——というのも、彼女も腰が痛かった。さっきドアを開けてルームサービスを受け取り、さらに勇斗に電話をかけ直したときは、痛みを意識していなかった。けれど今は、少し歩くだけでズキズキと痛んだ。腰をさすりながら見つめ合った二人は、思わずくすっと笑い合った。来依が言った。「私たちって、まさに同じ穴のムジナね」南はうなずいて、ダイニングテーブルの前に腰を下ろした。「今後はイタズラもほどほどにしよう。結局、損するのは私たちだし」来依も手早く洗面を済ませてテーブルにつき、同意するようにこくんとうなずいた。食卓に目をやると、自分の好きなものだけでなく、南の好物まで揃っていた。だから彼女はここに来たのか、と納得した。「あんたが起きたとき、鷹はいた?」南は首を振った。「あなたから電話が来る前に、彼からメッセージがあって。起きたらあなたの部屋で一緒に食べようって」「私も起きたとき、海人の姿はなかった」「道木青城が来てるから、きっと対策を練ってるんだと思う」来依には詳しいことは分からなかったが、少なくとも敵が誰なのかは頭に入れておくと決めていた。接触せず、海人の足を引っ張らないように。「これから勇斗に会いに行くの。昨日の謝罪も兼ねて、今夜ご飯奢るって言ってある」そう言って、スマホをマナーモードにしていた件を話した。南は呆れたように首を振った。「私のスマホもマナーモードだったの。母からの電話、気づかなかったよ」来依は苦笑した。「私たちのことを思ってやってくれてるんだろうけど……怒るに怒れないよね」「本当にそう」……一方その頃、清孝は向かいに座る二人の男を見つめながら、どこか怨念めいた視線を送っていた。一人は淡々とした表情、もう一人はのんびりとした態度。だがどちらも、顔には幸せそうな余裕が滲んでいた。「今後俺に電話する前に、本当に出動する必要があるのか確認してからにしてくれ。くだらないイタズラで呼ばれるのは勘弁だ。俺、忙しいんだ」すかさず鷹が痛いところを突く。「お前、奥さんいないんだから、夜に忙しいことなんてないだろ?」「……」清孝は怒りを抑えつつ反論した。「服部グループ、まさか倒産でもすんのか?こんな遠くまで来て、奥さんと遊ぶためか?」鷹は真顔でうなずいた。
海人は一口お茶を含み、唇の端に浮かぶ微笑が次第に意味深なものに変わっていった。「俺から情報を引き出そうとしてるのか?」清孝が何か言おうとした矢先、秘書がそっと近づき、耳元で何かを囁いた。彼の表情がわずかに沈み、手を振って秘書を下がらせた。そして向かいの二人を見据えながら、ゆったりと口を開いた。「道木青城が北河勇斗のプレゼン会に来たぞ。お前らの嫁も、今そこにいる」その言葉が落ちた瞬間、向かいの二人の姿はすでになくなっていた。清孝は焦る様子もなく、しばらくお茶を味わってから、ようやく腰を上げて現場に向かった。……青城の登場は、来依と南にとって完全な予想外だった。このレベルの会議に、彼ほどの地位の人物が直々に現れる必要はなかった。ましてや藤屋家が関与している場で、彼が来たところで何も変わらないはずだった。勇斗は青城の顔を知らなかったが、清孝の部下の一人がそっと彼に耳打ちした。そして「彼は味方ではない」とだけ告げた。勇斗はそれを聞いて、発言の一部をうまくぼかして話した。彼に退席を命じる権限はなかった。なにせ相手の身分があまりにも違いすぎた。幸い、青城もその内容に深く突っ込む気配はなかった。ただ、彼は一言も発せず、視線だけは無意識のように、しかし明らかに、何度も来依の方へ向けられていた。南はテーブルの下でそっと来依の手を握り、小声で耳打ちした。「たぶん、あなたが目的だよ」来依もそれを感じ取っていた。まさかこんなに早く、そしてこんなに堂々と現れるとは思わなかった。まったく隠そうともしない。「どうりで道木社長が石川に来たわけだ。本業には興味がないらしい」淡々としていながらも、はっきりとした声が会場に響いた。来依が振り返ると、海人が会場に入ってくるのが見えた。彼女はすぐに目配せして、近づかないように合図を送った。だが彼は構わず近づいてきて、彼女の隣に腰を下ろした。鷹も続いて南の隣に座った。最後に現れた清孝は、当然のように主席に座った。勇斗はプロジェクター画面の前で完全に呆然としていた。なんで、こんな大物たちが次々に集まってくるの?青城の目には、隠す気などまったくなかった。その笑顔は作り笑いで、見ているだけで不快になるほどだった。「菊池様、随分と足が速い
結婚三周年の当日。江川宏は、高額を支払って私が長い間気に入っていたネックレスを落札した。みんな口を揃えて言う。「彼は君に惚れ込んでいるよ」と。私は嬉々としてキャンドルライトディナーの準備をしていた。だが、その時、一つの動画が届いた。画面の中で、彼は自らの手でそのネックレスを別の女性の首にかけ、こう言った。「新しい人生、おめでとう」そう、この日は私たちの結婚記念日であると同時に、彼の「高嶺の花」が離婚を成立させた日でもあったのだ。まさか、こんなことが自分の身に降りかかるなんて。宏との結婚は、自由恋愛の末に結ばれたものではなかった。だが、彼は表向き「愛妻家」として振る舞い続けていた。ダイニングテーブルに座り、すっかり冷めてしまったステーキを見つめた私。その一方で、ネットでは今も彼の話題がトレンド入りしていた。「江川宏、妻を喜ばせるために二億円を投じる」この状況は、私にとってただの皮肉でしかなかった。午前2時。黒いマイバッハがようやく邸宅の庭に入ってきた。フロアの大きな窓越しに、彼の姿が映った。車を降りた彼は、オーダーメイドのダークスーツを纏い、すらりとした体躯に気品を漂わせていた。「まだ起きていたのか?」室内の明かりをつけた宏は、ダイニングに座る私を見て、少し驚いたようだった。立ち上がろうとした私は、しかし足が痺れていたせいで再び椅子に崩れ落ちた。「待っていたの」「俺に会いたかった?」彼は何事もなかったかのように微笑み、水を汲みながらテーブルの上に手つかずのディナーを見つけ、やや訝しげな表情を浮かべた。彼が演技を続けるのなら、私もひとまず感情を押し殺すことにした。彼に手を差し出し、微笑んだ。「結婚三周年、おめでとう。プレゼントは?」「悪い、今日は忙しすぎて、用意するのを忘れた」彼は、一瞬きょとんとした表情を見せたあと、ようやく今日が記念日だったことを思い出したようだ。私の頭を撫でようと手を伸ばしてきたが、私は無意識のうちに身を引いてしまった。――その手で今夜、何を触れてきたのか分からない。そう思うと、どうしても受け入れられなかった。彼の動きが一瞬止まった。だが、私は気づかないふりをして、にこやかに彼を見つめた。「隠し事はなしよ。あなた、私が気に入ってたあのネッ
ジュエリー?私はそっと眉をひそめ、ちょうど洗面所に入ったばかりの宏に声をかけた。「宏、アナ姉さんが来てるわ。私、先に下に降りてみるね」ほぼ同時に、宏が勢いよく洗面所から出てきた。その表情は、これまで一度も見たことのないほど冷たかった。「俺が行く、君は気にしなくていい。顔を洗ってこい」いつも冷静沈着な彼が、どこか不機嫌そうで、まるで落ち着かない様子だった。私は胸騒ぎがした。「もう済ませたわ。あなたの歯磨き粉も、ちゃんと絞っておいたの、忘れた?」「じゃあ、一緒に行きましょ。お客様を待たせるわけにはいかないもの」彼の手を取り、一緒に階段を降り始めた。この家の階段は螺旋状になっていて、途中まで降りるとリビングのソファが見える。そこには、白いワンピースを身にまとい、上品に座っているアナの姿があった。彼女は音に気づいて顔を上げた。穏やかな微笑みを浮かべていたが、彼女の視線が私たちの手元に向けられた瞬間、手に持っていたカップがかすかに揺れ、中の液体がこぼれた。「……あっ」熱かったのか、彼女はとっさに小さな悲鳴を上げた。その瞬間、宏は、私の手を勢いよく振り払った。そして、まるで反射的に階段を駆け下りると、アナの手からカップを取り上げた。「何やってんだよ、コップひとつまともに持てないのか?」その声は、厳しく、冷ややかだった。だが、彼はそれ以上に、アナの手を乱暴に引き寄せ、洗面台へと連れて行った。蛇口をひねり、冷水を勢いよく流しながら、彼女の手を強引に押し付けた。アナは困ったように微笑んで、手を引こうとした。「大丈夫よ、そんな大げさにしなくても……」「黙れ。やけどを放っておくと跡が残る。わかってるのか?」宏は彼女の言葉を遮るように低く叱責した。彼の手は、決して彼女を離そうとしなかった。私は階段の途中で、その光景をただ呆然と見つめていた。心の中に、何かがふっとよぎる。――結婚したばかりの頃の記憶。私は、江川宏の胃が弱いと知って、彼のために料理を学び始めた。家には佐藤さんがいたけれど、彼女の料理はどうも宏の口に合わなかったから。料理初心者の私は、包丁で指を切ることもあれば、油が跳ねてやけどすることもあった。ある日、不注意で鍋をひっくり返してしまい、熱々の油が腹部に流れ落ちた。
私は思わず息を詰めた。まるで何かを確認するかのように、何度もメールの内容を見返した。間違いなかった。江川アナ。彼女がデザイン部の新しい部長に就任した。つまり、私の直属の上司になるということだ。「南ちゃん、もしかして彼女を知ってるの?」来依は、私の様子を見て、手をひらひらと振ってみせた。そして、私が何も言わないうちに、勝手に推測を始める。私はスマホを置き、小さく頷いた。「うん。彼女は宏の父も母も異なる義姉よ。前に話したことがあったでしょ?」大学卒業後、私たちはそれぞれの道を歩んだ。それでも、私は来依と「ずっと鹿児島に残る」と約束していた。「……まじかよ、コネ入社じゃん!」来依は舌打ちし、呆れたように言った。「……」私は何も言わなかった。――ただのコネ入社じゃない。特別待遇のコネ入社だ。「江川宏、頭でも打ったの?」来依は不満を隠そうともせず、私のために憤慨してくれる。「なんで?彼女の名前なんて、デザイン業界で聞いたこともないのに?それなのに、江川宏はポンッと部長の椅子を渡しちゃったわけ?じゃあ、あんたの立場は?4年間、ここで頑張ってきたのに?」「……もういいわ」私は、彼女の言葉を遮った。「そんなの、大したことじゃない。あのポジション、私にくれるなら、もらうだけ」くれないなら、他の誰かがくれるわ。この話を、社内の食堂で広げる必要はない。余計な詮索をする人間に聞かれると、面倒なことになるだけだから。食堂を出ると、来依が私の肩に手を回し、こそこそと囁いた。「ねぇ、もしかして、何か考えてる?」私は片眉を上げた。「どう思う?」「ねぇ、いいじゃん、教えてよ」「まあね、考えてはいるけど、まだ完全には決めてないわ」私は、江川グループで4年間働いてきた。一度も転職を考えたことはない。江川は、私にとって「慣れ親しんだ場所」になっていた。でも、本当にここを離れるなら、何か決定的な出来事が必要かもしれない。午後。オフィスに戻ると、年始限定デザインの制作に取り掛かった。昼休みを取る暇もない。本来なら、これは部長の仕事だ。だが、前任部長が退職したため、その業務は自然と副部長の私の肩にのしかかることになった。午後2時になる少し前。「南さん、コーヒーどうぞ」ア
宏は、ほとんど迷いもなく、即答した。一切のためらいも、躊躇もなく。私は彼の首に腕を回し、唇をわずかに上げながら、まっすぐ彼を見つめた。「10%よ?それでも惜しくないの?」彼の瞳は澄んでいて、微笑みながら答えた。「君にあげるんだ。他人に渡すわけじゃない」この瞬間、私は認めざるを得なかった。お金というのは、忠誠心を示すには、これ以上ないくらい強力な手段だと。今日ずっと溜め込んでいた感情が、ようやく解き放たれた気がした。何かを確かめるように、私は笑ってもう一度問いかけた。「もし、それがアナ姉さんだったら?彼女にも渡せる?」宏は、一瞬だけ沈黙した。そして、はっきりとした口調で答えた。「渡さない」「本当に?」「……ああ。彼女にあげられるのは、今回のポジションだけだ」宏は私を抱き寄せ、静かで落ち着いた声で言う。「株式の譲渡契約書は、午後に加藤伸二に届けさせる。これからは、君も江川のオーナーの一人だ。他の人間は、みんな君のために働くことになる」私はいい気分になって、ふっと笑った。「あなたは?」「ん?」「あなたも、私のために働くの?」彼は失笑し、私の頭を軽く撫でると、ふいに耳元に囁いた。「ベッドの上でも下でも、たっぷりご奉仕してやるよ」……一気に顔が熱くなった私は、彼を睨んだ。彼は普段、冷たくて理知的で、近寄りがたい雰囲気を持っている。なのに、ときどきこんな破壊力のある言葉を放ってくる。そんな彼に、いつも振り回されるのは、私のほうだった。私が機嫌を直したのを見て、宏は腕時計に目を落とし、言った。「そろそろ会議の時間だ。今日は祝日だし、夜は一緒に本宅へ行って、祖父と食事をしよう。駐車場で待ってる」「わかった」私は迷うことなく頷いた。心が少しだけ揺れて――決断した。「ねえ、夜にサプライズがあるよ」数日前までは、彼に妊娠のことを話すべきか迷っていた。でも、彼が私と江川アナの優先順位をちゃんと分けて考えられるなら――もう隠す必要はない。「サプライズ?」彼は好奇心旺盛な性格だ。さっそく詮索しようとする。「何?」「仕事終わったら教えてあげる。だから、楽しみにしてて!」私は、つま先立ちで彼の唇に軽くキスを落とし、それ以上は教えずに背を向けた。彼が部屋を出
宏が私を迎えに来ていたことを知っていながら、彼女はただの「同乗」のはずなのに、堂々と助手席に座っていた。私は、その場を離れたかった。しかし――理性が私を引き留め、無言で宏に手を差し出した。「車のキー」宏は何も言わず、素直にキーを渡してきた。私は車の前方を回り込み、運転席に乗り込んだ。アナのぎこちない驚きの表情を横目に、にっこり微笑んだ。「何が問題なの?あなたは宏の姉でしょ?ちょっと車に乗せてもらうくらい、何もおかしくないわ」そして――車の外にいる宏を見上げた。「ほら、早く乗って。お祖父様が、きっともう待ってるわよ」車内は、異様なほど静かだった。まるで、棺の中のように。アナは、宏と会話を試みようとしていた。しかし、後部座席からでは、何度も振り返らなければならず、不自然になるのを嫌ったのか、諦めたようだった。私の気分が優れないことに気づいたのか、宏は突然飲み物のボトルを開け、私に差し出した。「マンゴージュースだ。君が好きだったよな」私は一口飲んでみた。しかし、すぐに眉を寄せ、彼に差し出した。「ちょっと甘すぎる。あなたが飲んで」最近、酸っぱいものばかりを好んでいた。以前なら、多少口に合わなくても、無駄にするのが嫌で無理して飲んでいた。でも今は、妊娠のせいか、自分の食の好みを少しも妥協できなくなっていた。「……わかった」宏は、特に何も言わず、スムーズにそれを受け取った。すると――「ちょっと待って。あなたが口をつけたものを、また宏くんに飲ませるの?口腔内の細菌って、すごく多いのよ?ピロリ菌も、そうやって感染するんだから」アナが、複雑な表情で口を開いた。私は、思わず笑ってしまった。「それを言うなら、私たち、夜は一緒に寝てるのよ? それのほうが、もっと危険なんじゃない?」「……」アナは、一瞬言葉に詰まった。大人である彼女が、私の意図を理解しないはずがない。少し間を置いてから、彼女は、わざとらしく感心したように言う。「意外ね。結婚してもう何年も経つのに、そんなに仲がいいなんて」「もしかして、嫉妬?」宏が、冷ややかな口調で鋭く突いた。時々――たとえば今のような瞬間、宏のアナへの態度を見ると、彼は実は彼女のことを結構嫌っているのではないかと思えてくる。でも、それが
まるで氷の底に沈んでいくようだった。血の気が引き、体の芯まで凍りつくようだった。一瞬、自分の耳を疑った。今まで、何度か「彼らの関係は何かがおかしい」と感じたことはあった。けれど、そのたびに、宏はきっぱりと否定してきた。たとえ血の繋がりがなかったとしても、宏は江川グループの跡取り、アナは江川家のご令嬢、一応名目上の姉弟だった。それに、お互い結婚もしている。宏のような、生まれながらにして選ばれた男が、そんな愚かなことをするはずがない。そう思っていたのに――数メートル先、宏は、アナを壁際に追い詰め、目を赤くしながら鋭く冷たい声を投げつけた。「俺のために離婚?君が最初に他の男を選んだんだろ。今さら、どの口がそんなことを言える?!」「……っ」アナは、何も言えなくなった。唇を噛み、涙が溢れるままに落ち、震える指先で、宏の服の裾をそっと握った。「……私が悪かった。宏くん、もう一度だけ許して?お願い……たった一度だけ。私だって……当時はどうしようもなかったの……」「俺は結婚してる」「結婚してるから何? 離婚すればいいじゃない!」アナは、悲しい顔で、ひどく執着した声で問い返した。彼の答えがNOだったら、彼女はその場で砕け散ってしまうような――そんな表情で。私は、彼女がここまで露骨に言うとは思っていなかった。まるで他人の家庭を壊そうとしている自覚など微塵もない。宏は、怒りに満ちた笑みを浮かべた。「君にとって結婚はそんなに軽いものなのか?俺にとっては違う!」そう言い放ち、彼は振り返り、歩き出した。だが、アナは、彼の服を掴んだまま、離そうとしない。本当なら――宏の力なら、振り払うことは簡単なはず。なのに。私は、ただ黙ってこの光景を見つめた。彼が何をするのかを期待して。彼が振りほどくことを期待した。彼がはっきりと線を引くことを願った。そうすれば、私たちの結婚には、まだ希望がある。そして彼は確かにそうした。「いい歳して、バカなことを言うな」それだけ言い残し、彼女の手を振り払い、背を向けた。これで終わり。私は、ようやく息をついた。これ以上、彼らの会話を盗み聞きする必要はない。だが、その瞬間。「あなたは南を愛してるの?私の目を見て答えて、宏くん!」アナはまるで
海人は一口お茶を含み、唇の端に浮かぶ微笑が次第に意味深なものに変わっていった。「俺から情報を引き出そうとしてるのか?」清孝が何か言おうとした矢先、秘書がそっと近づき、耳元で何かを囁いた。彼の表情がわずかに沈み、手を振って秘書を下がらせた。そして向かいの二人を見据えながら、ゆったりと口を開いた。「道木青城が北河勇斗のプレゼン会に来たぞ。お前らの嫁も、今そこにいる」その言葉が落ちた瞬間、向かいの二人の姿はすでになくなっていた。清孝は焦る様子もなく、しばらくお茶を味わってから、ようやく腰を上げて現場に向かった。……青城の登場は、来依と南にとって完全な予想外だった。このレベルの会議に、彼ほどの地位の人物が直々に現れる必要はなかった。ましてや藤屋家が関与している場で、彼が来たところで何も変わらないはずだった。勇斗は青城の顔を知らなかったが、清孝の部下の一人がそっと彼に耳打ちした。そして「彼は味方ではない」とだけ告げた。勇斗はそれを聞いて、発言の一部をうまくぼかして話した。彼に退席を命じる権限はなかった。なにせ相手の身分があまりにも違いすぎた。幸い、青城もその内容に深く突っ込む気配はなかった。ただ、彼は一言も発せず、視線だけは無意識のように、しかし明らかに、何度も来依の方へ向けられていた。南はテーブルの下でそっと来依の手を握り、小声で耳打ちした。「たぶん、あなたが目的だよ」来依もそれを感じ取っていた。まさかこんなに早く、そしてこんなに堂々と現れるとは思わなかった。まったく隠そうともしない。「どうりで道木社長が石川に来たわけだ。本業には興味がないらしい」淡々としていながらも、はっきりとした声が会場に響いた。来依が振り返ると、海人が会場に入ってくるのが見えた。彼女はすぐに目配せして、近づかないように合図を送った。だが彼は構わず近づいてきて、彼女の隣に腰を下ろした。鷹も続いて南の隣に座った。最後に現れた清孝は、当然のように主席に座った。勇斗はプロジェクター画面の前で完全に呆然としていた。なんで、こんな大物たちが次々に集まってくるの?青城の目には、隠す気などまったくなかった。その笑顔は作り笑いで、見ているだけで不快になるほどだった。「菊池様、随分と足が速い
——というのも、彼女も腰が痛かった。さっきドアを開けてルームサービスを受け取り、さらに勇斗に電話をかけ直したときは、痛みを意識していなかった。けれど今は、少し歩くだけでズキズキと痛んだ。腰をさすりながら見つめ合った二人は、思わずくすっと笑い合った。来依が言った。「私たちって、まさに同じ穴のムジナね」南はうなずいて、ダイニングテーブルの前に腰を下ろした。「今後はイタズラもほどほどにしよう。結局、損するのは私たちだし」来依も手早く洗面を済ませてテーブルにつき、同意するようにこくんとうなずいた。食卓に目をやると、自分の好きなものだけでなく、南の好物まで揃っていた。だから彼女はここに来たのか、と納得した。「あんたが起きたとき、鷹はいた?」南は首を振った。「あなたから電話が来る前に、彼からメッセージがあって。起きたらあなたの部屋で一緒に食べようって」「私も起きたとき、海人の姿はなかった」「道木青城が来てるから、きっと対策を練ってるんだと思う」来依には詳しいことは分からなかったが、少なくとも敵が誰なのかは頭に入れておくと決めていた。接触せず、海人の足を引っ張らないように。「これから勇斗に会いに行くの。昨日の謝罪も兼ねて、今夜ご飯奢るって言ってある」そう言って、スマホをマナーモードにしていた件を話した。南は呆れたように首を振った。「私のスマホもマナーモードだったの。母からの電話、気づかなかったよ」来依は苦笑した。「私たちのことを思ってやってくれてるんだろうけど……怒るに怒れないよね」「本当にそう」……一方その頃、清孝は向かいに座る二人の男を見つめながら、どこか怨念めいた視線を送っていた。一人は淡々とした表情、もう一人はのんびりとした態度。だがどちらも、顔には幸せそうな余裕が滲んでいた。「今後俺に電話する前に、本当に出動する必要があるのか確認してからにしてくれ。くだらないイタズラで呼ばれるのは勘弁だ。俺、忙しいんだ」すかさず鷹が痛いところを突く。「お前、奥さんいないんだから、夜に忙しいことなんてないだろ?」「……」清孝は怒りを抑えつつ反論した。「服部グループ、まさか倒産でもすんのか?こんな遠くまで来て、奥さんと遊ぶためか?」鷹は真顔でうなずいた。
海人は顔を上げて彼女を見つめた。その瞳には真摯な光が宿っていた。「もしその日が来たら、俺はそうする」「でも、私は望んでない」来依は体をひねって起き上がり、脚を組んで座った。その姿勢からして、しっかり話すつもりだった。「あんたは私のために命を捨てるって、それって確かにすごく愛してるってことかもしれない。でもね、あんたがいなくなったら、私はこれからどうやって生きていけばいいの?あんたが私を失えないように、私だってあんたを失えない」海人もまた起き上がり、彼女と同じように脚を組んで向き合った。「お前の言うとおりだ。でも、もし俺が助けられなかったとしたら、俺だって同じ苦しみを味わうことになる」そんな仮定に、答えはなかった。人生に何が起きるかなんて、誰にもわからない。「やめよ、もうこの話は。心を落ち着かせて、構えすぎないようにしよう」来依は大の字に寝転がった。「敵はもう表に出てきた。警戒しながらでも、ちゃんと日常を楽しもうよ。起こるかもわからないことを、前もって不安がるなんて無駄だよ」海人は肘で頭を支えながら、彼女の上に視線を落とした。「お前はそのままの心でいて。楽しく、自由に。それ以外のことは俺が背負う」彼はいつも先を見据えて動く人間だった。どんな状況にも複数のパターンを想定し、それに対応できる策を練るのが習慣だった。予期せぬ事態に翻弄されるのを嫌うからだ。今は青城の動きが表に出てきたとはいえ、長年の宿敵である彼のことは海人もよく理解していたし、青城もまた彼を理解していた。防御は万全とは言い切れなかった。だが、そういった不確実なことをわざわざ彼女に話して心配させるつもりはなかった。彼女を縛りたくなかった。「さて、そろそろちゃんとした話をしようか」来依はすでに眠気に襲われていて、化粧を落とす気力もなかった。海人の言葉もほとんど頭に入っておらず、うつらうつらしながら適当に返事をした。彼女が目を閉じたまま眠りに落ちたのを確認し、海人はふっと笑って立ち上がった。メイク落としを取りに行き、さらにネットで使い方の動画を探した。そして、手順通りに一つ一つ丁寧に彼女のメイクを落とした。その後、顔を拭いてあげて――そして、ようやく「ごちそう」の時間が始まった。来依は体がふわふわ揺れているよう
二人とも背が高く目立つ存在だったが、それでも人混みに埋もれ、探している相手の姿は見えなかった。「たかが仮面ひとつで調子乗って……ほら、こうなる」海人は唇のラインを固く引き、冷え切った目をしていた。鷹に皮肉を言われても、一言も言い返さなかった。ついさっきまでは自信たっぷりで、青城が来ても大したことじゃないと思っていた。だが今、彼女の姿が見えないことで、胸の奥がざわつき、不安でたまらなかった。声を上げて騒ぐこともできない。三十数年、生きてきてこんなに焦りと不安を感じたのは初めてだった。「このまま探しても無駄だ。清孝に頼んで周囲をクリアにしよう」鷹の一言で、海人の動揺は少しだけ落ち着いた。すぐに清孝に電話をかけた。電話が繋がったその瞬間、背中を軽く叩かれた。振り向くと、まさに探し続けていた彼女の顔がそこにあった。海人は即座に彼女を強く抱きしめた。来依はきょとんとして、「なに?どうしたの?」と訊いた。南もまた、鷹にしっかりと手を握られていて、彼の目に浮かんだ緊張の色を見て、ある程度察した。彼女は自ら説明した。「トイレに行ってただけ」さらに、斜め後ろの路地に設置されたトイレの案内を指さして見せた。鷹の張り詰めた神経が、ようやくほぐれた。「せめて、一言言ってくれ」南も、彼がここまで心配するとは思っていなかった。「言うつもりだったんだけど……」少し気まずそうに答えた。鷹はすぐに見抜いた。「わざとだろ、ドッキリかけたんだな?」「……」南は咳払いして、「バレても、黙っててあげて」と言った。こんなイタズラ、南が考えるはずもない。どうせ来依が誘ったのだろう。視線をずらすと、隣でまだ抱き合っている二人の姿があった。彼は鼻で笑い、「演技やめろよ。お前の婚約者がイタズラしてただけだろ?まるで生き別れの恋人かよ、気持ち悪い」海人は来依を離すと、無表情なまま彼女を見つめた。何も言わなかった。来依は鼻をこすりながら言った。「いや、その……生理的現象ってやつで……うん、ごめん。私が悪かった。こんな危険が多いときに、イタズラなんてするべきじゃなかったよね」本来、海人は彼女を責める立場ではなかった。彼は、付き合っても性格を変えずにいていいと約束した。彼女は元々そういう性格で、
鷹は椅子の背にもたれかかり、片手を南の背後に置きながら、気だるそうに口を開いた。「俺たちは正式な夫婦。そっちはちょっと世間の目、気にした方がいいんじゃない?」海人はすかさず言い返した。「愛もないのに無理に見せつけんな」鷹は挑発的に返した。「既婚者だけが俺と対等に話せるんだよ」「もういい加減にして」来依と南が同時に口を開いた。「どっちもどっち、文句言い合う資格ないでしょ」だが、鷹が簡単に黙るわけがなかった。「忘れてないよな?お前、俺に賭けで負けてるんだ。言葉選べよ。俺が何かさせたって、文句言うなよ?顔を立てない可能性もあるからな」恋愛、結婚、子供。鷹はすべて海人より先を行っていた。しかも、安ちゃんの性格を考えると、もし将来こっちが息子を持って、姻戚関係でも結ばれたら、また負けたことになる。今のところ、海人には勝ち目がなかった。海人は不機嫌そうにひと言、「いいよ」とだけ返した。鷹は満足げに、「じゃあ今日はお前のおごりな。何食おうかな……あ、そうだ、腰に効く串を十本頼んでやるよ」と言った。「……」南が手を伸ばして鷹の腰を軽く突いた。もういいという合図だった。恋人たちがやっと仲直りしたところだ。軽く茶化すくらいならともかく、度が過ぎる。その合図を受けて、鷹もやっと大人しくなった。来依は南と目を合わせ、そっと海人の耳元に顔を寄せて、何かを囁いた。その瞬間、海人の眉間にあった陰りがぱっと晴れた。「本当か?」来依は彼の頭をぺしっと軽く叩いて言った。「本当だよ」海人は彼女を抱き寄せ、目に溢れるほどの愛情を宿して言った。「命だって、お前にくれてやる」来依は少し引き気味になって、彼を押しのけた。「人前ではちゃんとしてよ、恥ずかしいでしょ」海人は素直すぎるほど素直に、「はい」と答えた。向かいの鷹は眉をひそめ、何か言おうとしたが、柔らかい小さな手が口をふさいだ。彼がその手の主を見ると、南がウインクしていた。……まったく。海人と自分は、似た者同士だった。……四人は食事を終えると、小さな湖でボートに乗った。夜の街はまた格別な風情があった。岸に戻ると、来依と南が手をつないで前を歩いていた。二人とも手にはキャンディーを持っている。その後ろには、背が高く見た目も
「私はね、前にも言ったけど、あなたがどんな決断をしても、ずっと味方でいるよ。助けが必要なときも、頼りたいときも、いつでもそばにいるから」来依はしばらく黙ってその言葉を消化していた。「つまり、道木家は菊池家を孤立させようとしてて、海人はその点を逆手に取って、私に保護の輪を作ってくれたってこと?そして今、道木家が動き出したのは、海人の能力を認めて、先手を打とうとしてるってこと?」南はうなずいた。来依は頭をかいた。「じゃあ、私にできることって何かある?」「ちゃんと生活して、ちゃんと仕事すること」「それが彼の役に立つの?」南は微笑んだ。「自分の身を守ること、それが一番大事なの。もっと用心深くなって」来依は口をとがらせた。「そこまでバカじゃないよ」そう言って、ため息をついた。「自分で選んだ道だし、膝をついてでも最後まで歩くしかないでしょ」南は首をかしげた。「なんか今の言い方、本気で彼に決めたって感じだね」「他にどうしろっていうの?振り切れないし、あれだけ優しくされちゃったら……もう彼でいいかなって」来依は五郎に目をやり、それから続けた。「彼が別れようって言わない限り、私はもう別れたりしないよ」シュッ――赤信号で停まったとき、五郎はその言葉を録音して海人に送った。海人がそれを受け取ると、黒い瞳に笑みが浮かんだ。いつもは冷ややかな整った顔にも、やわらかな笑みがにじんでいた。向かいにいた清孝は、それを見て不機嫌そうに言った。「お前さ、もうちょっと自重しろよ」海人はスマホをしまい、清孝に目もくれず、お茶をひと口すすりながら、ゆっくりと何文字を吐いた。「やきもちか」「……」清孝は歯ぎしりして、「自慢してる暇があったら、どうやって死なないか考えとけよ」「高杉芹奈は彼女の盾になれる存在じゃない。道木青城だってバカじゃない、お前が誰を大事にしてるかくらい分かるさ」海人は「うん」とだけ返し、「分かってもいいさ。手出しはできないから」清孝は、この恋愛ボケっぷりを見ていられなかった。「道木青城がまだ独身の頃なら、お前と来依が付き合ってても問題なかった。でも今は、道木家と白川家が政略結婚しそうなんだ。そうなったら、お前は一手失うことになる。将来的には、彼と戦うのはそう簡単じゃなくなる」海人はあくまで冷静に
海人の眉と目元が一瞬で冷たく沈んだ。「どうしたの?」と来依が彼の顔色の悪さに気づいて尋ねた。海人はスマホをしまい、首を振った。「まずお前たちを送る」ちょうどそのとき、南から電話がかかってきた。来依が電話に出た。会うなり、南は緊張した様子で訊いた。「何があったの?どうして緊急連絡なんて?」来依は彼女の手を握りながら説明した。「心配しないで、誤解だったの。海人がもう解決してくれた」車のそばに着いたとき、海人は車に乗らず、五郎に二人を無事に送るよう指示した。来依は先に南を車に乗せ、自分は海人を見つめながら黙っていた。海人は手を伸ばし、人差し指で眉間を軽くなぞったあと、正直に口を開いた。「道木青城が来た」「道木青城」という名前に来依は聞き覚えがあったが、すぐには思い出せなかった。ただ、「道木」という苗字には聞き覚えがあった。「道木家の人?」海人はうなずいた。「権力を握っている人物で、うちの父と面識がある」来依は目を大きく見開いた。それはつまり、最高層の人間ということになる。「大阪に視察に来たの?」「たぶん、仕事の拠点を移すつもりだ」海人はそう言ってから、「ちょっと確認してくる。清孝が待ってる」と続けた。……車は静かに走り出し、海人は別の車に乗り込んだ。そのころ、南も会話の一部を耳にしていて、来依に話しかけた。「来る前に、鷹が道木青城の話をしてくれた」来依が訊いた。「何歳なの?」「四十五」「奥さんは何をしてる人?」「独身だよ」来依は驚いた。「この歳でまだ独身?」南はうなずいた。「でも最近、噂が出てるみたい。横浜の白川家と会ったらしい」「彼でも強力なコネが必要なの?昇進するにしても、年齢制限とかあるでしょ?」「でも海人は急速に昇進するだろうから、道木青城は家の若い者のために道を作りに来たんだと思う。そしてその若い者たちは、将来彼の息子の右腕になれる」来依は頭を抱えた。「もう、複雑すぎる」南は笑った。「関わらなくてもいいけど、知っておくべきよ。せめて、相手の敵が誰なのかは知っておかないと、騙されるかもしれないから」「それはわかってる。海人の足を引っ張るつもりはない」来依の笑顔が以前よりもずっと自然で心からのものになっていて、それを見た南も嬉し
「私が知りたいことを教えるのは、当然の義務でしょ?報酬なんて求めるもんじゃない、分かる?」「分かった」海人は素直に頷き、まるで理解したような顔でコーヒーを口にした。だが、何も言う気配はなかった。来依はしばらく待っていたが、すぐに違和感を覚えた。「……報酬がないなら話さないってこと?」海人の唇に薄い笑みが浮かんだ。「どう話せばいいか、ちょっと分からなくてね」――またそれ。来依は歯を食いしばり、じっと睨みつけた。「そんな頭あるなら、もっと人類のために使いなさいよ!私相手に使ってどうすんの!」海人は「うん」と返事をしながら問うた。「お前は『人類』なの?」「当然よ」「私の対応、問題ございませんでしたでしょうか?」「……」「ご満足いただけましたら、ぜひ満点の10点をお願いします。今後も精進いたしますので」「……」来依はもう相手にするのがバカバカしくなって、立ち上がった。「もういい。つまんない」だがその手を、海人がすっとつかんだ。「気にならないの?」「な・ら・な・い」歯がきしむほど、強く答えた。海人はその様子を面白がっていた。どうして彼女がここまでゴシップに熱心なのか分からないが、それもまた彼女らしい。「話してもいいよ。ちょっとしたご褒美があれば」来依は心の中で嬉しくなりながらも、顔ではそっけなく答えた。「あんたの態度次第」「俺、そんなに悪くないと思うけど?」「……」海人は自分で反省するフリをして、低く囁いた。「じゃあ、今夜はもっと頑張るよ」「海人!」来依は思わず怒鳴った。店内の人たちの視線が一斉にこちらを向き、彼女は慌てて笑顔を作った。「すみません、すみません」海人は彼女が本気で怒りそうになってきたのを察して、ようやく真面目な顔に戻った。「紀香は昨日、清孝に連れられて藤屋家の本宅で食事した。そのまま一晩、泊まらされた」「まさか、ありがちな展開じゃないよね?」海人は頷いた。「まあ、そう言ってもいいかな」「藤屋家としては二人の離婚に反対だった。でも紀香は強く主張してたし、清孝がここ数年無関心だったこともあって、藤屋家も後ろめたさがあった。だから、どうにか繋ぎ止めようとしたんだ」来依は溜息をついた。「権力で押し潰すな
来依は緊急通報を設定しており、電源ボタンを五回連続で押した。けれど、南は今、飛行機の中。電話を受け取れる状況ではなかった。空港の警備も比較的早く駆けつけてはくれたが、黒服のボディーガードたちにカフェの外で足止めされていた。来依は小さく舌打ちした。――これは、簡単にはいかない相手ね。その隙に海人へ電話をかけた。通話が繋がった瞬間、ボディーガードたちは道を開けた。そして、彼女の目の前に見慣れた顔が現れた。「来依さん、紀香を引き渡してほしいだが?」「来依?」電話の向こうで海人が彼女の名前を呼んだ。来依は慌てて答えた。「い……藤屋社長だった。大丈夫、心配しないで」海人は安堵の息をついた。「すぐにそっちへ行く」「来なくていいよ。藤屋社長が私に何かするとは思えないし。あんたは忙しいでしょ?無理しないで」清孝がどういう人物か、海人はよく知っている。特に今、妻の行方が分からず、理性を失っている可能性も高い。彼はどうしても安心できなかった。「ちょうど近くにいる」来依が何か言おうとする前に、電話は切れた。彼女はスマホをしまい、清孝に向かって礼儀正しく微笑んだ。「監視カメラをご確認ください。私は友人を迎えに来ただけで、ずっとここに座っていました。紀香さんの姿は見ていません」ちょうどその時、監視映像が清孝の元に届いた。彼は画面を見て、眉間に深い皺を寄せた。すべての映像に紀香の姿はなかった。来依も、言った通りずっとカフェに座っており、紀香とは一度も接触していなかった。空港の外の映像も現在確認中とのこと。清孝がさらに何か言おうとしたその時――海人が慌ただしく駆けつけ、来依の前に立って庇った。「彼女は昨夜ずっと俺と一緒にいた。今朝やっと出てきて、空港に向かっただけ。紀香を逃がす時間も機会もない」清孝は海人の額に滲む汗を見つめた。この気温で汗をかいているとは、走って来たのだろう。空港付近は今、封鎖に近く、渋滞もひどい。そこまでして来たことが、清孝には面白くなかった。――もし来依が紀香の味方をしたなら、海人はきっと自分の敵になる。「俺は、どんな可能性も見逃すわけにはいかない」「分かる。でも、彼女は本当に何もしてないし、何も知らない」来依も海人の汗に気づき