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第16話

Auteur: 星乃 ゆえ
さやかは恐怖に震えながら、自分のスカートを見つめていた。

布地を滲ませるように、真紅の血がじわじわと広がっていく。

さやかにとって、子どもは名家に嫁ぐための切り札に過ぎなかった。

だが今、失いかけているその命の重みが、恐怖となって全身を支配していた。

さやかはプライドを捨て去り、卑屈に言弥のズボンの裾を掴み、必死に懇願した。

「……ど、どうか私の子どもを助けてください……早く、早く医者を呼んで……!」

言弥は真理子の説得で冷静さを取り戻しつつあったが、それでも情けをかけるつもりはなかった。

彼はただ冷たい視線をさやかに向け、呟いた。

「……いなくなってくれて、ちょうどよかった。これで美和に謝れるし、彼女を連れ戻せる」

さやかの瞳から完全に光が消え失せ、後悔の念だけが心を支配していた。

――言弥が不妊症なら、この子の父親はおそらく……十年もの間、さやかを密かに愛し続けてきた幼馴染み、田中文哉(たなか ふみや)に違いない。

あの夜、衝動に任せて言弥とホテルへ行かなければ。

お金や建前に目を眩ませず、堅実に生きていれば。

文哉は、きっと自分を粗末に扱わず、大切に抱きしめてくれただろう。

きっと、小さくても幸せな家庭を築けていたのに。

だが今となっては、すべては手遅れだった。

出血が増すごとに、さやかの意識は遠のいていった。

ついに真理子が耐えきれず、医師たちに彼女の処置を頼む決断を下した。

母子三人だけとなった病室で、真理子は言弥を抱きしめ、嗚咽を漏らした。

「言弥……これからどうすればいいの?直系親族の臍帯血をどこで探せばいいの?あの人が息を引きとるのを、黙って見ているしかないの?」

「直系親族」……その言葉が、言弥の心に突き刺さった。

彼は震える手で、美和が残した妊娠検査の報告書を取り出し、喉を詰まらせながら言った。

「母さん、落ち着いて聞いてくれ。美和は……妊娠しているんだ。突然のことすぎて、言うのを忘れていた」

真理子は目を見開き、その報告書を奪い取ると、美和の名前を見て涙を溢れさせた。

「よかった……よかったわ。やっぱり美和さんには福があるわ。これであの人は助かるわ!美和さんは今どこにいるの?早く彼女を病院に連れてきて、医師と相談しなきゃ……!」

しかし、言弥の笑顔は一瞬で消え、美和と連絡が取れないことを思い出し
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