LOGIN結婚して五年―― 高橋美和は、幾度もの体外受精の苦しみに耐え抜き、ようやく藤原言弥との子を授かった。 だが、その喜びに浸る間もなく、美和は病院の廊下で信じがたい光景を目にしてしまう。 産婦人科の前で、言弥が秘書の中村さやかを守るように寄り添っていたのだ。 崩れ落ちるように問いただす美和に、言弥は冷たい視線を落とした。 「美和、頼むから取り乱さないでくれ。落ち着いたら、ちゃんと話す。この子だけは……どうしても産ませてやりたいんだ」 そう言い残し、怯えるさやかを抱き寄せてその場を立ち去った。 彼は気づかなかった。美和の足元に広がっていく、赤黒い血の色に。 ――その日を境に、美和は藤原家から姿を消し、言弥の世界からも静かに消えていった。 そして数ヶ月後、すべてを失ったことに気づいた言弥は、ようやく取り返しのつかない絶望の淵に立たされることになるのだった。
View More美和は帰国すると、真っ先に友里のもとを訪ねた。そして、友里の案内で病院にいる真理子のもとへ向かった。思いもよらないことに、記憶を失っていた真理子は、美和の顔だけは覚えていた。真理子はしっかりと美和の手を握り、穏やかな笑みを浮かべて言った。「美和さん……ようやく帰ってきてくれたのね。ずっと会いたかったのよ。どこに行っていたの?お腹の子は元気かしら?」そう言いながら、真理子は震える手を伸ばし、美和の腹部にそっと触れた。美和は小さくため息をついた。――やはり、真理子の中で最も大切なのは、あの子どものことだった。その執念は、彼女の一生を縛り続ける鎖のようにも見えた。美和はそっと真理子の手を握り返し、柔らかな声で答えた。「ええ、元気ですよ。安心してください」医師が真理子の健康に他の問題がないことを確認すると、美和は彼女を二十四時間体制の療養施設へと移した。そこならば、真理子の世話を十分に見ることができる。これで、言弥の遺言のひとつは果たされたのだ。一方で、さやかは事件当日に逮捕され、刑が確定すると間もなく服役を控えていた。しかし彼女は獄中から、美和との面会を求める申し出を出していた。美和は少し考えた末、その面会を受け入れることにした。面会当日、刑務所の入り口で、一人の男が地面に膝をつき、警備の警察官に必死に懇願する姿を目にした。「お願いです!中村さやかに会わせてください!」「あのね、我々の意向ではないく、中村さやか本人が面会拒否をしてるんだ」と、警察は繰り返し説得した。男は失望に打ちひしがれ、顔を覆いながらすすり泣いた。「さやか……あのバカ!」美和は男の正体を知らなかったが、彼がさやかを深く愛していることだけはひしひしと伝わってきた。彼女は男を一瞥し、警察官に促されるまま面会室へと足を運んだ。さやかは、すでにその場で美和を待っていた。その姿を目にした瞬間、美和の胸には複雑な想いが押し寄せる。――もしあの時、彼女がいなければ、今も言弥と一緒にいたのかもしれない。だが同時に、すべてを彼女のせいにすることは違うとも分かっていた。結局、心も身体も制御できなかったのは言弥自身だったのだ。いつだって、男の過ちは女が背負わされる。さやかは輝きを取り戻した美和を見つめ、小さ
言弥は、母を慰めたい気持ちを抱えつつも、今はもっと大事なことを伝えなければならないと覚悟を決めた。血の気の失せた唇を開き、友里に手を振って呼び寄せた。友里は現場の惨状に目を見開きながらも、すぐに言弥のもとへ駆け寄った。言弥は苦痛に歪む顔で、彼女をじっと見つめ、掠れた声を絞り出した。「友里……スマホで録音してくれ。公証も頼む。君は美和の親友だから、信じているよ。……離婚届にはもうサインした。家の書斎の机の上に置いてある。これで美和は自由だ……もし……もし俺が、この試練を乗り越えられなかったら、会社も個人の全財産も、全部美和に託す。たったひとつ、彼女にお願いがある――母さんのことを頼む……最後に……最後に、美和に謝りたい。許してくれなんて言わない。ただ、もう俺を憎まないで欲しいんだ……」友里は涙で顔を濡らしながらも、必死に頷き、力強く答えた。「安心して。必ずその通りに伝えるわ」その言葉を聞いた瞬間、言弥の緊張が一気にほどけた。彼は必死に母の手を握り、僅かながら慰めようとした。「母さん……ごめん……もう面倒は見られないかもしれない。どうか強く生きてくれ……」しかし立て続けの悲劇に、真理子の心は完全に折れていた。彼女の耳には何も届かず、ただ虚ろな目で涙を流すばかりだった。言弥の瞼が重くなり、視界が暗く沈むその刹那――幻のように、美和の姿が見えた。彼女は純白のウエディングドレスを纏い、静かに微笑みながら歩み寄ってくる。あの頃と変わらず美しく、温かく、優しい笑顔だった。「言弥……今日は、私たちの結婚式ね」かつての二人はどれほど幸せだっただろうか。だが、その幸せはもう戻らない遠い幻となってしまった。救急車はすぐに駆けつけたが、言弥は搬送の途中で意識を失った。――ナイフが、心臓を深く貫いていたのだ。真理子は夫と息子を同時に失い、精神を崩壊させてしまった。選択的に記憶を失い、毎日、虚ろな目で夫と息子の名を呼び続ける。「孫が生まれるのよ……我が家に、元気な孫が生まれるの……美和さんが、男の子を産むの……」すれ違う人々に、繰り返しその言葉を告げていた。友里は、言弥の残した情報を頼りに美和と連絡を取った。言弥の最期の録音を送り、ここ数日の出来事のすべてを伝えた。そして、選択を美
言弥は慌ただしく帰国し、その足で病院へ駆け込んだ。廊下の長椅子に腰を掛ける真理子の姿が目に飛び込んできた。痩せ細った肩がわずかに揺れ、その瞳は虚ろで、魂が抜け落ちたかのようだった。足が止まり、胸の奥から恐怖が波のように押し寄せる。言弥は喉を震わせ、かすれる声で問いかけた。「母さん、父さんは……どうなったんだ……?」真理子はゆっくりと顔を上げ、三ヶ月ぶりに見る息子の顔を見た瞬間――張り詰めていたものが決壊し、堰を切ったように涙が溢れ出した。立ち上がり、震える手で言弥の胸元を掴むと、狂ったように泣き叫んだ。「どうして……!どうして今になって帰ってきたの!あの人はずっと……あなたを待っていたのよ!ずっとずっと待ってたのよ!あああ……一体どこに行っていたの!?なぜ美和さんを連れて帰らなかったの!?なぜ子どもを連れて帰って、あの人の命を救わなかったのよ!美和さんは……そんなに私たちを憎んでいたの!?どうして……あの人が死ぬのを黙って見ていられるのよ……!」言弥は母に揺さぶられながらも、涙が無言で頬を伝った。「……母さん、……悪いのは、全部俺なんだ。……美和の子どもは、俺が中村さやかのために、美和を突き飛ばして流産させたんだ。……だから、彼女を責めないでくれ。すべては俺の過ちなんだ。美和にも、母さんたちにも、本当に申し訳ない……」今度こそ、言弥は隠すことなく、すべての真実を母に打ち明けた。その瞬間、真理子は崩れるように床に座り込み、自分の頬を何度も叩きながら、声にならない呻き声を漏らした。「間違っていた……すべて私が間違っていたのよ。……もし私が、中村さやかの子どもをうちに留めなければ、こんなことは起きなかったはず。……死ぬべきなのは、私だったのに……」言弥は慌てて膝をつき、母を抱きしめて泣いた。「違う!違うんだ……母さん……全部、俺の責任だ。殴りたいなら、俺を殴ってくれ……俺は自分の心を守れなかったばかりに、こんな惨劇を招いてしまった……」病室の外で、ただ懺悔の涙が交わった。だが、どれだけ泣いても――父の命は、もう二度と戻らない。言弥は父の最期を看取ることすらできなかった。――すべてが、終わったのだ。言弥は悲しみを堪え、父のために盛大な葬儀を執り行った。だが予想もしなかったことに、長く
言弥は、美和の顔をまともに見ることができなかった。ただ絶望の底から、絞り出すように呟いた。「美和……俺たちに、もう可能性はないのか……?」美和は振り返らず、揺るぎない口調で答えた。「藤原言弥、もし私に対して、ほんのわずかでも情が残っているなら――さっさと離婚届にサインして。二度と私の人生を邪魔しないで」そう言い放つと、彼女は勢いよく裾を引き戻し、振り返ることなく悠真とその場を去った。二人の足音が遠ざかっていくのを見送って、ようやく言弥は呆然と顔を上げた。その瞬間、彼は美和があの時感じていた苦しみを、初めて痛感した。愛する人の隣に、他の誰かがいるというのは――万の矢が同時に心臓を貫くかのような苦痛だった。だが、そんなことよりもっと酷いことを、彼はこれまでに幾度となくしてきた。振り返ることさえ怖くて、当時の美和がどれほど傷ついていたか想像もできなかった。今さらどれだけ悔いても、過去には戻れない。言弥は悟った。心の底から自分を愛してくれた女性を、永遠に失ったのだと。――美和は、もう二度と、自分を許すことはない。それからの数日間、言弥は美和のアパート近くでひそかに身を潜め、彼女の後を追った。学校へ向かう姿、スタジオへ通う姿、そして悠真と微笑み合う姿――ただの覗き魔のように、美和の生活を切り取って眺め続けた。そこに映っていたのは、過去の五年間、自分が知っていた美和とはまったく別人のような姿だった。彼女の瞳は強く澄みわたり、その笑顔には、自信と誇りが宿っていた。ふと、ネットで目にした言葉が頭をよぎった。――『愛は、花を慈しむように』自分はずっと、愛し方を間違えていた。美和の愛を貪り、その献身を当然のように求め、奪うばかりで――その花が咲き誇る姿を見る機会すら奪い続けていたのだ。それからの二ヶ月間、言弥は自らを罰するかのように、毎日美和の後を追い続けた。悠真に向けられる美和の笑顔を見るたび、二人の距離が日ごとに近づいていくのを感じるたび、言弥の心は暗い深淵へと沈んでいった。後悔は、毒蛇のように何度も何度も、彼の心を噛み締めた。その間、真理子からは何度もメッセージが届いていた。【美和さんを見つけたの?】【子供は……見つかったの?】だが、言弥は返信することも、電