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第7話:初めての逃げ道

مؤلف: Sunny
last update تاريخ النشر: 2026-05-09 22:09:49

「……行かなきゃダメなの?」

優の言葉に、部屋の空気が止まった。

そんなことを聞かれるとは思わず、私はしばらく答えられなかった。

「……え?」

聞き返すと、優はすぐに視線を逸らした。

「別に」

いつもの面倒そうな表情を浮かべる。

「最近、変な勧誘も多いし」

心配していると言うには、あまりにも雑だった。

けれど。

本当にどうでもいいなら、わざわざ口にする必要もない。

その中途半端な関心が、妙に胸へ引っかかった。

咲子さんが、小さく笑う。

「優って、そういうところ心配性だよね」

昔から優を知っている人の声だった。

私の知らない優を、当然のように語る声。

優は否定しなかった。

私は二人を見ないように、バッグの紐を握る。

「病院を見学するだけだから」

できるだけ平静に言った。

「働くかどうかも、まだ決めてないし」

優は何も答えない。

ただ、わずかに眉を寄せた。

「ふーん」

それだけだった。

けれど。

玄関へ向かう足取りが、ほんの少しだけ遅くなる。

そんな小さな変化に。

まだ心が反応してしまう自分が、嫌だった。

***

夕方。

指定された場所は、表参道から少し離れた住宅街だった。

大通りの喧騒を抜けると、空気が急に静かになる。

低層のマンション。

小さなカフェ。

歩道沿いに並ぶ、手入れされた植え込み。

本当にこの辺りで合っているのか確かめようと、スマホを見る。

【綾瀬隼人】

『着いた?

外にいるんだけど』

顔を上げると、すぐにわかった。

黒いシャツの上に白衣を羽織り、長い髪を後ろで束ねた男。

学会やカフェで会った時とは、少し印象が違う。

同じ人なのに。

白衣を着ているだけで、立っている空気が変わって見えた。

「東郷先生」

綾瀬先生が軽く手を上げる。

「ちゃんと来た。偉い」

あまりにも真面目に言うので、思わず笑ってしまった。

すると。

綾瀬先生が、少しだけ目を細める。

「……やっと笑ったね」

心臓が、小さく跳ねた。

すぐに視線を逸らす。

「子ども扱いしないでください」

「してないよ」

軽く笑ったあと、少しだけ声を落とす。

「逃げずに来たの、普通にすごいと思ってる」

その一言だけが、妙に真剣だった。

何と返せばいいかわからず。

私は黙ったまま、クリニックの入り口へ視線を向けた。

***

綾瀬クリニックは、想像していたよりも落ち着いた場所だった。

白を基調にした受付。

柔らかな照明。

清潔な診察室と処置室。

そして、見慣れた医療機器。

目にした瞬間。

胸の奥が、じわりと熱くなる。

久しぶりに見るものばかりなのに。

身体のどこかは、まだ覚えていた。

「ここ、外来中心なんですか?」

「うん」

綾瀬先生が歩きながら答える。

「ちゃんと診たい人が集まれる場所にしたかったんだ」

「流れ作業にならないように」

その言葉に、足が止まりそうになった。

患者の顔を、きちんと見たい。

病気だけではなく。

その人の生活まで含めて考えたい。

昔。

私もそう思っていた。

けれど、結婚してから。

その気持ちは、どこか遠くに置いてきた。

本当は、医師を辞めたくなかった。

結婚を機に、父から優の立場を優先するよう求められ。

仕方がないのだと、自分へ言い聞かせて手放した仕事だった。

「院長」

看護師が声をかけてくる。

そして、私を見るなり笑った。

「彼女ですか?」

「違う」

綾瀬先生は、迷わず答えた。

少しだけ笑ってから、続ける。

「近い未来の戦力候補」

戦力。

その言葉が、胸の奥に残った。

妻でも。

誰かの体裁でもない。

ここでは、一人の医師として見られている。

まだ何もできると証明していないのに。

必要になるかもしれない人間として、扱われている。

優に。

そんなふうに見られたことは、一度もなかった。

見学は、思っていたよりも長くなった。

診察室。

処置室。

スタッフルーム。

電子カルテの仕組み。

患者とスタッフがぶつからないように考えられた導線。

説明を聞くたび。

忘れたふりをしていた感覚が、少しずつ戻ってくる。

懐かしい。

同時に。

怖かった。

四年間の空白がある。

以前と同じように動けるかもわからない。

それでも。

もう一度、ここに立ちたい。

そんな気持ちが、少しずつ大きくなっていた。

気づけば、外は暗くなっていた。

「ごめん」

綾瀬先生が時計を見る。

「思ったより長引いたね」

診療を終えたクリニックは、昼間よりも静かだった。

スタッフの声も途絶え。

照明の落とされた待合室には、わずかな機械音だけが残っている。

綾瀬先生が、私を見る。

「どうだった?」

私はすぐに答えられなかった。

言葉にしてしまえば。

もう、元の生活へ戻れなくなる気がした。

けれど。

しばらくして、口を開く。

「……戻りたいかもしれないです」

声にした瞬間。

胸の奥が熱くなった。

医師だった自分に。

誰かの妻になる前の自分に。

四年間、消えてしまったと思っていた。

誰かの役に立ちたいと思っていた自分は。

まだ、ここにいた。

綾瀬先生が、少しだけ笑う。

「そっか」

その表情が、すぐに真剣なものへ変わる。

「なら、本気で準備しようよ」

押しつけるような言い方ではなかった。

ただ。

私が戻ることを、最初から疑っていない声だった。

その時。

スマホが震えた。

画面を見る。

【優】

『今日、何時?』

続けて。

『家で飯食うから』

さっきまでの熱が、少しだけ冷える。

返事をする前に。

もう一通、通知が届いた。

『あと、土曜の会食

咲子も来る』

指先が冷たくなった。

愛人を。

夫婦で出席するはずの場所へ連れてくる。

そのことを。

優は、後ろめたさもなく伝えてくる。

私は画面を見たまま、動けなかった。

綾瀬先生はスマホを覗こうとはしなかった。

ただ。

私の顔を見て、少しだけ声を落とす。

「……帰りたくない?」

否定しようとした。

けれど。

すぐに言葉が出てこなかった。

帰りたくない。

優と咲子さんがいる家へ。

私だけが、妻という役割を演じている場所へ。

「……帰ります」

何とか、それだけを答えた。

けれど。

自分でも、本心には聞こえなかった。

綾瀬先生が、わずかに眉を寄せる。

「大丈夫そうに見えないけど」

「大丈夫です」

いつもの言葉が、反射的に出る。

その返事を聞いて。

綾瀬先生は、少しだけ困ったような顔をした。

「今日、ちゃんと休めなさそうなら言って」

私は顔を上げる。

「休める部屋くらいは、どうにかできるから」

すぐに続ける。

「もちろん、変な意味じゃないよ」

軽く肩をすくめた。

「説教もしないし、何もしない」

それから。

少しだけ真面目な声になる。

「ただ、休める場所は必要でしょ」

胸の奥が、危うく揺れた。

その優しさに頼ってしまいたいと思った。

帰りたくないと。

ここにいたいと。

そう思ってしまった自分に、自分で驚く。

私は既婚者だ。

まだ。

優の妻だ。

弱っている時の優しさに、縋ってはいけない。

そう思った、その時。

スマホがまた震えた。

【優】

『……今、誰といるの?』

画面の光が、静かなクリニックで妙に冷たく見えた。

四年間。

私が誰といるのかなんて、一度も聞かなかった人が。

どうして。

今日に限って。

隣にいた綾瀬先生の視線が、画面へ落ちる。

けれど、何も聞かなかった。

ただ。

心配を隠そうともせず、私の顔を見ている。

何かを言いかけて。

それでも、言葉にはしない。

その眼差しは。

まるで、帰らないでと引き止めているように見えた。

胸の奥が、また大きく揺れる。

その視線から逃れるように、顔を上げた。

正面の大きなガラス窓。

その向こうで。

人影が動いた。

暗い夜道。

街灯の下に立つ、背の高い男。

見慣れた色のスーツ。

見慣れた肩の線。

心臓が、大きく跳ねる。

「……優?」

男が、ゆっくりとこちらへ顔を向けた。

冷たい横顔が見えた。

ような気がした。

どうして。

ここがわかったの?

まさか。

本当に、私を追いかけてきたの?

綾瀬先生が、私の視線を追う。

そして。

何も言わず、一歩前へ出た。

さりげなく。

私を背中へ庇うように。

ガラスの向こうの人影が、こちらへ近づいてくる。

私には。

その視線が、私を通り越し。

隣にいる綾瀬先生へ向けられたように見えた。

「……優」

呼吸が止まる。

男が。

街灯の下から、一歩踏み出した。

私の心臓が、激しく鳴った。

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