تسجيل الدخول「……誰、それ?」
優の視線は、私ではなく。
手の中のスマホへ向けられていた。
正確には。
画面に表示された名前へ。
【綾瀬隼人】
たった四文字。
それだけなのに、優は視線を逸らさなかった。
こんなことは初めてだった。
私が誰と会っているのか。
誰から連絡が来たのか。
優が気にしたことなど、一度もない。
「……知り合いだよ」
できるだけ何でもないように答える。
けれど、優は納得したようには見えなかった。
「男?」
胸の奥が、わずかにざわつく。
今さら。
そんなことを聞くんだ。
「学会で会った先生」
「医者?」
「うん」
短いやり取り。
それで終わると思った。
優も、一度は興味を失ったように視線を外したから。
けれど。
すぐに、またスマホへ目を戻す。
「こんな時間に連絡来るんだ」
独り言のような言い方だった。
私は少し眉を寄せる。
「病院関係なら、珍しくないでしょ」
思ったより、声に棘が混じった。
優が私を気遣ったわけではない。
四年間、何も聞かなかった人に。
今さら干渉されることが、妙に腹立たしかった。
優はわずかに眉を寄せた。
そして。
何でもないことのように言う。
「仕事に戻るわけじゃないんだし」
胸の奥が冷えた。
やっぱり。
優が気にしているのは。
私が何を考えているのかではない。
自分の知らないところで。
妻という役割が動き始めたことなのだ。
「まだ決めてないよ」
そう返すと。
優の表情が、ほんの少しだけ変わった。
「何を?」
「仕事に戻るかどうか」
優は黙る。
一瞬だけ。
本当に、わずかな間だった。
けれど。
その沈黙に、妙な違和感が残った。
「……そう」
結局、それだけだった。
いつものように。
興味がないふりをする声。
「会食のこと、忘れないでね」
優はそれだけ言うと、寝室へ向かった。
私の仕事より。
知らない男より。
最後には、やはり外から見える夫婦の形へ戻る。
その背中を見送りながら。
胸の奥に、小さな疑問だけが残った。
どうして。
仕事に戻るかもしれないと伝えた瞬間。
あの人は、黙ったのだろう。
***
翌朝。
目を覚ますと、家の中は静かだった。
優はもう仕事へ出たのだろう。
そう思いながら、リビングへ向かう。
けれど。
ソファに座っていたのは、優ではなかった。
「あ、おはよう」
咲子だった。
優の大きなシャツを着て。
飲みかけのコーヒーを前に置き。
まるで、ここが自分の家であるかのように寛いでいる。
一瞬、足が止まる。
何度見ても。
この光景に慣れることはできなかった。
「昨日、急に来ちゃってごめんね」
咲子は笑った。
本当に。
悪いことをしたとは思っていない顔だった。
「優、朝から会議で出ちゃった」
そう言いながら、立ち上がる。
そして。
慣れた手つきで冷蔵庫を開けた。
私は何も言わなかった。
咲子がこの家のどこに何があるのか知っていることも。
優の服を当然のように着ていることも。
もう、一つずつ傷つくことに疲れていた。
その時。
スマホが震えた。
画面を見る。
【綾瀬隼人】
『おはよう。
今日、少し時間ある?病院見学でもどう?』胸の奥が、わずかに軽くなる。
昨日渡された名刺を思い出す。
見学だけでも。
働くかどうかは、それから決めればいい。
あの言葉が、もう一度頭に浮かんだ。
「……病院見学」
小さく呟いた、その時。
「あれ?」
咲子の声がした。
気づけば、すぐ近くに立っている。
「男?」
反射的にスマホを伏せた。
けれど、遅かった。
咲子は面白そうに笑う。
「優って、意外とそういうの気にするよ」
私は顔を上げた。
「……そういうの?」
「男の人から連絡来たりすること」
あまりにも自然な口調だった。
「独占欲、結構強いから」
頭の中が、一瞬止まる。
優と独占欲。
まるで、結びつかない言葉だった。
だって。
私には。
一度も向けられたことがない。
咲子は気づかずに続ける。
「私が男の人と話してると、すぐ機嫌悪くなるもん」
胸の奥に、鈍い痛みが刺さる。
私の知らない優。
咲子にだけ向けられる感情。
四年間一緒に暮らしてきても。
私には与えられなかったもの。
「まあ」
咲子は、コーヒーカップへ手を伸ばす。
「綾香さんには、平気かもしれないけど」
軽い一言だった。
悪意すらなかったのだと思う。
だからこそ。
余計に残酷だった。
胸の奥が、静かに冷えていく。
そう。
私は妻であっても。
優が失いたくない女ではない。
嫉妬される相手ですらなかった。
その時。
玄関の扉が開いた。
「忘れ物」
優だった。
ネクタイを締め直しながら、リビングへ入ってくる。
そして。
私たちの間にある空気を確かめるように、視線を動かした。
「何してるの?」
咲子が笑う。
「綾香さん、男の人から連絡来てた」
「咲子さん」
止めるより早かった。
優の視線が、私のスマホへ向く。
画面には、まだ名前が表示されている。
【綾瀬隼人】
その名前を見た瞬間。
優の表情が、わずかに曇った。
昨夜と同じ。
けれど。
今度は隠しきれない違和感が混ざっていた。
「……また、その人?」
声が少し低い。
私は小さく息を吐く。
「昨日も言ったでしょ」
「学会で会った先生」
「今日、病院を見学しないかって」
「行くの?」
「行こうと思ってる」
そう答えた瞬間。
優が黙った。
普段なら。
「好きにすれば」
それで終わる話だった。
けれど。
今日は違う。
優は動かない。
視線も、スマホに残ったまま。
「……何?」
私が聞くと。
優は一度だけ、視線を逸らした。
「別に」
まただ。
気にしているくせに。
何でもないふりをする。
そして。
しばらくしてから。
低い声で、ぽつりと聞いた。
「……行かなきゃダメなの?」
言葉を失った。
四年間。
仕事を辞めた時も。
本当は戻りたいと悩んでいた時も。
私が何を望んでいるのか。
優は一度も聞いてくれなかった。
それなのに。
知らない男から誘われた病院見学には。
行かなければならないのかと聞く。
あまりにも遅い。
そして。
あまりにも身勝手だった。
優の後ろでは。
咲子が、優のシャツを着たまま立っている。
その光景を見ているうちに。
胸の奥に残っていた期待が、静かに消えていく。
そう。
行かなければならない。
病院へ。
そしていつか。
この家の外へ。
優が見せた、わずかな動揺は。
あまりにも遅すぎた。
「そういえば」話が途切れたところで。綾香は。今日見た名前を思い出した。「病院に来てる先生で」「うん」「前に話した」「最初のオンコールの日に来てくれた外科の先生」隼人くんが頷く。「郁人先生?」「うん」名前を知っていることに。少し驚いた。以前。一度だけ話したことを。覚えていたらしい。「今日」綾香は続けた。「手術予定の書類で」「フルネームを見たの」隼人くんの表情が。少しだけ変わる。「何て?」「綾瀬郁人先生」一度。短い沈黙が落ちた。隼人くんは。驚くというより。頭の中で。何かをつなげたような顔をした。「兄貴だね」やはり。そうだった。「多分」綾香は。少しだけ笑う。「お兄さんじゃないかと思って」「そう」隼人くんが。小さく息を吐いた。「その病院に来てたんだ」「知らなかった?」「どこで手術してるかまでは」「いちいち聞かないから」隼人くんらしい答えだった。「似てる?」隼人くんが聞く。「顔?」「うん」綾香は。少し考えた。「言われたら」「少しだけ」「少しだけなんだ」「雰囲気が違いすぎるから」「兄貴は」隼人くんが。少しだけ笑う。「隙がないでしょう」「うん」すぐに答えると。隼人くんの笑みが。少し深くなった。「やっぱり」「でも」綾香は続ける。「冷たい人ではないと思う」「そうだね」返事は。思っていたより早かった。「郁人兄貴とは」少しだけ間を置く。「別に仲悪くないよ」“郁人兄貴とは”。ほんの少しだけ。言葉に含みがあるように聞こえた。でも。綾香は。そこを追わなかった。家族の中に。それぞれ違う距離があることくらい。不自然ではない。隼人くんが。今。話したいところまででいい。「どういう人?」綾香が聞く。「もう会ってるでしょう」「病院でしか知らないから」隼人くんは。少し考えた。「見たままだよ」「説明になってない」「ちゃんとしてる」「それは分かる」「自分がやることと」少し言葉を探す。「やらないことが、はっきりしてる」郁人先生の。淡々とした話し方を思い出す。必要なことには。きちんと答える。けれど。自分から。余計な説明はしない。「この前」綾香は言う。「別の病院で働いてるんですかって聞いたの」「うん」
その日。綾香は。翌週の手術予定を確認していた。病棟へ配られた一覧には。患者の名前。担当医。執刀医。必要な情報だけが。細かく並んでいる。自分が関わる患者の欄へ。順番に目を通す。そこで。一つの名前に。視線が止まった。【綾瀬郁人】一度。目で追い直す。郁人先生。病院では。誰も名字で呼ばない。看護師も。医師も。当たり前のように。郁人先生と呼んでいた。だから。フルネームを見るのは。初めてだった。綾瀬。珍しい名字ではない。けれど。医師で。隼人くんより少し年上に見える。別の病院で働きながら。こちらへ手術に来ている。そして。隼人くんには。医師をしている兄がいる。偶然かもしれない。そう思いながらも。一度気づくと。無関係には思えなかった。「白松先生」近くにいた看護師から呼ばれ。綾香は顔を上げた。「すみません」「来週の患者さん」「こちらで合っています」「ありがとうございます」書類を返す。郁人先生について。その場で尋ねることはしなかった。家族のことを。病院の人に確かめる必要はない。隼人くんへ聞けばいい。そう思った瞬間。最後に顔を見た日を思い出した。メッセージは交わしている。電話も。数分なら何度かした。それでも。落ち着いて会えたのは。少し前だった。隼人くんも。クリニックの拡大準備で忙しい。綾香も。病院勤務へ戻ってから。以前より帰宅が遅くなった。会いたいと思っても。互いの予定を見れば。また今度でいいかと。画面を閉じてしまう日が続いていた。今日も。病院を出た後は。まっすぐ帰るつもりだった。けれど。郁人先生の名字を知ったことで。隼人くんの顔が浮かんだ。確認したいから。それだけではない。久しぶりに。会いたいと思った。***勤務を終え。病院を出る。日中の熱が。まだ道路に残っていた。空は。薄い青から。少しずつ夜の色へ変わっている。駅へ向かう人の流れに入り。途中で。足を止めた。このまま電車へ乗れば。家に帰る。少し早く眠れる。明日の準備もできる。けれど。綾香は。スマホを取り出した。隼人くんとの画面を開く。『まだクリニック?』送る。すぐには。返事が来なかった。忙しいのだろう。やはり。今日は帰ろうかと思
「それで」郁人先生が言う。「本当に大丈夫なら」「いいと思います」「そうじゃない時は?」「言わない方がいいでしょう」淡々とした答え。でも。否定されている感じはなかった。ただ。そう考える人なのだと分かる。「郁人先生らしいですね」綾香が言うと。郁人先生が足を止めた。「僕らしい?」「たぶん」「まだ」少しだけ間を置く。「何度かしか会っていませんが」「そうですね」郁人先生は。それ以上聞かなかった。ただ。もう一度歩き出す。綾香も。その隣へ並んだ。何を考えているのか。分かりやすい人ではない。でも。分からないことを。曖昧な言葉で埋めない。その点だけは。とても分かりやすかった。***その週。プロジェクトの会議があった。病院勤務が始まってから。綾香が参加できる回数は減っていた。それでも。臨床側の意見が必要な場には。できる限り出るようにしている。クリニックだけにいた頃とは。見えるものが少し変わった。病院から患者を送り出す側。地域で受け入れる側。両方の流れを。以前より具体的に考えられるようになっていた。会議では。病院から地域へ共有される情報について。話が出た。綾香は。病棟で感じたことを。簡潔に伝えた。現場では。情報が多いことよりも。何が決まっていて。何がまだ決まっていないのか。すぐに分かる方が重要だということ。言いながら。郁人先生との会話を思い出していた。分からないことを。分かるようには言わない。決まっていないことを。決まったようには話さない。当たり前のようで。実際には。簡単ではない。会議が終わった後。大貴から。短いメッセージが届いた。『病院側の視点、前より具体的になったね』綾香は。少しだけ笑った。病院へ戻ったことで。自分の仕事が増えただけではない。プロジェクトで伝えられることも。確かに変わり始めている。翌日。病院の廊下で。郁人先生を見かけた。看護師と話し終え。こちらへ歩いてくる。「郁人先生」綾香から声をかけると。郁人先生が足を止めた。「はい」「この前の話」「どの話ですか」「決まっていないことを」「決まったように言わないという話です」郁人先生は。一度だけ考えるように視線を動かした。「はい」「プロジェクトの会
郁人先生とは。その後も。病院で何度か顔を合わせた。毎週いるわけではない。決まった曜日に来るわけでもない。手術がある日。術後の確認が必要な日。呼ばれた時だけ現れ。必要なことを終えると。いつの間にかいなくなっている。それでも。姿を見かければ。もう誰なのか迷うことはなかった。「郁人先生」看護師が呼ぶ。その声に。自然と視線が向く。いつも。服装はきちんとしている。白衣を着ていても。着ていなくても。どこか整って見えた。髪。袖口。持っている書類。歩く速さ。何一つ。乱れているところがない。だからといって。近寄りがたいわけではなかった。看護師が話しかければ。足を止める。若い医師が質問すれば。短くても答える。患者へも。必要な説明はきちんとする。声を荒らげることも。不機嫌そうにすることもない。ただ。余計なものがない。笑わせようとしない。親しげに振る舞わない。自分をよく見せようともしない。それなのに。冷たくは見えなかった。不思議な人だと思った。***その日。綾香は。手術を終えた患者の記録を確認していた。午後の病棟は。午前中より少しだけ静かだった。窓から差し込む光が。廊下の床へ長く伸びている。近くでは。看護師が小さな声で申し送りをしていた。「白松先生」呼ばれて。顔を上げる。郁人先生が。少し離れたところに立っていた。片手には。薄いファイル。「はい」綾香が近づくと。郁人先生は。開いていたページをこちらへ向けた。「この患者さん」「明日の朝」「ここだけ確認してください」指された部分を見る。術後の経過に関する。簡単な確認だった。「分かりました」「変化がなければ」「そのままで大丈夫です」「はい」郁人先生は。ファイルを閉じた。話は。それで終わったように見えた。けれど。その場を離れなかった。綾香も。なぜか動くタイミングを失った。少しだけ。沈黙が落ちる。気まずいわけではない。郁人先生は。沈黙を気にしている様子もない。ただ。窓の外へ一度視線を向けた。「もう」郁人先生が言う。「病院には慣れましたか」突然の問いだった。「少しずつ」綾香は答えた。「最初よりは」「そうですか」それだけ。もう少し続くのかと思ったが。郁人
「必要なことは入っています」郁人先生が答える。「なので」少しだけ間。「今の方が分かりやすいです」褒められている。やはり。言われてから少し経たなければ。分からない。「ありがとうございます」答えると。郁人先生は。それ以上何も言わず歩き出した。相変わらず。淡々としている。けれど。初めての夜から。自分が変わっていることを。見ていたらしい。そのことが。思っていたより胸へ残った。***別の日。夕方の病棟で。綾香は。若い医師から相談を受けていた。患者への説明について。どの順番で話すべきか迷っているという。以前の自分なら。正しい答えを伝えようとしたかもしれない。今は。まず。その医師が。何を気にしているのかを聞いた。患者本人の希望。家族の受け止め方。まだ決まっていないこと。全部を整理してから。「分からないことまで」「決まったように言わなければいいと思う」そう答えた。医師は。少し考えてから頷く。「一緒に来てもらえますか」頼まれて。綾香は。少しだけ驚いた。それでも。「いいですよ」と答えた。以前の自分なら。誰かの説明に同席することを。まだ早いと思ったかもしれない。今は。自分にできる役割なら。受け取ってもいいと思えた。話を終え。病室から出る。廊下の先に。郁人先生が立っていた。壁際で。別の医師と話している。会話が終わり。こちらへ歩いてくる。「今の患者さん」郁人先生が尋ねる。「説明は終わりましたか」「はい」「どうでした」「まだ決まっていないことと」「今分かっていることを分けて伝えました」郁人先生は。短く頷いた。「そうですか」それだけで。通り過ぎる。少し進んでから。また足が止まる。「白松先生」「はい」「病院へ戻って」「どれくらいですか」突然の質問だった。「一か月少しです」「そうですか」表情は。変わらない。「もう少しいるように見えます」綾香は。思わず郁人先生を見る。冗談を言っている様子はない。褒めているのかも。やはり分かりにくい。「それは」少し迷う。「良い意味ですか」郁人先生が。初めて。ほんのわずかに目を細めた。「悪い意味で言う必要はないでしょう」それだけ答え。今度こそ歩いていった。綾香は。その
***最初のオンコールを終えてから。病院での時間は。少しずつ。特別なものではなくなっていった。朝。職員用の入口から入り。更衣室で白衣へ着替える。首から職員証を下げ。スタッフルームへ向かう。最初の頃は。廊下を歩くだけで。周囲の音をすべて拾っていた。誰かに呼ばれるたびに。自分ではないかと振り返った。院内の放送。足早に通り過ぎる看護師。開閉するエレベーター。それだけで。身体のどこかが緊張していた。今は。必要な音だけを。自然に聞き分けられるようになった。「白松先生」名前を呼ばれれば。すぐに顔を上げる。確認を頼まれたことへ答え。分からないことは。その場で尋ねる。一日の流れも。少しずつ見えるようになった。以前の自分へ戻ったわけではない。以前より。速く動けるようになったわけでもない。それでも。病院の中で。何を優先するべきか。少しずつ判断できるようになっていた。最初は。一つのことが終わるまで。次へ移れなかった。今は。途中の仕事を頭に残したまま。急ぐものへ先に向かえる。誰へ確認するのかも。迷う時間が減った。帰宅した後。自分が何もできなかったように感じる日も。少なくなっていた。患者の顔。交わした言葉。自分で判断できたこと。助けを求められたこと。それぞれが。一日の中へ。きちんと残るようになった。病院へ戻ったのだと。ようやく。身体の方も理解し始めていた。***専門医取得に向けた研修についても。少しずつ話が進んだ。以前の研修記録。経験した症例。認められる部分と。改めて積み上げる必要があるもの。まだ。全体が決まったわけではない。取得まで。どれだけ時間がかかるのかも分からない。それでも。自分がこれから何をするのかは。以前より見えるようになった。急いで。失った時間を埋める必要はない。一つずつ。必要な経験を積む。記録を残す。分からないことを学ぶ。病院の勤務へ慣れることも。その一部だった。以前なら。もっと早く。もっと多く。そう考えたかもしれない。今は。今日できることを。翌日へ残さず終える。それで十分だと思える日が増えていた。「最近」昼食を取りながら。真帆がこちらを見る。「顔が戻ってきたね」「何の顔?」「病院で働いて
「……それ」綾瀬先生の視線が、スマホに落ちた。そして。少しだけ、眉が寄る。「旦那さんですか?」反射的に、スマホを伏せた。「……違います」ほとんど条件反射だった。見られたくなかった。惨めな自分を。既婚者なのに。全然、大事にされていない現実を。家に帰るかどうかを、愛人の都合で決められる妻。そんなもの。第三者に見せられるほど、強くない。数秒だけ。静かな空気。ちょっと変な空気になる。そして。綾瀬先生が、少し困ったように笑った。「いや、それはちょっと無理あるよね」みかが横から吹き出す。「先生、正解です」身を乗り出して言う。「しかも超最低なんですよ、この人の旦
「返信しなよ、このタイミングだし」みかが、にやにやしながらスマホを指差した。「いや、無理でしょ」即答した。「なんて返すのよ、そもそも」「普通に、“どうしました?”でいいじゃん」「え、でもそんな感じの距離じゃないし」言いながら、スマホの画面を見る。【綾瀬隼人】『こんばんは。 この前の学会ぶりです。 急だけど、今少し話せたりする?』おかしい。なんで、このタイミングなんだろう。学会で少し話しただけの相手だ。連絡先だって、半ば強引に交換された。『現場戻りたくなった時のため』そう言って、名刺を渡されて。ついでみたいにメッセージアプリまで聞かれた。断るほどの理由もなく
青山駅前のカフェは、平日の夜なのに妙に混んでいた。窓際の席で、大きく手を振る女がいる。派手な金髪ボブだからこそ、いつもすぐに見つけられる。「綾香、こっち」香山みか。高校1年からの付き合いで。大学も違ったし、就職後はお互い忙しくなった。それでも。私が唯一、本音を言える相手だった。席に着いた瞬間。疲れ果てた表情が滲み出ていたのだろうか。みかの表情が固まる。「……え、待って」眉を寄せる。そして、急に顔が険しくなった。「本当にどうしたの、その顔」私は苦笑いした。「そんなにひどい?」「ひどすぎるレベル。大学のときに元カレに振られた次の日みたい」その言葉に、なぜか笑ってしま
6月10日。4回目の結婚記念日。そして——私が、あと1年で離婚しよう。そう、決めた日。本当なら、こんな日になるはずじゃなかった。少なくとも、4年前の私はそう思っていた。その日の午後6時にちょうどなった。さっきから、時計が次の針に進むのを見つめては。帰ってこない夫への諦めが募り。ため息が溢れた。私東郷綾香(とうごうあやか)はテーブルの上にまだ湯気の立つ料理を並べる。壁の時計をもう見たくなかった。さっきから、穴が開くほど見つめている。夫である東郷優(とうごうゆう)の帰宅予定は、7時だったはず。もう、1時間前なのに。連絡は、全く取れずにいた。まだ、遅くない。——期待なんて







