LOGIN「ちょっとあなたの思い通りにならなかったら、それって全部『意地』なの?」柚香は彼の冷たさを帯びた目を見つめ、静かに言った。「あなたの望みどおりに動かないだけで、すぐ怒るんだね」遥真が彼女を抑える力が次第に強くなっていく。痛かった。けれど柚香は声ひとつ漏らさない。「遥真、もう少し大人になったら?」柚香は、彼が子どもみたいだと本気で思った。「ここ数日、俺が君の面倒をどれだけ片付けたか知ってるか」遥真は手を放さない。「弘志や、あの個室にいた連中が二度と君に近づかないのは、全部俺が先に処理したからだ」柚香の表情が、一瞬固まった。遥真は告げる。「君が言うことを聞かなくても、余計なことで疲れさせたくなかった」彼は怒っていた。言うことを聞かない、従わない、頑固な彼女に。それでも、守りたかった。ぶつかって傷ついて、最後には自分のところへ戻ってくると、そう思って。「じゃあ聞くけど、あなたが『片付けた面倒』より、あなたが私に持ち込んだ面倒の方がよっぽど多いって考えたことある?」柚香は押さえつけられながらも、身を任せるように落ち着いて言った。遥真の目がわずかに深くなる。「あなたが手を出さなければ、指輪は高く売れてた。すぐに仕事も見つかった。父に絡まれたって、真帆がすぐ助けてくれたはず」柚香は続ける。「今よりずっとマシに生きられたし、あなたからいつ仕返しが来るかなんて怯えなくて済んだ」「……そう思ってたのか」遥真の手の甲に浮いた血管がくっきりする。だが、それ以上力は加えない。柚香は迷わず答えた。「そう思ってる」「俺に守られなかったらどうなるか、考えたことある?」遥真の声は低い。「ないよ」柚香は、誰にも頼れない生活をしたことがなかった。「でも、今よりはマシだと思う」その言葉に、遥真はふっと手を離した。柚香はすぐに車を降りた。数歩分距離を取り、彼を警戒するように立つ。遥真はそれを気にも留めず、袖口を整え、いつもと変わらぬ落ち着いた動きで二歩近づいた。「行っていい」「まだ返事をもらってない」柚香は約束の返事を求めた。「最終面接には口を出さない。君のことも弘志にも言わない」遥真の声は淡々として、先ほどよりずっと距離がある。「これで満足か」「ありがとう、久瀬社長」柚香はそう言った。遥真の目が、さらに冷えた色を
玲奈は思わず遥真の袖をつかんで、説得するように言った。「もういいんじゃない?私、大したことないし。わざわざ頭を下げる必要なんてないよ。それに昨日の状況は、柚香だってわざとじゃなかったんだから」「わざとかどうかなんて関係ない。傷つけたことは事実だ」遥真の声は冷たく、微動だにしなかった。玲奈の全身の血が、その瞬間すっと冷えた。彼は柚香を五年間、あれほど甘やかし続けてきたのに、別れてまだ数日で、こんなにも冷たくなれるの?もし後で、自分が嘘をついていたと知ったら……そのとき彼は、どんな反応をする?考えるだけで、ぞっとしてしまう。柚香の表情は変わらなかった。来ると決めた以上、こうなる覚悟はとっくにしていた。彼女はあらためて玲奈のほうを向き、深く頭を下げて言った。「本当にごめんなさい、桐谷さん」呼び方も、声の調子も、態度も、どの点を取っても非の打ちどころがない。誰が見ても、彼女は心から謝っていた。そもそもここまでさせているのは遥真なのに、実際に彼女が玲奈に頭を下げた瞬間、胸の奥にぶわっとわけのわからない怒りが湧き上がってきた。その次の瞬間。誰も予想していなかった行動に出た。遥真が柚香の手首をつかみ、そのまま強引に彼女を引きずってガレージへ連れて行き、車の中に押し込んだ。「遥真!」玲奈が追いかけようとして足を踏み出す。「柚香と少し話す。先に家に入ってて」遥真は振り返りもしなかった。玲奈は引き止めたかった。けれど、このところの彼との距離感を思えば、追えば彼の機嫌を損ねるだけだとわかっている。結局、「わかった……夜は早めに戻ってきてね」と返事をした。それ以上追わず、胸のざわつきを抑えながら部屋に戻っていった。柚香は、遥真のことを本当にどうかしてる、と心底思った。振り払おうと何度も手を動かしたが、彼の力は強すぎて、手首が赤くなるだけで逃れられない。「まさか柚香さんが、ここまで腰が低いとは思わなかったな」遥真が身をかがめ、後部座席に押し込んだまま動けないようにしてくる。「言われたら素直に謝るなんて」「プライドより現実でしょ」柚香は、彼の言葉をそのまま返した。その声には、さっきの強がりはもうなかった。「これ、あなたが私に言った言葉でしょ?」遥真の手に力がこもる。長いあいだ彼に守られて、彼の前で頭を下げたことなんて一度もなか
ブブッと二度、スマホが震えた。陽翔からのメッセージだった。【パパ、おやすみ】何度も見慣れた短い文字なのに、今日ほど胸に刺さったことはない。遥真は指先で画面を二度なぞり、しばらく考えてから返した。【おやすみ、陽翔】陽翔はそれを見て、そっと唇を噛んだ。車に戻ったあと、怜人はまず柚香の手当てをし、処置が終わってから二人を楓苑マンションまで送った。母子がマンションに入り、階段を上がっていくのを確認してから、怜人はスマホを取り出し、柚香にメッセージを送る。【傷は水に触れないように、ちゃんと気をつけてね】柚香は陽翔を寝かしつけてから、そのメッセージに気づき、【うん】と返した。怜人はすぐに返信してきた。【今日、ちょっと元気なかったよね。遥真がまた何かした?】【今日は全部うまくいったんだもん。元気ないわけないでしょ】心配させたくなくて、嘘をついた。面接も順調で、母の手術も無事に終わった。夜のあの件さえなければ、本当に「全部順調」だった。「何年友達やってると思ってるの。元気かどうかくらい見れば分かるよ?」怜人はそのまま音声メッセージを送ってきた。「言いたくないなら追及しない。でも何があっても、俺と真帆は味方だからね」柚香は短く返した。【知ってる】その晩、なかなか眠れなかった。二十数年の人生で、間違っていないことに対して頭を下げたことなんて一度もない。結婚前は何があっても両親がいて、誰も自分を強く迫ったり、いじめたりできなかった。結婚後は遥真がいて、外で少しも悔しい思いをさせることはなかった。でも今は、自分だけだ。始まったばかりなのに、生活をこんなにめちゃくちゃにしてしまった。母が目を覚ました時、自分に落ち度がないのに謝ったことを知って、自分を責めるだろうか。柚香はいつ眠ったのか覚えていない。ただ、アラームが鳴った瞬間、頭がぐらぐらして目も開かず、それでも早起きして朝食を作った。遥真のいない生活では、全てが自分でやらなければならない。一日三食、家の掃除、日常の雑事。でも、こういう生活は不思議と落ち着く。簡単に身支度を終え、陽翔に朝ごはんを食べさせて学校へ送り出してから、ようやく彼女は車に乗り、水月亭へ向かった。途中ずっと心の準備をしていた。玲奈に謝るなんて、正直、死ぬほどつらい。でも人生ってときどき、生きてる方がつらい
柚香は陽翔の頭をそっと撫でた。「大丈夫よ、痛くないから」「こんなに大きな傷なのに、痛くないわけないでしょ」怜人はそう言いながら彼女を見て続ける。「昔はちょっと転んだだけで、泣き声あげてた人が誰だったかね」柚香「……」二人があまりにも自然で親しげに話す様子を見て、遥真の目は夜の闇みたいにどんどん深く沈み、まとう空気はどんどん冷めていく。周囲の雰囲気が一気に冷め込んだようだった。その気配に気づいた陽翔は、小さな体をくるりと向けて彼を見る。「パパ、ママにふーふーしてあげないの?」「陽翔がしてあげれば十分だよ」遥真は柚香に視線を向け、数秒じっと見つめてから陽翔へ視線を落とすと、後半の言葉を続けた。「おいで。パパ、ちょっと聞きたいことがある」陽翔は戸惑いながらも、素直に彼のそばへ歩いていった。ふたりは少し離れたところで立ち止まる。陽翔はぱちっと目を瞬かせて聞いた。「聞きたいことってなに?」「どうして怜人を呼んだ」遥真は気持ちを抑え、彼の前にしゃがむ。大きくて温かい手を陽翔の肩に置き、できるだけやわらかい声で尋ねた。陽翔はとぼけたふり。「ん?」「ごまかさないの」遥真がすぐ見抜く。「パパがママを守れないなら、僕が新しいパパを探してママを守ってもらう」陽翔は真剣で、幼い声で言った。「怜人おじさん、いい人だし。彼が新しいパパになってもいいよ」遥真「……」わざと怒らせようとしてるのはわかっていても、さすがに少しムッとした。「ママを捨てて別の人を選ぶのはパパの自由だよ」陽翔はさらに追い打ちをかけるように言う。「パパも、僕が自分で新しいパパを探すのを邪魔しないで」「わざとパパを怒らせて楽しい?」遥真は陽翔のぷにっとした頬を軽くつまむ。陽翔は幼いけれど、頭はしっかりしている。「パパが先にママを怒らせたんだもん」「いつママを怒らせたっていうんだ」遥真は理屈で返そうとする。「さっき」陽翔は堂々と言う。「ママ、パパを見つける前は笑ってたよ。パパと話したあと、目から光が消えてた」そこまで見ていたことに遥真は少し驚く。「目から光がなくなったのも、俺のせい?」陽翔は小さくうなずく。「うん」「世の中って、正義なんてないの?」遥真は陽翔の小さな頭を軽くつついたが、その目の奥の愛しさはむしろ深まる。陽翔「ママこそ正義」
「何をする気?」柚香は胸がぎゅっと縮むのを感じ、振り返って警戒した目で彼を見た。遥真の視線がぶつかる。表情は変わらず穏やかだ。「別に。ちょっと日常の話でもしようかと思って」柚香の手はじわじわ強く握られ、爪が掌に食い込み、治りかけの傷口がまた開いて血がにじむ。痛いはずなのに、まるで何も感じないみたいだった。「彼女が私の前ででたらめなことを言ったから、手を出したんだよ……」仕事も生活もこれ以上かき乱されたくなくて、柚香は感情を押し込めて説明した。遥真はゆっくりと言い返す。「昔、君をかばったとき、俺が他人の言い分なんか聞いたことがあるか?」その一言で、柚香が用意していた言葉は一瞬で崩れた。街灯が彼女の顔を照らし、表情がすべて浮かび上がるのに、その背後の影は深く沈んでいて、まるでこれからの人生みたいに先が見えない。「もし彼女が可哀想に見えるなら、病院の時みたいに十倍でも百倍でも、返してあげればいい」血の滲む手にぎゅっと力をこめ、最後のプライドを守るための言葉を吐き出す。でも相手は遥真。自分にも他人にも容赦しない男が、彼女の望みどおりに行動するはずがない。彼が不快なら、彼を不快にした者もまた、不快でいなければならない。「十倍、百倍返ししたいなら、止めはしない」遥真が一歩近づく。深く澄んだ瞳で、彼女をじっと見つめた。「でも、謝罪は別だ」「どうしても?」柚香の心は粉々に砕けていく。「選ぶのは君だ」遥真はすでに決めていた。自分に甘えて謝りたくないと言ってくれれば、それで終わりにするつもりだった。しかし、柚香は彼の思う通りにはならなかった。彼女は気持ちを整え、生活のために、一時的に自分を抑えて屈することを強いた。「私が玲奈に謝れば、私の住所を父に教えたり、最終面接に干渉したりしない……それでいい?」原栄ゲームと遥真は直接関係ないとはいえ、彼が本気で一言言えば先方も断らざるを得なくなる。権力者の機嫌を損ねてまで、無関係の一人を守る人なんていない。「ああ」その一言を口にした遥真の目は、薄い黒い靄をまとっていた。「分かった」柚香は安定した生活のために従った。「明日、玲奈に謝る。その時は約束は守って」遥真の目はさらに冷たくなった。本心に反して謝ることはできても、ろくな言葉は一つもかけない。ますます人を怒らせる
柚香はちらっと遥真を見ただけで挨拶もせず、陽翔の手を引いてそのまま歩き出した。「ちょっと待て」遥真が呼び止めた。柚香の足が止まる。彼女が口を開くより先に、車のドアが開き、遥真が脚を伸ばして降りてきた。落ち着いた大人の空気をまとい、彼女の前に立ちふさがる。「何の用?」柚香はそっけなく言った。そのよそよそしい態度は、はっきりと表れていた。遥真の視線が、彼女が陽翔の手を握るその手元に一瞬落ちる。声は淡々としていた。「少し来てくれ。話がある」柚香は動かない。呼ばれたら素直についていけるとでも思っているの?何様のつもりだ。「陽翔に聞かれてもいい?俺は別に構わないけど」すれ違うように彼女へ近づきながら、耳元で低くつぶやいた。柚香は唇をきゅっと結ぶ。陽翔が小さな顔を上げる。「ママ、どうしたの?」「なんでもないよ。ちょっとここで待ってて」柚香は彼の頭を優しく撫で、安心させるように微笑む。「パパとちょっと話してくるね。終わったら帰ろ」陽翔は素直にうなずいた。「うん」柚香は人差し指を軽く曲げて、彼の鼻先をそっとこすり、それから遥真の方へ歩き出した。二人の姿が離れていくのを見て、陽翔は自分のスマートウォッチを操作し、数回タップしてメッセージを一つ送信した。そのことを知らない柚香は少し離れたところで足を止め、遥真を見た。まるで他人に対するように距離を置き、冷たく言った。「で、何?」「玲奈の額の傷、君がやったのか?」遥真の黒い瞳がまっすぐ彼女を射抜く。柚香は一瞬固まった。最初は反論して、また言い争おうかとも思った。けれど、彼の身内をかばう性格を思い出し、これ以上言うのも面倒になり、素直に認めた。「そうだよ。復讐でもしたいの?そこに石ころ落ちてるし、それ拾って私の額にでも投げたら?同じくらいにはなるんじゃない?」遥真の視線は彼女に注がれた。たった数日でこの気の強さ。「明日、玲奈に謝れ」彼は言った。「私が悪くないのに?なんで謝らなきゃいけないの?」柚香は言い返す。彼がこう言うのは想定内だった。「一晩考える時間を与える」遥真は目的をはっきり示す。以前のような優しさや忍耐はない。「明日の昼までに水月亭に行って直接謝らなかったら、君の居場所を、君の父親に知らせる」柚香の瞳が大きく揺れる。遥真は淡