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第3話

Auteur: 楽恩
私は思わず息を詰めた。

まるで何かを確認するかのように、何度もメールの内容を見返した。

間違いなかった。

江川アナ。彼女がデザイン部の新しい部長に就任した。つまり、私の直属の上司になるということだ。

「南ちゃん、もしかして彼女を知ってるの?」

来依は、私の様子を見て、手をひらひらと振ってみせた。そして、私が何も言わないうちに、勝手に推測を始める。

私はスマホを置き、小さく頷いた。

「うん。彼女は宏の父も母も異なる義姉よ。前に話したことがあったでしょ?」

大学卒業後、私たちはそれぞれの道を歩んだ。それでも、私は来依と「ずっと鹿児島に残る」と約束していた。

「……まじかよ、コネ入社じゃん!」

来依は舌打ちし、呆れたように言った。

「……」

私は何も言わなかった。

――ただのコネ入社じゃない。特別待遇のコネ入社だ。

「江川宏、頭でも打ったの?」

来依は不満を隠そうともせず、私のために憤慨してくれる。

「なんで?彼女の名前なんて、デザイン業界で聞いたこともないのに?それなのに、江川宏はポンッと部長の椅子を渡しちゃったわけ?じゃあ、あんたの立場は?4年間、ここで頑張ってきたのに?」

「……もういいわ」

私は、彼女の言葉を遮った。「そんなの、大したことじゃない。あのポジション、私にくれるなら、もらうだけ」

くれないなら、他の誰かがくれるわ。

この話を、社内の食堂で広げる必要はない。

余計な詮索をする人間に聞かれると、面倒なことになるだけだから。

食堂を出ると、来依が私の肩に手を回し、こそこそと囁いた。

「ねぇ、もしかして、何か考えてる?」

私は片眉を上げた。

「どう思う?」

「ねぇ、いいじゃん、教えてよ」

「まあね、考えてはいるけど、まだ完全には決めてないわ」

私は、江川グループで4年間働いてきた。一度も転職を考えたことはない。

江川は、私にとって「慣れ親しんだ場所」になっていた。

でも、本当にここを離れるなら、何か決定的な出来事が必要かもしれない。

午後。

オフィスに戻ると、年始限定デザインの制作に取り掛かった。昼休みを取る暇もない。

本来なら、これは部長の仕事だ。だが、前任部長が退職したため、その業務は自然と副部長の私の肩にのしかかることになった。

午後2時になる少し前。

「南さん、コーヒーどうぞ」

アシスタントの小林蓮華がノックしながら入ってきた。

デスクにカップを置くと、私はにっこりと笑った。

「ありがとう」

彼女は私の手元のデザイン画を見て、不思議そうな顔をした。

「南さん、こんな状況で、よく集中してデザインなんか描いてられますね?私、ちょっと聞いてきたんですけど……突然現れた例の新部長、面接すら受けずにポジションをゲットしたらしいですよ。ムカつきません?」

「……」

私は、思わず笑ってしまった。

――ムカつかないわけがない。

だが、部下の前で感情をあらわにするわけにもいかない。

そのとき。

「みんな、ちょっと聞いてくれ!」

オフィスの外から、加藤助手が皆を呼び集める声が聞こえた。

私はガラス張りのオフィス越しに、その光景を眺めた。

開けた共有スペースには、一人の男性の姿があった。

宏は、手をポケットに突っ込み、オーダーメイドのダークスーツを身にまとい、ただそこに立っているだけで目を引いた。冷たく、上品で、群を抜いて洗練された雰囲気を纏っている。

そして、その隣にアナが立っていた。二人はまるでカップルのようだった。

彼女は、落ち着いた表情で宏を見上げた。まるで助けを求めるように。

彼は少し眉を寄せ、不機嫌そうに見えた。

けれど、結局、宏はアナの頼みを聞き入れ、代わりに口を開いた。

「彼女がデザイン部の新しい部長、江川アナだ。これから、しっかり協力するように」

アナは、そんな彼を見て、あきれたように言った。

「もう、そんなに堅苦しくすることないでしょ?」

そして、周囲に向かってにこやかに微笑んだ。「みんな、社長の言うことは気にしないでね。私は厳しい上司じゃないし、特に新任だからって威張るつもりもないわ。まだ慣れないことも多いから、いろいろ教えてもらえたら嬉しいな」

……

社長自らが彼女のために場を整えれば、当然ながら雰囲気は和やかになる。

蓮華は、そんな様子を見て、小さく舌打ちした。「ほんとにコネ入社ですね。しかも、再婚したやつは午後に籍を入れ、ポストを奪ったやつは午後に就任ってやつですよ」

私は内心モヤモヤしていたが、彼女の「独特な理論」に思わず笑ってしまった。

オフィスの外、宏は、アナを部長室の前まで送り届けていた。

「もういいでしょ?まだ何か心配なの?あなたがそんな仏頂面じゃ、誰も私のところに来られないでしょ?」

アナは、宏を軽く押しのけた。ふざけたような口調だが、その表情は満面の笑みだった。

――私は、コーヒーをひと口飲んだ。

苦かった。

眉をひそめると、蓮華がカップを手に取り、自分でも飲んでみた。

「苦くないですよ?今日、特別に砂糖を2つも入れて、少しは甘いものを食べて、元気出してくださいと思ったんですよ」

ノックの音が響いた。

アナを見送った宏が、こちらに向かってきた。

私はじっと彼を見つめた。彼の心の中を見透かそうとするように。

「コーヒー、入れ直してきますね!」

蓮華は、気配を察してさっと退室した。

宏は、ゆっくりと部屋に入り、ドアを閉め、淡々と説明した。

「彼女は、初めての職場で緊張してるんだ。だから、俺がついてやっただけ」

「……そうなの?」

私は笑みを浮かべながら、軽く問い返した。

まずは、堂々たる社長である宏に、自ら彼女の肩書きを紹介させる。

それだけでなく、軽い冗談を交えながら、さらりと二言三言で「自分と宏が特別な関係である」ことを印象づける。

口では「私は厳しい上司じゃない」なんて言ってるけど――

トランプでジョーカーを見せつけられたら、誰が無謀な勝負を仕掛ける?

宏は、すぐに態度を切り替えった。

「まぁ、確かに彼女は君より年上だが、デザインのことでは君の方が経験がある。だから、気にしなくていい。仕事上では、君が先輩だ」

宏は、私の肩をそっと揉みながら、やわらかい声で諭すように言った。

「君は、ただ普段どおりにしていればいい。彼女を特別扱いする必要はない。ただ、いじめられないように気をつけてくれればいい」

その瞬間、私の中で、初めて抑えきれない怒りが沸き上がった。

彼の手を振り払い、勢いよく立ち上がった。

「もしそうなら、どうして部長が彼女で、私じゃないの?」

問いかけた瞬間――私自身、言葉が強すぎたと気づいた。

いつも穏やかな宏の表情が、一瞬だけ揺れた。

そう。

結婚して3年。ハネムーンのように甘い夫婦ではなかったが、それでも穏やかにやってきた。一度も大声を出したことはなかったし、喧嘩らしい喧嘩もしたことがなかった。宏は、私がこんなふうに感情をあらわにするとは思ってもいなかったのだろう。彼は、私のことを怒ることのない人間だと思っていたのかもしれない。

だけど、私は後悔しなかった。

もし、部長のポジションが私より優れた誰かに与えられたのなら、私は受け入れた。

けれど――

江川アナ?

私は、せめて「なぜ?」と問う権利くらいはあるはずだ。

宏は、が私の鋭い一面を目の当たりにするのは、これが初めてだった。彼は薄い唇をわずかに引き結び、静かにこちらを見つめた。

「……南、本当にそんなことで怒ってるのか?」

私は、彼の言葉にかぶせるように言い返した。

「怒っちゃダメなの?」

私は会社では何も言わなかった。

でも、自分の夫の前でも本音を隠さなきゃいけないの?だったら、この結婚はなんの意味があるの?

「バカだな」

宏は、リモコンを手に取り、ガラス窓を磨りガラスへと切り替えた。そして、私の腕を引き寄せると、そのまま抱きしめた。

「江川グループは、全部君のものだよ。そんなにこだわる必要があるのか?」

「江川グループはあなたのものよ。私のものじゃない」

私は、冷静にそう答えた。

私が確実に手に入れられるのは、今のポジションだけだ。

宏は、私の顎を持ち上げ、真剣な表情で私を見つめた。

「……俺たちは夫婦だ。君のものとか俺のものとか、分ける必要があるのか?」

私は、ふと微笑んだ。

「じゃあ、私に株を分けてもらえる?」

そう言って、彼の顔をじっと見つめた。彼の目の動きすら見逃さないように。

意外なことに、宏は何の動揺も見せなかった。

ただ、薄く眉を上げた。

「どれくらい?」

「10%」

私は、適当な数字を口にした。本気で要求するつもりはなかった。

宏が江川グループを引き継いでから、会社の規模は数倍に拡大した。10%の株を持つということは、少なくとも数百億の資産を得るのと同じこと。

現実的に考えて、そんなものを簡単に渡すはずがない。私は、ただ宏の反応を試すつもりだった。

けれど――

「いいよ」

彼は、あっさりとそう言った。

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Commentaires (1)
goodnovel comment avatar
かほる
ストーリーは面白いと思うけど、 登場人物の名前を日本名にするなら 貨幣価値の名称も 予めあわせるように 徹底して欲しい そこだけ 残念である
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    「君に必要だって分かってたよ。礼はいらない」「……」清孝は海人が酒を受け取らなかったことに特に気にする様子もなく、顔を来依の方に向けて言った。「この件は来依さんに一任するよ。きちんと進めてくれれば、特に注文はない。ただ、いくつか注意点があるから、それは後で秘書から送らせる」来依は軽く腰を折って礼をした。「信頼いただき、ありがとうございます」清孝は他の招待客へ挨拶に行く予定があり、海人に向かって言った。「まず来依さんに何か食べさせてあげて。その後、上の階で麻雀でもしよう。来依さんの先輩も一緒に残って参加してくれ。これから付き合いのある人たちとも顔を合わせる機会だ。ちょうどいい」勇斗は感激で言葉も出なかったので、来依が代わりに礼を言った。清孝が去った後、来依は勇斗の背中を軽く叩いた。「先輩、ビビらないでよ! 私は無形文化財とか和風とか全然分かんないんだから、ちゃんと説明して、あんたの強みを伝えて」勇斗は頭を掻きながら答えた。「来依の言う通りだ。ちょっと緊張しちゃっててさ」そう言われると、来依も納得した。彼女自身、清孝の存在を知ったときには、かなり緊張していたのだ。だから、それ以上は何も言わずに笑って声をかけた。「何か食べよう。あっちで座ろう」「うん」勇斗は食べ物を取りに行った。来依が歩き出そうとした瞬間、腰をそっと抱き寄せられた。振り返ると、海人の冷たくもどこか拗ねたような目がそこにあった。「感謝、いるんじゃないの?」確かに、礼は礼として言うべきだった。助けてもらったことは事実。「ありがとうございます、菊池社長。じゃあ、今度ご飯ご馳走するわ」海人は一歩近づき、声を抑えてささやいた。二人にしか聞こえないように。「ベッドでの『ごちそう』なら、受け取るよ」「……」ちょうどそのとき、勇斗が料理を持って戻ってきた。二人が今にもキスしそうな距離だったのを見て、ようやく気づいた。「この前の食事、お前もいたのか!来依の彼氏だったのか!」海人は来依の手を取り、眩い輝きを放つダイヤの指輪を見せた。「婚約者だ」勇斗は「うわー!」と声を上げた。「おめでとう、来依!そんな大事なこと、先に言ってくれよ。ご祝儀の準備もしてない。まあいいや、結婚式には招待してくれよ。

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    「……」結局、来依はジャケットを羽織らなかった。彼女が宴会場に足を踏み入れた瞬間、周囲の視線を一身に集めたのは言うまでもなかった。一つには、彼女が石川では見かけない顔だったこと。もう一つは、今日の彼女の装いが、主催者の風格を奪うようなものではないにせよ、彼女自身にとても似合っていて、見る人すべての目を惹きつける鮮やかさを放っていたからだった。誰かが声をかけようと歩み寄ろうとした。だが、その腰を軽く抱く男の存在を見た瞬間、ピタリと足を止めた。「菊池家の若様の女か?」「間違いない。あの独占欲、尋常じゃないからな。それに彼の側には長年誰一人女の影がなかったし。あんな堂々とした態度、正妻じゃなきゃ説明つかない」「高杉芹奈じゃないの?今回、彼女を連れてきたって聞いたけど。菊池家と高杉家、縁談の話があるとか」「違うよ。高杉芹奈なら見たことある」「聞いてない?菊池様にはすごく愛してる女性がいるらしいけど、後ろ盾がなくてさ。名前は確か河……」「河崎来依だ」「そう、それ!」そう答えた人物が興奮気味に振り返ると、相手の顔を見て、慌ててお辞儀した。「ふ、藤屋社長……」藤屋清孝は軽くうなずくと、そのまま海人の方へ大股で向かった。彼に酒を一杯手渡す。「今回は一人でうちに来たんじゃないんだな。めでたいことだ」海人は自分の酒を来依に渡し、その背中を半身で覆うようにして紹介した。「藤屋清孝だ」来依はちょうど口元に酒を運んだところだったが、その名前を聞いて、思わず酒が逆流しそうになった。「藤屋清孝?あの藤屋清孝?」清孝の唇にはうっすらと笑みが浮かんでいたが、その瞳には冷たさが残ったままだった。整った顔立ちに、年月を経て自然と備わった威厳がにじみ出ていた。来依は感嘆の声を漏らしてから、ようやく気がついた。目の前に立っているのは、自分の力では一生関わることすらできないような人物なのだ。たとえ彼が海人の親友だったとしても、自分の今の態度はあまりにも無遠慮で、失礼だったかもしれない。急いで頭を下げた。「藤屋社長、失礼しました。さっきは少し無礼でした」清孝の視線にはどこか意味ありげな光が宿り、海人を一瞥してから、口を開いた。「弟分の嫁なんだから、そんなに堅くならなくていい。俺と海人は古い友人

  • 慌てて元旦那を高嶺の花に譲った後彼が狂った   第887話

    石川は大阪より少し暖かいとはいえ、年の瀬も近づき、また雪が降るかもしれなかった。どこが寒いのか?四郎は反論することもできず、おとなしくエアコンを入れた。設定温度は26度。来依は手で風をあおぎながら、わざとらしく言った。「この車、ダメね。なんかムシムシする」四郎も確かにそう思った。仕切り板すら付いていないのだ。海人が静かに笑った。「いいよ。お前の言うとおり、車を替えよう」「……」――来依はあるプライベートサロンに連れて行かれた。彼女は迷うことなく赤を選んだ。だが、海人は背中が大きく開いたデザインを見て、スタイリストに指示を出した。「ショールを足して。寒いから」スタイリストは少しためらった。「菊池さん、このドレスのポイントは背中の蝶モチーフのレースなんです。肩甲骨をあえて見せて、うっすらとウエストラインも……」海人の冷たい視線を浴びて、スタイリストはそれ以上言葉を続けられなかった。海人は石川の人間ではなかったが、石川のトップと繋がっている。このサロンは藤屋家の出資で運営されている。しかも、藤屋家からも海人とその奥様を丁重にもてなすよう指示が来ていた。とても粗末に扱える相手ではない。「ショールはいらないわ」来依は大きな姿見の前でくるりと一回転した。「すみません、アップスタイルでお願いします。この背中、しっかり見せたいの」海人の口元が、わずかに引き結ばれた。スタイリストはどちらを見ていいか分からず、動けなかった。来依が言った。「彼を見ないでください。着るのは私、決めるのも私ですよ」そう言って、回転式の椅子に腰を下ろした。「それと、メイクは少しレトロな感じにしてください。でも濃すぎないで。他人のパーティーですし、主役はあくまで他の人ですから」「かしこまりました!」スタイリストはすぐに準備に取りかかった。来依の要望どおりに仕上げた後、スタイリストの目が輝いた。「もしよければ、うちのモデルになってくれませんか?あるいはスタイリングのアドバイザーとして来ていただくとか……センスが抜群です!」来依は立ち上がってスカートの裾を整え、微笑んだ。「自分のことをよく分かってるだけですよ。アドバイザーなんて無理無理、そんな才能ありませんから」スタイ

  • 慌てて元旦那を高嶺の花に譲った後彼が狂った   第886話

    来依は彼に白い目を向けた。海人の目には、深い笑みがじわじわと浮かんでいた。「ここで楽しんでて。俺は少し用事を済ませてくる。夜は一緒に宴会へ行こう」来依はむしろ、彼がいない方が気が楽だったので、手をひらひら振って追い払った。海人は彼女の頭を軽くぽんぽんと叩き、歩き出した。傍らにいた若い女性が笑いながら言った。「彼氏さんと、すごく仲が良さそうですね」「……」来依は一瞬、弁解しようか迷ったが、まあもうこの場所に来ることもないかもしれないと思い直した。仮にまた来るとしても、その時に言えばいい。彼女は笑って言った。「刺繍、教えてもらえますか?」相手は快く頷いた。刺繍は集中力と時間を要する作業だった。来依は、その日一日ほとんどを刺繍に費やした。食事とトイレの時間以外は、ずっと座って縫っていた。ひとつの刺し方を習得し、小さな作品を一枚仕上げた。立ち上がって、固まった背中と首をほぐしていると、海人がゆっくりと彼女の前に現れた。「楽しかった?」来依は手に持っていた刺繍布を彼に放り投げた。「あんたへの誕生日プレゼントよ。ここに連れてきてくれたお礼」それだけ言って、さっさと更衣室へ向かった。海人はその手の中のハンカチを見つめた。そこには竹と竹の葉が刺繍されており、対角に彼の名前が縫われていた。「お兄さん」近くの女の子が笑いながら言った。「ハンカチって、告白の意味があるんですよ」海人はそれをしまいながら、にこりと微笑んだ。「これ、彼女が自分で刺したの?」女の子は大きく頷いた。「すごく真剣でしたよ。きっと本気で好きなんですね」海人の全身が、喜びに染まっていた。来依が着替えて戻ってきた時、遠くからでも彼が妙に浮かれているのが分かった。近づくと、彼の視線はあまりにも熱っぽく、彼女は鳥肌が立った。ふと視線をそらすと、さっきの女の子がニコニコしていた。だいたい察しがついた。彼の腕を引っ張って車に乗せ、乗車後に言い訳を始めた。「私は初心者だから、ハンカチが一番簡単だったの。ただの練習用よ。名前を縫うのって、一番最初に習う基本なの」海人は意味深に「へえ」と返事した。「……」来依は説明するのが無意味だと感じ、顔をそむけて車窓の外を見た。だが海人は身を寄せ、半ば彼女を包み込むよ

  • 慌てて元旦那を高嶺の花に譲った後彼が狂った   第885話

    まるで彼女の心の声が聞こえたかのように、海人は呟いた。「お前にだけ言ってるんだよ」「……」来依は彼を押し返した。「向かいに座って」「俺の顔を見ると食欲がなくなるって言ってたろ?なら隣に座る方が逆にいいんじゃないか?」隣に座られると、何かとちょっかい出してくる。それでこそ食べられなくなる。「いいから向かいに行って」海人は素直に立ち上がり、向かいの席に座った。そして金沢ガレーを彼女の前に置き、「熱いからゆっくり食べな。火傷しないように」そんな風にして始まった朝食は、酸っぱくて、甘くて、苦くて、辛い――まるで心情そのままだった。来依は海人と一緒にいたくなかったので、無形文化遺産と和風フェスの件で勇斗と話すつもりだった。だが海人は、彼女を強引に車に押し込んだ。逃げられない来依は、ふてくされたように背を向けたまま無言で座っていた。海人は特にちょっかいを出さず、隣でタブレットを開いて仕事の予定を確認していた。運転席の四郎と五郎が目を合わせる。五郎はカーブを曲がる時にスピードを落とさなかった。その瞬間、来依は海人の胸元に倒れ込んだ。「……」車が安定するとすぐに、来依は彼の腕から抜け出し、皮肉混じりに言った。「やっぱり主が主なら、従者も従者ね」五郎も四郎も、一気に背筋が冷えた。一郎のように、また『左遷』されるんじゃないかとヒヤヒヤした。だが彼らの若様は、ただ一言、 「その通りだ」「……」恋愛ボケかよ。しかも最上級の。あれだけ頭のキレる男が、なぜこんなに恋愛に弱いんだ――。来依はもう海人と会話する気も起きなかった。言えば言うほど、パンチが綿に吸い込まれるようで、全然スカッとしない。外の風景がどんどん後ろに流れていく。だんだん建物も人影も少なくなっていった。「もしかして……私を売り飛ばすつもり?」「そんなこと、できるわけないだろ」「……」ああ、来依……余計なこと言うから、また変な空気になるのよ。車が止まると、彼女は逃げるように飛び出した。気まずさからの逃走だった。海人はそんな彼女を見て、軽く笑った。車を降りて彼女の横に回り込み、自然に彼女の手を取った。来依はそのまま連れられて、ある屋敷の中へ入っていった。そこでは何人もの人が、伝統衣装を着て刺繍をし

  • 慌てて元旦那を高嶺の花に譲った後彼が狂った   第884話

    だが彼は、眉ひとつ動かさなかった。「もし俺を殴って気が済むなら、好きにしてくれ。ただ、死なない程度に頼むよ。後で誰かにお前がいじめられた時に、ちゃんと対応できるようにしないと」来依は鼻で笑った。「私をいじめてるのは、あんただけよ」「それは認める」海人はまっすぐに彼女を見つめた。「お前なしでは生きていけない」「……」来依は冷たく笑った。「へえ、だからって私をいじめていいわけ?」「ベッドの上のことを『いじめ』とは言わないだろ?」「……」うざすぎる。来依はもうこれ以上、こういう話をしたくなかった。「どいて。歯磨きしたい」海人は素直に手を離した。だが来依は怒りが収まらず、もう一発蹴りを入れた。それでも海人は上機嫌だった。彼女がメイクをして服を着替えた後、ふたりは一緒に食事に出かけた。海人が石川のことをあれこれ説明してくるにつれ、来依の怒りは再燃した。「石川にそんなに詳しいなんて、どうせ前もって調べてたんでしょ?昨日の『助けて』って演技、ぜんぶ嘘だったんじゃないの!」海人は彼女を抱き寄せた。「昨日、お前が助けてくれなかったら、敵でも友でも構わず、適当な女に頼んでただろうな。たとえクリーンだったとしても、やったらもう後戻りできない」「病院に行けって言ったでしょ!」来依は歯ぎしりした。「友達に送ってもらえば良かったじゃない!」「病院なんか行ったら、敵にバレる。そしたら命が狙われる」「じゃあ、死ねば?」来依は彼を突き飛ばし、怒って前を歩き出した。車に気づかず、ふらっとしたところを、後ろから強く腕を引かれた。そのまま海人の腕に守るように抱き寄せられた。来依は彼を押し返そうとしたが、その腕はびくともしなかった。顔を上げて罵ろうとした瞬間、彼の深い眼差しにぶつかった。「来依。お前が生きていてくれるなら、俺は絶対に死なない。なぜなら、お前を守らないといけないから。「でも、もしお前が……」数秒の沈黙のあと、彼は言った。「縁起でもないことは言わないよ。俺は仏様の前でちゃんと結婚を願ったんだ。だから仏様がきっと守ってくれる」「プロポーズ」という単語を聞いた来依は、彼の目の前で指輪をひらひらさせた。「この指輪、どうやって外すの?「私の恋愛運に影響が出るからね」海人は彼女の手を取っ

  • 慌てて元旦那を高嶺の花に譲った後彼が狂った   第883話

    でも、まだ電源が切られていた。腹は立ったが、来依も理解していた。海人はそこまで狂って誰彼かまわず手をかけるような男ではない。おそらく、今夜彼女が勇斗と連絡を取れないようにしただけだった。ならば、明日また連絡すればいい。だが、思ってもみなかった。目が覚めた時、勇斗から電話がかかってきたのは、彼の方だった。「大丈夫か?」ふたりはほぼ同時に声を発した。言い終わると、ふたりとも笑い声を漏らした。勇斗はまだ状況がつかめていない様子だった。「お前、俺に何があったか知ってる?昨日、会計済ませた直後に、黒服の大男が二人現れて、いきなり車に押し込まれた。で、ものすごく眠くなってさ。「今朝目が覚めたら、床で一晩寝てて、首は寝違えるし、ちょっと風邪引いたっぽい。ハックショーン!」来依は心の中で海人を罵った。器の小さい男め。ベッドに寝かせるくらい、何だっていうのよ。「友達が、ちょっと頭おかしいの。驚かせてごめん」勇斗は鼻をすする音を立てた。「いや、まぁそんなに驚いてもないけど。あれってお前の彼氏か?」「元カレ」来依は正直に答えた。「ちょっと待ってて。今から一緒に病院行って、それから夜は宴会に一緒に出席してほしいの」「宴会?」「うん、あんたにとってもプラスになる」「俺、もう風邪なんてどうでもいいや。しっかり準備するから、来なくて大丈夫。体調より、稼ぎが大事だし」「じゃあ薬はちゃんと飲んでよ。夜に体調崩されると困るから」「うん、分かってるよ。俺、そういうところでは抜かりないから。で、お前は本当に大丈夫?」来依は頭を押さえた。海人とのあれこれを一言では説明できなかった。「平気よ」「それなら良かった」電話を切った直後、カードキーの音が聞こえ、すらりとした長身の男が入ってきた。その目には、どこか冷たい気配が漂っていた。来依は鼻で笑った。「昨日は『ここは自分の縄張りじゃないから』って私に頼んでたくせに、今日はホテル内を自由に動き回って、他人の部屋にまで入ってくるんだ?」「他人の部屋には入らない」つまり、「お前の部屋にしか入らない」という意味だった。来依は無視して、寝直そうと布団に潜り込んだ。海人はベッドの脇に置かれた塗り薬を見つけたが、まだ封も開けられていなかった。「薬、塗ってな

  • 慌てて元旦那を高嶺の花に譲った後彼が狂った   第882話

    ピンポーン——ノックの音が響いた。海人が立ち上がり、ドアを開けた。四郎が鶏肉入りラーメンを手渡してきた。部屋の空気が重いのを感じた四郎は、少し勇気を出して尋ねた。「今夜あまり食べてらっしゃらないようですが、ホテルに何か追加で頼みましょうか?」海人は頷き、いくつか料理の名前を口にした。四郎は了承し、ホテルへ指示を伝えに行った。ちょうどその時、五郎が戻ってきたので、ついでに世間話を始めた。「河崎さんが何食べたいのか分からないってのに、若様は自分の好物すら忘れてるくせに、彼女の好物だけは覚えてるんだぜ」五郎は冷麺を食べながら言った。「若様、酢豚が好きだったんじゃなかった?」前に若様の部屋で来依が弁当を届けに来た時、そう言っていたのを思い出したらしい。四郎は呆れたように白い目を向けた。「お前は本当に単細胞だな。それは河崎さんの好物だ。今の若様の『好きなもの』は、全部河崎さんの“好きなもの”に変わってるんだよ」五郎「あ、そう」四郎「……」 余計なことを言ったと後悔した。――室内――海人は鶏肉ラーメンをテーブルに置き、来依に「先に食べな」と声をかけた。来依は夕飯をしっかり食べていたが、いろいろ消耗して、この時間にはもうお腹が空いていた。彼女はテーブルの前まで来て、床に座り込んだ。海人はすでに包装を外し、箸を渡した。来依はそれを受け取りながら、複雑な表情を見せた。少しラーメンをかき混ぜ、食べようとした時、ふと動きを止めた。「これはこの辺りの名物だ。もし口に合わなかったら、他のを買ってくる。それに、もうすぐホテルからお前の好きな料理も届く。とりあえず、これを先に食べて」来依は自分でも今の気持ちがよく分からなかった。ただ、首を横に振った。「違うの……」少し間を置いて、尋ねた。「あんたも食べる?」海人の目元の陰りが薄れ、わずかに笑みを見せた。「お前が足りないかもって思って」「……」来依は黙って麺を食べ始めた。しばらくして、彼女の好きな料理が届いた。「食べきれないから、あんたも食べて。無駄になるの嫌だし」海人は彼女の隣に座った。同じく床に座り、形式ばらずに食べ始めた。少し遅れて出て行った四郎は、その様子を見て、呆れたように頭を振った。一方、五郎はホテルで餃子を頼

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