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第3話

Penulis: 匿名
家に戻ると、紬は気づけば葵の部屋へ足を運んでいた。

部屋の中は整然としていて、今朝出かけた時と少しも変わらない。

けれど、ここからもう二度と、葵の楽しそうな笑い声が聞こえてくることはないのだ。

視線をゆっくりと部屋を見回し、最後に枕元に置かれたぬいぐるみに目線が止まった。

それは自分が葵に贈った、録音機能付きの誕生日プレゼントだった。

再生ボタンを押すと、あどけない葵の声が響いた。

「わあ、ママがくれたぬいぐるみ可愛い!毎日一緒に寝るね。ママ、大好き!」

その一つ一つの言葉が重いハンマーのように、紬の心を強く叩きつけた。

ついに、今まで流せなかった涙が一気に溢れ出した。

紬はぬいぐるみを強く抱きしめ、ベッドの上で小さく丸まった。葵の温もりがまだそこに残っている気がするのだ。

紬は悔しかった。

今朝、なぜ葵を正人に渡してしまったのだろうと。

なぜ昔、離婚しなかったのだろうと。

そして何より、なぜ正人なんていう男を愛してしまったのだろう……

紬は胸の前にある首飾りを強く握りしめた。

葵、もう少し待っていてね。すぐに連れ出すから。

涙が頬を伝って、首飾りの上に落ちた。

翌朝、階段を下りるとリビングには見慣れない女の姿があった。

正人は美羽の手にある小さな傷を見つめ、丁寧に消毒している。

美羽は少し目を赤くしていたが、頑なに正人を見ようとせず横を向いた。

「社長、親切にされても心が揺らぐことはないです。啓太は私が一人で育ててきた、かけがえのない息子なのですよ」

冷たく突き放されても正人は怒る様子もなく、美羽の傷口に優しく息を吹きかけてから、柔らかい表情で彼女と向き合った。

「啓太を取り上げるつもりはない。だが、あの子は俺たちの子だ。これまで俺が傍にいてあげられなかった時間を、せめてこれから埋め合わせたいんだ」

紬の拳を強く握りしめ、爪が手のひらに食い込んだ。

埋め合わせ?

正人がこの母子に対して犯した罪を、なぜ葵の命を犠牲にして償おうとするの?

視界の端に紬を見つけた正人は、手元のガーゼを放り出し、すぐに彼女に近づいて抱き寄せた。

「紬、美羽は啓太のために料理を作ってあげようとして、その時に手を切ってしまったんだ。手当てをしていただけさ。気にしないでくれ。

葵はどうなったの?もう目を覚ました?」

紬は体の震えを我慢して言った。

「してないわ」

葵はもう、二度と目を覚まさないのよ。

正人は予想外の答えに目を丸くした。

手術のために麻酔を打ったとは言え、なぜ今日まで覚めないのかと疑問に感じた。

正人が何かを言いかけた時、スマホの着信音がそれを遮った。

通知の内容を目にした正人は眉間にしわを寄せる。

「紬、会社で少し揉め事があった。急いで行ってくる」

言い終わると、彼は美羽にも丁寧な言葉を残した。

「傷を濡らさないように気をつけて。後で戻るから、一緒に病院へ啓太に会いに行こう」

正人の優しい声を聞いた瞬間、紬は苦しくて息ができなかった。

かつて正人がそんな優しい顔を見せていたのは、自分と葵の前だけだったのに。

今は、自分たちの特権じゃなくなったようだ。

正人がリビングを去ると、紬と美羽は二人きりでこの家に残された。

美羽は先ほどまでの悲しそうな様子を一変させ、冷たい態度になった。

「奥様。ご安心ください。社長に恩があるとはいえ、自分の息子を隠し子のままにする気はありません。養育権は絶対に渡しませんから」

「ここにはもう私たちしかいないわ。気を遣う必要なんてないのよ」

紬は美羽を見下ろし、彼女の仮面を剥ぎ取るように言った。

「本当は隠し子で構わないんじゃないの?欲しいのは、宮崎家の正式な跡継ぎとしての権利でしょ」

昔、正人は美羽に多額の慰謝料を支払うと同時に、ボディーガードに命令して、子供を堕とすよう薬を飲ませていたはずだ。

けれど美羽はそれでも妊娠できて、一人でその子を育てたのだ。

そして今、偶然を装って啓太を連れて宮崎グループの面接を受け、正人に近づこうとした。

資産家一家で育った紬には、美羽の浅ましい思惑などすぐに見抜けた。

美羽は一瞬固まったけれど、すぐに悲しそうな表情を作って立ち上がった。

「お金持ちの方はそんなふうに人の心を疑うのですね。

私はただ小さな命を守りたかっただけですよ!社長が啓太だと気づいたのだって、偶然のことです!」

堂々と振る舞う美羽を冷めた目で見下ろし、紬は黙って階段を上がった。

美羽が何を考え、何を企んでいようとも、今の紬にはどうでもよかった。

「宮崎夫人」という肩書も、欲しければあげる。

葵の部屋へ戻り、紬は荷物を整理し始めた。

ここにあるすべてが葵の記憶そのもので、何一つ残したくなかった。

テーブルの上に並べられたアルバムに目が行き、紬はそのページを広げた。

そこには、家族3人で写っている写真ばかり。

旅先で楽しそうに笑っている自分たちを、優しく見守る正人の眼差し……

幸せで、胸がいっぱいになりそうな写真しかなかった。

もう、あんなに幸せそうな家庭には二度と戻れないというのに。

紬はすべての写真を取り出し、正人が写っている部分をちぎってゴミ箱へ投げ捨てた。写真に自分と葵だけを残して懐に入れた。

整理の途中、突然鼻をつく嫌な臭いに気づいた。

部屋から出てリビングへと歩を進めると、その臭いはさらに濃くなった。

数歩歩いたところで急に強いめまいに襲われ、壁に体を預けた。

意識が遠のいていく頭の中で、紬はハッと現状を理解した。

ガスが漏れている……

ハンカチで口元を押さえ、必死に足に力を入れながら階段を急いで下りた。

リビングには、すでにソファーの上で気絶している美羽の姿があった。

朦朧とする意識の中で紬は力が入らなくなり、床に倒れた。

助けを呼ぼうと必死でスマホを探したが、瞼は鉛のように重かった。

意識を失う直前、ドアが力強く開け放たれる音が聞こえた。

紬は最後の力を振り絞り、必死に正人に手を伸ばした。

「正人……助け……て……」

「美羽!」

しかし正人は紬には目もくれず、迷うことなく美羽へ駆け寄ると彼女を抱きかかえた。

「しっかりしろ!すぐに病院に連れて行く!」

正人の足取りは速く、目の前で彼に手を差し伸べた紬の存在に気づかなかった。

冷たい床に横たわったまま、一生大切にすると誓った夫が他の女を助けたその光景を見つめ、紬は静かに瞼を閉じた。
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