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第2話

Penulis: ジンジャーピーチ
絵理の手のひらに冷たさが広がり、平静の奥底で翻る感情が、ひそかに滲み出した。

結子は、そのわずかな変化に気づき、探るような慎重な声を掛けた。

「絵理ちゃん、駿を家に連れ戻してくれないかしら?私たちは、どうしても手が離せなくて……」

絵理が息子の嫁になる――その思いは、結子の胸の奥で長年燻っていた。

二人の関係が簡単に断ち切れるなど、信じられなかったのだ。

万が一、駿が絵理に会って記憶を取り戻せば、あの女に嫌気がさすかもしれない――

まだ望みは残されている。

結子がそう考えて顔を上げると、夫の顔にも同じ期待が浮かんでいた。彼もまた、その考えに賛同しているらしい。

「ああ、確かにこの数日、大きな契約をまとめたばかりで、どうしても身動きが取れなくてね」

敏史は時宜を得たように頷き、声に無力さを滲ませた。

絵理は二人の胸の内を十分理解していた。

その切実な眼差しを前に、ついに断る言葉を飲み込んだ。

ただ、彼女は誰よりも知っていた――駿が自分のために心を動かすことは絶対にないと。

二人の望みは、最初から報われない運命にあった。

絵理は言われるまま、晴香が勤務する水族館へと向かった。

休憩室で、静かに座る駿の姿が目に入る。

カジュアルな服装に、深く被ったキャップとマスクで端正な顔を覆い、誰かに見つかるのを恐れているかのようだった。

しかし、その手にはピンク色の子豚の保温ボトルを握っており、全身から漂うクールな雰囲気とはあまりにも不釣り合いだった。

絵理の視線がそのボトルに留まった瞬間、彼は鋭く目を上げ、警戒の色を浮かべる。

「君は誰だ?」

「心配しないで、悪意はないから」

絵理は落ち着いた口調で告げた。

その言葉を聞くや、駿の眉がぴくりと動き、冷たい拒絶の声が返った。

「お前たちとは帰らない。諦めろ。神崎家の名門なんて興味はない。俺にとって、晴香以上に大事なものはない」

そんな言葉を、絵理は一度も彼の口から聞いたことがなかった。

かつての彼は、常に優しく、寛容だったのに――

絵理は一瞬、言葉を失い、その場に立ち尽くした。

張り詰めた空気の中、駿は突然立ち上がり、大股で駆け寄る。

水中から上がったばかりの晴香を抱き上げ、袖口で頬の水滴を優しく拭い、手に持つ保温ボトルを差し出した。

晴香は温かいお湯を口に含み、笑顔で駿のマスクを下げ、頬に軽くキスを落とした。

駿の目が深まり、キスを返そうとした瞬間、彼女は素早くマスクを戻した。

「あなたが見つかるのは困るわ」

唇をとがらせた口調には、どこか誇らしげな響きがあった。

その光景を見つめながら、絵理の脳裏に駿が失踪する前の出来事がよぎる。

軽い交通事故で、医師の判断では二日間の入院観察だけで退院可能だったはずなのに、彼は病室から忽然と姿を消した。

最後に監視カメラが捉えたのは――華奢な女性が遺体安置室の担架で彼を運び出す姿だった。

どうりで見つからないはずだ。

誰かに隠され、外に出られないようにされていたのだから。

晴香も絵理の姿に気づくと動きを止め、まるで釘付けになったように固まった。

そして慌てて駿を押しやり、絵理の手首を握りしめ、爪が深く食い込むほどの緊張ぶりだった。

絵理は痛みに眉をひそめるが、晴香は必死に言い訳を口にする。

「私はわざと駿さんを隠したわけじゃないわ!」

絵理はその慌てた瞳を静かに見据え、淡々と返した。

「本当のことは、あなたが一番よく分かっているはずよ」

晴香は逃れられないと悟り、唇を噛みしめて感情を爆発させた。

「わかってるのよ!彼の心には、いつだってあなただけだって!記憶を取り戻したら、私を捨ててあなたのもとへ行くに決まってる!

でも、高校のときに初めて彼を見た瞬間から好きだったの!ずっと片思いで、一度だって振り向いてもらえなかった。やっと掴んだチャンスだったんだもの……

ただ、もう少しだけそばにいて欲しいだけよ。ほんの数日でいいから!」

声は次第にかすれ、泣き声が混じる。

絵理は静かに耳を傾けながら、視線を晴香の背後にいる駿へと移した。

彼の瞳は深く沈み、晴香を一瞬も離さず、全身の筋肉は緊張で張り詰めている。まるで嵐が巻き起こる直前のようだった。

かつて影のように守ってくれた彼は、今や他人の猛犬のように変わっていた。

もし晴香に少しでも危害が及べば、躊躇なく襲いかかるかのように。

絵理は、自分の胸に湧く感情をうまく掴めなかった。

ただ、この人生をやり直した今、駿を自分のそばに縛りつける身勝手はできないとだけは分かっていた。

結局のところ、彼にとって自分は責任でしかなかったのだから。

「怖がらなくていいわ。私はあなたたちを引き離しに来たんじゃない」

絵理は晴香にかすかに微笑みながら告げた。

「二人を神崎家に連れて帰るためよ」

晴香は驚き、信じられない様子で問い返す。

「……私たちを?」

「あなたは彼の大切な人だし、あなたを置いていったら、彼は絶対に帰らないでしょう」

絵理の脳裏に、前世の光景がよみがえる。

当時、無理やり連れ戻された駿は狂ったように檻を壊し、両手を血まみれにしながら三階から飛び降り、晴香を探そうとした。

彼の両親は鎖で彼の手足を縛ったが、駿は危うくそれを切り落としかけた。

這ってでも、晴香のもとへ行こうとしたのだ。

医師が記憶を呼び覚ますと、彼はようやく落ち着いた――だがその直後、晴香の自殺の報せが届いた。

駿は重い病に倒れ、生きる意志をほとんど失ってしまった。

耳元で絵理が必死に、何度も哀願を繰り返し――ようやく彼は目を開いたが、その瞳にはもう、晴香に向けていたときの熱情は二度と宿らなかった。

「荷物をまとめて、駿くんと一緒に神崎家に帰って」

絵理の声は冷静そのもので、微塵も揺らがなかった。

「彼のご両親もあなたのことを知っているの。二人のことは反対してないわ」
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