Share

第2話

Author: 楽恩
ジュエリー?

私はそっと眉をひそめ、ちょうど洗面所に入ったばかりの宏に声をかけた。

「宏、アナ姉さんが来てるわ。私、先に下に降りてみるね」

ほぼ同時に、宏が勢いよく洗面所から出てきた。その表情は、これまで一度も見たことのないほど冷たかった。

「俺が行く、君は気にしなくていい。顔を洗ってこい」

いつも冷静沈着な彼が、どこか不機嫌そうで、まるで落ち着かない様子だった。

私は胸騒ぎがした。

「もう済ませたわ。あなたの歯磨き粉も、ちゃんと絞っておいたの、忘れた?」

「じゃあ、一緒に行きましょ。お客様を待たせるわけにはいかないもの」

彼の手を取り、一緒に階段を降り始めた。

この家の階段は螺旋状になっていて、途中まで降りるとリビングのソファが見える。そこには、白いワンピースを身にまとい、上品に座っているアナの姿があった。

彼女は音に気づいて顔を上げた。穏やかな微笑みを浮かべていたが、彼女の視線が私たちの手元に向けられた瞬間、手に持っていたカップがかすかに揺れ、中の液体がこぼれた。

「……あっ」

熱かったのか、彼女はとっさに小さな悲鳴を上げた。

その瞬間、宏は、私の手を勢いよく振り払った。そして、まるで反射的に階段を駆け下りると、アナの手からカップを取り上げた。

「何やってんだよ、コップひとつまともに持てないのか?」

その声は、厳しく、冷ややかだった。

だが、彼はそれ以上に、アナの手を乱暴に引き寄せ、洗面台へと連れて行った。蛇口をひねり、冷水を勢いよく流しながら、彼女の手を強引に押し付けた。

アナは困ったように微笑んで、手を引こうとした。

「大丈夫よ、そんな大げさにしなくても……」

「黙れ。やけどを放っておくと跡が残る。わかってるのか?」

宏は彼女の言葉を遮るように低く叱責した。彼の手は、決して彼女を離そうとしなかった。

私は階段の途中で、その光景をただ呆然と見つめていた。

心の中に、何かがふっとよぎる。

――結婚したばかりの頃の記憶。

私は、江川宏の胃が弱いと知って、彼のために料理を学び始めた。

家には佐藤さんがいたけれど、彼女の料理はどうも宏の口に合わなかったから。

料理初心者の私は、包丁で指を切ることもあれば、油が跳ねてやけどすることもあった。

ある日、不注意で鍋をひっくり返してしまい、熱々の油が腹部に流れ落ちた。

服がびしょ濡れになり、私は思わず顔をしかめた。

「……痛っ!」

彼はすぐに駆け寄ってきた。けれど――

「大丈夫か?」

相変わらずの穏やかな声だった。「とりあえず、自分で手当てしておいで。あとは俺がやるから」

優しくて、気遣いはするけれど、どこか他人事のような声色だった。

今思えば、そのときから違和感はあったのかもしれない。

けれど、私は彼を長い間想い続けてきた。日記には、何度も何度も彼の名前を書いた。

結婚できただけで、十分に幸せだった。

彼が淡白な性格なのだと思っていた。

それだけの話だと。

……

「私、アナお嬢様にはレモン水をお持ちしたんですけどねぇ」

ふと、佐藤さんの呟きが耳に入り、私の思考が現実に引き戻された。

ぼんやりとしていた視界が、だんだんと鮮明になる。胸の奥が、何かに締め付けられるように苦しくなった。

――見て。

宏は、彼女の手から直接カップを取り上げたはず。けれど、心配のあまり、そこに何が入っていたのかすら気づかなかった。

私は深く息を吸い、ゆっくりと階段を下りった。宏とアナをじっと見つめ、皮肉げに微笑んだ。

「ねぇ、あなた、佐藤さんが淹れたのはレモン水よ? 冷たいわ。やけどなんて、するはずがないわよね?もしかして、今度は低温やけどを心配してるの?」

我慢しようと思っていた。けれど、どうしても抑えきれなかった。

宏の手が、ピクリと動いた。彼はようやくアナの手を放し、私の視線を避けるように顔を背けた。

「冷たい水が手にかかったくらいで騒ぐな。本当に大げさなんだよ」

アナは、彼を軽く睨むと、優しく微笑んで私を見た。「彼、昔からこうなのよ。気にしないで」

そう言いながら、彼女はテーブルの上に置いていたベルベットのジュエリーボックスを手に取った。

見た目からして、相当な価値があることがわかる。「これは、あなたのものよ」

そう言って、私に差し出した。

私は、それを受け取り、そっと蓋を開けた。次の瞬間――指先に、力が入りすぎて爪が手のひらに食い込んだ。

胸の奥が、ざわめく。

動画に映っていた女性――それが、アナ?

私は顔を上げ、表情を取り繕って、笑おうとするが、上手く笑えなかった。

昨夜、宏に「ネックレスを取り戻せ」と迫った。けれど、今、ネックレスはこうして手元にあるのに、何の安堵感もない。

宏の瞳をじっと見つめた。彼は、どこか読めない表情をしていた。そして次の瞬間、私の肩を抱き寄せた。

「気に入ったか?気に入ったなら、そのまま持っていればいい、いらないなら誰かにくれてやれ。たかがアクセサリーだ。俺がまた買ってやる」

「……わかった」

私は唇をかみ、アナの前では彼の面子を保つことにした。

あるいは、自分自身の面子を。

アナが今日ここへ来た本当の目的が、すぐには分からなかった。

本当に「このネックレスを自分が持つべきではなかった」と思ったのか。

それとも――私に何かを見せつけに来たのか。

アナの顔に、一瞬だけ何かの感情がよぎった。だが、それはあまりにも一瞬のことで、捉えることができなかった。

彼女はすぐに穏やかな微笑みを浮かべ、優雅に言った。「私は、このネックレスが原因であなたたちの間に誤解が生まれるのではないかと心配していたの。でも、そうならなくてよかったわ。じゃあ、私はこれで失礼するわね」

佐藤さんが彼女を玄関まで見送った。

家のドアが閉まった瞬間、私は宏の腕の中からスルリと抜け出した。「あなた……たしか、あのネックレスは伊賀のために落札したんじゃなかった?それに……アナ姉さんは結婚しているはずよね? いつから伊賀の厄介な女性関係のひとりになったのかしら?」

言い終わる前に――

宏は、突然私の唇を塞いだ、強引に残りの言葉を封じ込めた。

激しく、そして荒々しく――まるで何かを発散するかのように、私を支配する。

息が詰まりそうになった頃、ようやく僅かに唇を離し、そっと私の頭を撫でながら、低く呟いた。「……俺が、嘘をついた」

宏は、私を抱き寄せた。「彼女は、離婚したんだ。離婚して、気が落ち込んでいるかもしれないと思った。それで、プレゼントを贈っただけだ」

私は、一瞬息を呑んだ。

彼を見つめたまま、心の中で昨夜の動画を反芻する。

――「新しい人生、おめでとう」

そうか。あの言葉の意味は、そういうことだったのか。

「……それだけ?」

私は唇を引き結び、疑念を拭いきれぬまま問いかけた。

「それだけだ」

彼は、何の迷いもないように答えた。穏やかで、理知的で、いつもの宏らしい声だった。「君も知っているだろう?彼女の母親は、俺の命を救うために事故に遭った。それで……今もずっと植物状態のままだ」

――この話は、佐藤さんから聞いたことがある。

宏の実母は、彼を産んだ際に亡くなった。宏が五歳の時、父は再婚し、その相手がアナの母親だった。

義母でありながら、宏のことを我が子のように育てた。

そして、宏が危険な目に遭った際、義母は彼を庇って事故に巻き込まれた。そのまま意識を失い、今も植物状態のまま、病院のベッドで眠り続けている。

確かに、それなら説明がつく。

私は瞬時に肩の力が抜け、安堵の息を吐いた。しかし、それでも抑えきれず、遠回しに釘を刺した。「宏、あなたがただ恩を返したいだけで、彼女のことを姉としてしか見ていないって……私はそう信じてるわ」

あのネックレスは、結局、私は倉庫に放り込んだ。

もしかすると、私の疑念は完全に消え去ったわけではなく、ただ一時的に押し込めていただけなのかもしれない。

積もり積もった不安は、いつか必ず再び押し寄せる。

――それも、圧倒的な勢いで。

そして、まさかその日がこんなにも早く訪れるとは思わなかった。

私は、大学でファッションデザインを学んでいた。卒業後は、江川グループのデザイン部でインターンを始め、そのまま正社員になった。

宏と結婚しても、仕事を辞めるつもりはなかった。

4年経った今、私はデザイン部の副部長のポジションに就いている。

その日――。

会社の社員食堂で昼食をとっていた。すると、トレーを持った女性が、小さくくびれた腰を揺らしながら私の向かいに座った。

「清水部長、食事に誘ってくれないなんて冷たいじゃない?」

彼女は大学時代のルームメイト、河崎来依だった。

「午後はデザイン案を仕上げなきゃならないのよ」

私がそう言うと、彼女は意味ありげにニヤリと笑った。

「……何?」

「人事部の人から聞いたんだけどさ――」

彼女は嬉しそうに話し始めた。

「デザイン部の新しい部長、もう決まったんだって!で、私の予想ではね……間違いなく、あんたよ!だから、先にお祝いしようと思って!もしも昇進したら、お互いに助け合おうね?」

「正式な辞令が出るまでは、確実とは言えないわよ」

私は、彼女に小声で釘を刺した。

デザイン部の部長は、今月の中旬に仕事を辞めた。社内では、私がその後任になるのではないかと噂されていた。

私自身も、その可能性は高いと思っていた。でも、万が一ということもある。

「何言ってるの?確実に決まってるでしょ?あんたは社長夫人であることはさておき――」

彼女は後半になると声を落とした。

私と宏の結婚は公にはなっておらず、世間が知るのは「江川宏は愛妻家」という事実だけで、その妻が私だとは誰も知らない。

それから彼女は得意げに、私のことを褒めちぎり始めた。

「あなたが江川に入社してからの実績は、みんな知ってるわ。ブランドデザイン、オーダーメイド、どっちも成功させたじゃない?いくつもの企業が、あなたをヘッドハンティングしようと狙ってるんだから!江川グループがあなたを昇進させない理由なんて、どこにもないわよ!」

彼女が勢いよく話し終えたそのとき――

スマホの通知音が、同時に鳴った。

画面を見ると、人事部からのメールだった。

件名は――

「人事通知」

来依は、それを見て目を輝かせた。だが、メールを開いていくうちに、その表情は次第に曇っていく。彼女は、怒りを滲ませた声で言った。

「江川アナ?誰よ、それ?」

Continue to read this book for free
Scan code to download App
Comments (1)
goodnovel comment avatar
かほる
文章が やや違和感を感じますが 私だけでしょうか? 訳する人が日本文に あまり慣れて ないのかも
VIEW ALL COMMENTS

Latest chapter

  • 慌てて元旦那を高嶺の花に譲った後彼が狂った   第1246話

    あの頃、彼女はまだ十二歳で、ちょうど恋愛ドラマに夢中になっていた。ちょうど藤屋家には広い庭があり、ブランコを置くには十分なスペースがあった。彼女は清孝に頼み込んで、ブランコを作ってもらった。なぜなら、彼がとてもかっこよくて、まるでドラマの主人公のように見えたから。主人公なら、ヒロインにブランコを作るべき──そんな風に思っていた。当時の清孝は、まだ若くて落ち着きもありながら、少年らしい無邪気さも残していた。黒いスポーツウェアに、短く整えられた髪型。すでに形の見え始めた広い肩と細い腰、うっすらとした筋肉、彼女よりも一回り高い身長──どこをとっても、胸をときめかせる存在だった。彼は小さなハンマーを手にして、庭でトントンと音を立てながら作業していた。その一音一音が彼女の胸に深く響いた。陽光が降り注ぎ、少年の姿を明るく照らしていた。彼が振り返ってこちらを見たとき──眉目に浮かんでいたのはどこまでも自由で、無邪気な笑みだった。そして、ブランコは出来上がった。「香りん、どうやってお礼してくれるの?」紀香はブランコに座り、少年がほんの少し力を入れるだけで、彼女は高く空へと舞い上がった。彼女は笑っていた。軽やかに、心から満足そうに。あの頃は、本当に何の悩みもなかった。彼女は信じていた。清孝と、ずっとこうしていられるのだと。……「香りん」名前を呼ばれて、紀香は記憶の中から現実に引き戻された。無意識に顔を向けると、彼と視線がぶつかった。「ちょっと手伝ってくれ」紀香は少し躊躇ったが、結局彼を無視して小屋の中へ戻った。果物をかじりながら、黙って時間を潰した。屋根の上の清孝は苦笑を浮かべ、自分で必要な物を取りに降りた。昼になるころには屋根の補修が終わった。清孝は料理の準備を始めた。この場所は条件が限られていて、彼が持ってきた食材も、荷物の重さを考慮した最低限のものばかりだった。加熱できるものも少なく、あるもので何とか食事を作った。紀香は彼に一切構わなかった。果物を食べ終えると、背を向けてそのままベッドに横になった。清孝は簡単な料理を用意して声をかけたが、紀香は無視した。だが、彼女の腹がグゥと鳴った。「……」清孝は低く笑った。「俺とケンカするのはいい。でも、自分

  • 慌てて元旦那を高嶺の花に譲った後彼が狂った   第1245話

    春香はその場に立ち尽くしたまま、しばらく考え込んだ。そして最終的に、海人の言葉を信じて従うことにした。紀香は三日間、隅っこで丸くなって過ごしていた。その三日間、雨は止むことなく降り続いていた。粗末な小屋は雨に耐えきれず、外は土砂降り、中はしとしとと雨漏りしていた。だが、彼女は気に留めなかった。まるでカタツムリのように、ただ殻に閉じこもるだけだった。誰かが現れて、目の前に立ったとき──紀香は一瞬、言葉を失ってしまった。来訪者は彼女を抱き上げ、ベッドにそっと寝かせ、手足を取って動かせるか確認し、無事だとわかって安堵の息をついた。「……お腹すいてないか?」その馴染みのある声に、紀香は突然我に返った。そして、ベッドから起き上がると、いきなり相手に平手打ちを食らわせた。清孝は打たれた頬を押さえ、少し笑って言った。「契約はまだ終わってない。君がいなくなったから、当然、俺は追いかける」紀香は何も言わず、ベッドから飛び降りて荷物を手に取り、外へ出ようとした。──秘密基地が誰かに知られてしまった時点で、もはや「秘密」ではない。そんな場所では思考に集中できない。彼女はまた新たな場所を探すつもりだった。清孝は彼女の腕を掴んで引き止めた。「俺がどうやってここを見つけたか、聞かないのか?」紀香は聞きたくなかった。だが清孝は、話さずにはいられなかった。「香りん……俺は確かに君が苦しんでる時に何もしなかった。三年間、一度も手を差し伸べなかった。でも、何もしていなかったわけじゃない。君が歩いた場所、俺も全部歩いた。この場所も一度取り壊されかけたが、俺が止めて残した。もちろん、こんな話をするのは功績をアピールしたいわけでも、許しを乞いたいわけでもない。俺はただ──契約を履行したいだけだ」紀香は彼の手を振り払った。「清孝、もし本当に許しを求めていないなら、そんな話、最初から口にしないでよ。許しがいらないなら、なんでそんな契約なんて交わしたの?結局はさ、私に許してもらって、また結婚したいだけでしょ?」清孝は再び、出ていこうとする紀香の腕を掴んだ。「香りん……俺は確かに復縁したいと思ってる。でもそれ以上に、ただ、君を愛して、大事にするチャンスが欲しい。もし許されるなら、もっと欲を出したい。もう一

  • 慌てて元旦那を高嶺の花に譲った後彼が狂った   第1244話

    誰にも知られていなかった。彼女が十八歳のとき、告白に失敗して──そのあと、この場所を見つけた。それ以来、何かに悩むと、いつもここへ来ていた。この場所には名前すらなかった。人も滅多に来ない。安全といえば安全、でもそうとも言えない。ただ、彼女は一度も安全かどうかを気にしたことがなかった。偶然、撮影中に見つけたこの場所は静かに考えごとをするには最適だった。だから、周囲にはわざと目立たないように細工もしていた。誰にも見つからないように。……春香が病室を出て数日後、清孝は退院した。針谷は春香に「すべてを報告する」と約束していた。だが、その様子は清孝に見破られ、鋭い眼差しで牽制された。「いっそ、あいつの側につけてやろうか?」針谷は正直に報告できず、多少ごまかした内容で春香に報告するしかなかった。春香は藤屋家の人々を納得させるため、清孝の容体をごまかしつつ、看病中に溜まった雑事にも追われていた。寝る暇すらなく、頭は朦朧。針谷の報告の真偽を精査する余裕もなかった。……駿弥は、ずっと清孝の動向を監視させていた。清孝が帰国したその日、すぐに警戒を強めた。海人にも、「清孝を大阪に入れないように」と念を押した。東京側も今回は清孝を自由に動かせないつもりだった。海人は何も言わず、その通りに動いた。その日、鷹と話をしていた時──鷹が言った。「お前、清孝が大阪にも東京にも来れないの、わかってたろ。なんでお義兄さんに教えてやらなかった?」同じミスは二度としない。清孝も然り。「あとでお義兄さんにバレたら、責められるぞ?」海人はお茶を一口飲み、まるで気にしていない様子で答えた。「俺、清孝のことなんてよく知らない。何をするかも、どこへ行くかも知らない。だから、義兄さんにも何も言えない」鷹は意味ありげに笑った。「とぼけるなよ」清孝は、石川にすら戻らなかった。ましてや、大阪や東京など論外だった。そして最後には、周囲の人間をすべて遠ざけて、まるで風のように姿を消した。針谷たちが「おかしい」と気づいたときには、もう清孝の行方はわからなくなっていた。針谷は迷った。これを春香に報告すべきかどうか──「手分けして探せ」だが、三日三晩探しても、手がかり一つ見つからなかった。人が

  • 慌てて元旦那を高嶺の花に譲った後彼が狂った   第1243話

    来依自身も手一杯で、今は紀香を追いかける余裕などなかった。「ただ、ちゃんと守ってあげられなかったのが悔しくて……」「お前のせいじゃない。そもそも、お前が関わったところで解決できることじゃなかった」駿弥は言った。「今回で、あの二人は本当に終わったと思う」来依は静かに言った。「そうだといいけど」電話を切った後も、海人は来依を病院に連れて行こうとした。だが来依は首を振った。「本当に大丈夫。信じて。もし嘘だったら、今後はあんたの言うこと全部聞く」それなら、と海人は無理に連れていくのをやめた。けれど、その晩はずっと来依のそばに付きっきりで、何か異変が起きないかと見守っていた。幸い、何事も起こらなかった。清孝が目を覚ましたのは、それから一週間後だった。その間、由樹が一度病院に来ていた。ちょうど学術交流のために訪れており、ついでに顔を見に来たのだった。清孝が意識を取り戻したとき、感覚はまだ鈍く、動きも遅かった。春香は心配でたまらず、由樹に声をかけた。「兄は元通りに回復できるよね?」由樹は小さく頷いたきりで、何も言わずに立ち去った。「……」こんな男、本当にもう。春香は針谷に尋ねた。「竹内心葉はもう石川に行ったの?」針谷は答えた。「異動にはまだ時間がかかります。手続きや業務の引き継ぎが必要なので、大体一ヶ月はかかります」春香は顎を手で支えながら考え込んだ。「じゃあ、異動自体は決まったのね?」「はい」「海人は他に動いていないの?本当に妹に頼んで異動させただけ?」針谷は頷いた。「今のところ、菊池様からは妹さんに一本の電話があっただけです。ただ、詳細は引き続き確認が必要です」春香は指示を出した。「必ず見張ってて、何かあったらすぐ知らせて」「承知しました」手配が終わると、春香は清孝に水を飲ませた。清孝も大人しく飲んだ。夜になる頃には、かなり回復してきていた。「なんでお前がここに?」春香はもう何日も病院に付き添っていた。「私が来なきゃ、誰が世話するのよ。私が来なかったら、きっとあんた、地獄で閻魔様とトランプしてたわよ」清孝が自分で上体を起こすと、春香は急いで枕を支えてあげた。「お兄ちゃん、冗談じゃなく、ほんとに人騒がせなんだから……」清孝は何も言わなかった。

  • 慌てて元旦那を高嶺の花に譲った後彼が狂った   第1242話

    紀香は自分はきっと悪夢を見るだろうと思っていた。だが、その眠りは意外にも穏やかだった。ただ、目を覚ましたとき、胸の奥にぽっかりと空いたような感覚が残っていた。外はすでに暗くなっていた。寝たときはまだ明るかったのに。昼夜の感覚が狂ったせいで、頭もぼんやりしていて、ベッドに座ったまましばらく動けずにいた。何かを思い出しかけた気がしたが、それが何なのかはわからなかった。そのとき、ドアをノックする音がした。「紀香ちゃん、起きたか?」駿弥の声を聞いて、紀香は我に返り、電気をつけてからドアを開けた。「お兄ちゃん」「うん、起きたならご飯にしよう」「うん」紀香は駿弥に連れられてダイニングへ向かった。席に着くと、そこには彼女の好きな料理がずらりと並んでいた。だが、胃が重く感じて、食べる気になれなかった。駿弥はそれに気づき、スープをよそってくれた。「まずは少し、これを飲んで」紀香は両手で椀を持ち、小さな口で少しずつ啜った。「スマホ、もう充電しておいたよ」駿弥は彼女にスマホを渡した。「この間はここでゆっくり休めばいい。もちろん、どこか行きたいところがあれば、俺が送る。あるいは何かしたいことがあるなら、何でも言ってくれ。俺が手配する」紀香はスマホを受け取り、画面を見ると未接着信と未読メッセージがたくさんあった。ほとんどが、彼女が清孝に連れ去られた日のものだった。彼女は実咲にだけ返信を返した。他の人には、きっと駿弥が既に説明してくれていたのだろう。そして、写真フォルダには、彼女が撮った七彩魚やピンク色のイルカのバックアップがあった。あのカメラは彼女の私物だった。おそらく清孝が彼女を連れて行ったとき、荷物ごと持っていったのだろう。撮った写真が自動的にスマホに同期されていた。その写真を見ると、あの日清孝と一緒に海へ出たことが自然と思い出された。紀香はスマホを伏せ、黙ってスープを飲み続けた。飲み終わっても、箸には手を伸ばさなかった。駿弥はもう一杯スープを注ごうとしたが、彼女はそれを断った。「お兄ちゃん、私ちょっと行きたいところがあるの。でも、場所は言えない。それと、姉ちゃんにも伝えてほしい。心配させたくないから」駿弥は強く心配していたが、それ以上は何も聞かなかった。た

  • 慌てて元旦那を高嶺の花に譲った後彼が狂った   第1241話

    何から何まで俺のところに来る。「……聞こえたの?」「聞こえない方が無理でしょ」来依は尋ねた。「清孝の病気のこと、明日香さんに相談してみようか?」海人は言った。「やめとけ。明日香が治療する気になっても、清孝の方が受けたがらないさ」「なるほどね、男ってそういうところだけは変にプライド高いから」「他の男のこと、よくわかってるな?」来依は横目でにらんだ。「今日やたらと昔のこと蒸し返すね。どうしたの?どこにも八つ当たりできなくて、爆発寸前?」「マジで爆発しそうだ」海人は彼女をきつく抱きしめた。「まずはちょっと発散させて。それから他の話しよう」「……」その後、来依はそのまま眠ってしまった。心葉や清孝の話を続けることはなかった。海人はバルコニーに出て、煙草を一本取り出して火を点けた。そして、電話をかけた。「兄さん」電話の向こうから聞こえたのは冷ややかな女性の声。どこか機械的で、もし名前を呼ばれなければ、スマホのアナウンスかと錯覚するほどだった。「まだ起きてるのか?」静華は率直に答えた。「仕事がまだ残ってるの」「一人で?」「うん」海人はそれ以上は聞かなかった。「お前の部下に、竹内心葉って名前のやついないか?」静華は言った。「どの竹内心葉?」「石川出身の」機密性の高い職場では、社員の身辺調査は非常に厳重で、三代前まで遡ることもある。石川出身で彼女の部下となると、一人しかいなかった。「兄さん、彼女に何の用?」海人は言った。「彼女を石川に異動させろ」静華は問うた。「理由をちょうだい。あとで報告書を書かなきゃいけないから」「理由はお前が作れ。俺が教えられるのは、石川に彼女を待ってる人がいるってことだけだ」身辺調査はあっても、感情面の調査まではない。静華は心葉と高杉家の関係について、「取り違えられた子」程度の認識しかなかった。心葉と由樹の間に何があったかなど、一切知らなかった。ただ、心葉が何かの拍子に過去の話を少しだけ口にしたような記憶はあった。「兄さん、それって私的利用になるんじゃない?」海人は低く「そうだな」と認めた。「一つ借りができた。今後何か望むことがあれば、全部聞く」静華は数秒考えて、了承した。「じゃ、それで。切るよ」電話が切れた。静華は無

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status