Share

第5話

Auteur: 黒い土地
そして、退職の手続きをした日は、冷たい雨が降っていた。

編集長は戦場記者への派遣申請書を私に差し出し、深いため息をついた。「石田さん、本当に決めたのか?あそこは、本当に命の保証がない場所だぞ」

「覚悟はできています」私はためらうことなく、書類にサインをした。

編集部を出ると、同僚たちが噂話をしようと集まってきた。「遥さん、寿退社して妊活に入るって本当?前田社長って優しいのね。デスクがお花でいっぱいじゃない?」

私は自分のデスクの隅に目をやった。そこは勲から贈られた花で埋め尽くされている。でも、2週間前に贈られた胡蝶蘭は、手入れもされずに黄色く枯れ、花びらがはらりと落ちていた。まるで死んだ蝶のようで、まるで、私たちの結婚を物語っているようだった。

「ええ」私は微笑んだ。「盛大な結婚式にするつもりだから、みなさんもぜひ来てくださいね」

そう言うと、私はその場を後にした。

そして家に着くと、勲が眉間にしわを寄せて立っていた。

「遥、悪い知らせがある」

勲は私の手を握り、重い口調で言った。「海外から空輸したメインのウェディングドレスが、輸送中にレースがほつれてしまったらしい。修理が終わるのは、結婚式の当日になるそうだ」

私は、失望に満ちた目で勲を見つめた。

だが、つい10分前、私は彼の車のドライブレコーダーの映像を見てしまったのだ。

郊外のプライベートスタジオで、勲は私たちの結婚式のためにオーダーメイドした白いタキシードを着て、美羽のウェディングベールを直してあげていた。

美羽はオフショルダーのサテンのドレスを着て、楽しそうに笑いながら、勲に寄りかかっていた。

一方勲も美羽を突き放すどころか、愛おしそうに彼女の鼻をツンとつつくだけだった。

その優しい眼差しは、私にプロポーズしてくれた時にも見たものだった。

そう思い巡らせながら、「大丈夫よ」私はそう言って勲の手を握り返したが、指先は氷のように冷たかった。「急いでないから」

すると勲はきょとんとして、申し訳なさそうな顔をした。「遥、お前は本当に物分かりがいいな」彼はしゃがみこむと、私の足を自分の膝の上に乗せた。「仕事でまた足が浮腫んだんだろう?マッサージしてあげるよ」

勲の指は長くて、力加減もちょうどいい。私のために、わざわざ覚えてくれたマッサージだ。

「力加減はいかが?」勲は顔を上げ、優しい眼差しで私を見た。「最近、寂しい思いをさせてごめんな。この仕事が片付いたら、ずっとそばにいるから」

私は目の前で跪くこの男を見下ろした。一族の利益のために、完璧な芝居を続ける男を。

「勲」

「ん?」

「今日の香水、少し甘い匂いがするわね」

そう言われ勲の指が、ぴくりと固まった。

「そうかい?化粧品関係のクライアントに会ったから、匂いが移ったのかもしれないな」彼はすぐに平静を取り繕い、話を逸らした。「そうだ、お前のためにルビーのジュエリーセットを注文したんだ。明日届くから、ドレスが遅れるお詫びだと思って受け取ってくれ」

「わかったわ」私は微笑んだ。「ありがとう」

翌日、数千万円はするであろうジュエリーセットが届いた。

私は箱をちらりと開けて中身を確認すると、ウォークインクローゼットの一番下の引き出しに無造作に放り込んだ。

そして午後、配送業者のトラックが裏口に停まった。業者の人は、山積みになった何十もの袋を見て驚いている。「石田さん、これ、タグが付いたままの新品ですけど……全部、寄付されるんですか?」

「全部です」私はがらんとしたウォークインクローゼットに立ち、「もう着ないから、必要な人に使ってもらいましょう」と言った。

シルクのネグリジェ、ラムウールのコート、限定品のバッグ……2時間後、ウォークインクローゼットのほとんどが空になり、勲のスーツが数着、ぽつんと残されているだけになった。

その晩、夜遅く、勲が帰ってきた。彼は寝室のドアの前に立ち、眉間を揉みながら言った。「遥、今夜はお前を抱いて寝たい」

勲が家で寝るのは、この1週間で初めてのことだ。きっと、美羽のほうはうまく「なだめ」終えたのだろう。

それから明かりを消すと、勲は後ろから私を抱きしめてきた。5分も経たないうちに、寝息が聞こえてきた。

二人の女の間を行き来し、嘘を重ねて体裁を保つのは、確かに疲れることだろう。

そう思って、私は目を開けたまま、窓の外に浮かぶ青白い月を眺めていた。そして、涙が静かに頬を伝う中、背中に感じるぬくもりも今では息苦しく思えた。

私はそっと勲の手を解くとベッドから抜け出し、裸足でがらんとしたウォークインクローゼットへと入った。月明かりが、空っぽのハンガーを照らしている。

「勲、この家はもう空っぽなのに。どうしてあなたには、それが見えないの?」

その夜、私は壁に寄りかかって床に座り込み、そのまま朝を迎えた。
Continuez à lire ce livre gratuitement
Scanner le code pour télécharger l'application

Latest chapter

  • 愛を誓ったその日に、ワスレナグサは枯れた   第16話

    時というのは、もっとも残酷で、そして何よりの薬でもある。3年。千を超える日があれば、荒地も再び芽吹くこともあるだろうし、思い出も次第に塗り替えられるだろうから。私と純一との結婚式は、現地の小さな教会で挙げた。マスコミのカメラもないし、何十億円もかけるような派手な演出もない。ウェディングドレスさえ、前の職場の同僚が送ってくれたシンプルなものだった。けれど、教会には私たちが治療した人たちがいっぱいに座っていた。聖歌隊は、地元の子供たちが引き受けてくれた。「石田さん、斉藤さんを夫とし、貧しいときも、富めるときも、病めるときも、健やかなるときも……」「はい、誓います」私は純一を見つめた。これまで何度も、危険な瞬間に身を挺して私を守ってくれた男性だ。目の奥が、じんと熱くなった。そんな中で瞳と涼太は、フラワーガールとフラワーボーイの衣装を着て、後ろで嬉しそうに花びらをまいているのだった。涼太は背がずいぶん伸びた。顔立ちは、ますます勲に似てきたけれど、性格は純一に似て、落ち着いていて、穏やかだ。その日の夜、純一が新聞を手に部屋へ入ってきた。どこか複雑な表情をしていた。「遥、これを見て」それは国内の新聞だった。片隅に、ぼやけた写真が一枚載っている。写真には、雑草の生い茂る庭のブランコに、一人の男性が座っていた。彼はライターを手に、くしゃくしゃの紙を燃やしているところだった。横顔しか写っていなかったけど、私はすぐにそれが勲だとわかった。勲が燃やしていたのは、5年前に私が偽造した中絶同意書だった。その瞬間、心の中が僅かにうずいたように感じたが、もう痛みを感じることはなかった。勲はもう、あの嘘にこだわってはいない。血の繋がりを盾に、私たちを縛りつけようともしていないんだ。燃やしたのは、ただの紙切れじゃない。彼の、あの病的なまでの独占欲だ。勲はこの秘密を胸の内にしまい、沈黙することで、私と子供たちの今の穏やかな生活を守ってくれたのだ。一方で「ずいぶん老けたな」と、純一がそっと言った。「うん」私は新聞を畳んで、脇に置いた。「お休み。明日は授賞式なんだから」今の私はユネスコの平和大使を務めているので、明日はその授賞式があるのだ。……授賞式の会場は、きらびやかな照明に照らされていた。私はステージの

  • 愛を誓ったその日に、ワスレナグサは枯れた   第15話

    それから医療用テントの中では、人工呼吸器が規則正しいリズムを刻んでいた。純一がマスクを外した。充血した目には疲労の色が浮かんでいたけど、どこかホッとしているようにも見えた。「バイタルは安定したよ。肋骨が4本折れてて、内臓も損傷してる。でも、運が良かった。死にはしなかった」私はテントの入り口に寄りかかりながら、ベッドに横たわる勲を見ていた。意識がないというのに、勲の眉間には深いしわが刻まれていた。その手は、何か掴めないものを必死に掴もうとしているかのように、ゆるく握られていた。「ありがとう」私は体を起こすと、汗でぐっしょりと濡れたメモを、勲のベッドサイドテーブルに置いた。【勲、これで終わりよ。もう私たちを探さないで】その乱雑な文字には、すべてを断ち切るという強い決意が込められていた。「今すぐ行くのかい?」純一は白み始めた空を一瞥し、ためらいがちに言った。「前田社長のプライベートジェットはまだ隣国にある。目が覚めて君がいなかったら……」「もう追ってこないわ」私は純一の言葉を遮り、荷物を持ち上げた。「かつての勲は分かっていなかった。私がただ駄々をこねているだけだと思ってたの。でも、昨日あの鉄骨が落ちてきた時、やっと分かったはずよ」私はもう、勲を恨んでいない。でも、ただそれだけ。それが、勲に対する私の精一杯の情け。そして、自分自身への最後のけじめでもあるのだ。ジープが黄色い砂埃を巻き上げて走り出す。私はバックミラーで、荒野に佇むキャンプ地を一瞥した。あそこは、勲が死にかけ、そして私の彼への最後の執着が葬られた場所だ。後部座席では瞳と涼太が眠っていて、車の揺れに合わせて小さく体を揺らしている。そっと二人の顔に触れると、手のひらに伝わる温もりが、なによりも確かなものに感じられた。さようなら、勲。もう、二度と会うことはない。……こうして新しい支援拠点に戻ると、また慌ただしくも穏やかな日常が始まった。勲からの連絡が途絶え、世界がずっと静かになったように感じた。ただ、時々、深夜になると、血に染まったシャツや、瓦礫の中で泣き叫んでいた彼の姿を思い出すことがあった。2週間後、キャンプ地にスーツ姿の男が現れた。迷彩服と消毒液の匂いが充満するこの場所で、その姿はひどく場違いに見えた。「石田さん、私は前田社

  • 愛を誓ったその日に、ワスレナグサは枯れた   第14話

    サイレンがけたたましく夜空に鳴り響いた時、私は瞳に絵本を読んであげていた。耳をつんざくような警報と、近くからの砲撃音が混じり合って、地面が揺れていた。純一が真っ先にテントへ飛び込んできて、まだ目をこすっている涼太を抱き上げた。「遥、瞳を連れて早く!暴動だ!」それを聞いて私は何も言わずに、非常用持ち出し袋を掴み、瞳をしっかり抱きしめて外へ飛び出した。外はすでに大混乱だった。「地下シェルターへ走れ!」純一はそう叫ぶと、私の背中を押して物資倉庫のほうへ走らせた。私たちがシェルターに飛び込む寸前、流れ弾がそばの貯水塔に命中した。巨大な鉄塔は、嫌な音を立ててねじ曲がり、まっすぐ私たちの頭上へ倒れてきた。その瞬間、まるで時間が引き伸ばされたかのようだった。黒い影が覆いかぶさってくるのを見ながら、私はとっさに瞳と涼太を地面に押し倒し、自分の背中で衝撃を受け止めようとした。けれど、覚悟していたはずの激しい痛みはやってこなかった。代わりに、頭の上で獣のような低いうめき声が響いた。私ははっと顔を上げた。すぐ上で、勲がひざまずいていた。数百キロはありそうな鉄骨を、両腕で必死に支えている。彼の膝は、すでに地面に深くめり込んでいた。額からは、血が止めどなく流れていた。「勲……」「行け……」勲は歯を食いしばりながら、言葉を絞り出した。一言発するたびに口から血が溢れる。「斉藤先生!遥たちを連れて行け!」純一もこの突然の出来事に呆然としていた。彼は崩れかかった瓦礫を一瞥すると、片手で瞳を抱き上げ、もう片方で涼太の手を引いた。「遥、早くこっちへ!前田社長はそう長くもたないはずだ!」それを聞いて私は勲を見た。勲の両腕は、激しく震えていた。「嫌だ、行かない……」涼太は怯えて泣き出した。「おじさん、血が出てる」「早く行け!」勲は突然、獣のように吼えると、充血した目で私を睨みつけた。「遥、もし俺の子供たちに傷がついたらお前を絶対に許さないからな!」勲がこの5年で、私にこんな強い口調で話したのは初めてだった。それを聞いて純一は私の腕を掴むと、力ずくで危険な場所から引きずり出した。私たちがそこから転がり出たと同時に、すさまじい轟音が響き渡った。鉄骨は完全に崩れ落ち、砂埃が舞い上がる。勲の姿は、あっという間に瓦礫の

  • 愛を誓ったその日に、ワスレナグサは枯れた   第13話

    「遅かったじゃないか。検問はなかったかい?」それは低く優しい男性の声だった。斉藤純一(さいとう じゅんいち)は白衣を着ていた。砂埃が舞うこんな環境でも、彼らしい上品さと清潔さを保っているのだ。純一は私たちの医療チームのリーダーだ。そしてこの5年間、ずっと私のそばにいてくれた人でもある。「パパ!」瞳は純一を見つけると、すぐに私の手を離した。そして歓声をあげて、彼の胸に飛び込んだ。純一はポケットからきれいなハンカチを取り出した。そして、しゃがんで瞳の顔についた泥を優しく拭ってあげた。「帽子はちゃんとかぶってなきゃって言っただろう?ここの紫外線は強いんだ」純一の口調は咎めるようだったけど、少しも怒っているようには聞こえない。彼は瞳の鼻を軽くつんつんした。「真っ黒になったら、誰だかわからなくなるじゃないか」「パパが私をわからなくなるわけないもん」瞳はくすくす笑った。そして自然に純一の首に腕を回して、彼の頬にすり寄った。この「パパ」という一言は、勲がなんとか取り繕っていた気力を粉々にした。「遥……」勲はなんとか崩れないようにしたが、膝が震えて立つのもままならなかった。「そいつは、誰だ?」しかし、私は勲を無視して、純一が差し出したカルテの束を受け取った。「3号区のマラリアは抑え込んだけど、抗生物質がもってあと2日だ」純一は立ち上がりながら、勲にちらりと目をやった。「新しく来た物資担当の人。名前は前田勲よ」私は淡々と紹介した。純一は眼鏡を押し上げた。口元には礼儀正しいけど、どこか他人行儀な笑みを浮かべていた。「ああ、前田社長ですか。お噂はかねがね伺っておりました。まさかこんな場所でお会いするとは」勲はよろよろと立ち尽くし、乱れた襟元を直した。なんとかいつもの威厳を取り戻そうとしているようだ。「斉藤先生、か」勲の声はかすれていて、必死に抑えた敵意が滲んでいた。「この子たちは俺の子で、本国に連れて帰る。こんなひどい場所に、前田家の子供を置いておくわけにはいかない」そう言いながら、いつもの癖でスーツの内ポケットから小切手帳を取り出そうとした。しかし、その手は空を切った。その動きは宙で止まり、気まずい空気が流れた。勲は歯を食いしばり、腕から高級腕時計を外した。「ここの物資は全部俺が出す。隣国にプライベートジェット

  • 愛を誓ったその日に、ワスレナグサは枯れた   第12話

    安全のため、子供たちは100キロも離れた寄宿学校に預けていたのに。まさか、今回の避難でここに連れてこられるなんて……「あそこ!ママだ!」目のいい瞳がすぐ私に気づいて、興奮した様子で小さな手を振っている。それと同時に、少し離れた場所で水を運んでいた勲も、その声に気づいた。すると彼は無意識に声がした方を見上げたが、その視線の先にある光景を見て、すぐにその場で固まってしまった。涼太はまだ5歳だけど、その目元も、すっと通った鼻筋も、笑っていない時にきゅっと結ばれる口元まで、まるで勲をそのまま小さくしたようだった。そして瞳は、あの印象的な目元が勲そっくりで、輪郭は私によく似ていた。それはDNA鑑定も言葉での説明も、何一つ必要ないほど、誰が見たって、この子たちの親が一目瞭然なくらいだった。それを見た勲の手から、20キロはあろうかという水のタンクが、何の予兆もなく滑り落ちた。土埃の舞う地面に叩きつけられ、青いプラスチックのタンクは裂け、中からきれいな水が溢れ出した。周りの人たちは、貴重な水を無駄にしやがってと悪態をついた。でも、勲の耳には何も入ってこなかった。彼はまるで魂が抜けてしまったかのようだった。膝から力が抜け、泥水の中にへたり込んだ。激しい震えが指先から全身に広がり、乾いて皮がめくれた唇までわなわなと震えていた。立ち上がろうとしたが、二度試しても、足に全く力が入らなかった。仕方なく、勲は四つん這いになって地面を数歩ほど進んだ。二人の子供は、そのただならぬ様子に気づいて、不思議そうにそちらを見た。しばらくして、勲はようやくいくつかの言葉を絞り出した。「君たち……名前はなんていうんだ?」涼太は礼儀正しい子だった。目の前の無精髭だらけの人は少し変だったけど、それでもちゃんと背筋を伸ばして、はきはきと答えた。「こんにちは、おじさん。僕は石田涼太」隣にいた瞳は、大きな目をぱちくりさせながら首を傾げた。「私は石田瞳」勲の瞳孔が、激しく収縮した。その目の中で、様々な感情が激しく渦巻いていた。「生きてる、二人とも生きていたんだ!」勲は泣きながら笑った。涙が顔の泥を洗い流し、白い筋が二本残った。彼はぶつぶつと呟いた。「遥、よくも俺を騙してくれたな。なんて酷い女なんだ」勲は前に飛び出し

  • 愛を誓ったその日に、ワスレナグサは枯れた   第11話

    そして遥の名前が再び現れたのは、国連難民高等弁務官事務所が発表した、医療援助リストの隅だった。勲はその一行をじっと見つめた。【駐在記者兼医療ボランティア:石田遥】写真はなかった。この5年、勲は世界中の「石田遥」という名前の人物を、2300人も調べてきた。年老いた人もいれば、まだ赤ん坊もいた。でも、そのどれもが遥ではなかった。その瞬間哲也は、驚くほど輝きを取り戻した勲の目を見ていた。しかし、また期待しては裏切られるだけではないかと、心配でもあった。「チケットを手配しろ」勲の声はかすれていた。「社長、西アフロテラ共同体では紛争が起きています。それに、デング熱も……」「手配しろと言っているんだ!」48時間後、勲は西アフロテラ共同体の炎天下に立っていた。黄砂が舞い、熱風は腐敗臭を運んでくる。勲は後方支援のボランティアを装い、誓約書にサインした。そして、7時間も揺られたあと彼はキャンプに到着したが、車を降りたとたん、吐いてしまったのだ。「新入り?吐くならもっとあっちでやって」氷のように冷たい声が、耳を突き刺した。勲は全身をこわばらせ、ゆっくりと顔を上げた。すると、5メートル先、トラックのそばに遥が立っていた。カーキ色の作業着に、すっきりとしたショートヘア。腕には薄い傷跡と、日に焼けた小麦色の肌の遥は無線機を手にこっちに目をやったが、その表情は微動だにしなかった。それはまるで、見ず知らずの他人を見るような目だった。一方、彼女の姿を見た勲の目から、不意に大粒の涙がこぼれ落ち、乾いた土に吸い込まれていった。5年だ。2000もの昼と夜をかけて探し続け、夢の中では数え切れないほど再会した。今、遥は目の前にいるのに、こちらを一瞥しようとすらしないのだ。「遥……」「物資はあそこ。3号テントに運んで」遥は勲の言葉を遮り、事務的な口調で言った。「急いで。負傷者が待ってる」そう言うと、遥は背を向けて歩き去った。憎しみも、恨みもない。ただ、そこにはとことん無関心な感情しかないのだ。そう言われ勲は顔を拭うと、上着を脱いで物資の箱へと向かった。気温45度の下、勲は上半身裸で運んだ。手のひらには血豆ができ、汗と血が滴り落ちる。それでも何も言わず、ただ機械のように運び続けた。まるで、体の痛みが胸の痛

Plus de chapitres
Découvrez et lisez de bons romans gratuitement
Accédez gratuitement à un grand nombre de bons romans sur GoodNovel. Téléchargez les livres que vous aimez et lisez où et quand vous voulez.
Lisez des livres gratuitement sur l'APP
Scanner le code pour lire sur l'application
DMCA.com Protection Status