ANMELDEN視線を向けると、ドアの近くに後ろ向きの紬の姿があった。「紬」正人は、声を詰まらせて呼んだ。「やっと、会えたね」紬はゆっくりとこちらを向くと、凪のように静かな瞳で正人を見つめた。「今日、ここへ来たのは、最後のお別れを言いに来ただけ」紬が正人と会うことについて、菊地家の3人は最後まで反対していた。紬が正人と対面することで、また辛いことを思い出すんじゃないかと心配したのだ。けれど、紬には分かっていた。ここではっきりと別れを告げなければ、正人はいつまでも自分に付き纏うのだと。「正人。葵が亡くなった時、私たち二人はもう終わっていたのよ」正人は苦痛の表情で、力なく言葉を漏らした。「紬、本当に申し訳なかった。腎臓の移植で葵が命を落とすとは知らなかったんだ」紬にとって葵の死は受け入れざるを得ない事実だが、その死の理由を思い出すたびに胸がえぐられるように痛んだ。「葵は早産児で、耐えられるわけがないって、何度も病院で言ったのに。あなたは結局、私を信じようとしなかったじゃない。それにね。本来なら助かるはずだったのに、葵を見守るはずの医者まで、あなたはその隠し子の手術のため連れ出した。葵が生き延びるチャンスを奪ったのは、あなた自身よ。葵が最後に何て言っていたか知ってる?自分が悪い子だから、病院に連れてこられたんだって、パパに謝りながら亡くなったのよ。その頃、あなたはどこにいた?その隠し子が無事に助かったことを、喜んでいたんでしょうね」正人は返す言葉もなかった。紬が口にする言葉は一本のナイフとなって、彼の心を突き刺しているように感じられた。気が付けば、正人の顔からは血の気が完全に引いていた。葵が亡くなる最後の時まで、自分を想っていてくれたことなど、知る由もなかった。それなのに自分は、血の繋がりのない、無関係な子供を守り抜こうとしていたとは……正人は何かを言おうと口を開いたが、喉の奥が塞がったように、声が出なかった。長い沈黙のあと、ようやく言葉を絞り出した。「あんなことになるとは思ってなかった……本当にすまなかった……」紬は目を閉じ、赤い目元を隠すようにしてから、憎しみを込めて吐き捨てた。「ねえ、正人。私も一度は、あなたを許そうと思ったのよ。葵が息を引き取る前、私はあなたに十何回も電話をかけた。お願
正人は菊地家の邸宅の前で何時間も立っていたが、結局チャイムを鳴らすことができなかった。紬が盛沢市に戻ったと知った正人は、即座に飛行機で後を追おうとした。秘書はそんな正人を焦った様子で止めて言った。「社長、今は取締役会で社長交代の真っ最中です。こんな時期に会社を離れるなんて……それに、菊地家から訴訟を起こされています。弁護士と打ち合わせるべきです」正人は、それでも盛沢市へ向かうと主張した。「会社のことは任せる。今は妻に謝りに行かなければ。許してもらわなければ」正人を止めることはできず、秘書は彼を見送るしかなかった。盛沢市に到着するやいなや、正人は一直線に菊地家へ向かった。しかし彼の心は怯えていた。死んだように冷え切った、あの紬の目を見るのが怖かったのだ。何時間も悩んだ挙句、ついに意を決してチャイムを鳴らした。「どちら様?」涼介がドアを開け、来訪者の正体が分かると顔色を変え、躊躇なく正人の顔面を殴った。「正人、よくも盛沢市に来られたな」正人はよろめいて数歩下がり、鼻からどす黒い血がしたたり落ちた。しかし彼は痛みを感じていないかのように、眉を下げて口を開いた。「涼介さん、紬と会わせてくれませんか?誤解を解きたいんです。俺はあの女に騙されていたんです」そんな正人の言い訳を聞き、涼介はさらに顔を曇らせた。誤解?葵に腎臓提供を強いて、術後に感染症で死に追いやったことは紛れもない事実だ。その愛人のせいで紬を殴り、池に突き落としたことも変えようのない現実だ。何が誤解だ?我が菊地家の大事な家族を、いいように扱われてたまるか?涼介は血走った目で正人の胸ぐらを掴み、容赦なく拳を振り下ろした。「ふざけるな、お前と紬は離婚したんだ!紬を、お前みたいな薄情な男に会わせるわけがない!」正人は抵抗せず、いくら殴られても避けようとしなかった。ようやく涼介は正人を離し、全身傷だらけの彼を冷たい目で見下ろした。「正人、ここはお前の家じゃない。さっさと消えろ!」正人は咳き込みながら必死に立ち上がったが、立ち去ろうとはしなかった。「紬に会えるまで、ここを離れるわけにはいきません」涼介は吐き捨てるように言い放った。「今さら良い夫の真似か?今まで何をしていたんだ?紬と結婚する時、一生大切に
話の途中、紬は何度か声を詰まらせ、言葉が続かなくなった。なんとか経緯を語り終えると、菊地家のリビングは静まり返った。夏美の唇は小刻みに震え、顔から血の気が引いていく。「葵ちゃんは正人にとって実の娘でしょ?どうしてそんなひどいことができたの!」普段優しい慎也までもが、怒りで首筋を赤らめた。「許せん。やつは菊地家を舐めているのか!?」涼介は、指の骨が鳴るくらい拳を強く握りしめた。「あいつ……紬を傷つけ、葵ちゃんを死に追いやった。ただじゃ済まないことを、徹底的にわからせてやる」……一方、その頃。美羽はボディーガードに地面へと押し付けられ、涙で顔を濡らしながら必死に許しを請うた。しかし正人はそれを無視し、秘書が調べてきた美羽の過去5年間の記録に目を走らせていた。ページをめくるたび、正人の怒りはより深く、より鮮明なものへとなっていった。なんと、美羽は当時から妊娠などしておらず、両親がギャンブルのために彼女から金を持って行ったという話も真っ赤な嘘だった。美羽はその金を全て贅沢な買い物に使い、すぐさま底をついたのだ。金持ちの暮らしを忘れられなかった彼女は、貧しい生活には絶対に戻りたくなかった。紬が出産したことを知った美羽の脳裏に、他人の子供を利用して上り詰めるという歪んだ考えが芽生えた。宮崎夫人になれば、一生使い切れない金が手に入るのだから。美羽は全国を駆け回り、ようやく自分と正人に面影が似た赤子を見つけ出し、「啓太」と名付けた。啓太を迎え入れる手続きを済ませ、とある地方都市で啓太を4歳まで育て上げた。頃合いを見て正人のいる街へ戻り、宮崎グループに履歴書を送り、啓太を連れて正人が普段から行くような場所で「偶然」彼と鉢合わせた。そして計画通りに、正人は啓太の顔を見ると自分の実の息子だと確信した。例の腎不全という診断も、医者を買収した美羽による策だった。葵を傷つけ、正人と紬の夫婦仲を完全に引き裂こうというのだ。ドン!正人は激昂し、傍らの椅子を思い切り蹴り倒した。美羽が怯えて悲鳴を上げる。正人は泣き疲れた美羽を見下ろし、冷ややかに鼻で笑った。「本当に、大した女だな。安心しろ。紬と葵にしたこと、倍にして返してやる」正人は啓太が他人の子だと分かるとすぐさま施設へ送り返した。4
彼女がスーツケースを持って空港を出ると、そこには両親と兄の姿があった。一番先に紬に気づいた兄の菊地涼介(きくち りょうすけ)が、嬉しそうに彼女に駆け寄って力強く抱きしめた。「やっと、俺たちに会いに来てくれる気になったんだな!」菊地家は5年ほど前に、ビジネスの拠点を少しずつ盛沢市へと移していた。紬はその当時すでに正人と結婚し、葵も生まれていた。そのため、涼介たちが遠い土地に引っ越すのを涙で見送るしかなかった。潤んだ瞳でこちらを見る両親と、心配そうな表情の涼介。この1ヶ月、心の奥底で抑え込んできた屈辱と、我が子を亡くした悲しみが一気に溢れ出し、紬は声をあげて泣き崩れた。「お父さん、お母さん、お兄ちゃん……私、もういやなの」突然泣き出した紬を見て、3人は慌てて彼女を慰める。母の菊地夏美(きくち なつみ)は紬を抱きしめ、優しくその涙を拭った。「紬、一体何があったの?」先に状況を察した涼介が、声を低くして尋ねた。「教えてくれ。正人にひどいことをされたのか?」紬はただ涙を流し続け、うまく話すことができなかった。渡航前、両親の年齢を考えて、電話で全てを話すとショックを受けるかもしれないと思った紬は、正人が隠し子を連れ帰ったことや、葵が亡くなったという事実を伏せていた。「盛沢市へ行く」とだけ伝えていたのだ。事態を悟った父の菊地慎也(きくち しんや)は、まず車で家に帰ってから、詳しく聞くことにした。帰宅すると、紬の気持ちもようやく少し落ち着いた。家族3人が紬を囲む。その瞳には言葉にできないほどの心配が浮かんでいたが、急かすのを我慢していた。紬は水を一口飲み、悲しさを落ち着かせて、静かに切り出した。「正人と離婚したわ。彼は……他に子供がいたの」「なんだと!?」涼介が勢いよく立ち上がった。「あいつ、俺の前で紬と一生添い遂げると誓ったくせに!浮気した挙句に、隠し子まで作りやがって!」紬の心に、また苦しみが広がっていく。そう、正人は永遠の愛を誓ってくれたはずだった。その「永遠」は、たった数年で終わってしまったなんて。慎也が低く唸り、机を強く叩いた。彼は怒りを隠さずに言った。「なんてことだ!我々がここへ移る前、あいつは紬を必ず大切にすると約束した。これが、そのやり方か!」夏美は悲しみにくれ、涙を
正人の心拍は、どんどん速くなった。これまで感じたことのない、得体の知れない恐怖に襲われた。彼は震える手でその紙を拾い上げ、一縷の望みをかけて開いた。そこに書かれたことを確かめた瞬間、普段は冷静沈着な正人は、目元を真っ赤に潤ませた。「そんなはずは……なぜ、紬と俺が離婚するんだ?」正人は信じられない思いで、ふらりと後ずさった。立っていることさえやっとだったのだ。「これは偽物に決まっている。俺は離婚届になんて一度もサインしたことがない。誰だ?それを偽造したやつは!」秘書は呆然と立ち尽くし、気まずそうに口を開いた。「社長……忘れてしまわれたのですか?昔に奥様がショックで倒れた際、安心させるために、社長がご自身で、離婚届にサインを……」正人は5年前の記憶を、はっきりと思い出す。あの時、自分は美羽と一度関係を持ってしまった。紬に許してもらうため、二度と裏切らないと証明するために離婚届にしてサインしたのだ。もし再びこのようなことがあれば、紬が自分から離れても文句は言わないと。当時の自分は、紬を裏切るなどありえないと思っていた。5年が経ち、その約束のことなどとっくに忘れていた。それを今、最悪のきっかけで思い出したのだ。美羽はこの光景を見て、心の中が嬉しさでいっぱいだった。紬はすでに正人と離婚していたなんて。今なら自分たちこそが正人にとって唯一の家族。血の繋がりのある啓太の母親である自分がこのまま宮崎夫人になるのは間違いなかった。美羽は溢れる喜びで理性を失い、隠していた野心を抑え切れなかった。「社長、ショックなのはわかります。しかしすでに離婚されたのなら、前向きに考えないと。啓太もずっと父親の愛に飢えていたのです。私たちが、本当の家族になりましょう?」喜びに満ちた美羽の顔を見て、正人は拳を強く握りしめた。美羽のような女を、清廉潔白で健気だと信じ込んでいた自分が愚かだった。紬が離婚したのはただの一時の怒りゆえのものだろう。きちんと謝れば許してくれる。二人でもう一度子どもを作れば、また幸せな家族に戻れるはずだ。美羽は啓太の母親でしかなく、自分と特別な関係を持つなんてありえないのだ。「美羽。確かに啓太は俺の子だ。父親としての務めは、果たそう……」しかし言い終わらぬうちに、秘書は焦った様子で、先ほ
ガンッ!正人は、頭を鈍器で殴られたような目眩がして、目の前の書類が信じられなかった。死亡診断書?紬が持ってきたのは、誰の死亡診断書なんだ?脳裏に、ある人物の面影が浮かび上がった。しかし次の瞬間、正人は必死にその想像をやめようとした。いや、そんなはずがない。葵は間違いなく、紬によって別の病院へ転院したはずだ。死ぬわけないだろ?震える手で、正人はゆっくりと死亡診断書を抜き取った。そこには、葵の名前がはっきりと記されていた。信じられずに何度も指でこすったが、何度見ても名前は変わらない。死因に目をやった瞬間、正人はよろめき、後ずさった。術後感染による死亡……しかもそれは、腎臓移植の手術当日だった。その事実に、正人は心臓がえぐられるような苦しみに襲われた。葵は手術のせいで亡くなった……あの時、自分は何をしていたんだ?自分はすべての医師を、啓太の手術室に集めていたんだ。つまり葵は、術後で危険な状況に陥っても誰の助けも受けられず、一人で逝ってしまったことになる。自分の手で、娘を殺したのと同然だ。死亡診断書は手から滑り落ち、正人はその場に崩れ落ちた。傍らでその様子を見ていた美羽は、なぜ正人が突然絶望した表情になったのか理解できなかった。床に落ちた死亡診断書を見て、美羽はようやく状況を把握した。葵が死んだなら、啓太こそが宮崎グループ唯一の跡継ぎになるということじゃないか?内心の喜びに口角が上がりそうなのを必死に抑え、美羽は悲しそうな表情を作って正人をなだめた。「社長、手術の日に娘さんが亡くなったなんて……でも、そんなに落ち込まないでください。まだ、啓太がいますから」美羽は、啓太が宮崎家の財産を継げることの喜びで頭がいっぱいで、つい数日前、自分が葵が啓太を水に突き落としたと嘘の証言をしたことを忘れていた。だが、正人ははっきりと覚えていた。葵はとっくに亡くなっていたはずだ。どうやって啓太を水に突き落とせたというんだ?あれはすべて、美羽による嘘だったのだ。それにもかかわらず、自分はその言葉を信じ、紬を冷たく突き放して傷つけ、あろうことか池の中にまで突き落とした。その時の紬の気持ちを想像すると、胸が張り裂けそうだった。正人は美羽の手を思いっきり振り払うと、いままでの優しさは