เข้าสู่ระบบ「逃げる準備、始めよっか」
綾瀬先生の言葉が、ずっと頭から離れなかった。
逃げる。
その言葉で、曖昧だった未来が急に形を持った。
家を出る。
この結婚を終わらせる。
自分の力で暮らせるようになる。
それでも私は、なぜか逃げる側の自分に罪悪感を覚えていた。
傷つけられたのは、私の方なのに。
「……でも」
気づけば、口が動いていた。
テーブルの上のカップへ視線を落とす。
「あと半年で終わるので」
「それまで我慢すれば——」
「無理だと思うな」
返事は、驚くほど早かった。
思わず顔を上げる。
綾瀬先生は笑っていなかった。
さっきまでの軽い空気もない。
真剣な目で、まっすぐ私を見ている。
「東郷先生」
少しだけ言葉を選ぶように、視線を落とす。
それから静かに続けた。
「そんな顔しててさ」
「あと半年も耐えたら、たぶん心が壊れちゃうよ」
胸が大きく跳ねた。
心が壊れる。
そんなふうに言われると思わなかった。
私は反射的に笑おうとした。
大丈夫です。
いつもなら、そう言えた。
平気なふりをして。
何でもない顔をして。
そうしている方が、周りを困らせずに済んだから。
けれど。
口元が、うまく動かなかった。
綾瀬先生の目が、本当にそう思っている目だったからだ。
みかも、隣で大きく頷く。
「本当にそう」
心配を隠そうともせず、私を見る。
「綾香、自分で思ってるより危ないからね」
「最近、ちゃんと寝てる?」
返事ができなかった。
最近は、眠れない夜が増えた。
ようやく眠れても、朝が来るのが怖い。
食事も、ほとんど喉を通らない。
それでも私は、毎日自分へ言い聞かせてきた。
あと半年。
契約なのだから仕方ない。
もう少しだけ我慢すればいい。
そうやって、自分の苦しさを見ないふりをしていた。
認めてしまえば。
本当に、もう戻れなくなる気がしたから。
「……大げさだよ」
何とか笑おうとする。
けれど、声は自分でもわかるほど弱かった。
みかは笑わなかった。
綾瀬先生も、何も言わない。
その沈黙の中で。
初めて、自分でも認めてしまった。
私は、もう限界に近い。
綾瀬先生が、テーブルの上へ一枚の名刺を置いた。
「無理にとは言わない」
声は穏やかだった。
「でも、仕事に戻りたくなったら連絡して」
名刺には、綾瀬クリニックの名前が印刷されている。
その下に、手書きで携帯番号が添えられていた。
『困ったらこっち』
たった一言。
それだけなのに、視界が少し滲んだ。
こんなふうに。
いつでも使える逃げ道を渡されたことが、あっただろうか。
「……メッセージでも連絡できますよね」
声が少し掠れた。
綾瀬先生は肩をすくめる。
「緊急なら、電話の方が早いから」
それから、少しだけ表情を柔らかくした。
「出られない時は折り返す」
恩着せがましさのない言い方だった。
大したことではないように言う。
だからこそ、少し安心した。
私は名刺を見つめたまま、聞いた。
「どうして、そんなに親切なんですか?」
会ったのは、まだ三度だけ。
私は既婚者で。
夫婦の問題を抱えていて。
関われば、面倒なことになるかもしれない。
綾瀬先生に、何の得もない。
彼は少しだけ考えた。
それから、困ったように笑う。
「放っておけないからかな」
軽い答えだった。
けれど、不思議と軽くは聞こえなかった。
「学会で会った時も、無理して笑ってたし」
息が止まる。
まただ。
この人は。
私が隠そうとしていることを、簡単に見つけてしまう。
「それに」
綾瀬先生は、ほんの少し視線を逸らした。
「医者辞めるの、もったいないと思ってたんだ」
その言葉が、胸の奥へ落ちる。
静かに。
深く。
優からは、一度も言われたことがなかった。
仕事を辞める時も。
本当は戻りたいと悩んでいた時も。
優はいつも。
「好きにすれば」
それだけだった。
止められもしない代わりに。
必要とされたこともなかった。
だからこそ。
もったいない。
戻れる。
そう言われたことが、嬉しかった。
まだ、私は何かを失いきったわけではない。
そう思えた。
「見学だけでも来て」
綾瀬先生は、名刺を私の方へ少し押す。
「働くかどうかは、それから決めればいいから」
私は迷いながら、名刺を手に取った。
紙の感触が、指先に残る。
「……考えてみます」
そう答えると。
綾瀬先生が、少しだけ笑った。
「うん」
「それで十分」
その言葉に、胸の奥がわずかに軽くなった。
今すぐ、すべてを決めなくてもいい。
ただ。
逃げられるかもしれない。
その可能性を持つだけで、呼吸が少し楽になった。
***
店を出た頃には、日付が変わっていた。
みかとは駅で別れた。
一人になった途端。
夜の静けさが、急に身体へ重くのしかかる。
終電間際のホーム。
ガラスに映った自分の顔は、ひどく疲れていた。
それでも。
家を出た時より、少しだけ呼吸がしやすい。
バッグの中には、綾瀬先生の名刺が入っている。
仕事へ戻る。
自分で暮らせるようになる。
離婚する日を、自分で選ぶ。
まだ何一つ始まっていない。
けれど。
初めて、あの家の外にも人生があるように思えた。
帰宅したのは、午前一時を過ぎた頃だった。
玄関を開ける。
リビングの明かりがついていた。
咲子と優は、もう同じ部屋にいると思っていた。
だから。
ソファに一人で座る優を見た瞬間、足が止まった。
「……起きてたの?」
優はスマホから目を離さない。
「ああ」
短い返事。
それだけだった。
私は靴を脱ぎ、寝室へ向かおうとする。
「どこ行ってた?」
思わず、振り返った。
そんなことを聞かれたのは、初めてだった。
「みかと会ってた」
優は興味がなさそうに頷く。
「ふーん」
やっぱり。
ただ聞いただけ。
そう思った。
けれど。
数秒後、優が続ける。
「珍しいね」
ようやく顔を上げた。
「こんな遅くまで」
その視線に、わずかな違和感があった。
今までなら。
私が何時に帰っても、気にしたことなどなかったのに。
「話してたら遅くなっただけ」
短く答える。
優の目が、私の顔で止まった。
そして。
少し眉を寄せる。
「……泣いた?」
心臓が跳ねた。
今さら。
四年間。
私が泣いていても、一度も気づかなかった人が。
どうして今日に限って。
「別に」
視線を逸らす。
「何でもない」
優はしばらく私を見ていた。
けれど。
次に口にしたのは、心配の言葉ではなかった。
「明後日の会食」
一瞬で、胸の奥が冷える。
「ちゃんとしてね」
「父さんの案件で大事だから」
結局。
そこへ戻る。
私が泣いている理由より。
外から夫婦に見えることの方が大切なのだ。
「わかってる」
それだけ答えて、寝室へ向かう。
言い返す気力もなかった。
その時。
バッグの中で、スマホが震えた。
足を止める。
画面を確認する。
【綾瀬隼人】
『無事帰れた?
ちゃんと寝てね。明日、少し話せる?』たったそれだけのメッセージ。
けれど。
優の言葉より、ずっと温かかった。
画面を見つめていた、その時。
背後から声がした。
「……こんな時間に誰から?」
身体が固まる。
振り返る。
優が、こちらを見ていた。
正確には。
私ではなく、手の中のスマホを。
画面に表示された名前を、じっと見つめている。
【綾瀬隼人】
優の表情は、今まで見たことのないものだった。
困惑とも違う。
怒りとも違う。
自分の知らないものが。
突然、自分の領域へ入り込んできたような顔。
四年間。
私が誰と会おうと。
何時に帰ろうと。
一度も気にしたことがなかった人が。
たった一通。
知らない男から届いたメッセージだけで。
こんな顔をしている。
ふと、思った。
もしも優が知ったら。
私が離婚の準備を始めようとしていることを。
本当に、この人の前から消えようとしていることを。
知ったら。
一体、どんな顔をするのだろう。
「物件は?」「今の場所を広げるのは難しい」「じゃあ、移転?」「候補としては」隼人くんが。一枚の紙を綾香の方へ向ける。今のクリニックから。二駅ほど離れた場所。駅から近く。面積も広い。けれど。賃料も。今よりかなり高い。「ここは」隼人くんが言う。「医療法人が前に使ってた場所」「お父さんの?」「うん」「今は空いてるらしい」「そこへ移ったら」綾香は。紙を見ながら尋ねる。「クリニックは、家のものになるの?」「ならないよ」隼人くんの答えは。はっきりしていた。「それは条件にするから」「場所を借りても」「運営は分ける」「人も」「俺が決める」家の力を使う。でも。家の中へ戻るわけではない。隼人くんは。その境界を。自分なりに決めようとしている。「それなら」綾香は。資料を見つめたまま言う。「一度、見てもいいんじゃない?」隼人くんが。少しだけ目を上げた。「そう思う?」「うん」「使うかどうかは」「見てから決めればいいでしょう」「うん」「一度見たからって」「受け入れなきゃいけないわけでもないし」隼人くんが。ゆっくり笑った。「綾香ちゃんも」「そういう考え方するようになったね」「何が?」「一回選んだら」「最後まで正解にしなくていいって」窓辺のグリーンのカーテンを。思い出した。あの時。隼人くんが。私に言ってくれたこと。「隼人くんが言ったんでしょう」「そうだった」「自分も使って」言うと。隼人くんが。少しだけ声を立てて笑った。その笑顔を見て。胸の奥が温かくなる。病院が始まる。クリニックが変わる。私も。隼人くんも。今までと同じではいられない。でも。変わることが。離れることと同じではない。そう思いたかった。「予定」綾香は。バッグからスマホを取り出した。「決めよう」隼人くんが。少し眉を上げる。「何の?」「会う時間」言った瞬間。少しだけ照れた。けれど。言い直さなかった。「病院が始まったら」「今までみたいには会えなくなるし」「うん」「隼人くんも」「物件とか、人のこととか」「家の人にも会うでしょう」「たぶん」「だから」綾香は。カレンダーを開いた。「先に決めておきたい」隼人くんは。数秒。こちらを見ていた。それから
病院から正式な連絡が来たのは。それから三日後だった。朝から降っていた雨は。昼を過ぎても止まず。クリニックの窓を。細い水の筋が流れていた。待合室には。濡れた傘の匂いと。消毒液の匂いが混じっている。診察の合間。綾香は。白衣のポケットで震えたスマホを取り出した。画面に表示されていたのは。真帆の名前だった。『正式に決まったよ』その一文を見た瞬間。周囲の音が。少しだけ遠くなる。続けて届いた文章には。勤務開始日。最初の数週間の予定。病棟勤務を中心にしながら。段階的に外来や当直へ入っていくこと。専門医取得に向けた研修歴についても。引き続き確認を進めることが書かれていた。採用が決まった。病院へ戻る。その言葉が。ようやく。現実の重さを持った。うれしい。それと同じくらい。少し怖い。クリニックへ戻った時も。最初は。患者の前へ座るだけで緊張した。病院では。求められるものがもっと多い。病棟の流れ。急変への対応。医師同士の判断。看護師や薬剤師との連携。以前知っていた場所へ戻るのではない。今の自分で。もう一度入り直す。『おめでとう』真帆から。すぐに次のメッセージが届く。『忙しくなるけど、最初から全部できなくていいからね』思わず。小さく笑った。今の私が。一番忘れやすいことを。先に言われた気がした。『ありがとう』返信する。それから。隼人くんとの画面を開いた。最初に報告すると。約束していた。『決まりました』送ってから。少し迷う。敬語を消す。『決まったよ』送り直すことはできない。けれど。すぐに追加で。『病院、正式に決まった』と送った。数分後。診察室の扉が叩かれた。「どうぞ」開いた扉の向こうに。隼人くんが立っている。白衣姿。片手には。次の患者の検査結果を持っていた。「おめでとう」声は。いつも通り落ち着いていた。でも。目元が。少しだけ柔らかい。「ありがとうございます」答えた後。隼人くんが。何も言わずこちらを見る。綾香は。小さく息を吐いた。「ありがとう」言い直す。隼人くんが。満足そうに口元を緩めた。「開始日は?」「来月の最初の月曜日」「思ったより早いね」「うん」「クリニックは?」「最初の一か月は、休むことになるか
決まってから。 心配させないため。 中途半端なことを言わないため。 隼人くんなりの配慮なのだと思う。 けれど。 その言い方を。 私は知っている。 優も。 何かを決める時。 すべてが固まってから話した。 仕事のこと。 家のこと。 自分の中で結論を出してから。 私に伝えることが多い。 もちろん。 隼人くんと優は違う。 隼人くんは。 私の人生を勝手に決めようとしているわけではない。 ただ。 何かが決まるまで。 一人で抱える癖がある。 「決まってからじゃなくて」 綾香は。 ゆっくり口を開いた。 隼人くんの表情が。 少しだけ変わる。 「途中でも」 「聞かせてほしい」 声が。 思っていたより小さくなった。 「全部、説明してほしいわけじゃないよ」 「まだ分からないっていう話もたくさんあると思う」 「でも」 一度。 息を整える。 「何か考えてるなら」 「私は、知りたい」 恋人だから。 そう言うには。 まだ少し照れがあった。 それでも。 ここで引っ込めたくなかった。 「病院のことも」 綾香は続ける。 「私は、決まる前から隼人くんに話したでしょう」 「うん」 「だから」 「隼人くんのことも」 「決まってから報告されるんじゃなくて」 言葉を選ぶ。 「考えてる途中から」 「聞きたい」 隼人くんは。 何も言わなかった。 机の上へ置いていた手を。 少しだけ握る。 そして。 ゆっくり力を抜いた。 「ごめん」 静かな声だった。 「謝ってほしいわけじゃない」 「うん」 隼人くんが。 少しだけ困ったように笑う。 「慣れてなくて」 「何が?」 「決まってないことを」 「誰かに話すの」 いつも。 自分の中で決めて。 必要なことだけを。 周囲へ伝えてきた。 家を離れる時も。 クリニックを開く時も。 きっと。 同じだったのだろう。 「じゃあ」 綾香は。 机の上の書類を指した。 「今、どこまで考えてるの?」 隼人くんの目が。 少しだけ柔らかくなる。 「今?」 「うん」 「まだ、何
「毎日でも」 「それは無理」 敬語が崩れる。 「知ってる」 隼人くんが笑う。 「でも」 その笑みが。 少しだけ薄くなる。 「前と同じようには会えなくなるだろうなとは思ってる」 「うん」 「だから」 綾香が続ける。 「ここで働く時間も」 「大事にしたい」 患者のため。 臨床側の医師として。 それだけではない。 隼人くんと。 同じ場所で働く時間を。 全部なくしたくない。 隼人くんは。 何も言わず。 しばらく綾香を見ていた。 それから。 ゆっくり頷く。 「分かった」 短い言葉。 でも。 今度は。 院長としてだけではないと分かった。 綾香は。 机の上の書類へ視線を落とす。 「それ」 「うん?」 「何の資料?」 隼人くんが。 一瞬だけ。 答えるのを迷った。 ほんの短い間。 それでも。 綾香には分かった。 「クリニックのこと?」 「うん」 隼人くんは。 伏せていた書類を。 元へ戻した。 「前に話したでしょう」 「広げること?」 「そう」 患者が増えている。 予約が取りづらい。 診察室も。 人員も。 今のままでは限界が近い。 以前。 隼人くんから聞いていた。 「もう、具体的に動いてるの?」 「まだ」 隼人くんは答える。 「候補を見てるだけ」 机の上には。 現在のクリニックより広い物件の資料。 採用候補者の経歴。 融資や契約に関する簡単な書類。 思っていたより。 話は進んでいるように見えた。 「人も増やすの?」 「広げるならね」 「先生も?」 「うん」 隼人くんは。 書類へ視線を落とす。 「今のままだと」 「俺が診られる数にも限界があるし」 「綾香ちゃんの勤務が減る可能性もあるから」 「他の先生も探してる」 綾香は。 少しだけ胸が詰まった。 私が病院へ行くことも。 隼人くんの計画へ影響している。 「私が辞めるから?」 「それと、これは違うよ」 隼人くんはすぐに否定した。 「もともと必要だった」 「綾香ちゃんが来てくれたことで」 「少し先延ばしにできてただけ」 言い方に。 責める響きはなかった。 それでも。 自分が病院へ戻ることで。 隼人くんも。 変わらなければならないのだと実感した。 「大変?」
翌日、クリニックはいつもの忙しさだった。定期的に通ってくれる患者の診察が終わった。 「私、次も白松先生の日がいいんです」 受付へ向かう前に。 患者はもう一度、こちらを振り返った。 それから。 少しだけ言いにくそうに続けた。 「なんですが受付で、これから先生の診察日が」「減るかもしれないって聞いたのですが」 綾香は。 受付の方へ視線を向けた。 最近は面談等も重なっていたので、時間が少しいつもよりも不規則になっていた。 勤務日を調整する可能性がある以上。 事前に伝えておく必要がある患者もいる。 誰かが不用意に話したわけではないのだろう。 「減ることが確定したわけでもないですし、取れる日時があるので受付で確認してください」 綾香は答えた。 「よかった」 患者の声が明るくなる。 その言葉が。 思っていたよりも強く胸へ残った。 患者は続ける。 「ここに来たのは、前の病院から紹介されて」 「最初は、近いから来ただけだったんです」 「でも」 少し笑う。 「先生は、急がないで話を聞いてくれるから」 綾香は。 何も言えなかった。 医師として。 当たり前のことをしているだけだった。 症状を聞く。 不安を確認する。 治療を説明する。 必要なら。 その場ですべてを決めず。 患者が考える時間を残す。 それでも。 その人にとっては。 ここへ通う理由になっている。 診察室の扉が閉じる。 静かになった部屋で。 綾香はしばらく。 閉じた扉を見つめていた。 病院へ戻りたい。 その気持ちは。 変わっていない。 病棟で働きたい。 専門医取得に向けた研修も。 もう一度進めたい。 それは。 今の自分が選んだ道だった。 でも。 病院へ戻ることと。 このクリニックを完全に手放すことは。 同じではない。 少し前まで。 ここは。 臨床へ戻るための場所だった。 本当に患者を診られるのか。 医師として。 もう一度働けるのか。 それを確かめるための。 途中の場所。 そう思っていた。 けれど。 今は違う。 自分の診察を待つ患者がいる。 次も。 白松先生の日がいいと。 言ってくれる人がいる。 この場所でしか見えないこともある。 病院へ戻ったからといって。 それをすべて手放す必要はな
背中へ回っていた腕が。 ゆっくり離れていく。 手のひらが。 服の上を滑らないように。 一度その場で浮き。 それから。 自分の側へ戻る。 身体も。 同じ速さで離れていく。 急に立ち上がらない。 慌てて視線を逸らさない。 私が姿勢を戻すのを待ち。 きちんと座れたことを確かめてから。 隼人くんも。 元の位置へ戻る。 床へ落ちたままだったクッションを拾い。 ソファの端へ置く。 私たちの間へ。 壁のように置くことはしなかった。 ただ。 最初より。 少しだけ離れた場所へ座り直した。 今の距離が近すぎたとも。 これ以上は進まないとも。 言葉では説明しない。 二人が。 また落ち着いて話せる空間を。 自然に作り直した。 胸の奥が。 少しずつ落ち着いていく。 近づいたことが。 嫌だったわけではない。 むしろ。 腕が離れた瞬間。 少しだけ名残惜しいと思った。 もう一度。 近くへ行ってもいいと。 思う自分もいた。 でも。 その気持ちだけで。 どこまで進むのかを決めるには。 まだ少し怖い。 隼人くんは。 私が言葉にする前に。 その迷いごと受け取ったように。 勝手に先へ進まず。 だからといって。 何かを失敗したように。 遠くへ逃げることもなかった。 「……うん」 何への返事か分からないまま。 小さく声が出た。 隼人くんがこちらを見る。 「何?」 「お茶」 「うん」 「冷めるね」 言うと。 隼人くんが。 少しだけ笑った。 「そこは敬語じゃないんだ」 「もう、気にしないで」 「うん」 今度は。 いつもの笑い方に近かった。 私は茶器を持つ。 指先が。 まだ少し落ち着かない。 一口飲む。 淹れたばかりのはずなのに。 味がよく分からなかった。 「美味しい?」 隼人くんに聞かれる。 「たぶん」 「たぶん?」 「今、あんまり分からない」 「俺のせい?」 顔が熱くなる。 「……そうかも」 答えた瞬間。 隼人くんが。 少し驚いたように目を見開いた。 それから。 嬉しそうに笑った。 「そっか」 「何?」 「俺のせいでいいよ」 綾香は。 誤魔化すように。 茶器へ口をつけた。 隼人くんも。 自分の茶器へ手を伸ばす。 けれど。 持ち上
「返信しなよ、このタイミングだし」みかが、にやにやしながらスマホを指差した。「いや、無理でしょ」即答した。「なんて返すのよ、そもそも」「普通に、“どうしました?”でいいじゃん」「え、でもそんな感じの距離じゃないし」言いながら、スマホの画面を見る。【綾瀬隼人】『こんばんは。 この前の学会ぶりです。 急だけど、今少し話せたりする?』おかしい。なんで、このタイミングなんだろう。学会で少し話しただけの相手だ。連絡先だって、半ば強引に交換された。『現場戻りたくなった時のため』そう言って、名刺を渡されて。ついでみたいにメッセージアプリまで聞かれた。断るほどの理由もなく
青山駅前のカフェは、平日の夜なのに妙に混んでいた。窓際の席で、大きく手を振る女がいる。派手な金髪ボブだからこそ、いつもすぐに見つけられる。「綾香、こっち」香山みか。高校1年からの付き合いで。大学も違ったし、就職後はお互い忙しくなった。それでも。私が唯一、本音を言える相手だった。席に着いた瞬間。疲れ果てた表情が滲み出ていたのだろうか。みかの表情が固まる。「……え、待って」眉を寄せる。そして、急に顔が険しくなった。「本当にどうしたの、その顔」私は苦笑いした。「そんなにひどい?」「ひどすぎるレベル。大学のときに元カレに振られた次の日みたい」その言葉に、なぜか笑ってしま
6月10日。4回目の結婚記念日。そして——私が、あと1年で離婚しよう。そう、決めた日。本当なら、こんな日になるはずじゃなかった。少なくとも、4年前の私はそう思っていた。その日の午後6時にちょうどなった。さっきから、時計が次の針に進むのを見つめては。帰ってこない夫への諦めが募り。ため息が溢れた。私東郷綾香(とうごうあやか)はテーブルの上にまだ湯気の立つ料理を並べる。壁の時計をもう見たくなかった。さっきから、穴が開くほど見つめている。夫である東郷優(とうごうゆう)の帰宅予定は、7時だったはず。もう、1時間前なのに。連絡は、全く取れずにいた。まだ、遅くない。——期待なんて
「……行かなきゃダメなの?」空気が、一瞬止まった。優の口からそんな言葉が出るとは思わなくて、私は少しだけ目を瞬く。「……え?」聞き返すと、優は一瞬だけ視線を逸らした。そして、いつものように少し面倒そうな顔をする。「別に」そっけなく、理由を説明することが煩わしいという態度だ。「最近、変な勧誘とか多いし」….言い訳みたいだった。私を心配している、というには雑で。でも、完全にどうでもいいなら出てこない言葉。その曖昧さが、妙に引っかかる。咲子さんが、ふっと笑った。「あー、優ってほんとそういうとこ心配性だよね」その言い方が、あまりにも自然だった。昔から知っている人の声。