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眠らない夜の約束

眠らない夜の約束

By:  クレヨンおじさんCompleted
Language: Japanese
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Synopsis

切ない恋

逆転

ドロドロ展開

愛人

ひいき/自己中

クズ男

不倫

後悔

小山晴美(こやま はるみ)は、小山家の御曹司である小山修二(こやま しゅうじ)が自宅に囲っていた愛人だった。 五歳で施設から彼に引き取られ、十二歳までに名門の礼儀作法を習得。十六歳のときには、香江市の社交界で最も理想的な花嫁候補と言われる存在になっていた。 十八歳の誕生日の夜、修二が誤って薬を盛られ、彼女は一晩中そばを離れず看病した。 それ以来、香江市中の誰もが、晴美が修二の最も大切な存在であることを知るようになった。 二十歳の誕生日前夜、彼は自らの手で彼女の手首にダイヤモンドのブレスレットをはめ、低い声で言った。 「晴美、やっと君と結婚できるようになったな」 彼女はその胸に顔をうずめ、激しい鼓動に身をまかせた。 だが翌日、修二の父である小山悟(こやま さとる)が公に政略結婚の発表をした。 彼女は取引の駒として扱われ、修二の宿敵である藤原悠斗(ふじわら ゆうと)に嫁ぐことを約束された。 修二は藤原家の令嬢、藤原雨子(ふじわら あめこ)を妻に迎えることになる。 晴美の頭が真っ白になり、血の気が一瞬で引いた。手足は冷たくなっていった。 彼女は勢いよく顔を上げ、隣にいる修二をじっと見つめ、何か言ってほしいと願った。

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Chapter 1

第1話

小山晴美(こやま はるみ)は、小山家の御曹司である小山修二(こやま しゅうじ)が自宅に囲っていた愛人だった。

五歳で施設から彼に引き取られ、十二歳までに名門の礼儀作法を習得。十六歳のときには、香江市の社交界で最も理想的な花嫁候補と言われる存在になっていた。

十八歳の誕生日の夜、修二が誤って薬を盛られ、彼女は一晩中そばを離れず看病した。

それ以来、香江市中の誰もが、晴美が修二の最も大切な存在であることを知るようになった。

二十歳の誕生日前夜、彼は自らの手で彼女の手首にダイヤモンドのブレスレットをはめ、低い声で言った。

「晴美、やっと君と結婚できるようになったな」

彼女はその胸に顔をうずめ、激しい鼓動に身をまかせた。

だが翌日、修二の父である小山悟(こやま さとる)が公に政略結婚の発表をした。

彼女は取引の駒として扱われ、修二の宿敵である藤原悠斗(ふじわら ゆうと)に嫁ぐことを約束された。

修二は藤原家の令嬢、藤原雨子(ふじわら あめこ)を妻に迎えることになる。

晴美の頭が真っ白になり、血の気が一瞬で引いた。手足は冷たくなっていった。

彼女は勢いよく顔を上げ、隣にいる修二をじっと見つめ、何か言ってほしいと願った。

だが、彼はただ沈黙していた。

祝福と拍手の中、その沈黙は耳をつんざくほどに激しく響いた。

晴美は、自分の心臓が見えない手に強く握りつぶされるような痛みに襲われ、呼吸すらままならなかった。

あの夜更けのぬくもりも、あの特別な優しさも、結局は家族の利益の前では何の重みも持たなかったのだ。

晴美は唇を強く噛みしめ、口の中に鉄のような血の味が広がるまで放さなかった。

そして勢いよく手を振り上げ、つい先ほどまで宝物のように大切にしていたダイヤのブレスレットを力いっぱい引きちぎった。

細かなダイヤが彼女の繊細な肌をかすめ切り、鋭い赤い痕をいくつも残した。

パチンという小さな音とともに、ブレスレットは彼女の手から離れ、つややかな床の上にためらいもなく投げ捨てられた。

修二の顔色がわずかに変わり、すぐに手にしていたグラスを置くと、身を乗り出して彼女の冷え切った手を取ろうとした。

彼の声は低く抑えられ、諦めを含んだため息がこぼれた。

「晴美……聞いてくれ。これは一時しのぎなんだ。父を落ち着かせるためで、待っていてくれれば……」

「一時しのぎだと?」

晴美はさっと手を引き、顔を上げた。目尻は真っ赤に染まっていたが、涙をこらえて一滴もこぼさなかった。

「一体いつまで待てっていうの?私が結婚してからもってこと?」

彼女は彼を見つめた。かつて笑みをたたえていた柔らかな目は、今では冷たい嘲笑と、心が枯れ果てたような虚無だけをたたえていた。

「修二、晴美ちゃん、ここにいたのね」

甘ったるい声が、二人の会話を突然遮った。

雨子はふたりの姿を見つけると、ぱっと目を輝かせ、手にしたグラスを軽く掲げながら、花のような笑顔で近づいてきた。ごく自然な仕草で、修二の腕に手を絡めようとした。

「何を話して……」

まだ言い終えぬうちに、何かにつまずいたらしく、手に持ったグラスがぐらりと傾いた。

赤い液体が晴美の白いドレスに飛び散り、高価な布地にたちまち嫌なほど鮮明なシミを広げた。

「あらっ!ごめんなさい、ごめんなさい!晴美ちゃん、本当にわざとじゃないの!」

雨子は悲鳴を上げると、何度も謝りながら、無垢そうな美しい顔に動揺を浮かべて、慌てて二人の方を見た。

修二はわずかに眉をひそめ、すぐに自分のジャケットを脱いで晴美に差し出した。

「大丈夫?着替えようか?」

しかし晴美は二人を一瞥もせず、上着も受け取らなかった。ただうつむいたまま、スカートの裾に広がる汚れを見つめている。それは今の彼女の心そのもののように、濁り、淀んでいた。

そして、彼女はゆっくりと顔を上げ、目の前の二人を見つめながら、ふっと笑った。

「いらないわ」

修二が驚きで目を見開く刹那、彼女は酒に濡れてねっとりしたスカートの裾をつかみ、勢いよく引きちぎった。

ビリッ!

澄んだ布の裂ける音が、ややざわめく宴会場の中でひときわ耳障りに響いた。

彼女の身にまとっていた豪奢なトレーン付きのロングドレスは、一瞬にして裾が不揃いに裂け、どこか壊れた美しさを宿した軽やかなショートドレスへと変わり、その下からは彼女の長くまっすぐな脚があらわになった。

彼女は手に残った破れた布切れを、まるで忌まわしいゴミでも捨てるかのように床へと放り投げた。

晴美は顎を少し上げ、顔色を一瞬で険しく曇らせた修二をまっすぐ見つめながら、一語一語を噛みしめるように言った。

「ちょうどよかったわ。この服も、贈った人も……

別に好きじゃなかったし」

そう言い終えると、晴美はもう修二に一瞥もくれず、まっすぐ宴会場の扉の方へ歩き出した。

修二は手にしたスーツの上着をぎゅっと握りしめ、晴美が去っていく背中を見つめながら、その瞳に複雑な光を宿していた。

宴会場の息苦しいほどの喧騒は完全に背後へと遠ざかり、晴美はそのままタクシーを拾って、小山家の別荘の住所を告げた。

夜の闇を切り裂き、車は走り出した。窓には香江市のネオンがぼやけた光の輪となり、血の気の引いた彼女の顔を、微かに浮かび上がらせている。

胸の奥の、未だ癒えぬ空洞に疼きがこだまし、晴美はその痛みと寒さに震えた。

深く息を吸い込み、バッグからスマホを取り出すと、これまで一度も自分からかけたことのない番号を探し出し、発信した。

電話は一秒も鳴らないうちに繋がり、受話器の向こうからは優しく親しげな女性の声が聞こえてきた。

「晴美?」

「お母さん」その晴美の声は静かで、どこか疲れているように聞こえた。「一緒に海外に行くわ。条件は一つだけ。これからは、私の生活に一切干渉しないこと」

電話の向こうの女性は少し驚いたようだったが、それでも嬉しそうに応じた。

「わかったわ。では七日後、例の施設の前であなたを迎えに行くわ」

「うん」
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第1話
小山晴美(こやま はるみ)は、小山家の御曹司である小山修二(こやま しゅうじ)が自宅に囲っていた愛人だった。五歳で施設から彼に引き取られ、十二歳までに名門の礼儀作法を習得。十六歳のときには、香江市の社交界で最も理想的な花嫁候補と言われる存在になっていた。十八歳の誕生日の夜、修二が誤って薬を盛られ、彼女は一晩中そばを離れず看病した。それ以来、香江市中の誰もが、晴美が修二の最も大切な存在であることを知るようになった。二十歳の誕生日前夜、彼は自らの手で彼女の手首にダイヤモンドのブレスレットをはめ、低い声で言った。「晴美、やっと君と結婚できるようになったな」彼女はその胸に顔をうずめ、激しい鼓動に身をまかせた。だが翌日、修二の父である小山悟(こやま さとる)が公に政略結婚の発表をした。彼女は取引の駒として扱われ、修二の宿敵である藤原悠斗(ふじわら ゆうと)に嫁ぐことを約束された。修二は藤原家の令嬢、藤原雨子(ふじわら あめこ)を妻に迎えることになる。晴美の頭が真っ白になり、血の気が一瞬で引いた。手足は冷たくなっていった。彼女は勢いよく顔を上げ、隣にいる修二をじっと見つめ、何か言ってほしいと願った。だが、彼はただ沈黙していた。祝福と拍手の中、その沈黙は耳をつんざくほどに激しく響いた。晴美は、自分の心臓が見えない手に強く握りつぶされるような痛みに襲われ、呼吸すらままならなかった。あの夜更けのぬくもりも、あの特別な優しさも、結局は家族の利益の前では何の重みも持たなかったのだ。晴美は唇を強く噛みしめ、口の中に鉄のような血の味が広がるまで放さなかった。そして勢いよく手を振り上げ、つい先ほどまで宝物のように大切にしていたダイヤのブレスレットを力いっぱい引きちぎった。細かなダイヤが彼女の繊細な肌をかすめ切り、鋭い赤い痕をいくつも残した。パチンという小さな音とともに、ブレスレットは彼女の手から離れ、つややかな床の上にためらいもなく投げ捨てられた。修二の顔色がわずかに変わり、すぐに手にしていたグラスを置くと、身を乗り出して彼女の冷え切った手を取ろうとした。彼の声は低く抑えられ、諦めを含んだため息がこぼれた。「晴美……聞いてくれ。これは一時しのぎなんだ。父を落ち着かせるためで、待っていてくれれば……」「一
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第2話
晴美は電話を切り、安堵とも深い茫然ともつかない、複雑な思いに捉われていた。ふと視線を上げ、無意識にバックミラーを見た彼女は、ちょうど運転手の目と合ってしまった。その目は明らかに卑わいな色を帯び、こっそりと彼女の脚を眺めていた。晴美の胸の奥が一瞬むかついたが、表情には一切出さなかった。車はやがて、豪奢な別荘地の入り口で止まった。運転手は手をこすりながら、愛想笑いを浮かべて言った。「お嬢さん、ここにお住まいなんですか?すごいですねぇ。中に入ったことないんですよ、ちょっと見学がてら、水でも一杯いただけませんか?」晴美はその目つきに隠された下心を見透かし、静かに内心で嘲笑った。彼女は静かにドアを開け、車を降りた。そして、柔らかく、弱々しい少女のような声で言った。「いいですよ、ついてきてください」運転手は思いがけない幸運に慌て、エンジンを切り、車から飛び降りた。そして晴美の側へ回り込むと、卑しい笑みを浮かべ、肩に手を回そうとした。次の瞬間、晴美の目が鋭く光った。素早く体を捻り、伸ばされた腕を掴みとると、重心を落として――見事な一本背負いを決めた!ドンッ!鈍い衝撃音が、静まり返った夜にくっきりと響き渡った。運転手は痛みに顔をゆがめ、地面に倒れたまま動けない。恐怖に満ちた視線の先には、あの可憐な花のような女が一転、凄まじい修羅神と化していた。晴美は見下ろすように冷ややかに一目投げかけると、後ろを振り返ることなく歩き去った。微塵の未練も感じさせない。彼女の護身術は修二が手取り足取り教えてくれたものだ。動きのひとつひとつ、力の入れ方のすべて、そして姿勢を直してくれるとき、背後から包み込むように支えてくれたその感触まで、晴美は今も鮮明に覚えている。あの時、彼は笑いながら言った。「晴美、無理して覚えなくても大丈夫。俺がちゃんと守るから」彼女はその時、恥ずかしそうに小さくうなずいただけで、何も言わなかった。今思えば、あの時やめなくて本当によかった。やっぱり人に頼むより自分を信じるべきだ。一方その頃、宴は終盤に差しかかっていたが、修二の胸の中の苛立ちはますます高まっていた。晴美が去る時に見せたあの決意に満ちた眼差しが、棘のように心に刺さって離れない。その時、スマホが震え、一通のメッセージが届いた。添付され
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第3話
翌日の午後、雨子が小山家を訪れ、悟に会った。表向きは、政略結婚の詳細を打ち合わせるためだった。リビングにはお茶の香りがほのかに漂っている。雨子は悟としばらく談笑していたが、いつの間にか話題は晴美のことへと移っていった。彼女は何気なくスマホを取り出して何かを見ていたが、突然「あっ」と小さく声をあげた。「どうした?」悟は尋ねた。雨子は慌てて画面を隠し、頬をうっすらと染め、視線を泳がせながら悟を見上げた。「おじさん、いえ……なんでもありません……たぶん、見間違いかと……」その取り繕うような態度が、かえって悟の疑念を深めた。何度も問いただされ、雨子は「仕方なく」スマホを差し出した。画面には、巧妙な角度で撮られた一枚の親密な写真が映し出されていた。「これは……」悟は眉をひそめた。「おじさん、誤解なさらないでください!」雨子は慌てて弁解したが、その声は柔らかながら、どこか鋭い刃のような切なさを帯びていた。「晴美ちゃんはきっと、兄との婚約のことを知って、気持ちが落ち着かなくて……気分転換に出かけたら、ろくでもない人に出会ってしまったのでしょう……彼女も決して悪気があってしたわけではないと信じています。どうか彼女を叱らないでください……まだ若いですから、分別がつかないのでしょう……」彼女の言葉の一つ一つは「弁解」を装いながら、実は晴美の行いの不正や私生活の乱れを、これ以上なく確かなものとして印象付けていた。悟の顔色は完全に沈み込んだ。彼は晴美が何をしたかなど、どうでもよかった。ただ、小山家の名誉だけは守る必要がある。特に今は藤原家との政略結婚が進められている肝心な時期だ。家族の名声を傷つけかねない火種は、早急に絶たねばならない。その夜、悟は冷たい表情のまま晴美に命じた。「明日から、俺の許可なしに一歩たりとも家の外へ出るな。お前名義のすべてのカードは一時的に凍結する。家で自分の行いをよく反省しろ」晴美は書斎の中央に立ち、目の前の、自分を育てながらも終始駒としてしか見なかった「父親」を見つめていた。心は少しずつ底へと沈んでいく。悔しいか?当然だ。しかしそれ以上に、現実を突きつけられたような、茫然自失の状態が彼女を包んだ。悟の一言で、晴美は実質的に小山家の別荘に軟禁されることになった。外出の自由は
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第4話
彼女が別荘の二階で、長いあいだ使われていなかった一室のアトリエを見つけた。キャンバスも絵の具もイーゼルも、すべてが揃っている。ただ、薄い埃が静かに積もっているだけだ。まるで感情の吐け口を見つけたかのように、晴美は待ちきれないほど慌ててその中へ駆け込んだ。彼女はありったけの怒り、悔しさ、無念さ、そして絶望を、キャンバスに注ぎ込んだ。彼女は重く沈んだ色調と、歪み、もがくような線で、見えない檻に閉じ込められた鳥たちを描き出した。その鳥たちは鋭い眼差しをたたえ、屈しない誇りをにじませながら、見えぬ壁にひたすら身を打ちつけていく。羽は乱れ、暗紅色に染まり、まるで血の涙を流しているようだ。彼女はこのシリーズに「囚われの鳥」と名づけた。創作に没頭している時だけ、彼女は現実の一切を忘れ、芸術の世界で束の間の息抜きを得ることができた。一筆一筆が、運命への無言の抗議でもあった。修二が彼女を訪ねて来たとき、時折アトリエの入り口に立ち、晴美がほとんど決死の覚悟で筆を走らせる背中を、そして彼女の筆先から生まれる痛みと葛藤に満ちた絵を、静かに見つめていた。彼の瞳の色が深く沈んでいったが、結局、何も口にはしなかった。そんなある日の午後、雨子が予告もなく現れた。彼女は高価なスキンケア用品とお菓子の袋をいくつか手に提げ、晴美に向かって心配そうな笑みを浮かべた。「晴美ちゃん、一人でここにいたら退屈してしまうでしょう?様子を見に来たの。いろいろ持ってきたわ」晴美は冷ややかに一瞥をくれただけで、そのままアトリエへと戻っていった。雨子はメイドたちに苦笑を向けると、自分のペースで別荘の中をひと回りし、そして偶然、そのアトリエへと足を踏み入れてしまった。イーゼルに掛けられた、まだ完成していない暗く沈んだ色調の「囚われの鳥」を目にした瞬間、彼女の瞳の奥に一瞬、鋭い光が走った。「まあ、晴美ちゃん、まだ絵を描いているのね?本当に……個性的だわ」雨子はスマホを取り出し、何気ないふりをして別荘の内部を撮りながら言った。「ちょっと写真を撮っておくわ。帰ったらうちも少し模様替えしようかしら。修二さんのセンスって、本当に素敵ね」晴美は彼女に背を向けたまま、相手にする気もなく、雨子のカメラのレンズが長いあいだ絵に向けられていることに気づかなかった。
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第5話
晴美が目を覚ましたとき、目に入ったのは病院の天井だった。「目覚めたか?」低く、聞き慣れた男の声が耳元で響いた。晴美が顔を横に向けると、修二が病床のそばに座っている。目の下には薄い隈が浮かんでいるが、彼女を見つめるその瞳には、長い間見たことのない、ほとんど燃えるような光が宿っている。彼はそっと、布団から出ていた彼女の手を取った。その手つきは驚くほど優しく、まるで壊れやすい宝物を扱うようだ。「晴美……」抑えきれない興奮がその声に滲んだ。「医者が言ってた。君は妊娠してる。俺たちの子どもだ」晴美の瞳が一瞬で細くなり、手が自然と下腹部に触れた。そこはまだ平らなままなのに、彼女がこれまで一度も望まなかった命が、静かに宿っていた。衝撃が過ぎた後、胸に込み上げてきたのは喜びではなく、むしろ滑稽なほどの冷たい虚無だった。修二は彼女の異変に気づくこともなく、一人で有頂天になっていた。彼はかがみ込むと、そっと額を彼女の額に触れ合わせ、温かい吐息を頬に感じさせながら、真剣な声で誓った。「晴美、心配するな。俺は絶対に君を裏切らない。藤原家の件はすぐに片付ける。堂々と君と結婚して、俺たちの子にきちんとした家庭を築く」もしこの約束を二十歳の誕生日の前に聞いていたなら、きっと幸せで気を失っていたかもしれない。かつて彼も、同じように耳元で「君と結婚する」と囁いた。その直後、何の説明もなく黙って、彼女を別の男の元に押しやってしまったのだ。彼女は勢いよく手を引き抜き、氷のような視線を向け、唇の端にかすかな嘲りを浮かべた。「誰があなたの子どもを産むなんて言ったの?この子を産まないよ」修二の顔に浮かんでいた喜びが一瞬で凍りついた。彼は晴美の蒼ざめた頑なな表情を見つめ、その中にある拒絶と憎しみをはっきりと感じ取った。彼がその手を取ろうとするが、彼女はすっと身を引いた。「アトリエのこと、怒ってるのは分かってる」彼は声を和らげ、少し困ったように続けた。「でも父さんの態度も強硬でさ……今度、もっと広くていいアトリエを用意するから、それでいいだろ?」償いか?晴美は心の中で冷笑した。彼は一生理解できないだろう。あの絵は、この牢獄のような生活の中で、彼女が唯一心を寄せられるものだった。苦しみと抗い、声にならない叫びをすべて託した存在だ。そ
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第6話
夜、藤原家の食事会は相変わらず華やかで、香水の匂いと笑い声、グラスの触れ合う音が入り混じっていた。晴美は控えめな黒のロングドレスに身を包み、静かに隅に立っていた。その姿は、周囲の賑わいからぽつりと切り離されたように見えた。彼女の視線の先では、修二と雨子が並んで立ち、人々の賛辞を受けながら、完璧で穏やかな笑みが浮かんでいた。その光景は、彼女の目が痛むほどまぶしかった。ふと、砕かれた絵の数々が彼女の脳裏によみがえってきた。心血と感情のすべてを注ぎ込んだあの一枚さえも、結局は無残に壊されてしまったのだ。「晴美ちゃん、どうしてこんなところで一人なの?」背後から甘ったるい声が響いた。その過剰な親しげな調子に、思わず眉をひそめてしまった。晴美は振り向かなくても、誰の声かすぐに分かった。彼女は応えもせず、ただグラスを手に取り赤ワインに口をつけた。冷たい液体が喉を通り過ぎても、胸の奥に渦巻く苛立ちは少しも和らぐことはなかった。雨子は、晴美が明らかに会話を拒んでいる様子を理解していないかのようだ。いや、そもそも彼女は晴美の表情など気にも留めていないのだろう。彼女は勝手に晴美の傍らに立ち、いかにも心配そうな声で言った。「顔色があまり良くないわね。ここ、少しうるさすぎるのかしら?それとも……体の具合でも悪いの?」晴美はワイングラスを握る指先に力を込め、何も言わなかった。赤ワインを彼女の顔に浴びせたい衝動を、必死に抑え込む。その後、およそ一時間もの間、雨子はまるで影のように、いつも一定の距離を保ちながら彼女につきまとい、変わらず穏やかな口調で、執拗に話し続けた。食事会の話題からインテリアの話へ、そして晴美のドレスの話へと移り変わり、やがて彼女はさりげなく、修二から受けた行き届いた気遣いについても口にした。晴美が一言も応じなくても、彼女は飽きることなく、独り言のように語り続けていた。しかし、晴美の忍耐はすでに限界に達していた。彼女は勢いよく身を翻し、雨子を見据えた。その瞳の奥には、抑えきれない冷ややかな嫌悪が宿っている。「藤原さん、よければ上で話しませんか?」雨子の目に一瞬、策略がうまくいったような鋭い光が走った。だが顔には、相変わらずの無邪気で何の悪意もないような表情を浮かべ、うれしそうにうなずいてみせた。「ええ、ちょうど
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第7話
修二は驚愕のあまり目を見開いて、慌てて階段を駆け下り、雨子を支えた。顔を上げ、信じられないという目で晴美を見つめるその様は、まるで初めて彼女の真実を知った瞬間のようだ。腕の中の雨子が苦痛にうめく声で、彼は我に返った。周囲の視線を一身に浴びながら、彼は表情を硬くして、泣きじゃくる雨子を抱き上げ、さっと会場から立ち去った。晴美はその場に立ち尽くし、二人の背中が遠ざかっていくのを黙って見送った。胸の奥では、鈍器で何度も叩かれるような痛みが広がり、極限まで疼ききった末に、ただ麻痺した虚しさだけが残されていた。彼女は口元を歪ませ、泣くよりも痛々しい笑みを浮かべると、背筋を伸ばし、好奇の視線を一心に浴びながら、この息苦しい宴会場を振り返ることなく後にした。翌日、香江市の主要ゴシップ誌の一面を飾ったのは、【小山若様の婚約者、パーティーで受けた屈辱!養女・小山晴美の傲慢無礼な振る舞い】という見出しだった。添えられた写真には、階段から無様に転げ落ちる雨子と、階段の上で無表情に立つ晴美の姿が映っていた。悟はそのニュースを目にした瞬間、怒りに顔を真っ赤にし、帰ってきた修二の目の前にスマホを叩きつけた。「お前の可愛い妹がよくやってくれたな!小山家の面目は丸潰れだぞ!」悟は怒りで肩を震わせながら叫んだ。「さっき藤原家から苦情の電話があった!結婚式はすぐに前倒しだ!三日後に執り行う!そして晴美の件は……」その目が冷たく光った。「お前が直接、藤原家へ連れて行け。雨子と藤原家の目上の方に土下座して詫びを入れさせろ。誠意を見せるんだ。藤原家の怒りが収まるまでな!」修二は眉間に深い皺を刻み、必死に制止しようとした。「父さん、晴美はただ一時の衝動だった。藤原家に送るなんて、悠斗の方が……」「衝動だと?俺は、あの子がわざと藤原家との政略結婚をぶち壊そうとしているとしか思えん!」悟は鋭い声で彼の言葉を遮ると、濁った瞳を鷹のように光らせた。「修二、会社の現状を忘れるな!いくつもの大型プロジェクトが藤原家の投資にかかっているんだ!たかが一人の女のために、小山家の未来すべてを棒に振るつもりか!」「小山家の未来」――その一言が、重い山のように修二の胸にのしかかり、彼のあらゆる抵抗と反論を押し潰していった。彼の脳裏に浮かんだのは、書斎に積まれた危うい
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第8話
車はついに藤原家の別荘、その冷たく無機質な鉄製の門の前で止まった。夜の闇に沈む藤原家の屋敷は、沈黙する巨獣のように蹲り、不穏な気配を漂わせている。晴美はボディーガードに「案内される」形で車から降ろされ、ほぼ強制的にリビングへと通された。リビングは明るい灯りに包まれていたが、人の気配はなく、暖炉の炎が虚ろに揺らめき、わずかな温もりを放つだけだった。「小山さん、若様がお部屋でお待ちです」執事らしき男が無表情のまま淡々と告げた。晴美の胸が一瞬で重く沈んだ。部屋へ行く?これは絶対にいい兆しじゃない。彼女は二階の広々とした寝室へと案内された。冷たく硬質な雰囲気――まさにこの家の主人を思わせる空間だった。彼女がようやく立ち止まった瞬間、背後で扉が閉まり、鍵のかかる音がはっきりと響いた。ほどなくして、扉が再び開き、藤原悠斗が中へ入ってきた。深い色合いのベルベットの寝室着を纏った彼は、胸元をわずかに緩めていた。その視線には観察めいた戯れが滲み、晴美に向けられたとき、彼女はまるで商品の値踏みでもされているかのような感覚に襲われた。「修二がよくも吹っ切れたな!本当にお前をここへ送ってくるとは」悠斗はゆっくりと歩み寄りながら、声には一切感情の色が見えなかった。晴美は警戒して下がったが、背は壁に押し付けられた。もう逃げられない。「何をそんなに怯えている?」悠斗は軽く笑い、手を伸ばして彼女の頬に触れようとした。「もうすぐ結婚するというのに、まだそんなに恥ずかしがるのか?俺の存在には慣れてもらわないとな……」その指先が頬に触れようとした瞬間、晴美は鋭く顔をそむけ、氷のような声で言った。「触らないで!」「ふっ」悠斗は彼女の拒絶にむしろ興味をそそられたらしく、さらに一歩踏み込み、腕を彼女の耳元の壁に突っ張った。わずかな空間に彼女を閉じ込め、吐息が耳の縁をかすめた。「ここでは、お前のイヤだなんて、通らないよ」濃厚な男の匂いと圧迫感に、晴美は胃がむかむかとざわめくのを感じた。彼女は、修二もこんな風に自分を腕の中に閉じ込めるのが好きだったことを思い出した。でも彼の息遣いは清冽で、安心感を与えるものだった。彼は鼻先で彼女の頰をこすり、恥じらって赤く染まったその頬を見て、笑いながら言っていたのだ。「晴美、俺の晴美、なんて
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第9話
陽光がA国の静かな街並みに降り注いでいた。晴美は今は小林晴美と名前を変え、新しい家のバルコニーに立ち、ほんのりと膨らだお腹をそっと撫でていた。ここには香江市のような華やかさも重苦しさもなく、空気には花の香りが漂い、生活はゆったりと穏やかに流れている。母の小林蘭子(こばやし らんこ)はすべてを整えてくれた。かつては縁遠く感じていたたこの女性の目に、今は、失くしたものを取り戻したような、慈愛に満ちた守るような眼差しが宿っていた。娘の腹を見つめるその目には複雑な思いが交錯していたが、やがてすべては言葉にならない支えへと変わっていった。「決めたの?」蘭子が温かいミルクを差し出した。晴美はそのカップを受け取り、手のひらに伝わる温もりを感じながら、静かで揺るぎない眼差しで答えた。「ええ。これは私の子供よ。小山家とは関係ない。ましてや修二とは……関係ない」その名を口にした瞬間、彼女の胸中にわずかな波紋が広がり、やがて深い静寂が訪れた。彼女は自らの手で、小山修二という毒のある棘を根こそぎ引き抜いた。たとえ血肉がぼろぼろになろうとも、それこそが新しい命を得るための代償だった。彼女は過去と完全に決別し、小林晴美(こばやし はるみ)として生まれ変わった。彼女は現地の芸術学院に入学し、学びと創作にすべての情熱を注いだ。かつての苦しみが色彩へと変わり、絵にすべてを託した。。もはや囚われの鳥を描くことはない。なぜなら、その鳥はすでに檻を打ち破ったのだから。学部の「変身」をテーマとする課題で、晴美は一枚の習作を提出した。キャンバスは重苦しい墨のような黒と深紅に覆われ、燃え尽きた灰と乾いた血痕のようだった。しかし、その廃墟の中から、一本の若緑の芽が土を破り、顔を覗かせていた。露に濡れた芽先はかすかな光の中、頑なでいても眩しい輝きを放っている。彼女の指導教官である蘇我聡美(そが さとみ)は、気品に満ちた中年の女性だった。その絵の前にしばらく佇むと、目に隠しようもない賞賛の色を浮かべて、教室全体に向かって宣言した。「この作品には、大きな生命力が宿っています!それは軽やかな喜びではなく、苦痛と絶望から鍛え上げられた希望です。重みがありながらも、心を揺さぶる力を持っています!」この評価と彼女が示した潜在力が認められ、間もなく彼女は全額
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第10話
香江市の夜、ネオンは相変わらずきらめいているが、修二の心の暗闇を照らすことはできなかった。あの夜、晴美が藤原家から姿を消してから、すでに半月が経っていた。彼はできるかぎりの手を尽くし、香江市をひっくり返すほど探したが、結局何の痕跡も見つからなかった。まるでこの世から蒸発したかのように、彼女の痕跡は一つとして残っていない。修二は、晴美がかつて暮らしていた郊外の別荘の一室に立っていた。そこは彼女が去った時のまま、時が止まったかのように静まり返っている。空気の中にはまだ、彼女の淡い香りが微かに残っている気がした。だが、その人影はもうどこにもない。彼は彼女が眠っていたベッドの縁に手を伸ばした。指先に伝わったのは冷たさだけだった。その瞬間、骨髄に染みるような恐怖と虚しさが再び押し寄せ、彼を飲み込もうとした。「晴美……」と、声はかすれていた。それは壊れたように震えていた。彼は初めて、これほど明確に自分が彼女を失ったと悟った。その自覚は胸に突き立てられた毒剣のごとく、深く、繰り返し刺さった。怒りと後悔は草原の火のように広がり、理性という柵を次々と焼き払っていく。彼は悠斗を憎み、雨子を憎み、そして何よりも「家のため」という名目で彼女を何度も突き放した自分自身を憎んだ。絶望に飲み込まれそうになったその時、部下が一つの情報を持って駆けつけた。「社長、調査したところ、藤原雨子さんは……この半年間、海外の複数の不審な口座と頻繁に多額の資金をやり取りしていた形跡があります。さらに、勤務時間外に当社の基幹プロジェクト関連資料に複数回アクセスした記録が確認されました」修二は勢いよく顔を上げた。彼の目は血走り、その奥に荒々しい光が渦巻いている。「彼女が……スパイだと?」「現時点の判断では、その可能性が極めて高いです。資金の流れは……藤原悠斗が実質支配するオフショア企業にたどり着いています」すべてが一瞬で繋がった。悠斗の目的は、単なる政略結婚なんかじゃなかった!彼は最初から、小山家を丸ごと呑み込むつもりだったのだ!そして雨子は、彼が修二のそばに仕掛けた、情報を盗み、視線を惑わせるための駒に過ぎなかった!普段の雨子の穏やかで無害そうな笑顔、そして悟の前でさりげなく晴美の悪事をほのめかしていた様子を思い出すと、修二の背筋
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