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四回目の結婚記念日。
その夜、夫は初恋の女を連れて帰ってきた。
テーブルの上の料理は、すっかり冷めていた。
優が好きだったレストランの味を再現した料理。
小さな白い花束。
栓を開けないままのワイン。
四時間前に送ったメッセージには、「既読」の二文字だけが残っている。
返信は来ない。
それ自体は、もう珍しいことではなかった。
慣れてしまったことが、一番嫌だった。
私は諦めきれずに、もう一度時計を見る。
午後十時を過ぎていた。
本当なら、七時には帰ってくるはずだった。
料理を温め直す気にもなれず、スマホを手に取る。
何気なく開いたSNSで、指が止まった。
『今年もありがとう♡』
投稿者は、白川咲子。
——優の初恋の人だ。
そして、今も関係の続いている恋人。
写真に顔は写っていない。
けれど、画面の端に映り込んだ腕時計を見た瞬間、呼吸が止まった。
見間違えるはずがない。
結婚祝いに、私が優へ贈った時計だった。
胸の奥が、すうっと冷えていく。
ああ。
今日も、そっちなんだ。
結婚記念日よりも。
妻よりも。
咲子と過ごす時間を選んだんだ。
……知っていた。
この結婚が、父親同士の事情から始まった、期限付きの契約だということも。
結婚する前、優は私にはっきり言った。
「誤解しないでほしい」
「咲子との関係は終わらない」
「結婚は五年だけ。お互い、割り切ろう」
それでも、私は優が好きだった。
頭が良くて。
自信に満ちていて。
誰に対しても堂々としている。
冷たく見えるのに、ときどき不意に優しい。
そんな優を、いつか私だけが知ることができるのではないかと思っていた。
時間を重ねれば。
ほんの少しでも、私を妻として見てくれる日が来るかもしれない。
そんな期待を、四年間も捨てられなかった。
午後十時半。
玄関のロックが外れる音がした。
ようやく帰ってきた。
そう思って立ち上がった瞬間、身体が凍りつく。
「ただいま」
優の隣には、当たり前のように咲子が立っていた。
「こんばんは、綾香さん」
咲子は、まるで自分の家へ帰ってきたような顔で笑っている。
綺麗で、可憐を絵に描いたような人。
昔から何も変わらない。
優がずっと好きな女。
「……なんで」
喉が詰まり、うまく声が出なかった。
優はネクタイを緩めながら、当然のように言う。
「咲子が終電逃したら困るし、今日も泊まらせる」
一瞬、意味が理解できなかった。
今日は結婚記念日だ。
たとえ形だけだったとしても、私たち夫婦の記念日であるはずなのに。
愛人を堂々と家へ連れて帰り、そのうえ泊まらせるというの?
「……今日」
声が震えた。
「今日、結婚記念日なんだけど」
優は少しだけ眉を上げた。
本当に、不思議そうに。
「だから?」
空気が凍りついた。
咲子が小さく笑う。
「あ、ごめんね。気を遣わせちゃった?」
悪びれる様子もなく、優へ顔を向けた。
「優、あの台湾で買った紅茶ある?」
——あの紅茶。
私は知らない。
この家に、咲子がいつも飲んでいる紅茶が置かれていることを。
優は迷うことなく棚を開けた。
「これ?」
「そう、それ」
二人のやり取りは、驚くほど自然だった。
四年間ここで暮らした私の方が、余計な人間に思えるほどに。
気づけば、笑っていた。
もう、笑うしかなかった。
「……すごいね」
自分のものではないような声が出る。
「結婚記念日に、愛人を連れて帰ってくるんだ」
一瞬、空気が止まった。
けれど、優は怒りもしなければ、悪びれもしなかった。
少し困った顔をしただけだった。
まるで、本気で私の言葉が理解できないように。
「最初に言ったよね?」
その声は、残酷なほど平静だった。
「これは期間限定の結婚なんだからさ」
「俺、咲子と別れるなんて言ってないし、責められる筋合いもない」
「綾香に変な期待させた覚えもない」
「プロジェクトも、あと半年もかからず終わる見込みだし」
その瞬間。
何かが、ぷつんと切れた。
ああ、そうか。
この人は、最初から一度も私を妻だと思っていなかったんだ。
私は妻ではない。
優が体裁を保つために置いている、肩書きだけの道具だった。
「ごめん、私……」
静かにバッグを掴む。
「少し、外に行ってくる」
優は一度だけこちらを見た。
けれど、止めようとはしなかった。
「遅くなりすぎるようなら連絡して」
それだけ。
まるで、私がどこへ行っても構わないみたいに。
玄関の扉を閉めた瞬間、涙が落ちた。
悔しかった。
こんな扱いを、四年間も当たり前のように受け入れてきた自分が。
けれど、何よりも辛かったのは。
——まだほんの少しだけ、優に期待していたことだった。
スマホが震える。
親友のみかからのメッセージだった。
『生きてる? 今日どうだった?』
数秒迷ってから、私は返信した。
『最悪。今から会えない?』
数分後、すぐに返事が届く。
『青山駅前のカフェいる。おいで』
顔を上げる。
街灯が、涙で滲んで見えた。
この時の私は、今夜が自分の結婚生活のどん底だと思っていた。
けれど、まだ知らなかった。
この家を出た一歩が。
優が私を失い始める、最初の一歩になることを。
「綾香といると」軽い調子で続ける。「カップルに間違われることが、たまに起こるんですよ」「直くん、いい加減にして」最後まで言わせず遮る。「何?」「自分で言わないでそういうの」「間違われるのは本当でしょう」「だからって、言わなくていいの」直くんは、悪びれることなく笑っている。隼人くんも。一瞬だけ目を見開いた後、口元を緩めた。「全然、お兄さんの感じが違うね」「真哉兄さんと?」「うん」真哉兄さんは、必要なことを短く伝える。表情も。身体の動きも大きくない。直くんとは。同じ家で育ったとは思えないほど、纏う空気が違う。「よく言われます」直くんは、あっさり認めた。「真哉兄さんは長男ですから」「直くんも兄でしょう」「俺は」直くんが私へ視線を向ける。「綾香のお気に入りの兄だから」「自分で言わないで」「違う?」「比べたことないよ」「それは、否定になってないね」直くんが笑う。隼人くんまで、小さく笑っていた。「仲いいんだね」「綾香は、昔から俺には結構素直なので」私が答えるより先に、直くんが言う。「そうだった?」「今の反応を見ると」隼人くんが、少しだけ目を細める。「確かに、お気に入りなのかもしれないね」「隼人くんまで何を言ってるの?」会って数分とは思えない会話だった。直くんは、相手の懐へ入るまでの時間が短い。隼人くんも、初対面の相手の空気を読むのが早い。その二人が並んでいると。私だけが、少し遅れているように感じる。カウンターの近くにいた女性が、直くんへ何度か視線を向けている。直くんは気づいているはずなのに。一度もそちらへ顔を向けなかった。「直哉さん」隼人くんが言う。「はい」「目立ちますね」「よく言われます」直くんは、ただ笑った。謙遜も。照れた様子もない。自分を大きく見せようとしているわけでもないのに。その返しに、少しも嫌味がなかった。こんなふうに。自分の容姿を当然の事実として扱いながら、相手を不快にさせない人は。私の知る限り、直くんくらいだった。「白松様」黒いスーツのスタッフが、こちらへ歩いてくる。三人で振り返った。「大変お待たせいたしました。テーブルのご用意が整いましたので、ご案内いたします」「ありがとうございます」直くんが応える。スタッフが、夜景の広がる
「気をつけなって、いつまで言えばいいの」「何もされてないよ」「何かされてからじゃ遅いでしょう」言い方は柔らかい。けれど。昔から、こういうところは変わらない。私が相手を疑わないことを知っているから。直くんは何でもない顔で間へ入り。私が気づかないうちに、相手との距離を変えてしまう。「もう大人だから」「知ってるよ」腰へ回っていた腕が、ようやく少し緩む。「大人になっても変わらないから言ってるの」「何が?」「危機感がないところ」また。同じことを言われた。隼人くんにも。美香にも。直くんにも。私だけが。何をそこまで心配されているのか、完全には理解できていない。「最近ぶりだね」直くんが、話を切り替えるように私の顔を見る。「いや」少しだけ目を細める。「ちょっと空いた気がするけど」「この間、会ったでしょう」「この間って、いつ?」言われて思い返す。「……少し前」「ほら」楽しそうに笑う。「綾香の少し前は、信用できないんだよね」「直くんが会う人、多すぎるんでしょう」「綾香と会った日は覚えてるよ」さらりと言われる。こういうところだった。特別な言葉を口にしているようには聞こえない。本当に覚えているから、そう言っただけなのだと思う。それでも。相手に、自分は大事にされていると自然に思わせる。直くんは昔から、人との距離を縮めることにほとんど苦労をしない。「顔、見せて」「見えてるでしょう」「ちゃんと」腰から離れた手が、今度は私の肩へ軽く触れる。少し身体の向きを変えられ、正面から顔を見られる。直くんの目が、頬から目元へゆっくり動いた。「何?」「元気そうではあるね」「そう見える?」「うん」「なら元気だよ」「それは、話を聞いてから判断する」笑顔のまま言われる。縁談のことを聞くつもりは、やはり最初からあるらしい。それでも。追及されているとは感じない。昔から慣れた距離で、私は直くんの顔を見返した。近い。けれど。私にとっては、二番目の兄とのいつもの距離だった。「綾香ちゃん?」少し離れた場所から、困惑を含んだ声が聞こえた。振り返る。エントランス側から、隼人くんがこちらへ歩いてくる。濃い色のスーツ。コートは腕に掛けられ。仕事を終えた直後なのか、ネクタイもまだ綺麗に締められていた。
待ち合わせのホテルへ着いたのは。約束の九時より、少し前だった。高層階へ上がるエレベーターの中で、鏡に映った自分の姿を確認する。仕事帰りの服。少しだけ直した化粧。美香との食事で飲んだワインの熱が、まだ頬に薄く残っていた。直くんからも。隼人くんからも。先に着いたという連絡はない。二人とも、時間には間に合うのだと思う。エレベーターの扉が開く。ホテルの最上階にあるバーは、昼間とは切り離されたような空気に包まれていた。照明は低く。天井から落ちる細い光が、磨かれた床へ淡く広がっている。壁一面の窓の向こうには、東京の夜景が地平線近くまで続いていた。無数の光。流れていく車。遠くで点滅する赤い航空灯。バーの奥からは、ピアノと低いベースの音がゆっくり流れている。入口で名前を告げると。黒いスーツを着たスタッフが、申し訳なさそうに頭を下げた。「ただいま、お席を整えております。少々お待ちいただけますでしょうか」「はい」「よろしければ、カウンターでお待ちください」案内されたのは、メインカウンターの横に設けられたスタンディングスペースだった。腰ほどの高さの細いカウンター。小さな照明。正面には、琥珀色の酒が並ぶ棚が見える。私は飲み物までは頼まず。カウンターの端に立って、スマートフォンを取り出した。直くんへ、到着したと送る。隼人くんにも。『先に着いたよ』短く送信する。スマートフォンをバッグへ戻そうとした時だった。「待ち合わせですか?」隣から声をかけられる。顔を上げる。三十代半ばくらいの男性が、こちらを見ていた。ダークカラーのジャケット。手元には短いグラス。穏やかな表情で、酔っているようには見えない。「はい」「僕もなんです。相手が少し遅れていて」男性が窓際のテーブルへ目を向ける。「そうなんですね」「お友達とですか?」「兄と」言いかけて。隼人くんも来ることを思い出す。「家族と、知り合いです」「珍しい組み合わせですね」「そうかもしれません」それだけで会話は終わると思っていた。けれど。男性は、そのまま自然に話を続けた。「ここのバー、よく来るんですか?」「いえ。初めてです」「夜景、綺麗でしょう」「そうですね」窓の外へ目を向ける。視界の端で、男性が少しだけ近づいたことに気づいた。音楽の流
以前。直くんが気に入っていると話していたホテルバーだった。仕事帰りに立ち寄るには。少し遅い時間になる。『縁談を断ったって聞いたし。気になるから顔、直接見たいな』柔らかな文章だった。何があったのか話せとも。説明しろとも書かれていない。けれど。会えば、自然にその話になることは分かっていた。直くんに問い詰められた記憶はない。強く話を求められたこともない。ただ。隣で笑いながら。こちらの話を最後まで聞き。少しずつ質問を重ねられるうちに。気づけば、話すつもりのなかったことまで口にしている。そういう人だった。「何て?」美香が聞く。画面を少しだけ見せる。読み終えた美香が、口元を上げた。「相変わらずだね」「何が?」「絶対、縁談の話を聞くつもりなのに」スマートフォンを私へ戻す。「ただ妹の顔を見たいだけ、みたいに誘ってる」「本当に、それもあると思うよ」「それで、結局全部聞くんでしょう?」「多分」嫌ではなかった。直くんには。父のことも。縁談を断った理由も。隼人くんのことも。自分の口から話しておきたいと思っていた。返信しようとしたところで。新しいメッセージが届く。『綾香の仕事が落ち着く時間に合わせるよ。遅いから、帰りは送る』その下に。もう一通続いた。『あ、呼びたかったら、例の弟さんも連れておいで』思わず。画面を見つめる。例の弟さん。隼人くんのことだった。以前。直くんに隼人くんのことを話した時。綾瀬家の三男だと説明したせいで。それ以来、時々そう呼ばれている。「何?」美香が、また画面へ顔を寄せる。文章を読むと。嬉しそうに目を見開いた。「直哉さんも、綾瀬先生を呼ぶ気なんだ」「呼ぶ気というか」「綾香が呼びたかったら、でしょう?」自然な言い方だった。隼人くんを連れてこいとも。二人で来いとも言わない。私が一人で話したいなら。それでも構わない。けれど。隼人くんにも関係のある話なら。連れてきてもいい。こちらが選びやすい形だけを、先に置いてくれている。「私も行きたい」美香が言う。「どうして?」「直哉さん、また拝みたい」「拝むって言わないで」「前に会った時」美香は真剣な顔になる。「写真より実物の方が、ずっとすごかったから」「何が?」「全部」「雑すぎるでしょう」
「何頼む?」「綾香?」「前菜、これでいい?」「泊まったの?」「魚もおいしそう」「先生の家?」「美香」「いつ?」「はいはい」私はメニューを美香の前へ広げた。「もう話さないよ」「その黙り方は、ほとんど答えだけど」「話さない」「一昨日?」「もう離さないよ」そう言って。料理の写真を指で示す。「これにする?」美香は、まだ私の顔を見ていた。けれど。私が一切答えるつもりがないと分かったのか。やがて両手を軽く上げた。「はいはい。分かりました」「本当に?」「一旦、離します」「一旦って言った」「今は仕事の話を聞く」全く諦めてはいない。それでも。ようやく美香もメニューへ目を落とした。店員を呼び。ワインと料理を注文する。注文が終わると。美香は改めて私へ向き直った。「それで、転職の方は?」「まだ全部決まったわけじゃないよ」「病院を離れる可能性もある?」「それも含めて考えてる」「プロジェクトは?」「途中で投げるつもりはないけど」少し考えてから続ける。「だからって、全部を私が抱えるつもりもない」美香が一度、瞬きをした。「今、綾香がそれを言った?」「何、その反応」「だって前は」椅子へ身体を預ける。「頼まれたら、全部自分でやろうとしてたでしょう」「今も、その癖はあると思う」「でも」美香がこちらを見る。「引き受ける前に、自分がどうしたいかを考えるようにはなった?」「少しは」病院の仕事。地域医療のプロジェクト。転職。家族。隼人くんとのこと。どれも。誰かから必要とされるまま受け入れていれば。簡単に、自分の容量を超えてしまう。以前は。必要とされることと。自分が望んでいることを。ほとんど同じものだと思っていた。今は。一度立ち止まる。本当に私がやるべきなのか。私が望んでいるのか。断った先に、別の方法はないのか。完璧にできているわけではない。それでも。何も考えずに受け入れることは減った。「前よりは」私は言う。「自分で決められるようになったと思う」「うん」美香の返事は早かった。「私もそう思う」料理とワインが運ばれてくる。赤ワイン。小さな前菜。香ばしく焼かれた野菜。皿が並び終わると。美香がグラスを手に取った。「じゃあ」「何?」「自分で縁談を断れ
*** 久しぶりに美香と会ったのは。仕事を終えた後だった。駅から少し離れた場所にある、小さなビストロ。以前にも何度か、二人で来たことがある。店内には低い音量で音楽が流れ。仕事帰りの客の話し声に、グラスが触れ合う澄んだ音が混じっていた。先に着いていた美香は。私が向かいへ座るなり、メニューも開かずにこちらを見た。「何?」「会ってない間に、色々ありすぎ」呆れたように言われる。「まだ何も話してないけど」「少しは聞いてるから」美香は、数を確かめるように指を折った。「病院に戻って」「転職の話も進んでて」「仕事のプロジェクトまで始まって」「その上、お父さんが縁談を持ってきた」最後だけ。明らかに声が低くなる。「本人が離婚したばかりなのに」「次の結婚相手を、家の都合で用意しようとする?」「お父さんの中では」私は水のグラスへ手を伸ばした。「私が離婚したから、次を考えられる状態になったらしいよ」「人の離婚を、空いた枠みたいに言わないでほしいんだけど」「本当にね」「しかも」美香の眉間に、さらに深く皺が寄る。「綾瀬先生のお兄さんとか」「うん」「綾瀬先生、怒っただろうね」あまりにも自然に言われ。私はグラスを持ったまま、美香を見た。「何で分かるの?」「それくらいは分かるよ」「隼人くんは、郁人先生を信頼してるよ」「兄弟として信頼してることと」美香は当然のように言う。「自分の彼女との縁談を平気で受け止められるかは、別でしょう」そういうものなのだろうか。私がすぐに答えないでいると。美香が呆れたように息を吐いた。「その顔を見る限り、相当怒ったね」「怒ったというか」あの場での隼人くんを思い出す。父親たちの前へ現れた時の。冷たく、感情を削ぎ落としたような顔。綾瀬家の事業を継ぐと決め。縁談を成立させる理由そのものを消した。その後も。兄貴のことはあんなに褒めていたのにと。少し傷ついた顔をしていた。「かなり、嫌だったみたい」「でしょうね」美香には。私が分からなかったことが、簡単に分かるらしい。「でも」私は続けた。「縁談自体は、私が断ったよ」「ちゃんと?」「うん」「お父さんの前で?」「両家がいる前で」美香が少し目を見開く。「よく言えたね」「言わないと」あの場で黙れば。また、誰か
「……行かなきゃダメなの?」空気が、一瞬止まった。優の口からそんな言葉が出るとは思わなくて、私は少しだけ目を瞬く。「……え?」聞き返すと、優は一瞬だけ視線を逸らした。そして、いつものように少し面倒そうな顔をする。「別に」そっけなく、理由を説明することが煩わしいという態度だ。「最近、変な勧誘とか多いし」….言い訳みたいだった。私を心配している、というには雑で。でも、完全にどうでもいいなら出てこない言葉。その曖昧さが、妙に引っかかる。咲子さんが、ふっと笑った。「あー、優ってほんとそういうとこ心配性だよね」その言い方が、あまりにも自然だった。昔から知っている人の声。
「……誰それ?」優の声に、思わず指が止まった。寝室へ向かおうとしていた足も、その場で止まる。振り返ると、優はソファに座ったままこちらを見ていた。正確には、私ではない。私の手の中にあるスマホ。そこに表示されている名前を見ている。【綾瀬隼人】たった四文字の名前。それだけなのに、優は珍しく視線を外さなかった。私は少し戸惑う。こんなこと、今までなかった。私が誰と会おうと。誰と連絡を取ろうと。優は興味を示したことがない。会社の同僚。学生時代の友人。みかのことだってそうだ。誰とどこへ行くのか聞かれた記憶はほとんどない。だからこそ、その反応が妙に不自然だった。「……知
「逃げる準備、始めよっか」綾瀬先生がそう言った瞬間、その言葉だけが妙に耳に残った。逃げる。たったそれだけの言葉なのに、胸の奥がじくりと痛む。離婚する。家を出る。今の生活を終わらせる。頭では何度も考えていたはずなのに、「逃げる」という表現にすると急に現実味が増した。同時に、どうしてか罪悪感も湧いてくる。私は被害者のはずだった。夫は愛人を家に住まわせている。結婚生活なんて、とっくに壊れている。誰が見てもおかしい状況なのに。「逃げるのは悪いことなんじゃないか」という感覚が残っていた。ずっと我慢することが当たり前だったからだ。気づけば、自分の気持ちより相手を優先する癖が染
「……それ」綾瀬先生の視線が、スマホに落ちた。そして。少しだけ、眉が寄る。「旦那さんですか?」反射的に、スマホを伏せた。「……違います」ほとんど条件反射だった。見られたくなかった。惨めな自分を。既婚者なのに。全然、大事にされていない現実を。家に帰るかどうかを、愛人の都合で決められる妻。そんなもの。第三者に見せられるほど、強くない。数秒だけ。静かな空気。ちょっと変な空気になる。そして。綾瀬先生が、少し困ったように笑った。「いや、それはちょっと無理あるよね」みかが横から吹き出す。「先生、正解です」身を乗り出して言う。「しかも超最低なんですよ、この人の旦







