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第5話:逃げる準備

作者: Sunny
last update publish date: 2026-05-09 22:09:34

「逃げる準備、始めよっか」

綾瀬先生の言葉が、ずっと頭から離れなかった。

逃げる。

その言葉で、曖昧だった未来が急に形を持った。

家を出る。

この結婚を終わらせる。

自分の力で暮らせるようになる。

それでも私は、なぜか逃げる側の自分に罪悪感を覚えていた。

傷つけられたのは、私の方なのに。

「……でも」

気づけば、口が動いていた。

テーブルの上のカップへ視線を落とす。

「あと半年で終わるので」

「それまで我慢すれば——」

「無理だと思うな」

返事は、驚くほど早かった。

思わず顔を上げる。

綾瀬先生は笑っていなかった。

さっきまでの軽い空気もない。

真剣な目で、まっすぐ私を見ている。

「東郷先生」

少しだけ言葉を選ぶように、視線を落とす。

それから静かに続けた。

「そんな顔しててさ」

「あと半年も耐えたら、たぶん心が壊れちゃうよ」

胸が大きく跳ねた。

心が壊れる。

そんなふうに言われると思わなかった。

私は反射的に笑おうとした。

大丈夫です。

いつもなら、そう言えた。

平気なふりをして。

何でもない顔をして。

そうしている方が、周りを困らせずに済んだから。

けれど。

口元が、うまく動かなかった。

綾瀬先生の目が、本当にそう思っている目だったからだ。

みかも、隣で大きく頷く。

「本当にそう」

心配を隠そうともせず、私を見る。

「綾香、自分で思ってるより危ないからね」

「最近、ちゃんと寝てる?」

返事ができなかった。

最近は、眠れない夜が増えた。

ようやく眠れても、朝が来るのが怖い。

食事も、ほとんど喉を通らない。

それでも私は、毎日自分へ言い聞かせてきた。

あと半年。

契約なのだから仕方ない。

もう少しだけ我慢すればいい。

そうやって、自分の苦しさを見ないふりをしていた。

認めてしまえば。

本当に、もう戻れなくなる気がしたから。

「……大げさだよ」

何とか笑おうとする。

けれど、声は自分でもわかるほど弱かった。

みかは笑わなかった。

綾瀬先生も、何も言わない。

その沈黙の中で。

初めて、自分でも認めてしまった。

私は、もう限界に近い。

綾瀬先生が、テーブルの上へ一枚の名刺を置いた。

「無理にとは言わない」

声は穏やかだった。

「でも、仕事に戻りたくなったら連絡して」

名刺には、綾瀬クリニックの名前が印刷されている。

その下に、手書きで携帯番号が添えられていた。

『困ったらこっち』

たった一言。

それだけなのに、視界が少し滲んだ。

こんなふうに。

いつでも使える逃げ道を渡されたことが、あっただろうか。

「……メッセージでも連絡できますよね」

声が少し掠れた。

綾瀬先生は肩をすくめる。

「緊急なら、電話の方が早いから」

それから、少しだけ表情を柔らかくした。

「出られない時は折り返す」

恩着せがましさのない言い方だった。

大したことではないように言う。

だからこそ、少し安心した。

私は名刺を見つめたまま、聞いた。

「どうして、そんなに親切なんですか?」

会ったのは、まだ三度だけ。

私は既婚者で。

夫婦の問題を抱えていて。

関われば、面倒なことになるかもしれない。

綾瀬先生に、何の得もない。

彼は少しだけ考えた。

それから、困ったように笑う。

「放っておけないからかな」

軽い答えだった。

けれど、不思議と軽くは聞こえなかった。

「学会で会った時も、無理して笑ってたし」

息が止まる。

まただ。

この人は。

私が隠そうとしていることを、簡単に見つけてしまう。

「それに」

綾瀬先生は、ほんの少し視線を逸らした。

「医者辞めるの、もったいないと思ってたんだ」

その言葉が、胸の奥へ落ちる。

静かに。

深く。

優からは、一度も言われたことがなかった。

仕事を辞める時も。

本当は戻りたいと悩んでいた時も。

優はいつも。

「好きにすれば」

それだけだった。

止められもしない代わりに。

必要とされたこともなかった。

だからこそ。

もったいない。

戻れる。

そう言われたことが、嬉しかった。

まだ、私は何かを失いきったわけではない。

そう思えた。

「見学だけでも来て」

綾瀬先生は、名刺を私の方へ少し押す。

「働くかどうかは、それから決めればいいから」

私は迷いながら、名刺を手に取った。

紙の感触が、指先に残る。

「……考えてみます」

そう答えると。

綾瀬先生が、少しだけ笑った。

「うん」

「それで十分」

その言葉に、胸の奥がわずかに軽くなった。

今すぐ、すべてを決めなくてもいい。

ただ。

逃げられるかもしれない。

その可能性を持つだけで、呼吸が少し楽になった。

***

店を出た頃には、日付が変わっていた。

みかとは駅で別れた。

一人になった途端。

夜の静けさが、急に身体へ重くのしかかる。

終電間際のホーム。

ガラスに映った自分の顔は、ひどく疲れていた。

それでも。

家を出た時より、少しだけ呼吸がしやすい。

バッグの中には、綾瀬先生の名刺が入っている。

仕事へ戻る。

自分で暮らせるようになる。

離婚する日を、自分で選ぶ。

まだ何一つ始まっていない。

けれど。

初めて、あの家の外にも人生があるように思えた。

帰宅したのは、午前一時を過ぎた頃だった。

玄関を開ける。

リビングの明かりがついていた。

咲子と優は、もう同じ部屋にいると思っていた。

だから。

ソファに一人で座る優を見た瞬間、足が止まった。

「……起きてたの?」

優はスマホから目を離さない。

「ああ」

短い返事。

それだけだった。

私は靴を脱ぎ、寝室へ向かおうとする。

「どこ行ってた?」

思わず、振り返った。

そんなことを聞かれたのは、初めてだった。

「みかと会ってた」

優は興味がなさそうに頷く。

「ふーん」

やっぱり。

ただ聞いただけ。

そう思った。

けれど。

数秒後、優が続ける。

「珍しいね」

ようやく顔を上げた。

「こんな遅くまで」

その視線に、わずかな違和感があった。

今までなら。

私が何時に帰っても、気にしたことなどなかったのに。

「話してたら遅くなっただけ」

短く答える。

優の目が、私の顔で止まった。

そして。

少し眉を寄せる。

「……泣いた?」

心臓が跳ねた。

今さら。

四年間。

私が泣いていても、一度も気づかなかった人が。

どうして今日に限って。

「別に」

視線を逸らす。

「何でもない」

優はしばらく私を見ていた。

けれど。

次に口にしたのは、心配の言葉ではなかった。

「明後日の会食」

一瞬で、胸の奥が冷える。

「ちゃんとしてね」

「父さんの案件で大事だから」

結局。

そこへ戻る。

私が泣いている理由より。

外から夫婦に見えることの方が大切なのだ。

「わかってる」

それだけ答えて、寝室へ向かう。

言い返す気力もなかった。

その時。

バッグの中で、スマホが震えた。

足を止める。

画面を確認する。

【綾瀬隼人】

『無事帰れた?

ちゃんと寝てね。

明日、少し話せる?』

たったそれだけのメッセージ。

けれど。

優の言葉より、ずっと温かかった。

画面を見つめていた、その時。

背後から声がした。

「……こんな時間に誰から?」

身体が固まる。

振り返る。

優が、こちらを見ていた。

正確には。

私ではなく、手の中のスマホを。

画面に表示された名前を、じっと見つめている。

【綾瀬隼人】

優の表情は、今まで見たことのないものだった。

困惑とも違う。

怒りとも違う。

自分の知らないものが。

突然、自分の領域へ入り込んできたような顔。

四年間。

私が誰と会おうと。

何時に帰ろうと。

一度も気にしたことがなかった人が。

たった一通。

知らない男から届いたメッセージだけで。

こんな顔をしている。

ふと、思った。

もしも優が知ったら。

私が離婚の準備を始めようとしていることを。

本当に、この人の前から消えようとしていることを。

知ったら。

一体、どんな顔をするのだろう。

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評論 (1)
goodnovel comment avatar
Rims
文章がポエムでちょっとサイコホラー味ある
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