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第6話

Auteur: 黒い土地
次の日、哲也が美羽を送り届けてきたのは、ちょうど日が暮れた頃だった。

「遥」勲は申し訳なさそうに笑いながら、もみ手をしていた。「こちら美羽、上田グループの会長のお嬢さんなんだ。最近ちょっと塞ぎ込んでて、医者からも一人にしないようにって言われててね。上田会長に数日預かってほしいと頼まれたんだ。新居は静かだし、ちょうどいいと思って」

そう言われ私はソファに座ったまま、すっかり冷めてしまった水を手に、美羽のことを見つめていた。

ベージュのニットに、ヒールのない柔らかな靴。顔色も良いみたい。

「石田さん、お邪魔します」美羽はか細い声で言った。「勲さんから、石田さんは穏やかな方だからと聞いていましたので、きっと受けいれてくださるんですよね」

そう言われ、私が置いたグラスが、テーブルの上でカチャンと乾いた音を立てた。

「ええ、もちろんお構いなく」私は立ち上がるとスカートの裾を整え、感情のこもらない笑みを浮かべた。「山下さん、2階の南向きのゲストルームの用意をお願い」

それを聞いて勲はほっと肩の力を抜き、感動したような顔で言った。「遥、ありがとう。お前が一番物分かりがいいって、わかってたよ」

勲が私を抱きしめようとしたけど、美羽の「あっ」という声に遮られた。

「勲さん、なんだかクラクラする……」美羽は玄関の棚に手をつき、今にも倒れそうに体を揺らした。

すると、私に向かって伸ばされた勲の手は、くるりと向きを変え、大股で美羽を支えに行った。「貧血かな?早くソファに座って」

寄り添いあう二人の後ろ姿を見て、私はまるで自分が邪魔者みたいに感じた。

さらに、夕食のメニューまで、明らかに勲が前もって決めていたもののようで、テーブルには、野菜のおひたし、魚の蒸し物、鶏と野菜の煮込みといった、あっさりしたものばかりが並んでいた。

辛いものが大好きな私の前には、白ごはんの入ったお茶碗が一つだけ。

「美羽は体が弱っているから、味の濃いものは食べられないんだ。だから、ここ数日は薄味でお願い」

そう言って勲は料理を取り分けつつ、続けた。「遥、お前も胃を休めなよ」

しかし、私はそれを見ていると、胃がむかむかしてきた。

「勲さん、本当に優しいのね」一方、美羽は料理を受け取ると、挑発するように私に視線を投げた。「石田さんも気にかけてあげてくださいね。勲さんたら、私の病気のことばかりを気遣っているんですから」

そう言ってテーブルの下では、美羽の足が勲のすねをそっと擦っていた。

それを勲は避けもせず、美羽に取り分けを続けていた。「たくさんお食べ。タンパク質もしっかりとらないと」

そう言った後、勲は向き直って、膝の上に置かれていた私の手を握った。そして真剣な眼差しで、声をひそめて言う。「遥、すまないな。これが落ち着いたら、またとびきり美味しいご馳走でも食べに行こう」

愛人にお腹の子のためにおかずを取り分けてやりながら、妻の手を握って未来を約束するなんて。

胸くそ悪い。

そう感じて私は胃酸がこみ上げてくると、思わず「うっ」と吐きそうになった。

すると美羽が箸を止め、勲はきょとんとした後、眉をひそめた。「どうしたんだ?」

「たぶん、薄味すぎて口に合わないのかも」私は口元を拭い、平然と答えた。

美羽はほっと息をつき、くすりと笑った。「石田さんって、わがままなんですね。勲さんがわざわざ用意してくれたのに、ありがたみもわからないなんて」

勲は美羽と私を交互に見てから、冷たい顔になった。「遥、意地を張るな。美羽はお客さんで、しかも病人なんだぞ。そんな態度じゃ、彼女が食事しにくいだろ?気分が悪いなら、先に部屋で休んでくれ。場をしらけさせないでくれよ」

なるほど。場をしらけさせる邪魔者は、私の方だったのね。

「わかったわ」

そう言って言い争うことも、わめき散らすこともなく、私は静かに立ち上がり、椅子を引き、背を向けてその場を去った。

すると、背後から、勲が美羽におかずを取り分けてあげる音が聞こえた。「遥のことは気にするな。結婚式の準備で疲れてて、少し神経質になってるんだ」

一方、私は主寝室に戻ると、スーツケースを開け、身分証明書や現金、着替えなどを詰めていった。

その間、階下からは、楽しそうな笑い声がかすかに聞こえてきた。

夜中の12時、部屋のドアノブが静かに回された。

勲が入ってきた。

私は勲に背を向けて、寝たふりをした。彼はそろそろとベッドに入ると、私に背を向けた。2メートルもある広いベッドの真ん中には、まるで深い溝があるみたいだった。

するとベッドサイドのスマホが一度震え、勲は素早くそれを手に取った。画面の明かりが、彼の横顔の半分を照らす中、「遥?」勲は探るように声をかけてきた。

一方、私は穏やかな寝息を立て続けた。

すると、勲は安心したように息をつき、布団をめくってベッドから降りた。私が起きないように、カーペットの上を裸足で歩いている。

ほどなくしてカチャリ、とドアが静かに閉まる音がした。

私は起き上がってドアに近づき、隙間から外を覗いた。

廊下の明かりがついていた。レースのネグリジェを着た美羽が、勲の体にまとわりついているのだった。

「勲さん、暗いと怖くて……」

「大丈夫、一緒にいてあげるから」

勲は美羽を腕の中に抱きしめた。ゲストルームのドアがゆっくりと閉まり、声が聞こえなくなると同時に、夫としての勲の最後の理性も消え去った。

そしてベッドに戻ると、美羽がわざとドレッサーの上に置き忘れていった冊子に目が留まった。【東都不妊治療センター体外受精周期の注意事項】

1ページ目を開くと、【保護者・配偶者】の欄には、勲の署名があった。

「本当に、用意周到なこと」

そう思って、私は小さくため息をつき、冊子を閉じると、引き出しの一番奥にしまい込んだ。

そしてその夜、私は一睡もできなかった。

朝の6時、枕元のスマホが震えた。海外からの長距離電話だった。

私は電話に出た。声はかすれていたけれど、落ち着いていた。「もしもし」

「石田さんですね、グローバル通信のアフロテラ共同体駐在員事務所です。スケジュールの最終確認です。31日午前8時、第3ターミナル発の便となります。

その後は通信が制限されるエリアに入りますので、国内との連絡が長期間取れなくなる可能性があります。予定通り進めてよろしいでしょうか?」

私は隣の、誰もいなくて冷たいベッドに目をやった。

「はい、確定でお願いします」

「承知いたしました。ご参加、心よりお待ちしております。道中お気をつけください」
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