佐奈side
「佐奈、今度の土曜日は空けておきなさい。連れていきたいところがある。」
「分かりました。準備しておきます」
夕食後、リビングでくつろいでいた私に父が静かに言ってきた。私は嫌な予感がしたが。静かに返事をする。時代は令和だというのに、我が家では父の言うことは絶対だ。
本当は一人暮らしも許されなかったけれど、大学の就活を頑張って名の知れた大手商社に採用されたことを理由に、父は渋々承諾をしてくれた。
そして今、その大手商社を退職して実家に戻ったということは、再び父が絶対の世界になるということである。父のことは尊敬しているし、いずれは父のようになりたいと思っているので嫌いではない。だが、家に戻るのなら今回のような理由ではなく、歓迎されて戻ってきたかったというのが本音だった。
(父が連れていきたいところなんて、どうせ決まっている。)
気分転換にリビングの隅にあるグランドピアノに向かう。
母はピアノの講師をしていて、小さい頃は、長い椅子に二人で座って連弾をしたものだ。大人になった今では一番端まで指が届くようになり、鍵盤が少し小さく感じながら、ショパンの幻想即興曲を奏でた。激しく、そして情熱的に鍵盤を叩くことで、心に溜まった鬱憤を吐き出す。
新しい職場にはまだ
颯side「玲央……」玲央は、俺たち二人に一歩、また一歩と近づいてきた。その目には、俺への明確な敵意が宿っている。「璃子、今日は松田さんと一緒に来ていたのか。僕がいるんだから一緒に回ればいいじゃないか」玲央は優しく微笑み璃子に話しかけるが、璃子は俺の腕をギュッと握り警戒心を露わにしていた。「いやよ、私の婚約者は颯よ。あなたは関係ない」「そんなこと言うけれど璃子には僕が必要だ。それは璃子も分かっているんじゃないかな?」「何言ってるの?玲央の独りよがりよ。あなたがいなくても私は大丈夫だから」普段、俺の前では猫のように甘い撫で声で話しかけてくる璃子からは想像できないくらい冷たくてハッキリ断言する口調に、こんな一面もあるのかと俺は驚いていた。その反面で、佐奈に見せていた俺の素顔を璃子にはまだ見せられていないように、璃子も玲央には素の自分が出せる存在だったのではと思うと、二人の関係の濃さを認めざるを得なかった。「それは璃子が素直になっていないだけだよ。璃子は僕から離れられない。いや、きっと璃子の方から僕を求めてくるよ」
土曜日。社長に命じられたパーティーに璃子と参加した。会場である都内の高級ホテルの大宴会場はシャンデリアの光に満たされ、男性陣はみな仕立ての良いスーツで、女性はドレスや着物、フォーマルなワンピースなどで普段よりも遥かに着飾り、誰も彼もが眩しいほどに綺麗な格好をしている。初めて足を踏み入れた雰囲気に、俺は心臓の鼓動が早くなるのを感じ、緊張しきっていた。「颯、大丈夫?私が側にいるから安心して」璃子はそう言うと、俺の腕にそっと手を添えて微笑んでくる。璃子が隣にいてくれることが、今は頼もしかった。「あー松田君、璃子。もう来ていたんだね」会場に入り、社長に挨拶しに行くとにこやかに手を挙げて微笑んでいる。いつもより少しカジュアルなスーツで、胸元の桜色の淡いネクタイと胸元にブランドのロゴがデザインされたピンをさりげなくつけており、その装いは洗練されている。「今日は場の雰囲気に慣れるだけでいいから。楽しみなさい」社長はそう言って去って行ったが、その言葉は俺に対する配慮なのか、それともまだ璃子の婚約者として紹介するほどではないと釘を刺しているのか分からなかった。社長から与えられた立場は脆い。婚約してから今になっても、状況によってはすぐに切られる可能性もあることを俺は常に警戒をしていた。パ
颯side「松田君、璃子と参加して欲しいパーティーがある。璃子は何度か出席しているから詳細は璃子に聞いてくれ」「はい、承知しました」木曜日、社長室で仕事の資料の説明をした後に社長にそう言われた。璃子と婚約してから、仕事の合間に俺と二人きりになると璃子のことを聞いてきて、祖父の一面も見せるようになってきて、少しやりづらくなっていた。(璃子とパーティーか、この前の玲央のこともあって気乗りしないけれど仕方がない。仕事だ……)そう言い聞かせてから、目の前にある仕事に集中することにした。「ただいま―――」「おかえりなさい」璃子は、俺が帰ってくると必ず玄関まで迎えに来て抱き着いてくる。最初は戸惑っていたが、俺のことを大事にしてくれているのだと思う。リビングに入り、ネクタイを緩めながら璃子にパーティーの件を聞いた。「そう言えば、社長から璃子とパーティーに出席するように言われたんだけれど。詳細は璃子が知っているからって聞いていないんだ」璃子は、少し肩をビクンとさせたが、何事もなかったかのように微笑んだ。
佐奈side「佐奈、今度の土曜日は空けておきなさい。連れていきたいところがある。」「分かりました。準備しておきます」夕食後、リビングでくつろいでいた私に父が静かに言ってきた。私は嫌な予感がしたが。静かに返事をする。時代は令和だというのに、我が家では父の言うことは絶対だ。本当は一人暮らしも許されなかったけれど、大学の就活を頑張って名の知れた大手商社に採用されたことを理由に、父は渋々承諾をしてくれた。そして今、その大手商社を退職して実家に戻ったということは、再び父が絶対の世界になるということである。父のことは尊敬しているし、いずれは父のようになりたいと思っているので嫌いではない。だが、家に戻るのなら今回のような理由ではなく、歓迎されて戻ってきたかったというのが本音だった。(父が連れていきたいところなんて、どうせ決まっている。)気分転換にリビングの隅にあるグランドピアノに向かう。母はピアノの講師をしていて、小さい頃は、長い椅子に二人で座って連弾をしたものだ。大人になった今では一番端まで指が届くようになり、鍵盤が少し小さく感じながら、ショパンの幻想即興曲を奏でた。激しく、そして情熱的に鍵盤を叩くことで、心に溜まった鬱憤を吐き出す。新しい職場にはまだ
颯side「そうか、それならこれは何なんだ。」俺は、玲央から見せられた三か月前の写真を璃子に突きつけた。「俺たちが婚約している時期だよな?なんで二人のツーショット写真を本郷さんが持っているんだ?今年撮ったものだと分かるように、免許証まで証拠として見せられたよ。」玲央は名刺を渡してきた後に自分のスマホを操作して俺に見せてきた。画面を覗くと、玲央と璃子がケーキを二人で持って笑う写真だった。二人はとても幸せそうに微笑んでいて、ケーキの載ったお皿にはチョコペンで『Reo 27th Happy Birthday!』と描かれていた。璃子との婚約が公になったのは半年前だ。三か月前といえば、俺たちが一緒に暮らし始める直前の時期になる。「それは……。颯との婚約を伝えるために会った時のものよ」璃子は即座にそう答えたが、その声には以前のような自信に満ちた張りはなかった。「婚約を伝えるために会った?誕生日の日に?こんな笑顔でツーショット写真を撮って?もしそれが本当だったら、君はすごく残酷な女性なんだな。彼に同情するよ」俺の言葉に璃子の表情が一瞬で硬直する。しかし、すぐに璃子は開き直るように顔を真っ赤にして俺に言い返してきた。
颯side「お帰りなさい」家に入り玄関で靴を脱いでいると、既に風呂に入った璃子が少し濡れた髪のまま俺のところに来て抱き着いてきた。「今日は遅かったわね。帰ってくるの待っていたんだよ。」俺が何も知らないと思っているのか、上目づかいで見てくる璃子が今日、玲央と会ったことで妙に白々しく感じた。俺は何も言わずに身体を引き離し、リビングへと入っていった。「颯、どうしたの?何か会社で嫌なことでもあった?」璃子は、めげることなく俺の後ろから抱き着いてくる。その温かい熱が、かえって俺の心を冷やしていった。俺は大きくため息をつくと、先ほど玲央から貰った名刺をテーブルに静かに置いた。「俺のところに、本郷 玲央さんが俺と璃子の関係を知りたいと言って尋ねてきた。もちろん、何の事だか分かるよな?説明してくれ」玲央の名刺と俺の言葉を聞くと、璃子は俺から身を離し少しだけ後ずさりをした。その顔には、なんて答えるべきか迷っている動揺の色が濃くしっかりと見てとれる。「玲央が?それで颯はなんて答えたの?」「俺は何も言っていない。俺の口から話せることはないと言った。だけど彼は、『自分は璃子の婚約者』だと俺に言ってき