INICIAR SESIÓNレストランを出たあと、優は車を少しだけ走らせた。車内は静かだった。さっきまで食事をしていた。海を見て、夜景を見て、優が私の好きだったものを覚えていたことを知った。その時間は、思っていたより穏やかだった。だからこそ、今の沈黙が少し怖い。優が『ちゃんと話してから、終わらせたい』と言った時から、胸の奥に小さな重りが落ちたままだった。終わらせる。私たちは、そのために今日ここにいる。分かっている。それなのに、さっきのレストランで、私はほんの少しだけ楽しいと思ってしまった。そのことが、自分でも苦しかった。優はしばらく黙って運転していた。『ここ』やがて車が小さなカフェの前で止まった。海沿いの通りから一本入った場所にある、遅くまで開いている店だった。大きすぎない灯りが窓からこぼれていて、店内にはまだ何組か客がいる。優は車を駐車場に入れて、エンジンを切った。店に入ると、奥の席に案内された。人目につきにくい、落ち着いた席だった。優はコーヒーを二つ頼んだあと、椅子の横に置いていた鞄を膝の上に乗せた。その動きで、初めて気づいた。鞄の中から、薄いクリアファイルが出てきた。中には、きちんと揃えられた書類が入っている。付箋が貼られ、ページの端はきれいに揃っていた。優らしいと思った。こういうところは、本当に丁寧な人だった。仕事の資料も、契約書も、会食の段取りも。優は必要なものを漏らさない。人から見られる場所では、いつも完璧に整えている。私はその丁寧さに、何度も救われたことがある。同じくらい、苦しくなったこともある。だって、私との生活には、その丁寧さが向けられなかったから。『婚前契約書のコピー』優が静かに言った。『原本は父の事務所にある』『これは、俺の手元に残していた写し』私はファイルを見つめた。それだけなのに、胸の奥が少し冷える。『今日、これを読むの?』『全部を今読む必要はない』優はすぐに首を横に振った。『離婚条件の確認は、また改めてでいい』『今日は、その前に話したいことがある』『話したいこと?』優はカップに触れた。けれど、飲まなかった。『離婚条件に入る前に』『俺たちが最初に何をどう受け取っていたのか、揃えておきたい』私は眉をひそめた。『認識を揃えるって、どういうこと?』優は少しだけ視線を落とし
レストランは、海沿いの少し高い場所にあった。駐車場から見える街の灯りは、まだ夕方の色を残した空の下で、少しずつ光を強めている。さっきまでいた海辺よりも静かで、風も少し冷たい。優は店の入口まで歩きながら、私の方を一度見た。『寒くない?』また、そう聞かれた。『大丈夫』私は同じように答える。けれど、さっきより少しだけ声が柔らかくなっていた気がした。それに気づいて、胸の奥が小さくざわつく。優に優しくされることに、慣れたくない。今さら丁寧に扱われても、何も変わらない。そう思っているのに、身体は勝手に力を抜いてしまう。それが、少し悔しかった。案内された席は窓際だった。大きなガラスの向こうに、夜の海と街の灯りが広がっている。綺麗だった。思わず黙ってしまうくらいに。『ここ、前に来たいって言ってたから』向かいに座った優が、メニューを開きながら言った。私は顔を上げる。『私が?』『うん』『たしか、雑誌か何かで見たって』そんなことまで。記憶の奥を探ると、たしかに思い当たることがあった。結婚して一年目くらいの頃。優がリビングで仕事の資料を読んでいて、私は隣で何気なく雑誌を見ていた。夜景の綺麗なレストラン特集に、この店が載っていた気がする。『いつか行ってみたいな』そう言った。優はその時、確か『そうだね』とだけ返した。本当にそれだけだった。『……覚えてたんだ』今日、何度目か分からない言葉が口からこぼれる。優は少しだけ目を伏せた。『覚えてることもあるよ』その言い方が、苦しかった。覚えていることもある。なら、どうして。どうして、何も知らないふりをしていたのだろう。どうして、私が何を好きでも、何を望んでも、関係ないみたいに生きていたのだろう。責めたい気持ちがないわけではなかった。でも、今日は不思議とその言葉が出てこない。海を見て、少しだけ穏やかになってしまったからかもしれない。それとも、この人が今、必死に何かを取り戻そうとしているのが分かるからかもしれない。注文を終えると、優は水のグラスを少しだけこちらに寄せた。『苦手なもの、変わってない?』『え?』『貝類、あんまり得意じゃなかったよね』...それも、言ったことがある。好き嫌いを聞かれたわけではない。結婚してすぐ、優の父との会食で貝の料理が出た時、
日曜日。外はよく晴れていた。歩道の白さが少し眩しい。車のドアを、優が開けてくれた。今日はスーツではない。白いシャツに暗めのパンツ。仕事の時より少しだけ柔らかい印象で、私は一瞬だけ目を逸らした。『行こうか』『……うん』返事をしながら、どこか妙な気分になる。夫婦なのに。四年も同じ家に住んでいたのに。こうして休日に二人で出かけることが、まるで初めてみたいにぎこちなかった。『車で大丈夫?』優が助手席のドアを開きながら聞く。『うん』『途中で気分悪くなったら言って。少し走るから』その言い方が丁寧すぎて戸惑う。昔はこんなふうに確認されたことがあっただろうか。記憶を探そうとして、すぐにやめた。探したところで見つからない気がしたからだ。助手席に座ると、車内にはほのかな清潔感のある香りが漂っていた。優がエンジンをかける。少しだけ沈黙が落ちた。けれど、不思議と息苦しくはない。ただ二人とも、何を話せばいいのか探している。そんな静けさだった。『寒くない?』しばらく走ったあと、優が聞いた。『大丈夫』『暑かったら温度下げるけど』『本当に大丈夫』そう答えてから、自分の声が少し硬かったことに気づく。優はそれ以上何も言わなかった。昔なら、こんなやり取りすらなかった。私は寒くても黙っていたし、優も気づかなかった。そう思うと、今の優の小さな気遣いが胸に引っかかる。今さら。そう思う。でも今さらだからこそ、どう受け取ればいいのか分からない。車は都心を抜け、少しずつ景色を変えていった。ビルの隙間から見える空が広くなり、道路の先に青が見える。海だ。そう気づいた瞬間、胸の奥が小さく動いた。『……海?』『前に好きだって言ってたから』『私が?』『うん。海を見ると頭が静かになるって』その言葉に息を止める。覚えていたのか。そんな話をした記憶がある。結婚して間もない頃だった。大学病院を辞め、急に時間だけができた頃。何をしていいか分からず、部屋の中で息が詰まっていた時期だ。その時、何気なく言った。海が好き。音があるのに静かだから。頭の中が少しだけ片付く気がするから。優は相槌を打っただけだった。興味があるようには見えなかった。だから忘れていると思っていた。『覚えてたんだ』『覚えてるよ』短い返事。それだけな
午後の診察が終わる頃には、外はすっかり暗くなっていた。カルテを閉じ、デスクの端に置いたスマホを見る。不動産会社から届いたメールには、追加書類の項目がいくつか並んでいた。自分の生活を始めるための手続き。そう思えば前向きなはずだった。でも、実際には一つ進むたびに、私は今まで誰かの名前の中にいたのだと思い知らされる。東郷優の妻。白松の娘。その二つの肩書きから抜け出そうとしているのに、書類は簡単に私を一人にしてくれない。勤務先の欄に、綾瀬クリニックと入力する。職業の欄には、医師。その文字を見た時、少しだけ息がしやすくなった。医師。その肩書きだけは、私が自分で手に入れたものだ。少なくとも試験を受けたのは私で、病院で働いていたのも私だった。結婚してから、ずっと遠くに置いてきたもの。もう戻れないと思っていたもの。それを今、また自分の名前の横に書いている。そのことに、少しだけ救われる。『まだやってるの?』ふいに声がして、顔を上げた。診察室の扉のところに、綾瀬先生が立っていた。白衣の前を少し開け、片手にマグカップを持っている。院長室に戻る途中だったのだろう。『すみません。すぐ片付けます』反射的にそう言うと、綾瀬先生は眉をひそめた。『いや、怒ってない』『それ、謝るところじゃないでしょ』その言い方があまりにも自然で、逆に言葉に詰まる。私はいつからだろう。誰かの手を止めたかもしれないと思うだけで、先に謝る癖がついた。優に声をかける時もそうだった。いつの間にか、私の言葉は謝罪から始まることが増えていた。『不動産の追加書類です』私はスマホの画面を少しだけ傾けた。『勤務先確認と、収入見込みの補足が必要みたいで』『ああ、それなら明日事務に出してもらうよ』『でも、まだ入って間もないのに』『入って間もないから、見込みで出すんでしょ』綾瀬先生は当然みたいに言う。『勤務形態と予定給与を書けばいい』『必要なら俺の確認印も出せるし』あまりにも簡単に言われて、私は思わず聞き返した。『そこまで、普通にしていただけるものなんですか?』綾瀬先生は少しだけ目を瞬いた。本当に不思議そうな顔だった。『普通だよ、職場が出すべき書類を出すだけ』『でも』『東郷先生』少し低い声で、私の言葉を途中で止める。『それを頼るって思わなくて
翌朝。クリニックの更衣室で白衣に袖を通しながら、私はスマホに届いていた不動産会社からのメールをもう一度開いた。『お申し込みいただいた物件につきまして、保証会社審査に進めさせていただきます』その一文を見た瞬間、胸の奥が小さく跳ねた。まだ決まったわけではない。審査に進むだけ。それだけなのに、私はしばらく画面から目を離せなかった。本当に、家を出るんだ。そう思った途端、指先が少し冷える。東郷の家を出る。優の帰りを待つためだけに整えていたリビングを出る。玄関の音に心臓だけが反応する生活を終わらせる。望んでいたことのはずだった。それなのに、手続きが進み始めると足元が少し頼りなくなる。怖い、と思った。自由になることが。自分の名前で部屋を借りることが。誰かの妻でも、白松の娘でもなく、一人で生活を始めることが。こんなにも怖いなんて知らなかった。診察前の短い時間に必要書類を確認する。本人確認書類。収入証明。勤務先情報。緊急連絡先。そこで指が止まった。緊急連絡先。画面を見つめたまま、息が少し詰まる。保証人ではない。最近は保証会社を通すため、親族の保証人が不要なことも多い。それでも緊急連絡先は必要だった。事故や災害、連絡が取れなくなった時に確認できる人。夫。その単語が頭に浮かび、すぐに消した。優はもうすぐ夫ではなくなる。今はまだ戸籍上そうでも、離婚する相手の名前を書くのは違う気がした。みか。頼めばきっと引き受けてくれる。でも、それも違う気がした。みかにはもう十分心配をかけている。これ以上、私の生活の責任に近い場所へ名前を置かせたくなかった。そうなると。残る名前はひとつしかない。白松。...父の名前。その二文字を思い浮かべた瞬間、胃の奥が重く沈んだ。私の身元を説明できる人間は、結局血の繋がった家族しかいない。その事実が思った以上に息苦しい。結婚して東郷の家に入った。でも離婚したら白松の家に戻るわけではない。戻りたくないから、こうして部屋を探している。それなのに書類の上では、私はまだ父の名前に手を伸ばしかけている。情けなかった。どれだけ自立したつもりでも。私はまだ誰かの名前の影から完全には抜け出せていない。「東郷先生」背後から声をかけられ、慌ててスマホを伏せた。振り返ると、綾瀬先生
午前の診療は、想像以上に忙しかった。初診、再診、処置の確認。患者さんの不安に答えながら、カルテをまとめる。気づけば、昨日のことを考える余裕もなかった。仕事に集中している時間だけ、私は揺れずにいられる。そのことに、少し救われた。昼前。休憩室でカルテの確認をしていると、ドアが軽くノックされた。「東郷先生」顔を上げる。綾瀬先生だった。白衣の袖を少しだけ捲っている。朝より少し髪が乱れていて、束ねた黒髪の横から細い髪が落ちている。疲れているはずなのに、顔の整い方は少しも崩れない。むしろ、余計に色気が増して見えた。長い睫毛の影。白衣の襟元から見える黒いシャツ。腕時計を直す指の動き。ふとした仕草まで妙に絵になる。私は一瞬、視線を逸らした。朝は院長として普通に接してくれて安心したはずなのに。油断した瞬間に、急に異性として意識してしまう。「少し時間ある?」「はい」「じゃあ、五分だけ」綾瀬先生は休憩室のドアを閉めた。その音が、やけに静かに響く。私は少しだけ背筋を伸ばした。綾瀬先生は向かいの椅子には座らず、テーブルの端に軽く手を置いた。「昨日言ったことだけど」あまりにも普通に切り出されて、心臓が跳ねた。私は紙カップを持つ手に力を入れる。「昨日?」とぼけるには無理があった。綾瀬先生は少しだけ笑う。「顔見たら安心するって言ったやつ」呼吸が浅くなる。「……朝、普通だったので」そう言うと、綾瀬先生は少し目を細めた。「普通にしてた」さらっと言う。「仕事中にする話じゃないから」その言い方が、あまりにも大人で、余計に困った。綾瀬先生は少しだけ視線を逸らす。窓の方を見る横顔に、昼の光が当たっている。その横顔が綺麗すぎて、一瞬、言葉を忘れた。「正直に言うと」前を向いたまま続ける。「昨日の旦那さんとの距離、普通に戻るんじゃないかって思って、少し心配した」流し目のように、ほんの少しだけこちらを見る。その視線が、静かに胸へ刺さる。冗談めかしていない。責めてもいない。でも、隠してもいない。「戻るって」「夫婦の場所に」綾瀬先生の声は穏やかだった。「旦那さんがちゃんと向き合ってきたなら、東郷先生は揺れると思った」少し間。「情が深いからね、東郷先生」言葉が出なかった。その通りだった。私は揺れた。







