Compartilhar

第5話:逃げる準備

Autor: Sunny
last update Data de publicação: 2026-05-09 22:09:34

「逃げる準備、始めよっか」

綾瀬先生の言葉が、ずっと頭から離れなかった。

逃げる。

その言葉で、曖昧だった未来が急に形を持った。

家を出る。

この結婚を終わらせる。

自分の力で暮らせるようになる。

それでも私は、なぜか逃げる側の自分に罪悪感を覚えていた。

傷つけられたのは、私の方なのに。

「……でも」

気づけば、口が動いていた。

テーブルの上のカップへ視線を落とす。

「あと半年で終わるので」

「それまで我慢すれば——」

「無理だと思うな」

返事は、驚くほど早かった。

思わず顔を上げる。

綾瀬先生は笑っていなかった。

さっきまでの軽い空気もない。

真剣な目で、まっすぐ私を見ている。

「東郷先生」

少しだけ言葉を選ぶように、視線を落とす。

それから静かに続けた。

「そんな顔しててさ」

「あと半年も耐えたら、たぶん心が壊れちゃうよ」

胸が大きく跳ねた。

心が壊れる。

そんなふうに言われると思わなかった。

私は反射的に笑おうとした。

大丈夫です。

いつもなら、そう言えた。

平気なふりをして。

何でもない顔をして。

そうしている方が、周りを困らせずに済んだから。

けれど。

口元が、うまく動かなかった。

綾瀬先生の目が、本当にそう思っている目だったからだ。

みかも、隣で大きく頷く。

「本当にそう」

心配を隠そうともせず、私を見る。

「綾香、自分で思ってるより危ないからね」

「最近、ちゃんと寝てる?」

返事ができなかった。

最近は、眠れない夜が増えた。

ようやく眠れても、朝が来るのが怖い。

食事も、ほとんど喉を通らない。

それでも私は、毎日自分へ言い聞かせてきた。

あと半年。

契約なのだから仕方ない。

もう少しだけ我慢すればいい。

そうやって、自分の苦しさを見ないふりをしていた。

認めてしまえば。

本当に、もう戻れなくなる気がしたから。

「……大げさだよ」

何とか笑おうとする。

けれど、声は自分でもわかるほど弱かった。

みかは笑わなかった。

綾瀬先生も、何も言わない。

その沈黙の中で。

初めて、自分でも認めてしまった。

私は、もう限界に近い。

綾瀬先生が、テーブルの上へ一枚の名刺を置いた。

「無理にとは言わない」

声は穏やかだった。

「でも、仕事に戻りたくなったら連絡して」

名刺には、綾瀬クリニックの名前が印刷されている。

その下に、手書きで携帯番号が添えられていた。

『困ったらこっち』

たった一言。

それだけなのに、視界が少し滲んだ。

こんなふうに。

いつでも使える逃げ道を渡されたことが、あっただろうか。

「……メッセージでも連絡できますよね」

声が少し掠れた。

綾瀬先生は肩をすくめる。

「緊急なら、電話の方が早いから」

それから、少しだけ表情を柔らかくした。

「出られない時は折り返す」

恩着せがましさのない言い方だった。

大したことではないように言う。

だからこそ、少し安心した。

私は名刺を見つめたまま、聞いた。

「どうして、そんなに親切なんですか?」

会ったのは、まだ三度だけ。

私は既婚者で。

夫婦の問題を抱えていて。

関われば、面倒なことになるかもしれない。

綾瀬先生に、何の得もない。

彼は少しだけ考えた。

それから、困ったように笑う。

「放っておけないからかな」

軽い答えだった。

けれど、不思議と軽くは聞こえなかった。

「学会で会った時も、無理して笑ってたし」

息が止まる。

まただ。

この人は。

私が隠そうとしていることを、簡単に見つけてしまう。

「それに」

綾瀬先生は、ほんの少し視線を逸らした。

「医者辞めるの、もったいないと思ってたんだ」

その言葉が、胸の奥へ落ちる。

静かに。

深く。

優からは、一度も言われたことがなかった。

仕事を辞める時も。

本当は戻りたいと悩んでいた時も。

優はいつも。

「好きにすれば」

それだけだった。

止められもしない代わりに。

必要とされたこともなかった。

だからこそ。

もったいない。

戻れる。

そう言われたことが、嬉しかった。

まだ、私は何かを失いきったわけではない。

そう思えた。

「見学だけでも来て」

綾瀬先生は、名刺を私の方へ少し押す。

「働くかどうかは、それから決めればいいから」

私は迷いながら、名刺を手に取った。

紙の感触が、指先に残る。

「……考えてみます」

そう答えると。

綾瀬先生が、少しだけ笑った。

「うん」

「それで十分」

その言葉に、胸の奥がわずかに軽くなった。

今すぐ、すべてを決めなくてもいい。

ただ。

逃げられるかもしれない。

その可能性を持つだけで、呼吸が少し楽になった。

***

店を出た頃には、日付が変わっていた。

みかとは駅で別れた。

一人になった途端。

夜の静けさが、急に身体へ重くのしかかる。

終電間際のホーム。

ガラスに映った自分の顔は、ひどく疲れていた。

それでも。

家を出た時より、少しだけ呼吸がしやすい。

バッグの中には、綾瀬先生の名刺が入っている。

仕事へ戻る。

自分で暮らせるようになる。

離婚する日を、自分で選ぶ。

まだ何一つ始まっていない。

けれど。

初めて、あの家の外にも人生があるように思えた。

帰宅したのは、午前一時を過ぎた頃だった。

玄関を開ける。

リビングの明かりがついていた。

咲子と優は、もう同じ部屋にいると思っていた。

だから。

ソファに一人で座る優を見た瞬間、足が止まった。

「……起きてたの?」

優はスマホから目を離さない。

「ああ」

短い返事。

それだけだった。

私は靴を脱ぎ、寝室へ向かおうとする。

「どこ行ってた?」

思わず、振り返った。

そんなことを聞かれたのは、初めてだった。

「みかと会ってた」

優は興味がなさそうに頷く。

「ふーん」

やっぱり。

ただ聞いただけ。

そう思った。

けれど。

数秒後、優が続ける。

「珍しいね」

ようやく顔を上げた。

「こんな遅くまで」

その視線に、わずかな違和感があった。

今までなら。

私が何時に帰っても、気にしたことなどなかったのに。

「話してたら遅くなっただけ」

短く答える。

優の目が、私の顔で止まった。

そして。

少し眉を寄せる。

「……泣いた?」

心臓が跳ねた。

今さら。

四年間。

私が泣いていても、一度も気づかなかった人が。

どうして今日に限って。

「別に」

視線を逸らす。

「何でもない」

優はしばらく私を見ていた。

けれど。

次に口にしたのは、心配の言葉ではなかった。

「明後日の会食」

一瞬で、胸の奥が冷える。

「ちゃんとしてね」

「父さんの案件で大事だから」

結局。

そこへ戻る。

私が泣いている理由より。

外から夫婦に見えることの方が大切なのだ。

「わかってる」

それだけ答えて、寝室へ向かう。

言い返す気力もなかった。

その時。

バッグの中で、スマホが震えた。

足を止める。

画面を確認する。

【綾瀬隼人】

『無事帰れた?

ちゃんと寝てね。

明日、少し話せる?』

たったそれだけのメッセージ。

けれど。

優の言葉より、ずっと温かかった。

画面を見つめていた、その時。

背後から声がした。

「……こんな時間に誰から?」

身体が固まる。

振り返る。

優が、こちらを見ていた。

正確には。

私ではなく、手の中のスマホを。

画面に表示された名前を、じっと見つめている。

【綾瀬隼人】

優の表情は、今まで見たことのないものだった。

困惑とも違う。

怒りとも違う。

自分の知らないものが。

突然、自分の領域へ入り込んできたような顔。

四年間。

私が誰と会おうと。

何時に帰ろうと。

一度も気にしたことがなかった人が。

たった一通。

知らない男から届いたメッセージだけで。

こんな顔をしている。

ふと、思った。

もしも優が知ったら。

私が離婚の準備を始めようとしていることを。

本当に、この人の前から消えようとしていることを。

知ったら。

一体、どんな顔をするのだろう。

Continue a ler este livro gratuitamente
Escaneie o código para baixar o App
Comentários (1)
goodnovel comment avatar
Rims
文章がポエムでちょっとサイコホラー味ある
VER TODOS OS COMENTÁRIOS

Último capítulo

  • 愛人を選んだ夫が、離婚後に狂い始めました   第315話 帰したくない

    ***店を出た時には。午後十時を過ぎていた。約束した一時間は。もう終わっている。「駅まで送る」「隼人くんは?」「車」「明日も診療でしょう」「うん」「早く帰った方がいいよ」「綾香ちゃんも」同じ言葉を。互いに言う。それでも。すぐには別れなかった。夜の通りを。ゆっくり歩く。駅へ向かえば。十分もかからない。けれど。どちらも。少しだけ歩く速度が遅かった。人通りが減った場所で。隼人くんの腕が。綾香の腕へ触れる。偶然かと思った。けれど。次の瞬間。指先が。綾香の手へ触れた。確かめるような。短い接触。綾香は。手を引かなかった。隼人くんの指が。ゆっくりと絡む。手をつなぐ。何度も。したことがあるわけではない。それなのに。久しぶりに触れたせいか。手のひらだけで。身体の内側まで熱くなった。隼人くんは。何も言わない。綾香も。何も言えなかった。ただ。握られた手に。少しだけ力を返す。その瞬間。隼人くんの指が。強くなる。会えなかった時間が。その力へ表れているように思えた。駅へ近づく。人が増える。それでも。隼人くんは。手を離さなかった。「このまま」隼人くんが。前を向いたまま言う。「帰したくない」低い声だった。綾香は。足を止めた。隼人くんも。同じように止まる。目が合う。仕事中には見ない目。自分の部屋で。キスをした時に見た。少し熱を含んだ視線。「……うん」何への返事か。自分でも分からなかった。帰りたくない。そう答えたのかもしれない。隼人くんの目が。少しだけ揺れる。それから。つないでいた手を引かれた。強くではない。一歩だけ。近づくように。綾香は。隼人くんの前へ立つ。人の少ない建物の陰。通りの明かりが。隼人くんの横顔だけを照らしている。近い。互いの息が。分かる距離。隼人くんの手が。綾香の頬へ触れる。指先が。耳の近くへ髪をよける。触れ方は。以前と同じように丁寧だった。それなのに。今日は。その丁寧さが。少し苦しかった。もっと。近づいてほしい。そう思った。隼人くんが。表情を確かめる。綾香は。顔を背けなかった。次の瞬間。唇が重なった。最初から。以前より深かった。久しぶりに触れたから。互

  • 愛人を選んだ夫が、離婚後に狂い始めました   第314話 足りない

    金曜日。午後八時を過ぎた頃。プロジェクトの会議が終わった。最後の資料が閉じられ。席を立つ人たちの声が。会議室の中へ広がっていく。綾香は。机の上の資料をまとめながら。壁の時計を見た。八時十二分。隼人くんとの約束は。九時。病院から会議の会場へ移動し。そこから。待ち合わせの店までは。三十分もかからない。今日は。間に合う。それだけで。少しだけ肩の力が抜けた。ここ数日。予定が延びるたびに。今日も会えないかもしれないと。何度も思った。でも。今夜は。仕事が終わった。スマホを開く。『終わった』送ると。すぐに既読がついた。『俺も』続けて。『先に着いてる』思わず。足が速くなる。***待ち合わせは。駅から少し離れた。小さな店だった。遅い時間でも。軽い食事ができる。照明は落ち着いていて。店内の席も。ほとんど埋まっていない。扉を開ける。奥の席に。隼人くんがいた。白衣ではない。濃い色のシャツ。髪は。いつものように後ろで束ねている。片手で。グラスへ触れながら。入口の方を見ていた。目が合う。その瞬間。表情が変わる。大きく笑うわけではない。けれど。目元が。はっきりと柔らかくなる。それを見ただけで。胸の奥にあった疲れが。少しだけ消えた。「お待たせ」隼人くんの前まで行く。「待ってないよ」「先に着いてるって」「十分くらい」「それは待ってる」「綾香ちゃんを待つのは」少しだけ笑う。「嫌じゃないから」綾香は。向かいの席へ座った。久しぶりに。仕事の途中ではなく。二人きりで向かい合う。それだけなのに。どう座ればいいのか。少しだけ分からなくなった。クリニックでは。白衣を着たまま話す。病院では。郁人先生や。他の医師と。患者のことを話す。隼人くんとの連絡も。最近は。短いメッセージばかりだった。今は。目の前にいる。手を伸ばせば。触れられる距離。そのことを。急に意識した。「疲れてる?」隼人くんが尋ねる。「少し」「会議、長かった?」「今日は予定通り」「よかった」「隼人くんは?」「普通」「その顔」「何?」「普通じゃない時の顔」言うと。隼人くんが。少し笑った。「ばれるようになったね」「見るって決めたから」「

  • 愛人を選んだ夫が、離婚後に狂い始めました   第313話 会った感じしなかったね

    ***夜。隼人くんから電話が来た。入浴を終え。髪を乾かしている途中だった。「もしもし」『今、大丈夫?』「うん」電話の向こうから。小さく息を吐く音が聞こえる。『今日、ごめん』「仕事だから」『ほとんど話せなかった』「うん」否定できなかった。『顔は見たけど』隼人くんが。少しだけ笑う。『会った感じしなかったね』綾香は。ドライヤーの電源を切った。部屋が。急に静かになる。「私も」それだけ答えた。画面越しではなく。電話の声だけでもなく。近くで。何でもない話をしたかった。仕事の途中ではなく。次の予定を気にせず。隼人くんの顔を見たかった。『次』隼人くんが言う。『いつ空いてる?』綾香は。ベッドへ座り。カレンダーを開いた。「来週の火曜日」『俺、父親と会う』「水曜は?」『診療の後、採用の面談』「木曜日」『綾香ちゃん、オンコールでしょう』「うん」「金曜日は?」少し間が空く。『夜なら』綾香は。自分の予定を見る。「プロジェクトの会議」『何時まで?』「たぶん八時」『じゃあ、その後』「隼人くん、次の日も診療でしょう」『綾香ちゃんも病院でしょう』どちらも。相手を止める理由にはならない。でも。無理をさせたいわけでもない。「一時間だけ?」綾香が尋ねる。『うん』「遅くなっても?」『会いたい』迷いのない声だった。胸の奥が。小さく熱くなる。「私も」今度は。すぐに返した。金曜日。午後九時。互いのカレンダーへ。予定を入れる。一時間だけ。それでも。会える日が決まったことで。少し安心した。『今度は』隼人くんが言う。『仕事だけで終わらせないようにする』「仕事の途中で呼ばれたら?」『その時は仕方ない』「物件の話が延びたら?」『抜ける』「それは駄目でしょう」『じゃあ急いで終わらせる』綾香は。少し笑った。「私も」『うん』「会えるように終わらせる」言った後。自分の言葉に。少しだけ引っかかった。仕事を急いで終わらせる。無理をする。そういう意味ではない。ただ。会うことを。空いた時間に回さない。隼人くんも。同じように思ったのかもしれない。『無理はしないで』「隼人くんも」『でも会おう』「うん」短い沈黙。電話越しに。互い

  • 愛人を選んだ夫が、離婚後に狂い始めました   第312話 予定が合わない

    隼人くんに会いに行った夜から。また。顔を見ない日が続いた。病院へ行き。患者を診る。帰宅して。翌日の予定を確認する。疲れて眠り。朝になれば。また病院へ向かう。その繰り返しの中で。隼人くんとのやり取りは。少しずつ短くなっていた。『今日、何時に終わる?』昼休みに送る。返事が来たのは。夕方だった。『診療の後、物件の担当と会う』『綾香ちゃんは?』『たぶん七時くらい』『今日は難しいね』画面を見つめる。会おうと約束していたわけではない。それでも。今日も会えないと分かると。少しだけ残念だった。『うん。また今度』送る。それ以外に。返す言葉がなかった。***翌日は。隼人くんの方が早く仕事を終えた。『近くまで行こうか』夕方。そう届いた。綾香は。患者の記録を確認しながら。時計を見る。予定では。あと一時間ほどで終われるはずだった。『たぶん七時半には出られる』『待ってる』その言葉だけで。胸が少し軽くなった。今日は会える。病院の外で。短い時間でも。顔を見られる。そう思っていた。けれど。退院を予定していた患者の状態が。夕方になって変わった。家族への説明が必要になり。確認しなければならないことが増えた。時計の針だけが。先へ進む。七時半。八時。隼人くんから。催促は来なかった。代わりに。『まだかかりそう?』とだけ届いた。綾香は。廊下の端で立ち止まり。短く返信する。『ごめん。まだ終われない』少しして。『分かった』続けて。『今日は帰って寝て』綾香は。画面を見つめた。会いたかった。せっかく。隼人くんが近くまで来てくれようとしていた。でも。今から急いでも。疲れた顔で。数十分会えるだけ。翌朝も早い。隼人くんの言う通りだった。『ごめんね』送る。『謝らなくていいよ』すぐに返ってくる。優しい。だからこそ。余計に寂しかった。***病院では。郁人先生と顔を合わせることが増えていた。手術のある日。患者の引き継ぎ。病棟で確認が必要な時。会えば。自然に言葉を交わす。「白松先生」名前を呼ばれ。振り返る。「昨日の患者さん」「朝はどうでしたか」「落ち着いています」「そうですか」短い会話。それで終わる。郁人先生とは。予定を

  • 愛人を選んだ夫が、離婚後に狂い始めました   第311話 お兄さんじゃないかと思って

    「そういえば」話が途切れたところで。綾香は。今日見た名前を思い出した。「病院に来てる先生で」「うん」「前に話した」「最初のオンコールの日に来てくれた外科の先生」隼人くんが頷く。「郁人先生?」「うん」名前を知っていることに。少し驚いた。以前。一度だけ話したことを。覚えていたらしい。「今日」綾香は続けた。「手術予定の書類で」「フルネームを見たの」隼人くんの表情が。少しだけ変わる。「何て?」「綾瀬郁人先生」一度。短い沈黙が落ちた。隼人くんは。驚くというより。頭の中で。何かをつなげたような顔をした。「兄貴だね」やはり。そうだった。「多分」綾香は。少しだけ笑う。「お兄さんじゃないかと思って」「そう」隼人くんが。小さく息を吐いた。「その病院に来てたんだ」「知らなかった?」「どこで手術してるかまでは」「いちいち聞かないから」隼人くんらしい答えだった。「似てる?」隼人くんが聞く。「顔?」「うん」綾香は。少し考えた。「言われたら」「少しだけ」「少しだけなんだ」「雰囲気が違いすぎるから」「兄貴は」隼人くんが。少しだけ笑う。「隙がないでしょう」「うん」すぐに答えると。隼人くんの笑みが。少し深くなった。「やっぱり」「でも」綾香は続ける。「冷たい人ではないと思う」「そうだね」返事は。思っていたより早かった。「郁人兄貴とは」少しだけ間を置く。「別に仲悪くないよ」“郁人兄貴とは”。ほんの少しだけ。言葉に含みがあるように聞こえた。でも。綾香は。そこを追わなかった。家族の中に。それぞれ違う距離があることくらい。不自然ではない。隼人くんが。今。話したいところまででいい。「どういう人?」綾香が聞く。「もう会ってるでしょう」「病院でしか知らないから」隼人くんは。少し考えた。「見たままだよ」「説明になってない」「ちゃんとしてる」「それは分かる」「自分がやることと」少し言葉を探す。「やらないことが、はっきりしてる」郁人先生の。淡々とした話し方を思い出す。必要なことには。きちんと答える。けれど。自分から。余計な説明はしない。「この前」綾香は言う。「別の病院で働いてるんですかって聞いたの」「うん」

  • 愛人を選んだ夫が、離婚後に狂い始めました   第310話 まだクリニック?

    その日。綾香は。翌週の手術予定を確認していた。病棟へ配られた一覧には。患者の名前。担当医。執刀医。必要な情報だけが。細かく並んでいる。自分が関わる患者の欄へ。順番に目を通す。そこで。一つの名前に。視線が止まった。【綾瀬郁人】一度。目で追い直す。郁人先生。病院では。誰も名字で呼ばない。看護師も。医師も。当たり前のように。郁人先生と呼んでいた。だから。フルネームを見るのは。初めてだった。綾瀬。珍しい名字ではない。けれど。医師で。隼人くんより少し年上に見える。別の病院で働きながら。こちらへ手術に来ている。そして。隼人くんには。医師をしている兄がいる。偶然かもしれない。そう思いながらも。一度気づくと。無関係には思えなかった。「白松先生」近くにいた看護師から呼ばれ。綾香は顔を上げた。「すみません」「来週の患者さん」「こちらで合っています」「ありがとうございます」書類を返す。郁人先生について。その場で尋ねることはしなかった。家族のことを。病院の人に確かめる必要はない。隼人くんへ聞けばいい。そう思った瞬間。最後に顔を見た日を思い出した。メッセージは交わしている。電話も。数分なら何度かした。それでも。落ち着いて会えたのは。少し前だった。隼人くんも。クリニックの拡大準備で忙しい。綾香も。病院勤務へ戻ってから。以前より帰宅が遅くなった。会いたいと思っても。互いの予定を見れば。また今度でいいかと。画面を閉じてしまう日が続いていた。今日も。病院を出た後は。まっすぐ帰るつもりだった。けれど。郁人先生の名字を知ったことで。隼人くんの顔が浮かんだ。確認したいから。それだけではない。久しぶりに。会いたいと思った。***勤務を終え。病院を出る。日中の熱が。まだ道路に残っていた。空は。薄い青から。少しずつ夜の色へ変わっている。駅へ向かう人の流れに入り。途中で。足を止めた。このまま電車へ乗れば。家に帰る。少し早く眠れる。明日の準備もできる。けれど。綾香は。スマホを取り出した。隼人くんとの画面を開く。『まだクリニック?』送る。すぐには。返事が来なかった。忙しいのだろう。やはり。今日は帰ろうかと思

  • 愛人を選んだ夫が、離婚後に狂い始めました   第1話:最悪な結婚記念日

    6月10日。4回目の結婚記念日。そして——私が、あと1年で離婚しよう。そう、決めた日。本当なら、こんな日になるはずじゃなかった。少なくとも、4年前の私はそう思っていた。その日の午後6時にちょうどなった。さっきから、時計が次の針に進むのを見つめては。帰ってこない夫への諦めが募り。ため息が溢れた。私東郷綾香(とうごうあやか)はテーブルの上にまだ湯気の立つ料理を並べる。壁の時計をもう見たくなかった。さっきから、穴が開くほど見つめている。夫である東郷優(とうごうゆう)の帰宅予定は、7時だったはず。もう、1時間前なのに。連絡は、全く取れずにいた。まだ、遅くない。——期待なんて

  • 愛人を選んだ夫が、離婚後に狂い始めました   第7話:初めての逃げ道

    「……行かなきゃダメなの?」空気が、一瞬止まった。優の口からそんな言葉が出るとは思わなくて、私は少しだけ目を瞬く。「……え?」聞き返すと、優は一瞬だけ視線を逸らした。そして、いつものように少し面倒そうな顔をする。「別に」そっけなく、理由を説明することが煩わしいという態度だ。「最近、変な勧誘とか多いし」….言い訳みたいだった。私を心配している、というには雑で。でも、完全にどうでもいいなら出てこない言葉。その曖昧さが、妙に引っかかる。咲子さんが、ふっと笑った。「あー、優ってほんとそういうとこ心配性だよね」その言い方が、あまりにも自然だった。昔から知っている人の声。

  • 愛人を選んだ夫が、離婚後に狂い始めました   第6話:知らない名前

    「……誰それ?」優の声に、思わず指が止まった。寝室へ向かおうとしていた足も、その場で止まる。振り返ると、優はソファに座ったままこちらを見ていた。正確には、私ではない。私の手の中にあるスマホ。そこに表示されている名前を見ている。【綾瀬隼人】たった四文字の名前。それだけなのに、優は珍しく視線を外さなかった。私は少し戸惑う。こんなこと、今までなかった。私が誰と会おうと。誰と連絡を取ろうと。優は興味を示したことがない。会社の同僚。学生時代の友人。みかのことだってそうだ。誰とどこへ行くのか聞かれた記憶はほとんどない。だからこそ、その反応が妙に不自然だった。「……知

  • 愛人を選んだ夫が、離婚後に狂い始めました   第4話:離婚、手伝ってあげる

    「……それ」綾瀬先生の視線が、スマホに落ちた。そして。少しだけ、眉が寄る。「旦那さんですか?」反射的に、スマホを伏せた。「……違います」ほとんど条件反射だった。見られたくなかった。惨めな自分を。既婚者なのに。全然、大事にされていない現実を。家に帰るかどうかを、愛人の都合で決められる妻。そんなもの。第三者に見せられるほど、強くない。数秒だけ。静かな空気。ちょっと変な空気になる。そして。綾瀬先生が、少し困ったように笑った。「いや、それはちょっと無理あるよね」みかが横から吹き出す。「先生、正解です」身を乗り出して言う。「しかも超最低なんですよ、この人の旦

Mais capítulos
Explore e leia bons romances gratuitamente
Acesso gratuito a um vasto número de bons romances no app GoodNovel. Baixe os livros que você gosta e leia em qualquer lugar e a qualquer hora.
Leia livros gratuitamente no app
ESCANEIE O CÓDIGO PARA LER NO APP
DMCA.com Protection Status