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第5話

Penulis: 歩々花咲
「ねぇねぇ、聞いた?天城蒼真(あまぎ そうま)が結婚するんだって!」

「うそでしょ!?帝都のNo.1セレブが!?夜中にいきなり婚約発表とか、興奮して寝られなかったわ……一体誰と結婚するのか、めちゃくちゃ気になるんだけど!」

――休憩タイム。

苑はコーヒーを淹れに行く途中、給湯室から聞こえてきた数人の同僚たちのテンション高めな噂話に、足を止めた。

……天城蒼真。彼の名前を聞いて、苑の胸がふと揺れる。

何度か顔を合わせたことがあった。

けれど、そのどれもが偶然とは思えない「助けられた」場面ばかりだった。

たとえば、車のタイヤが途中でパンクしたとき、通りがかった彼がさっと手を貸してくれた。

あるいは、取引先との会食で相手が酒に酔って嫌らしい態度を取ってきたとき――彼は何も言わず、自然に彼女を連れ出してくれた。

おかげで商談もうまくまとまり、彼女の面目も守られた。

他にもいくつかあったけれど……もう全部は覚えていない。

ただ――彼女が彼に借りた「恩」は、確かにいくつもあった。

――天城さんが結婚するのなら、お祝いを贈らなきゃ。

きっと彼は、苑のことなんて覚えていないかもしれないけれど。

「結婚って、いつなの?」

苑は何気ないふりでコーヒーを淹れながら、訊ねた。

「来週だよ。うちの朝倉社長と同じ日!」

カップを持った手が、ビクリと震えた。

熱いコーヒーが跳ねて、手の甲をじわりと焼いた。

「ごめん……話、続けてて」

苑はそれだけ言って、その場を離れた。

背後で、誰かがため息まじりにつぶやくのが聞こえた。

「なんで天城様の話してて朝倉社長出すかなあ……白石さんが可哀想でしょ」

「ほんとだよ、白石さんってあれだけ尽くしたのに、最後は他人の結婚式の裏方って……切なすぎる」

「はあ……男って薄情よね……でも天城様は違うよ?彼が結婚するのは、十年間片思いしてた女性なんだって」

その日の午後、苑のスマホが鳴った。

「今から、ちょっと付き合ってくれ」

蓮のその一言に、苑はすぐに答えた。

「……はい」

どこへ行くのかなんて、訊くまでもない。

どうせ訊いても、行くしかないのなら――もう、無駄な言葉は使いたくなかった。

進めていた引き継ぎのファイルを保存し、整えてから荷物をまとめ、苑は無言で蓮のあとに続いた。

車が停まったのは――芹沢家の前だった。

琴音がお姫様みたいに嬉しそうに走ってきて、勢いよく蓮の胸に飛び込んだ。

「蓮~!」

勢いよく蓮の腕に飛び込むと、彼の頬にぱちんとキス。

蓮はそれを当然のように受け入れ、優しい笑みを浮かべながら彼女の手を引いた。

「乗ろうか」

後部座席に乗り込んだ琴音は、前を向いた苑に向かってにっこりと微笑んだ。

「白石さん、私たち、今日ウェディングドレスの試着に行くんだ。

ついでに、あんたもドレス選んでおいてね。ほら、ブライズメイドのやつ」

――ああ、そういうこと。

彼らの「幸せ」を、早いうちから見届けておけというわけか。

後部座席では琴音がすっかり蓮に身を預けていた。

細い身体は、まるで彼に溶けるように寄り添っていて――

「蓮、見た?天城蒼真の婚約ニュース。

まさか私たちと同じ日に結婚するなんて、絶対わざとでしょ?目立ちたがりなんだから」

蒼真と蓮――ふたりとも名門の御曹司ではあるけれど、家柄では蒼真の方が一枚上。

彼の家は金も権力も兼ね備えた、まさに帝都の王家。

「気にしすぎだよ。その日、君が一番輝く花嫁になる。

誰にも霞ませなんかしないさ」

蓮の声は、限りなく優しかった。

苑は運転席のミラー越しに、その微笑を見ていた。

そういえば――最後に自分が、あの笑顔を向けられたのは、いつのことだったろう。

「蓮がいてくれて、本当によかった。

七年も遠回りしちゃって、すごく悔しいけど……でも、

蓮がずっと私を想ってくれてたこと、すっごく嬉しい。ありがとう」

琴音は、失われた七年間を、まるで自分の宝物みたいに語っていた。

苑はその言葉を、ただ静かに聞いていた。

胸の中では、またひとつ、小さな音を立てて何かが崩れた。

琴音はそう言うと、また蓮の頬に唇を寄せた。

その瞬間、苑は目をそらした。

――もう、この人への想いは終わった。そう、自分に言い聞かせてきたのに。

それでも、まだ胸の奥に残っていた何かが、ずきりと疼いた。

「ねえ蓮、七年の間に、ほかの女の人と関係あったり……した?」

琴音の口から、そんな鋭い質問が飛び出した。

苑の心が、ピクリと揺れる。

手にしていたスマホを強く握りしめると、指先が白くなった。

思わず、もう一度ミラー越しに蓮の顔を見た。

彼も気配を察したのか、視線をそらさず、苑と目が合った。

そして、そのまま琴音のほうへ向き直り、優しく笑った。

「ないよ。噂なんて信じるな」

「ふふっ、でも仮にあったとしても、私は全然気にしないよ。男の人って、そういうのあるでしょ?……身体の欲とか」

琴音の「大人の余裕」を装った言葉は、あまりにも破壊力があった。

苑にはわかっていた。

あれは、「優しさ」でも「理解」でもない――ただの意図的な侮辱。

だって、琴音はずっと、苑の存在を見つめていたのだから。

「……この話はやめよう」

蓮が話を切り上げようとした。

けれど琴音は、それを許さなかった。

「どうして?もしかして、その女の人を本気で好きになっちゃったとか?」

「ないよ」

蓮ははっきり否定した。

「男にとって、身体と心は別物なんだ」

その言葉が、苑の心を鋭く切り裂いた。

蓮の中で、自分は「愛」ではなかった――

ただの「欲望の対象」だったと、はっきり言われたようなものだった。

たとえ、結婚してくれなくてもいい。

たとえ、愛されなかったとしても、まだ我慢できた。

……けれど、彼女の「想い」を、「存在」を、そんなふうに踏みにじるなんて――

それは、侮辱だった。
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