LOGIN「……行かなきゃダメなの?」
空気が、一瞬止まった。 優の口からそんな言葉が出るとは思わなくて、私は少しだけ目を瞬く。 「……え?」 聞き返すと、優は一瞬だけ視線を逸らした。 そして、いつものように少し面倒そうな顔をする。 「別に」 低い声。 「最近、変な勧誘とか多いし」 言い訳みたいだった。 私を心配している、というには雑で。 でも、完全にどうでもいいなら出てこない言葉。 その曖昧さが、妙に引っかかる。 咲子さんが、ふっと笑った。 「あー、優ってほんとそういうとこ心配性だよね」 その言い方が、あまりにも自然だった。 昔から知っている人の声。 私の知らない優を、当然みたいに語る声。 胸の奥が少しだけ痛む。 優は否定しなかった。 ただ、小さく息を吐いただけ。 私はその二人を見ないように、バッグの紐を握った。 「病院見学だけだし」 できるだけ平静に言う。 「少し見てくるだけ」 優は何も言わなかった。 でも、眉のあたりに薄く皺が寄っている。 「ふーん」 それだけ。 なのに。 玄関へ向かう足が、ほんの少し遅かった。 気づかなければよかった。 そんな小さな変化に、まだ心が反応してしまう自分が嫌だった。 *** 夕方。 指定された場所は、表参道から少し離れた住宅街だった。 大通りの喧騒から一歩外れると、空気が急に静かになる。 低層マンションと小さなカフェ。 植え込みの緑。 こんなところにクリニックがあるのかと思いながら、スマホを見る。 【綾瀬隼人】 <<着いた? 外いる>> 顔を上げる。 すぐにわかった。 黒シャツの上に白衣。 長い黒髪を後ろで自然に束ねた男。 学会やカフェで見た時とは、少し違う。 同じ人なのに、白衣を着ると空気が変わる。 ラフなのに、だらしなくない。 綺麗すぎる顔立ちなのに、どこか人を緊張させない。 不思議な人だった。 「東郷先生」 綾瀬先生が軽く手を上げる。 「ちゃんと来た。偉い」 その言い方が、少しだけおかしくて。 気づけば、ほんの少し笑っていた。 すると、綾瀬先生が足を止める。 「……あ」 少しだけ目を細める。 「やっと笑ったね」 心臓が、小さく跳ねた。 そんなことを言われたのは、いつぶりだろう。 でも、すぐに視線を逸らした。 「……子ども扱いしないでください」 「してないよ」 軽い声。 「逃げずに来たの、普通にすごいと思ってる」 軽いのに、その一言だけ少し真面目だった。 だから、返事に困った。 *** 綾瀬クリニックは、想像していたよりずっと落ち着いた場所だった。 白を基調にした受付。 明るすぎない照明。 新しい医療機器。 清潔で、静かで、でも冷たくない。 スタッフ同士のやり取りも柔らかかった。 誰かが無理に笑っている感じがしない。 その空気に、少し驚く。 病院の現場は、もっと張り詰めているものだと思っていた。 「ここ、外来中心なんですか?」 「うん」 綾瀬先生が歩きながら答える。 「でも、ちゃんと診たい人が集まる場所にしたかった」 さらっと言う。 「流れ作業にならないように」 その言葉に、少しだけ胸が動いた。 昔、私もそう思っていた。 患者さんの顔をちゃんと見たい。 生活まで含めて考えたい。 でも、結婚してから。 そんな気持ちは、どこか遠くに置いてきた。 「院長」 看護師が声をかけてくる。 そして私を見るなり、にこっと笑った。 「彼女ですか?」 「違う」 即答だった。 綾瀬先生は少し笑って、続ける。 「すぐ未来の戦力候補」 ——戦力。しかも、すぐ未来って。 その言葉が、不思議なくらい胸に残った。 妻でも。 体裁でも。 誰かの都合でもなく。 戦力。 必要とされるかもしれない人間。 優に、そんなふうに見られたことは一度もなかった。 見学は思っていたより長くなった。 診察室。 処置室。 スタッフルーム。 電子カルテの説明。 働く人たちの導線。 どれもちゃんと考えられていて、見れば見るほど、胸の奥が少しずつ熱くなる。 戻るのは、正直少しだけ怖い。 でも。 それ以上に、懐かしい。 気づけば、外は暗くなっていた。 「ごめん」 綾瀬先生が時計を見る。 「思ったより長引いた」 診療後のクリニックは、人の気配が薄くなっていた。 昼間とは違う静けさ。 その中で、綾瀬先生が少し疲れた顔でこちらを見る。 「どうだった?」 私はすぐに答えられなかった。 言葉にすると、何かが壊れそうだった。 でも、しばらくして。 ぽつりと漏れた。 「……戻りたいかも」 声にした瞬間、胸の奥が熱くなる。 もう捨てたと思っていた。 医者だった自分。 誰かの役に立ちたいと思っていた自分。 まだ、完全には消えていなかった。 綾瀬先生は少しだけ笑った。 でも、すぐに表情が静かになる。 「なら」 低い声。 「本気で準備しようよ」 その時だった。 スマホが震える。 【優】 <<今日、何時? 続けて。>> 【優】 <<家で飯食うから>> 数秒後。 さらに通知。 【優】 <<あと、土曜の会食 咲子も来る>> 指先が冷える。 愛人を。 夫婦の場に。 当たり前みたいに。 私は画面を見たまま、しばらく動けなかった。 さっきまで戻りかけていた何かが、現実に引き戻される。 綾瀬先生が、画面を見ようとはしなかった。 ただ、私の顔を見て。 少しだけ声を落とす。 「……帰りたくない顔してる」 私は笑おうとして、失敗した。 「帰ります」 そう言った。 言ったのに、声が薄かった。 綾瀬先生は少し黙る。 そして、軽い調子を少しだけ残したまま言った。 「今日、ちゃんと寝られなさそうなら言って」 顔を上げる。 「部屋くらいはどうにかできる」 少し間。 「何もしないし、説教もしない」 そして。 いつもより少しだけ真面目な声で続けた。 「ただ、休める場所は必要でしょ」 時間が、少し止まる。 危ない。 その言葉に、少しだけ揺れた。 帰りたくない。 そう思ってしまった自分に、自分で驚いた。 その瞬間。 スマホがまた震える。 【優】 <<….今、誰といるの?>> 画面の光が、静かなクリニックで妙に冷たく見えた。玄関先に、静かな空気が落ちた。「……先生」優の声は低かった。いつも通り落ち着いている。怒っているわけでもない。責めているわけでもない。でも、理解していない、何かを測るみたいな温度があった。「家まで来るんですね」視線はまっすぐ綾瀬先生へ向いている。言葉は丁寧なのに、少しだけ硬い。綾瀬先生は気にした様子もなく、小さく笑った。「資料届けに来ただけですよ」軽い口調でサラッと伝える。でも、軽薄ではない。人を警戒させない話し方を、たぶん無意識に知っている人だ。「東郷先生、真面目だから」そう言って紙袋を軽く持ち上げる。「復帰系、家で一人で抱え込みそうなんで。補助教材です」冗談っぽく言う。けれど、視線だけはちゃんと私を見ていた。見られている。そう感じる目。必要以上に踏み込まないのに、置いていかない。不思議な人だと思う。優とは全然違う。優は完璧で、静かで、隙がない。でも綾瀬先生は、空気を軽くするのが上手い。綺麗な顔をしているのに、なぜか近寄りやすい。たぶん、誰とでも自然に距離を縮められる人。なのに、どこまで本心なのか、よくわからない。私は慌てて紙袋を受け取った。「すみません、わざわざ」そう謝るとすぐに。綾瀬先生が少しだけ眉を下げる。「あ、また謝った」どこか困ったように笑う。「東郷先生、すぐ“すみません”って言う」低くて。でも柔らかい。「もう少し人に甘えていいと思うけどな」押しつける感じじゃない。でも、ちゃんと届いてしまう言い方。私は少しだけ困って笑った。「先生、距離近いんですよね」「え、今さら?」即答だった。しかも少し楽しそう。「割とみんなに言われるな」悪びれない。それなのに、なぜか嫌味がない。普通なら軽い人だと思うのに。どこか信頼できてしまうのが、ずるい。「でも」綾瀬先生が少しだけ肩をすくめる。「最近は少し自重してる」その言い方に、胸が少しだけ止まる。何の意味か考えそうになって、慌ててやめた。たぶん。冗談。先生は、こういう人。そう整理しておかないと危ない。その時だった。隣で、静かに口を開く。「……ずいぶん、距離近いんですね」優が少し尖った口調で、伝える。責めるというより、確認に近かった。初めて見る顔だった。優はいつも、他人に感情を見せない。誰かに張
「二人で、ちゃんと話したい」優の言葉は、思ったより長く胸に残っていた。四年間だ。ずっとその間。私はずっと、それを待っていた気がする。怒りたい日も、泣きたい日も、何かを諦めた日も。ただ一度でいいから、優の方から向き合おうとしてほしかった。なのに、それが届いたのは、私がもう自分の部屋を探し始めた後だった。遅れて届く優しさは、やさしい形をしているのに、なぜか傷口に触れる。***昼過ぎ。復職資料を見返していると、スマホが震えた。【綾瀬隼人】今日、少しだけ電話できる?土曜の研修のこと。無理なら全然大丈夫。その文面を見た瞬間、肩の力が少し抜ける。押してこない。でも、ちゃんと近くにいる。この人はいつも、軽い顔でそういう距離を作る。ずるい人だと思う。私は短く返した。【綾香】>すぐに着信が来た。「こんにちは」低くて、少し笑みを含んだ声。声だけなのに、空気が変わる。『ごめん、急に』「いえ、大丈夫です」『ほんと? 東郷先生、だいたい“大丈夫です”って言う時、大丈夫じゃないからなあ』電話の向こうで、軽く笑う気配がした。少し人懐っこくて、明るい。なのに、こちらの奥まったところまで見てくる。そういうところが、少し怖い。「先生、そういう決めつけよくないです」『医者なんで、観察してるだけ』「便利ですね、それ」『便利だよ。あと、俺の特技』そういうことをさらっと言う。自分の魅力をわかっているのか、わかっていないのか。たぶん、わかっている。でも、わかっていないふりも上手い。『で、土曜なんだけど』声色が少しだけ変わる。仕事の話に戻る時の、あの切り替え。軽いのに、雑じゃない。『旦那さんとの予定、入りそう?』私は少し迷って、正直に言った。「……話したいって言われてて」電話の向こうが、一瞬だけ静かになった。けれど、すぐに明るい声が戻る。『そっか。じゃあ旦那さん優先でいいよ』「え」思わず声が漏れた。『ちゃんと話せるなら、その方がいいと思う』その声は穏やかだった。けれど、完全に平気というわけでもなさそうだった。軽い調子の奥に、ほんの少しだけ沈むものがある。『……まあ、ちょっと残念だけどね』心臓が小さく跳ねた。重くなくて、甘すぎない。冗談みたいに逃げ道を残してくれる。だ
翌朝になって。目が覚めても、昨夜の会話がまだ胸の奥に残っていた。俺も、昔予約取ろうとしてたそんなこと、一度も聞いたことがなかった。結婚二年目。まだ私が、優に期待することを完全には諦めていなかった頃。もしあの時、聞いていたら。少しは違ったんだろうか。優が私のために何かをしようとしていたと知っていたら。私はもう少しだけ、この家で息ができただろうか。けれど、すぐに答えは出た。たぶん、違わない。きっと私は、また期待した。そして期待したぶんだけ、傷ついた。小さな優しさを何度も拾って。そのたびに「まだ大丈夫」と自分に言い聞かせて。結局、何も変わらない日々の中で、もっと深く沈んでいた気がする。もう、十分だった。遅れて届いた優しさを。今さら宝物みたいに抱きしめるには、私は少し疲れすぎていた。***リビングへ降りると、朝の部屋は静かだった。優はもう出勤したらしい。けれど、キッチンカウンターの上に、小さな紙袋が置かれていた。昨日のケーキ屋のロゴ。足が止まる。胸の中に、まだ名前のつかない感情が落ちる。何となく開くと、小さな箱とメモが入っていた。綾香へ 甘いもの、好きだったよね 土曜、もしよかったら——優文字は相変わらず少し無骨で、必要なことしか書かれていない。それなのに。“綾香へ”。その最初の三文字で、指先が止まった。最近、優に名前を呼ばれることが増えた。それまでは、ほとんどなかったのに。同じ家にいても、会話は用件だけで、視線もすれ違うばかりだった。今さら名前を呼ばれると、嬉しいというより、過去の自分が少しだけ反応してしまう。あの頃の私が、まだどこかに残っている。それが厄介だった。メモを箱に戻しながら、深く息を吐く。タイミングが悪すぎる。本当に、救いようがないくらいに。その時、スマホが震えた。【東郷優】>続けて。【東郷優】>>>画面を見つめたまま、しばらく動けなかった。空けた。優が、私のために予定を空けた。昔なら、それだけで一日中そわそわしたと思う。忙しい人だから。私のために時間を使ってくれるだけで、特別に思えた。でも今は、その言葉が胸に届く前に、少し身構えてしまう。嬉しいより先に。
「……俺といる時」少し間。優が、言葉を探すみたいに視線を落とした。「そんな顔、してた?」部屋が静かになる。キッチンの時計の音だけが、妙に大きく聞こえた。私はすぐに答えられなかった。スマホを握ったまま、視線を落とす。そんな顔。——笑ってた顔。さっき。綾瀬先生の前で。気づけば何度も笑っていた。無理してじゃなく。空気を悪くしないためでもなく。ただ、自然に。それが。少しだけ、怖かった。「……どうだろう」ぽつりと零れる。優の視線が、こちらへ向く気配がした。私はマグカップの横に置かれたケーキの箱を見る。私が好きだった店。忘れてたと思っていた。でも。覚えていたらしい。——今さら。その感情と。少しだけ嬉しかった感情が、胸の中でぶつかる。だから余計に苦しい。「少なくとも」少し間を空ける。「最近は、してなかったかも」優の指先が、テーブルの端で止まる。何かを言いかけて。でも、口を閉じる。私は続けた。声は驚くほど静かだった。怒っているわけじゃない。責めたいわけでもない。ただ。少し疲れていた。「楽しいとか」「安心するとか」目線を少し窓の外へ逃がす。夜の街がぼやけて見えた。「そういう感覚、結構前に忘れてた」優が動かない。返事もない。ただ。何かを飲み込むみたいに、小さく喉が動いた。視線だけが、こちらに残る。その沈黙が、少し長い。気まずいはずなのに。不思議と、前みたいに怖くない。たぶん。私はもう。優の機嫌を伺わなくなっていた。「……綾香」名前を呼ばれる。少し低い声。でも。その続きが出てこない。珍しい。言葉に詰まる優なんて。ずっと、完璧な人だったのに。その時。ふっと思い出した。さっき。クリニックの前で。強くなってきたね綾瀬先生がそう言って、少し笑った顔。その瞬間だけ。肩の力が抜けた気がした。ああ。私。ちゃんと戻ろうとしてるんだ。壊れたままじゃなく。自分の人生へ。その時だった。スマホが震える。画面が明るくなる。【綾瀬隼人】あ、そうだ。土曜、研修説明のあと少し時間ある?近くでご飯でも。あと、普通に顔見たい。指先が止まる。……顔見たい。少しだけ、胸の奥がくすぐったくなる。でも。同時に思い出す。——土曜。優との予定。父親と
玄関を開けた瞬間。リビングの灯りが、まだついていた。時計を見る。22時12分。少し遅くなった。でも。普段なら。もう誰も起きていない時間。そう思っていた。なのに。「……おかえり」低い声。顔を上げる。そして。思わず、止まった。——優がいた。一人で。リビングに。珍しく、テレビもついていない。ソファでもない。キッチンカウンターに寄りかかって。スマホを見ていた。でも。私を見ると、少しだけ視線を逸らす。なんだろう。……待ってたみたい。その考えに。自分で驚く。そんなわけない。優が?「……起きてたんだ」短く返す。優は少しだけ黙って。「ああ」それだけ。でも。すぐ帰ろうとしない。どこか、落ち着かない顔。その時。ふわっと甘い匂いがした。テーブルを見る。小さなケーキの箱。コンビニじゃない。駅前の、少し高めの店のもの。隣には、マグカップが二つ。……え?思考が少し止まる。「……どうしたの、それ」思わず聞く。優が少しだけ気まずそうな顔をした。「いや」短く言う。「遅そうだったから」少し間。「コーヒーくらい飲むかなって」時間が止まる。コーヒー。ケーキ。私が昔好きだった店。結婚したばかりの頃。一度だけ。仕事帰りに買ってきてくれたことがあった。——“これ好きだったよね”あの時。少しだけ、嬉しかった。でも。それ以来、一度もなかった。四年間。忘れていたと思っていた。なのに。なんで今さら。胸が少しだけざわつく。でも。すぐに冷える。……遅い。本当に。遅すぎる。「……食べてきた」静かに言う。優の動きが少し止まる。「そう」短い返事。でも。少しだけ肩が落ちた気がした。沈黙。変な空気。私はバッグを置く。すると。優がぽつり。「何食べたの?」時間が止まる。……また。そんなこと。今まで聞かれたことなんてなかった。「定食」短く返す。「病院の近くのお店」「ふーん」少し間。「……楽しかった?」また。その質問。でも。前みたいに責める感じじゃない。本当に。様子を探ってるみたいな声。私は少し考える。そして。正直に言った。「……うん」優の指先が少し止まる。「仕事の話、ちゃんとできたし」「久しぶりに、自分のこと考えられ
「ご飯」低い声。「……二人で?」空気が止まった。優の視線が、私の服に落ちる。ネイビーのニット。細めのスカート。少しだけ整えた髪。派手ではない。でも。少しだけ、自分をちゃんと扱いたくて選んだ服だった。「……うん」短く答える。「復職の話もあるし」優は少しだけ黙った。そして。「仕事の話なら、クリニックでよくない?」低い声。静かなのに。少しだけ棘がある。胸の奥がざらつく。「食事しながら話すだけだよ」できるだけ平静に返す。「何か問題ある?」優が少しだけ言葉に詰まる。「……別に」視線が逸れる。そして。ぽつり。「ただ」少し間。「最近、その先生と距離近い気がする」時間が止まる。……距離近い。また、その言葉。私は少しだけ笑ってしまった。乾いた笑い。「そう?」静かな声。「私は、普通に心配してもらってるだけだと思うけど」その瞬間。優の顔が少し止まった。何か言いたそうなのに。言葉にならない顔。でも。結局何も言わない。私はバッグを持つ。「行ってくる」そう言って玄関へ向かった。背後から。少し遅れて声。「……終わったら連絡して」まただ。最近の優。やたら聞いてくる。帰宅時間。予定。誰といるのか。今まで。一度だって気にしたことなかったのに。「余裕あったら」短く返して家を出た。***待ち合わせは、クリニック近くの小さなビストロだった。大通りから少し外れた場所。静かで。あたたかい灯りが漏れる店。店の前に、綾瀬先生が立っていた。長い黒髪を自然に後ろで束ねて。黒のジャケット。白シャツ。病院の時とは少し違う。でも。相変わらず、妙に整っている。「あ、来た」軽く手を上げる。そして。私を見る。少しだけ目を細めた。「今日、雰囲気違うね」心臓が少し跳ねる。「……変ですか?」思わず聞いてしまう。綾瀬先生は少し笑った。「逆」少し間。「似合ってるよ」息が止まる。その言葉は。不思議なくらい自然に胸に落ちた。優みたいに。“評価”じゃない。ただ。ちゃんと見てくれた言葉。「……ありがとうございます」少しだけ、照れる。綾瀬先生は何事もなかったみたいに店の扉を開けた。「じゃあ、仕事モード戻す作戦、始めよっか」その軽さに、少し救われる。***







