LOGIN「何をする気?」柚香は胸がぎゅっと縮むのを感じ、振り返って警戒した目で彼を見た。遥真の視線がぶつかる。表情は変わらず穏やかだ。「別に。ちょっと日常の話でもしようかと思って」柚香の手はじわじわ強く握られ、爪が掌に食い込み、治りかけの傷口がまた開いて血がにじむ。痛いはずなのに、まるで何も感じないみたいだった。「彼女が私の前ででたらめなことを言ったから、手を出したんだよ……」仕事も生活もこれ以上かき乱されたくなくて、柚香は感情を押し込めて説明した。遥真はゆっくりと言い返す。「昔、君をかばったとき、俺が他人の言い分なんか聞いたことがあるか?」その一言で、柚香が用意していた言葉は一瞬で崩れた。街灯が彼女の顔を照らし、表情がすべて浮かび上がるのに、その背後の影は深く沈んでいて、まるでこれからの人生みたいに先が見えない。「もし彼女が可哀想に見えるなら、病院の時みたいに十倍でも百倍でも、返してあげればいい」血の滲む手にぎゅっと力をこめ、最後のプライドを守るための言葉を吐き出す。でも相手は遥真。自分にも他人にも容赦しない男が、彼女の望みどおりに行動するはずがない。彼が不快なら、彼を不快にした者もまた、不快でいなければならない。「十倍、百倍返ししたいなら、止めはしない」遥真が一歩近づく。深く澄んだ瞳で、彼女をじっと見つめた。「でも、謝罪は別だ」「どうしても?」柚香の心は粉々に砕けていく。「選ぶのは君だ」遥真はすでに決めていた。自分に甘えて謝りたくないと言ってくれれば、それで終わりにするつもりだった。しかし、柚香は彼の思う通りにはならなかった。彼女は気持ちを整え、生活のために、一時的に自分を抑えて屈することを強いた。「私が玲奈に謝れば、私の住所を父に教えたり、最終面接に干渉したりしない……それでいい?」原栄ゲームと遥真は直接関係ないとはいえ、彼が本気で一言言えば先方も断らざるを得なくなる。権力者の機嫌を損ねてまで、無関係の一人を守る人なんていない。「ああ」その一言を口にした遥真の目は、薄い黒い靄をまとっていた。「分かった」柚香は安定した生活のために従った。「明日、玲奈に謝る。その時は約束は守って」遥真の目はさらに冷たくなった。本心に反して謝ることはできても、ろくな言葉は一つもかけない。ますます人を怒らせる
柚香はちらっと遥真を見ただけで挨拶もせず、陽翔の手を引いてそのまま歩き出した。「ちょっと待て」遥真が呼び止めた。柚香の足が止まる。彼女が口を開くより先に、車のドアが開き、遥真が脚を伸ばして降りてきた。落ち着いた大人の空気をまとい、彼女の前に立ちふさがる。「何の用?」柚香はそっけなく言った。そのよそよそしい態度は、はっきりと表れていた。遥真の視線が、彼女が陽翔の手を握るその手元に一瞬落ちる。声は淡々としていた。「少し来てくれ。話がある」柚香は動かない。呼ばれたら素直についていけるとでも思っているの?何様のつもりだ。「陽翔に聞かれてもいい?俺は別に構わないけど」すれ違うように彼女へ近づきながら、耳元で低くつぶやいた。柚香は唇をきゅっと結ぶ。陽翔が小さな顔を上げる。「ママ、どうしたの?」「なんでもないよ。ちょっとここで待ってて」柚香は彼の頭を優しく撫で、安心させるように微笑む。「パパとちょっと話してくるね。終わったら帰ろ」陽翔は素直にうなずいた。「うん」柚香は人差し指を軽く曲げて、彼の鼻先をそっとこすり、それから遥真の方へ歩き出した。二人の姿が離れていくのを見て、陽翔は自分のスマートウォッチを操作し、数回タップしてメッセージを一つ送信した。そのことを知らない柚香は少し離れたところで足を止め、遥真を見た。まるで他人に対するように距離を置き、冷たく言った。「で、何?」「玲奈の額の傷、君がやったのか?」遥真の黒い瞳がまっすぐ彼女を射抜く。柚香は一瞬固まった。最初は反論して、また言い争おうかとも思った。けれど、彼の身内をかばう性格を思い出し、これ以上言うのも面倒になり、素直に認めた。「そうだよ。復讐でもしたいの?そこに石ころ落ちてるし、それ拾って私の額にでも投げたら?同じくらいにはなるんじゃない?」遥真の視線は彼女に注がれた。たった数日でこの気の強さ。「明日、玲奈に謝れ」彼は言った。「私が悪くないのに?なんで謝らなきゃいけないの?」柚香は言い返す。彼がこう言うのは想定内だった。「一晩考える時間を与える」遥真は目的をはっきり示す。以前のような優しさや忍耐はない。「明日の昼までに水月亭に行って直接謝らなかったら、君の居場所を、君の父親に知らせる」柚香の瞳が大きく揺れる。遥真は淡
そう思った途端、柚香の気持ちはこれまでにないくらい軽くなった。プレッシャーが大きいのも、疲れているのもわかっている。それでも、目の前には希望がある。「病院の方は、私がしっかり見ておきますよ」高橋先生は、感情をぐっと押し込み、医者としてできる限りの安心を与えるように言った。「君は自分のやるべきことに集中してください」「ありがとうございます」柚香は丁寧に頭を下げた。もう他に話すこともなさそうで、彼女は席を立ち病室へ向かった。ドアノブに手をかけた瞬間、高橋先生が顔を上げ、呼び止めた。「橘川さん」振り返る。「はい?」整った眉と澄んだ目元は、まっすぐで、以前のような従順でおとなしい雰囲気はもうない。短い間に芯の強さが宿り、まるで別人のようだった。高橋先生がじっと見てくるのに気づき、柚香はドアノブから手を離した。「どうかしました?」「いや、なんでもないです」高橋先生は、むしろ今の彼女の変化を良いことのように思いながら続けた。「ただ……忙しくて来られないときは、ひとこと教えてくださいね。私の方から君のお母さんの様子を見に行くから」「……はい。本当にありがとうございます」柚香の声はまっすぐで、感謝がはっきり伝わった。微笑みを返すと、彼女はそのまま病室を出ていった。足取りは速く、迷いがなく、その歩き方には静かな決意がにじんでいた。病室に戻ると、柚香はベッドの傍に座り、母の手を取って自分の頬にあてた。ベッドに横たわる母を見つめるその瞳には、優しさと揺るぎない愛情だけがあった。彼女は母・安江にたくさん話しかけた。この間の出来事を話し、未来の計画を語り、会いたかったことを伝えた。そのひとつひとつを、パソコンを見ている遥真は、驚くほどはっきりと耳にしていた。話を聞けば聞くほど、彼の周りに冷気のような空気が漂い始め、横に置いていた手がじわりと力をこめて握り締められた。柚香の描く「未来」には、陽翔がいて、安江がいる。ただひとり、彼だけがいない。時也は彼の変化に気づき、ノートパソコンを閉じながら言った。「お義母さんの手術、成功したんだしさ。下に行って様子見てきたら?」「弘志は?」遥真の目は深く、底が見えない。「……グラス洗ってる。バーで」時也は何でそんなことを聞くのかわからず、首を傾げる。「数日したら、柚香の住所を『うっか
遥真の、冷え切った視線がそちらへ向いた。時也は即座に口をつぐむ。「……今の、忘れてくれ!」遥真は昔から、彼ら全員より頭の回転が速かった。ただ、あることに関しては異常なほど思い込みが強い。誰が何を言っても聞く耳を持たないほどに。それから三十分ほど経った頃。手術室の扉が開いた。モニターに映る柚香は、真っ先に立ち上がって駆け寄る。目には隠しようのない焦りと心配が浮かんでいた。「高橋先生、お母さんは……」「手術はとても順調でしたよ」高橋先生はマスクを外し、安心させるように穏やかに微笑んだ。「これから毎日、声をかけてあげてください。話しかけたりしていれば、長くても二ヶ月以内には目を覚まします」「ほんとですか?!」柚香の瞳が一瞬で明るくなる。高橋先生はうなずき、はっきり返した。「ええ、本当です」「ありがとうございます!」柚香はこみ上げる思いのままに、先生と手術に関わったスタッフ全員に深々と頭を下げた。「本当に……本当にありがとうございます」柚香の母は病室へ運ばれていく。緊張がようやくほどけ、頭の上にぶら下がっていた刃がすっと消えたようだった。看護師たちは母をベッドに移し、各種の注意点を説明する。ひと通り終えると、高橋先生が言った。「では、少しお話があります。こちらは彼女たちに任せて大丈夫ですから、私のオフィスでお話ししましょう」柚香は看護師に礼を言い、高橋先生の後をついていった。高橋先生は椅子に腰を下ろし、手元のカルテを開く。さっきより表情がわずかに暗い。その変化に気づいた柚香は、不安が一気に押し寄せて落ち着かなくなる。「……お母さんの病状に、まだ何か問題があるんですか?」高橋先生は一度立ち上がり、コップに水を注いで柚香の前に置いた。その気遣いが逆に不安を煽る。「病状に問題はありません。あとは目を覚ますのを待つだけです」そう言う先生の目の奥は、どこか言いにくそうに揺れていた。柚香は身を乗り出す。「じゃあ話って何ですか?」「手術前にもお話ししましたが……手術費は一千万です。しかし術後の費用については、まだ予測がつきません」高橋先生は彼女のまなざしを受け止めながら、ゆっくりと言葉を選んだ。少しでも重さが和らぐように、声の調子まで気を配っていた。「覚えていますね」柚香は頷いた。「はい、覚えています」高橋先生は
「じゃあ仕事に集中して。わざわざ私のために帰ってこなくていいよ」玲奈は目的を果たしたので、気を遣うように一言を添えた。「大したことじゃないし、少し休めば平気だから」「わかった」遥真は無理に突っ込んではこなかった。二人はあと少し世間話をしてから電話を切った。時也は遥真と柚香、そして玲奈の間の複雑な事情を知っていたが、彼がここまで非常識な行動に出るとは思っていなかった。「玲奈が嘘ついてるのは分かってるだろ?」「何が言いたい」遥真の奥が読めない目には、感情が浮かばない。「簡単に言うとだな」時也は少し身を寄せ、言葉を選んだ。「玲奈さんってさ、いわゆる『あざとい系』、いま流行りの『ぶりっ子』ってやつだぞ」遥真は落ち着いた調子で、頷く。「うん」時也「?」――うん、で終わり?「先に仕掛けたのは玲奈さんのほうだぞ?柚香さんがわざと絡んだわけじゃない。君、柚香さんとちゃんと話し合うつもりはないのか?」時也は、彼の心の奥に残った良心を引っ張り出すように言った。遥真は、モニターの前で手術室の方向を緊張しながら見つめている柚香に視線を戻し、いつもの淡々とした声で言った。「今日俺を初めて知ったのか?」「いや、でもさ、身内をかばうのにも状況ってもんがあるだろ」時也は言いたいことを飲み込みながら続けた。「今回の玲奈のやり方は、正直かなり問題あるぞ」「筋を通すのは法律の世界のことだ」遥真は薄く口を開いた。「俺は、自分の大事な人だけ守れればそれでいい」時也は言いかけた言葉を飲み込んだ。遥真が身内をかばうタイプなのは分かっている。前に柚香がひどい目にあったときも、経緯を聞く前から彼女の味方をし、「俺は彼女の盾になるために来た。君らと正論を語りに来たんじゃない」と言い放ったくらいだ。そのときは、遥真が頼もしい男だと思った。けれど今は。ただ柚香が離婚を切り出しただけで、玲奈がいつの間にか「自分側の人間」扱いになり、柚香に非があるかのように責める。筋としては一貫してるのかもしれないが、どうにも腑に落ちない。「正直に言えよ」時也には一つだけ心当たりがあった。「君、そういう『あざとい系』好きなのか?」遥真はちらりと視線を向けたが、答えなかった。彼は「あざとい子」が好きなわけじゃない。たとえ相手が、かつて恩のある玲奈であっても。た
遥真は、まるで相手がバカでも見ているような顔で時也を見つめていた。「その顔、何なんだよ」時也が不満そうに言う。遥真は答えなかった。もし柚香が玲奈の条件を受け入れるような人なら、あのとき彼が出した条件だって受け入れていたはずだ。「玲奈さんが帰り際に言った感じだと、これから柚香さんのこと狙ってくるんじゃないか」時也は話題を変えた。遥真が何考えてるのか本当に理解不能だ。「君、玲奈さんと話したほうがよくない?」遥真はそっと口を開く。「何を話すっていうんだ」「柚香さんにちょっかい出すなって、止めればいいじゃん」時也は理性的に言う。「柚香さんはもうすぐ君と離婚するし、君に未練もないだろ。玲奈さんが手を出したら、トラブルの種まきにしかならないだろ?」遥真の瞳が一瞬で暗く沈む。その場の空気がぐっと冷え込んだ。時也の心臓がばくばくする。いや、事実を言っただけだろ?なんで怒るんだよ。「彼女が何をしようと自由だ」遥真の声は冷ややかで、感情の色が読めない。「たとえ何かトラブル起こしても、彼女の代わりに俺が片付ける」「……は?」時也の脳が追いつかない。「今の『彼女』って、玲奈さんのこと?それとも柚香さんのこと?」「どっちだと思う」遥真は落ち着いた声で返す。「いや、君……ちょっと頭おかしくなってない?」時也はこめかみを押さえる。こんな狂気じみた理屈、誰が予想する。「玲奈さんのせいで柚香さんと離婚したのはまだしも、今度は玲奈さんが柚香さんに喧嘩売ろうとしてんのに、君はまだ彼女の肩を持つのか?」「俺は自分の側の人間の肩しか持たない」少し言い換えるように遥真は言った。時也はなんとか正気に戻そうとする。「忘れてないよな?玲奈さんが柚香さんに絡む原因って、君がずっと柚香さんの生活に首突っ込んでるからなんだぞ」「それで?」遥真は微動だにしない。時也は頭の中いっぱいに「???」を浮かべた。いや、何でまだ「それで?」なんだよ。普通の人間なら、こんなことできるか?「それは彼女自身が選んだことだ」遥真の視線はモニターに映る人物に向けられ、その黒い瞳はこれまでで一番深く沈んでいた。「向き合いたくないなら、戻ってくればいい。逃げ道はいくらでも残してある」時也の口元が引きつる。その「逃げ道」、地獄の一本道と何が違うんだよ。普通の神経