LOGIN「そうだね、助かった」複雑な気持ちは表に出さず、素直に感謝した。「病院は忙しい?」「そこそこ」「そっか」優は。私の顔を見た。「無理はしないで」そのまま、何も返さなかった。大丈夫とも。心配しなくていいとも言わない。優の気遣いを。否定する言葉も出なかった。短い沈黙が落ちる。けれど。居心地が悪いとは思わなかった。優も。返事を求めなかった。手にしていたファイルを。持ち直す。「藤本先生の方に」「緊急で入る案件が増えてる」「だから」「今日だけじゃなくて」「これからは俺が」「こっちの調整へ入ることの方が」「増えるかもしれない」「そうなの?」「もともと」優は続ける。「この案件は」「藤本先生と二人で進めてたし」「内容も把握してる」「藤本先生が」「急ぎの案件を多く持つなら」「俺がこっちへ入った方が」「調整もしやすいから」理由は。十分に筋が通っていた。私がいるから。優が無理に参加しようとしているわけではない。プロジェクトを進めるための。自然な役割分担だった。「だから」優が。わずかに声を和らげる。「仕事だから」私の表情を、一度だけ確認する。「あまり嫌がらないでほしい」「別に」すぐに、答えた。「嫌じゃないよ」言葉にした途端。優の口元が。ほんの少しだけ緩んだ。大きく笑うわけではない。それでも。安心したことは分かった。「本当に?」「仕事自体は」少しだけ、考えて続ける。「正直、やりやすかったし」「優が入ることに」「問題があるとは思ってない」優は。短く頷いた。「分かった」それ以上。確かめようとはしない。また会えることを。喜ぶ言葉も口にしなかった。「しばらくは」優が言う。「俺が来ると思うから」「そう」仕事らしい声に戻した。「よろしくお願いします」優も。目元をわずかに細める。「こちらこそ」その切り替えは。もう不自然ではなかった。「じゃあ」優が。廊下の先を見る。「また次の会議で」「うん」「お疲れさま」「お疲れさま」優は。その場に残らず。先に歩いていった。反対側の出口へ向かった。***建物を出ると。夜の風が。頬に触れた。駅へ向かいながら。今日のことを思い返した。隼人くんと会った夜。もう少し。一緒にいたいと思
***会議の終わりには。次に確認することが。はっきりしていた。情報の更新は。上書きではなく。履歴を残す。変更できる項目は。病院側と地域側で分ける。患者への同意は。退院時だけに限定せず。情報共有を始める前までに取る。例外となる状況は。私が。病院とクリニックの両方から整理する。プロジェクトは。順調に進んでいる。だからこそ。今まで見えなかった。細かな問題が見つかり始めている。それは。停滞ではない。実際に動かす段階へ。近づいている証拠だった。参加者が。席を立ち始める。大貴が。横を通る。「例外の具体例」「来週までにもらえる?」「うん」「病院側で聞いてみる」「クリニックの分も頼む」「分かった」大貴は。そのまま。別の参加者へ声をかけた。資料をまとめて会議室を出る。廊下を進んでいると。後ろから足音が近づいた。「綾香」振り返る。優が。数歩離れた場所に立っていた。会議中より。少しだけ表情が緩んでいる。「何?」「今日」優は。少し間を置いた。「会えて嬉しかった」小さく息を吐いた。「そういうの、やめて」優は。すぐには引かなかった。「別に」静かに返す。「思ったことを言ってるだけ」「言わなくていいこともあるでしょう」「あるけど」優は。私の顔を見る。「これくらいは」「言ってもいいかなと思って」以前なら。その一言だけで。胸の内側が硬くなった。優の気持ちを。また押しつけられるのではないかと。距離を取りたくなったと思う。今も。少し踏み込まれたとは感じた。けれど。優は返事を求めていない。会えたことを理由に。次の約束をしようともしていない。ただ。嬉しかったと口にしただけだった。「仕事中は」少し、間を置いて伝える。「やめて」「今はもう終わったから」少し食い下がる声に。優を見た。「そういうところ」「変わってないね」「全部変わったら」優が。わずかに口元を緩める。「別人になるから」その返しも。優らしかった。ほんの少しだけ、笑ってしまった。それを見ても。優は何も言わない。ただ。目元に残っていた硬さが。少しだけほどけた。「ところで」優が尋ねる。「今もクリニック?」そこで初めて気づく。病院へ戻ったことを。優には伝えて
***会議が始まる。大貴から。現在の進行状況が。簡単に共有された。基本となる項目と。病院から地域側へ。情報を渡す流れは。すでにまとまっている。試作版を使った。簡単な確認も始まっている。今後は。実際に使う前に。情報が変更された場合の扱いと。責任の分け方を。決めなければならない。その説明の後。予定していた藤本先生に代わり。優が参加することが伝えられた。「東郷です」優が。短く頭を下げる。「藤本先生から」「これまでの論点は引き継いでいます」「今日は」「情報を共有した後の更新と」「責任の分け方を中心に」「契約へ反映できる形へ整理します」前置きは短かった。すぐに。議題へ入る。現在の案では。退院時に。病院が必要な情報を入力する。地域のクリニックが。その内容を受け取り。診療に使う。その後の経過も。地域側から追加できる。大枠は。すでにできている。ただ。優が。資料の一部を指した。「退院後に」「地域側で薬が変更された場合」「病院側の情報にも」「反映されますか」企業側の担当者が答える。「今の案では」「地域側の記録にだけ残ります」「では」優が続ける。「次に病院を受診した時には」「古い情報が残っている可能性がある?」「そうなります」自分も同じ箇所が気になっていた。「それだと」口を開く。「連携した情報を」「病院側でそのまま使うのは難しいです」優が。こちらを見る。話の先を促すだけの視線だった。「患者さんの状態は」自然に、続ける。「病院を出た後も変わります」「薬や治療方針が変わっているのに」「病院側に古い情報が残れば」「確認の手間が増えるだけではなく」「判断を誤る可能性もあります」「変更した側が」「共通の情報を更新できる形が必要です」企業側の担当者が。少し考える。「両方から変更できると」「責任が曖昧になりませんか」答えるより先に。優が資料へ視線を落とした。「更新できることと」「責任の所在は」「分けて整理できます」ペン先で。該当箇所を示す。「変更した人と時間が残れば」「誰が何を更新したかは確認できる」「更新できる項目を」「役割ごとに制限する方法もあります」そこまで説明してから、向き直る。「現場では」「以前の情報を消す必要も
隼人くんと会った夜から。数日が過ぎた。もう少し。そばにいてほしかった。帰りたくなかった。あの時に残った感情は。忙しい日常へ戻っても。完全には消えなかった。けれど。次に会える日を。すぐに決められるわけではない。隼人くんは。クリニックの拡大準備で。物件や採用の調整が増えている。私自身も。病院勤務に加えて。専門医研修の予定が入り始めていた。短いメッセージを交わし。会える日を探す。それでも。互いの予定が。きれいに重なる日は少なかった。会いたいと思う気持ちを。前よりはっきりと自覚しながら。また病院へ向かい。目の前の仕事を続けていた。***プロジェクトも。病院へ戻っている間に。順調に進んでいた。最初は。病院と地域の医療機関を。どうつなぐのか。必要な機能や。全体の仕組みについて。大きな方向を話し合っていた。今は。基本となる設計がまとまり。実際の運用へ向けた調整に入っている。病院から。地域のクリニックへ。どの情報を共有するのか。共有された後。薬や治療方針が変わった時に。誰が更新するのか。患者本人から。どの時点で同意を取るのか。システムを作ることだけではなく。現場で使い続けるためのルールを。具体的に決める段階だった。システムの試作画面も。少しずつ形になっている。基本的な患者情報。治療の経過。処方内容。退院後の注意点。必要な項目を。病院側と地域側の双方から。確認できるようになっていた。まだ。実際に運用できる状態ではない。それでも。構想だけだったものが。画面として見えるようになったことで。プロジェクトが。現実へ近づいているのは分かった。病院へ戻ったことで。以前とは違う意見を出せるようになっていた。クリニックにいた頃は。病院から患者を受け入れる側として。何の情報が必要なのかを考えていた。今は。患者を地域へ送り出す病院側で。どこに負担が生じるのか。どの情報が。更新されないまま残りやすいのか。両方の立場から。見ることができる。今日の会議では。共有した情報を。その後どう更新するのか。変更があった場合。病院と地域の医療機関の。どちらが責任を持つのか。運用と契約の両面から。整理することになっていた。***会議室へ向かうと。入
***店を出た時には。午後十時を過ぎていた。約束した一時間は。もう終わっている。「駅まで送る」「隼人くんは?」「車」「明日も診療でしょう」「うん」「早く帰った方がいいよ」「綾香ちゃんも」同じ言葉を。互いに言う。それでも。すぐには別れなかった。夜の通りを。ゆっくり歩く。駅へ向かえば。十分もかからない。けれど。どちらも。少しだけ歩く速度が遅かった。人通りが減った場所で。隼人くんの腕が。綾香の腕へ触れる。偶然かと思った。けれど。次の瞬間。指先が。綾香の手へ触れた。確かめるような。短い接触。綾香は。手を引かなかった。隼人くんの指が。ゆっくりと絡む。手をつなぐ。何度も。したことがあるわけではない。それなのに。久しぶりに触れたせいか。手のひらだけで。身体の内側まで熱くなった。隼人くんは。何も言わない。綾香も。何も言えなかった。ただ。握られた手に。少しだけ力を返す。その瞬間。隼人くんの指が。強くなる。会えなかった時間が。その力へ表れているように思えた。駅へ近づく。人が増える。それでも。隼人くんは。手を離さなかった。「このまま」隼人くんが。前を向いたまま言う。「帰したくない」低い声だった。綾香は。足を止めた。隼人くんも。同じように止まる。目が合う。仕事中には見ない目。自分の部屋で。キスをした時に見た。少し熱を含んだ視線。「……うん」何への返事か。自分でも分からなかった。帰りたくない。そう答えたのかもしれない。隼人くんの目が。少しだけ揺れる。それから。つないでいた手を引かれた。強くではない。一歩だけ。近づくように。綾香は。隼人くんの前へ立つ。人の少ない建物の陰。通りの明かりが。隼人くんの横顔だけを照らしている。近い。互いの息が。分かる距離。隼人くんの手が。綾香の頬へ触れる。指先が。耳の近くへ髪をよける。触れ方は。以前と同じように丁寧だった。それなのに。今日は。その丁寧さが。少し苦しかった。もっと。近づいてほしい。そう思った。隼人くんが。表情を確かめる。綾香は。顔を背けなかった。次の瞬間。唇が重なった。最初から。以前より深かった。久しぶりに触れたから。互
金曜日。午後八時を過ぎた頃。プロジェクトの会議が終わった。最後の資料が閉じられ。席を立つ人たちの声が。会議室の中へ広がっていく。綾香は。机の上の資料をまとめながら。壁の時計を見た。八時十二分。隼人くんとの約束は。九時。病院から会議の会場へ移動し。そこから。待ち合わせの店までは。三十分もかからない。今日は。間に合う。それだけで。少しだけ肩の力が抜けた。ここ数日。予定が延びるたびに。今日も会えないかもしれないと。何度も思った。でも。今夜は。仕事が終わった。スマホを開く。『終わった』送ると。すぐに既読がついた。『俺も』続けて。『先に着いてる』思わず。足が速くなる。***待ち合わせは。駅から少し離れた。小さな店だった。遅い時間でも。軽い食事ができる。照明は落ち着いていて。店内の席も。ほとんど埋まっていない。扉を開ける。奥の席に。隼人くんがいた。白衣ではない。濃い色のシャツ。髪は。いつものように後ろで束ねている。片手で。グラスへ触れながら。入口の方を見ていた。目が合う。その瞬間。表情が変わる。大きく笑うわけではない。けれど。目元が。はっきりと柔らかくなる。それを見ただけで。胸の奥にあった疲れが。少しだけ消えた。「お待たせ」隼人くんの前まで行く。「待ってないよ」「先に着いてるって」「十分くらい」「それは待ってる」「綾香ちゃんを待つのは」少しだけ笑う。「嫌じゃないから」綾香は。向かいの席へ座った。久しぶりに。仕事の途中ではなく。二人きりで向かい合う。それだけなのに。どう座ればいいのか。少しだけ分からなくなった。クリニックでは。白衣を着たまま話す。病院では。郁人先生や。他の医師と。患者のことを話す。隼人くんとの連絡も。最近は。短いメッセージばかりだった。今は。目の前にいる。手を伸ばせば。触れられる距離。そのことを。急に意識した。「疲れてる?」隼人くんが尋ねる。「少し」「会議、長かった?」「今日は予定通り」「よかった」「隼人くんは?」「普通」「その顔」「何?」「普通じゃない時の顔」言うと。隼人くんが。少し笑った。「ばれるようになったね」「見るって決めたから」「
「逃げる準備、始めよっか」綾瀬先生がそう言った瞬間、その言葉だけが妙に耳に残った。逃げる。たったそれだけの言葉なのに、胸の奥がじくりと痛む。離婚する。家を出る。今の生活を終わらせる。頭では何度も考えていたはずなのに、「逃げる」という表現にすると急に現実味が増した。同時に、どうしてか罪悪感も湧いてくる。私は被害者のはずだった。夫は愛人を家に住まわせている。結婚生活なんて、とっくに壊れている。誰が見てもおかしい状況なのに。「逃げるのは悪いことなんじゃないか」という感覚が残っていた。ずっと我慢することが当たり前だったからだ。気づけば、自分の気持ちより相手を優先する癖が染
「……それ」綾瀬先生の視線が、スマホに落ちた。そして。少しだけ、眉が寄る。「旦那さんですか?」反射的に、スマホを伏せた。「……違います」ほとんど条件反射だった。見られたくなかった。惨めな自分を。既婚者なのに。全然、大事にされていない現実を。家に帰るかどうかを、愛人の都合で決められる妻。そんなもの。第三者に見せられるほど、強くない。数秒だけ。静かな空気。ちょっと変な空気になる。そして。綾瀬先生が、少し困ったように笑った。「いや、それはちょっと無理あるよね」みかが横から吹き出す。「先生、正解です」身を乗り出して言う。「しかも超最低なんですよ、この人の旦
「返信しなよ、このタイミングだし」みかが、にやにやしながらスマホを指差した。「いや、無理でしょ」即答した。「なんて返すのよ、そもそも」「普通に、“どうしました?”でいいじゃん」「え、でもそんな感じの距離じゃないし」言いながら、スマホの画面を見る。【綾瀬隼人】『こんばんは。 この前の学会ぶりです。 急だけど、今少し話せたりする?』おかしい。なんで、このタイミングなんだろう。学会で少し話しただけの相手だ。連絡先だって、半ば強引に交換された。『現場戻りたくなった時のため』そう言って、名刺を渡されて。ついでみたいにメッセージアプリまで聞かれた。断るほどの理由もなく
青山駅前のカフェは、平日の夜なのに妙に混んでいた。窓際の席で、大きく手を振る女がいる。派手な金髪ボブだからこそ、いつもすぐに見つけられる。「綾香、こっち」香山みか。高校1年からの付き合いで。大学も違ったし、就職後はお互い忙しくなった。それでも。私が唯一、本音を言える相手だった。席に着いた瞬間。疲れ果てた表情が滲み出ていたのだろうか。みかの表情が固まる。「……え、待って」眉を寄せる。そして、急に顔が険しくなった。「本当にどうしたの、その顔」私は苦笑いした。「そんなにひどい?」「ひどすぎるレベル。大学のときに元カレに振られた次の日みたい」その言葉に、なぜか笑ってしま







