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第5話

Autor: 匿名
美羽の細長い爪が紬の頬をかすめ、深い切り傷を残した。

美羽の言葉に、紬は呆気にとられた。

「何のこと……知らないわ。離して」

「まだとぼける気ですか!」美羽はベッドの上の青ざめた啓太を指さし、涙をこぼした。「啓太はまだ4歳なのですよ。腎臓移植の手術をしたばかりで、よくそんなひどいことができたんですね!奥様だって一人の母親でしょう!」

美羽が正人の前で見せていたのはいつも強い姿だったけれど、今日は初めて心の脆い部分を見せた。

正人は胸を痛めて美羽を抱き寄せ、頬を伝う涙をそっと拭った。

「俺が何とかする。必ず君と啓太を安心させてやる」

そう言うと正人は紬を振り返った。いつもの優しい瞳は冷たくなって、声色はイラついていた。

「紬、美羽たちのことはもう話が済んだのだろう?それなのに、なぜ4歳の子供さえ許せないんだ!?

葵に指示して、啓太を池に突き落とさせるなんて。もし美羽がすぐに気づいていなければ、啓太は死んでいたんだぞ!」

紬はベッドで目を閉じたままの啓太を見て、言葉を失った。

葵に指示して、池に?

そんなこと、あり得ない。

「やってない!」紬はもがいて否定した。「葵はもう……」

「私は見たのですよ!」美羽は声を詰まらせて紬の言葉を遮った。「自分の息子の命をかけて嘘をつくなんてこと、するわけないでしょう?」

言葉が止むと、啓太のかすかな声が響いた。

「お姉ちゃん、パパを奪ったりしないよ。だから、押さないで……パパ、助けて……」

啓太の弱弱しい声を聞き、正人の怒りは爆発した。

「葵はまだ子供だ。こんなえげつない手段は思いつかないはずだ、誰かにそそのかされたとしか考えられない」正人は氷のような目で紬を見下ろした。「お前以外に誰がいる?」

あまりに理不尽な言葉が、剣のように紬の心を貫いた。

えげつない、そそのかし……

20年以上も一緒に過ごしてきたのに、正人は自分の人柄をわかっていないというのか?

一人の母親として、子供をそんな目に遭わせるはずがない。

頬の傷口から鮮血が滴り、紬は真っすぐ正人を見つめ返した。

「何度でも言うわ。私はやってない」

正人はがっかりした。

「紬、どうしてそんなに悪どい人間になってしまったんだ?もう別人に思えるよ」

紬は口角を歪めた。底なしの絶望が、少しずつ全身に広がる。

変わったのは自分か?それとも正人が元々自分だけを愛していた心の中に、別の誰かを入れたのか?

病室に重い空気が流れた。

一人のボディーガードが入室し、正人の耳元で何かをささやいた。

正人は眉をひそめて言った。

「紬、葵はなぜ病室にいないんだ?」

紬が口を開く前に、美羽は拳を握り締め、目を潤ませた。

「啓太を押したのが奥様からの指示だったとしても、娘さん自身が手を出した事実は変わりません。謝るべきではないでしょうか?

なのに何も言わずに入院先を変更するなんて……」

正人の紬を見る目がさらに冷たくなった。

「葵がここにいないなら、お前が代わりに謝れ」

胸を刺されるような痛みを感じながらも、紬は譲らなかった。

「やってないことを、どうして謝らなきゃいけないの?」

正人は紬の頬にある傷口をしばらく見つめた。悲しみ、怒り、失望……感情が複雑に入り混じった最後、静かに口を開いた。

「紬。啓太は俺の息子だ。こんな惨めな思いはさせたくない。

こいつを池に放り込め!」

美羽をしっかりと守り、氷のような冷たい目で自分を見る正人を見つめて、紬はふっと笑った。

「正人、必ず後悔することになるわ」

自分と血の繋がりすらない子供のために、葵の腎臓を抜き取り、手術台の上で死なせたなんて。

あの嘘ばっかりの女のために、幼馴染で妻だった自分を池に放り込むなんて。

正人は紬の瞳を直視できず、目を逸らして叫んだ。

「何をしている?さっさと池へ連れて行け!」

ボディーガードに引きずられ、紬は池のそばまで連行された。

ドボン!

氷のように冷たい池の水がたちまち全身を飲み込み、容赦なく口と鼻へとなだれ込む。

溺れる感覚がゆっくりと紬を呑み込んでいった。

意識が遠のく中、昔のことをふと思い出した。学生時代、たった自分にちょっかいをかけただけの人間を、正人は即座にその人の指を折り、殴りながら謝らせたはずだ。

「紬に指一本でも触れたら、タダじゃ済まないから」ってかつて正人はそう言って守ってくれた。

今、正人は美羽母子のために、他の誰かに命じて自分を池に投げ入れた。

約束したのは正人なのに。

その誓いを破るのも、正人だった。

紬はあがくことなく、池の底へと落ちていった。

正人、あなたと出会ったことを、本当に後悔している。
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