホテルに滞在し、つい先ほど昌成からカンファレンス用の資料を山のように受け取ったところだった。無駄にしている時間なんてない。美南と軽く言葉を交わして電話を切ると、知枝はすぐに資料の束へと意識を戻した。しばらくしてノックの音が響き、そこでようやく顔を上げたときには、首がすっかり固まっていて、知枝は思わず息をのんだ。資料を置き、首を揉みながら立ち上がってドアを開けると、そこには昌成がいた。「先生、何かご用ですか?」と不思議そうに問いかける。「さっきメッセージを送ったのに、返事がなくてね」昌成は首をさする知枝の疲れた顔を見て、資料に没頭して寝食を忘れていたのだろうとすぐに察した。「どんなに頑張りたくても、無理は禁物だぞ。まずはちゃんと休まないと」昌成は柔らかく微笑んで声を掛けた。「さ、ひとまずご飯にしよう。続きは戻ってきてからでいい。時間ならまだあるから」「はい」知枝は上着を取りに部屋へ引き返しながら、「ちょうどよかったです。うまく飲み込めていないところもあるので、食

  • 愛の檻を抜けて、元夫の叔母になる   第95話

    最初のうちは、どれだけ助けを求めて叫んでも、誰一人現れなかった。水位がみるみる上がっていき、このままここで死ぬんだと本気で覚悟した。その瞬間、いちばん会いたいと願った相手は知枝だった。「知枝は……?」健司は、はっとして典子の方を向き、「母さん、俺が入院したって、知枝に知らせてくれた?」と言った。典子は一瞬きょとんとしてから、「健司、あんたたちはもう何の関係もないのよ。昨夜ね、知枝がネットでもう離婚したってはっきり公表したの。今では世間じゅうが二人の離婚を知ってるわ」と言った。健司は耳を疑い、「どうしてそんなことを……?」とつぶやいた。「本当に、ショックで頭までやられちゃったの?」典子は怒りと心配が入り混じった声で、「昨日あんた、彼女に会いに行ったでしょ? 夜にはもうネットのトレンドに上がってて、 みんながあの子と七瀬蓮がいい仲なんじゃないかって騒いでるのよ」とまくしたてた。「あの子、やっぱりただの大人しい女じゃないわよ。あんたと別れた途端に七瀬蓮に取り入って、きっと前から……」「もうやめろ」健司はそれ以上聞きたくなくて、典子に向かって怒鳴りつけた。蛍は目で合図して、それ以上健司を刺激しないよう典子を制した。そのあと二人は病室を出て行き、健司一人に頭を冷やす時間を残した。典子は知枝の話になると腹の虫がおさまらず、しばらくぶつぶつ文句を言い続けてようやく気が済んだのか、今度は蛍の手を取った。「蛍、やっぱり本当に健司のことを思ってるのはあなただけだって、ようやく分かったわ。健司が知枝にきっぱり見切りをつけたら、私が責任持って二人をくっつけてあげるから」蛍はふっと微笑み、「今はとにかく健司が一日でも早く回復して、黒幕を捕まえることが一番です。それでやっと、みんな安心できますから」と穏やかに答えた。典子は、彼女がわざと縁談の話題を避けたことなど露ほども気づかず、その健気さにますます好感を抱き、「本当に、その通りね!」とうれしそうにうなずいた。蛍は微笑んだまま口をつぐみ、ふと顔を上げて病室の方へ視線を向けた。さきほどの健司の表情の変化は、すべて彼女の目に焼き付いていた。昨夜、健司が泥酔するまで酒をあおったのも、十中八九、知枝のせいだ。死にかけたあとで、真っ先に気に掛けた相手もまた知枝だった。

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status