そして、電話は切れた。彼は思った。三時間も経たないうちに、あの人はきっと現れるだろう。案の定、紀香を空港まで送ったとき、急いでやって来た清孝と鉢合わせた。紀香はここに長く留まる気はなかった。写真を送ると、すぐに立ち去った。そして清孝の登場も、彼女にとっては驚きではなかった。針谷がついているのだから、彼が来ることも想定内だったのだ。「どうだ?どこか痛いところはないか?」清孝は紀香の手を強く握り、彼女の身体を隅々まで確かめた。手首の赤い痕に目を留めた瞬間、その瞳は冷たく光った。針谷はすぐに言った。「すでに処理済みです。絶対にあいつをただでは済ませません」それでも清孝の表情は険しかった。彼は紀香の手を引き、VIPラウンジへ向かった。紀香は拒み、力いっぱい彼の手を振り払った。けれど、予想外だった。以前なら決して振りほどけなかった拘束が、あっけなく外れたのだ。目の前で清孝が崩れ落ち、腹部を血に染めながら倒れ込む姿を、彼女はただ見つめていた。その時、由樹が近づいてきて、流れるような動きで清孝の傷を処置し、点滴を繋いだ。薬瓶を掛ける場所がなかった。由樹はそれを手に持ち、片手をポケットに入れながら、冷たい声で言った。「死にはしない」「……」だが紀香には、今の彼の姿は医者には見えなかった。薬瓶を掲げるその様子は、清孝の魂を連れていく閻魔のようだった。「私に言わなくてもいい。私と彼には関係ない」そう言って、彼女は搭乗口へ向かおうとした。由樹が突然呼び止めた。「紀香さん」紀香は一瞬足を止めたが、すぐに歩き出した。由樹は冷淡に言った。「こいつ、病気なのを知ってたか?」「精神的な病だ」紀香の歩みは一度も止まることなく、警備員検査場へと進んでいった。由樹は少し驚いた。表情を変えることのない彼女の眉が、わずかに動いた。そんなにも冷酷とは——もう、本当に愛していないんだな。……紀香は窓際の席に座った。針谷が隣に腰を下ろした。彼女は眉をひそめたが、何も言わなかった。本当は大阪に戻るつもりだったが、考えてみれば、来依や南の状況はあまりよくない。そのため、乗り継ぎの途中で鳥取へ向かった。動物の撮影がなければ、風景を撮った。果てしない砂漠の光景は、圧倒的だ
紀香は吐き気を催した。――この自信満々の勘違い男、最悪。「どうしたんだ?」デザイナーがモデルたちを引き連れてカーテンコールから戻ってきた。客席に人だかりができているのに気づき、慌ててその中心へ。男の顔を見た瞬間、デザイナーの態度は一変、媚びを含んだ笑みを浮かべる。「誰が怒らせたんです?」男は腕を上げて紀香を指さした。「こいつ、お前が呼んだのか?」デザイナーはその指先の方向を見やり――紀香だと気づくと、表情に迷いが浮かんだ。この藤屋家の男は、美人に目がなくてショーに出資していることでも有名だった。だからこそ、今までは見て見ぬふりをしてきた。だが、相手は紀香。知名カメラマンであるだけでなく、楓の弟子でもある。小松家は藤屋家ほどではないにせよ、一介のデザイナーが敵に回せる家柄ではない。中立に収めるしかない――「たぶん、私のデザインを撮影したくて来たんじゃないかな。名前を聞いて訪ねてきたのかと……」紀香は呆れたように目を剥いた。――カリナに頼まれたから仕方なく来ただけで、このレベルの服、わざわざ撮るほどでもない。「慕って来た」なんて、ちゃんちゃらおかしい。言い返そうとした瞬間――「そこ、何してる!どけ!」怒声が飛び、人々がざわめきながら道を開ける。制服姿の男たちが現れる。男は来た人物を見て、急いで煙草を差し出した。「いや〜こんなことで、来てもらうなんて……」だが、その男は煙草を受け取らず、まっすぐ針谷のもとへ。深く腰を折り、恭敬に言った。「お待たせしました」――その瞬間、場の空気が凍りついた。観客も、あの男も、目を見開いた。この隊員たちは、藤屋家が養っている私設の部隊。彼らに頭を下げさせるとは……一体何者なんだ、この男は?針谷は手短に事情を説明し、淡々と尋ねた。「処理の仕方、わかってるな?」隊員たちは即座に紀香へ向き直り、九十度の角度でお辞儀をする。「ご迷惑をおかけしました、奥様」「……」紀香は藤屋家と関わるなんて、一番避けたいことだった。特に、清孝との夫婦関係なんて、誰にも知られたくなかった。だが、この状況では否定しても無駄だ。小さく「うん」と返事をするしかなかった。「ホ、ホンモノの奥様だったんだ……」「つ
その名前を聞いた瞬間、針谷は鼻で笑った。――うちの旦那の靴の裏にも及ばない。少しばかりの権力を盾に、ペラペラと偉そうに……見苦しいにもほどがある。次の瞬間、針谷の手が鋭く振り下ろされる。男は苦痛に呻きながら手を離した。針谷は素早く紀香を背後にかばう。ちょうどその頃、ステージ上ではモデルたちが退場を始めていた。この一角の騒ぎは、徐々に人々の注目を集めていた。「てめえ、俺に手ぇ出しやがって……ぶっ殺されてぇのか!?」男は怒声を張り上げる。「信じられねえのか!?銃弾の味、見せてやろうか!」針谷は冷めた目で彼を見やり、面倒そうに首を傾げた。「信じないな」彼はスマホを取り出し、電話をかけ始めた。観客の中には男の顔に見覚えがある者もいたようだ。「え、あの人、藤屋家の関係者じゃない?」「聞いた話だと、藤屋家の当主の叔父さんらしいよ」針谷はその囁きを耳にして、ようやく思い出した。――そういえば、さっきの名前……藤屋家の傍系、外に養われてる分家筋か。なるほど、藤屋の名前を出さずに父親を強調していたのもそのせいか。自称「叔父」?ふざけた話だ。藤屋家の本家筋の人間ですら、旦那様には頭が上がらないのに。「覚えてろよ!」男は捨て台詞を残し、怒鳴り続けた。「ただじゃおかねぇ……この一撃の代償、思い知らせてやる!」針谷は全く相手にせず、電話を終えると紀香に振り返る。「奥様、ご無事ですか?」紀香が答える前に、男の嘲笑が響いた。「はっ、奥様だって?上品ぶってるけど、田舎者の成金が。見た感じ、教養もなさそうだし……貧乏くさい脳筋か。よし、値段を言えよ。その奥様を俺にくれ」針谷は動かなかった。こんなゴミに、わざわざ自分が手を出す価値もない。彼を葬る方法なんていくらでもある。藤屋家の傍系?そんなもん、旦那様の一言で吹き飛ぶ。「誰だよあいつ?藤屋家相手に喧嘩売るとか、正気か?」「顔知らないし、多分新入りだな。知らずに地雷踏んだか。このショーイベント、全部藤屋家の出資だって知らないのかもね」「まあ、そうだよな。藤屋家の人間をわざわざ怒らせるなんて、普通は死にたくない限りやらないし」針谷の氷のような顔にも、思わずヒビが入りかけた。――どいつもこいつも、よくも
紀香にはもう何も言うことはなかった。ただ、実力を見せるしかない――デザイナーに自分の仕事を証明するために。フロントでは、針谷が絶好の観覧スポットを確保していた。これなら、紀香の動きを即座に清孝へ報告できる。紀香はバックステージで、まずは軽く何枚か撮影した。その写真を見たモデルたちが自然と集まってくる。「お姉さん、スタジオか会社やってるんですか?」「会社ですよ」「じゃあ今予約してもいいですか?私の結婚式、海外の旅先で撮りたいんですけど、全行程お願いできませんかね?」紀香はやんわり断った。「ごめんなさい、結婚写真はメインじゃなくて……でも他のカメラマン紹介できます」別のモデルが聞く。「じゃあ、個人写真は?」「それもあまりやらないんですよ。私は動物やレッドカーペットの撮影がメインで、スケジュール的に厳しいんです」そのとき、誰かが紀香の仕事証を手に取った。「見たことあると思ったら……あなた、錦川フォトグラファーだったんですか?」「なるほどね、どうりで。カジュアルに撮った写真ですら作品級だと思ったんです」憧れのカメラマンに偶然出会えたことで、モデルたちは大興奮。彼女に撮ってもらえるチャンスは滅多にない。そんな熱烈な視線に、紀香はやや困惑。「じゃあこうしようか。ショーのとき、みんなを綺麗に撮りますから。その中から個人写真にも使えるように、たくさん撮っておきますね」モデルたちは返事する間もなく、デザイナーから登壇の指示が入る。仕方なく、彼女たちは紀香の提案を受け入れることにした。「ちゃんとお金払うから、たくさん撮ってくださいね!」ならよかった。「もちろんよ。ステージの上でベストな姿を見せてください。あとは私に任せてください」ショーが始まった。針谷はスマホを構えて撮影していたが――……あれ?奥様が見えない?いや、待て。奥様は撮影を担当しているのだ。ステージに立つわけじゃない。けれどどこを見渡しても、姿が見えない。彼女の撮影スタイルは、変わった角度から狙うことで知られていた。針谷がさらにレンズを下へ向けたとき――ようやく彼女を見つけた。「お嬢ちゃん、この技術、どこで習ったの?」不意に男が近づいてきた。汗臭さが強烈で、思わず涙が出そうになる。
清孝は針谷に紀香をつけさせた。紀香は来依に申し訳なさそうに、「来依さん、終わったらちゃんと埋め合わせするから」と笑った。来依は、そんなふうに忙しく働ける彼女が羨ましくもあった。立ち上がって荷物を片づけながら言った。「大丈夫よ、行ってらっしゃい。気をつけてね」「うん、来依さんもちゃんと休んでね」紀香はリュックを背負いながら言った。「わかってるわ」来依は彼女たちをエレベーターまで送った。南は、「ちょうど帰るところだから、空港まで送っていくわ」と言った。彼女にはもう、全部見えていた。紀香は病気で、本人も仕事はないと言っていた。どんなに急な依頼でも、友達だからって無理して頼む必要はない。フォトグラファーなんて他にもいる。確かに、紀香のセンスは群を抜いているけど。でもタイミングが良すぎる。海人がベランダで電話を終えた直後に、紀香が海外撮影。どう考えても偶然とは思えなかった。彼女はもうこれ以上、場を悪くしたくないから、何も言わずに立ち去った。二人にスペースを与えてあげるために。来依は何も聞かなかった。ただ彼女たちをエレベーターに乗せてから、部屋に戻り、ドアを閉めた。その瞬間、笑顔はスッと消えた。「これ、あんたが仕組んだんでしょ?」海人が手を取ろうとしたけど、彼女はそれを避けた。たくさんの感情が押し寄せて、来依は耐えきれなかった。「触らないでってば!」「……」来依はいつも自分の中で感情を消化していた。でも今回はもう無理だった。「あんたが私を愛してるのはわかってる。でもそれ、やりすぎじゃない?私は妊娠してるだけで、体調はよくないけど、別に命に関わることじゃないのに……」海人は彼女をぎゅっと抱きしめた。「命に関わるんだよ」彼女だけじゃない、自分にとっても。来依は思わず目を剥いた。本当は文句を言いたかったのに、この人、また情に訴えてくるなんて。でも、そんな彼が憎めない自分がいた。彼の頭を撫でてやった。「まったく、あんたって人は……あんまりピリピリされると、私まで不安になるの。わかってる?」海人は素直に頷いた。すぐに彼女をお姫様抱っこして、ふわふわのソファに優しく座らせた。そして彼女の前にしゃがんで、穏やかに聞いた。「お腹すいてない?何か食べたいもの
「撮影は私は参加しないわ。紀香ちゃんが来てくれたから、私は横で見てる」紀香は来依に椅子を持ってきた。「来依さん、まずは座って撮ろう」彼女が来依を支えようとした、その瞬間――ひゅう、と冷たい風が吹き抜けた。そして次の瞬間、紀香より先に誰かが来依の腕を取って支えた。「気をつけて」「……」来依はその人物を押し返す。「あんたは仕事に戻って。私たち女同士で遊んでるんだから、邪魔しないで」海人の眉間にはわずかな陰が差した。「……忙しくないんだ」来依は微笑みを浮かべながらも、目は笑っていない。「ねえ、旦那様?私、女友達と遊びたいだけなんだけど、いいかしら?」「……」海人は何も言えず、名残惜しそうに三歩ごとに振り返りながらバルコニーへと去っていった。紀香は親指を立てた。「夫の操縦、完璧ね」来依はサイドの髪をかき上げ、誇らしげに言った。「まあね」紀香と南は目を合わせ、同時に笑い合った。撮影は順調に進んでいた。バルコニーでは、海人が電話をかけていた。「……お前さ、本当に役立たずだな。自分の嫁すら手元に置けないのかよ」清孝は電話口でいきなり毒を吐かれ、困惑していた。「……は?なんなんだよ急に。俺、何かしたか?」「紀香、うちに来てる」「?」清孝は、紀香が来依のところに行くことは知っていた。男の元じゃないなら、そこまで気にすることもない――そう思っていた。だからこそ、海人の苛立ちの意味が掴めなかった。「お前の家、もう入れなくなったか?」海人は冷笑を一つ漏らし、言い放つ。「聞いたぞ。小松のところにも行ったらしいな。俺なら絶対に許さねぇ」「……」清孝はようやく彼の言いたいことがわかった。来依の妊娠で神経質になっている海人にとって、ちょっとした刺激も許容できないらしい。たぶん紀香が来依に会いに行ったのが、彼の気にしているところに引っかかったんだろう。「許さない、ね?」「そうだ」清孝もまた笑った。「そういえば、嫁さんの元カレ、最近主演男優賞獲ってなかったか?」「……」神も仏もないな、お前ってやつは。これぞ親友という名の仇。海人は無言で数秒耐えたのち、低く言った。「お前、本当に離婚したいのか?手伝ってやるよ」清孝は奥歯を噛み