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第123話:報せ

last update Last Updated: 2025-09-07 21:54:28

朝の光が屋敷の窓を透かして差し込んでいた。

柘榴の若木の葉が風に揺れ、夜露を弾いて光を散らす。昨日の涙が嘘のように、庭は静かで澄んでいた。

リリウスは寝台の上で半ば目を閉じ、まだ夢と現の境を漂っていた。昨夜、カイルの胸に顔を埋めながら眠ったせいか、いつもより深く眠れた気がする。けれど心の奥の痛みは、まだ少しだけ残っていた。

(……でも、あの人を選ばないって言えた。僕の言葉で)

その小さな実感が胸に灯となっていた。

柔らかな寝息が隣から聞こえる。そちらに目を落とせば、軍服を脱ぎ捨てたまま眠るカイルがいて、窓辺の光が髪に落ちていた。彼の存在は夜の闇を裂く剣のようであり、また、朝の静けさを包む大樹のようでもあった。

穏やかで長い一瞬——けれどそれは、不意の足音によって破られる。

扉が静かに叩かれた。普段なら昼まで遠慮を見せるセロが、朝早くに来るのはただ事ではない。

「……入れ」

カイルが足音を聞くなり起き上がる。その声はまだ寝起きの低さを残していた。だが一言で空気が引き締まる。扉が開き、セロが現れる。顔に汗はないが、目は強く結ばれている。

「報告があります」

短い言葉。リリウスは胸がざわつき、思わず寝台の端に腰を起こした。

「……何か、あった?」

セロは一歩進み、深く頭を垂れてから告げた。

「レオンが逃亡しました」

一瞬、空気が止まった。

リリウスの鼓動も、柘榴の葉擦れさえも、すべてが遠のいた気がした。

「……逃亡……? どうして」

声が震える。

セロは視線を落とし、淡々と告げた。

「護送の途中で、です。都城へ向かう街道、橋の手前の区画。あそこは以前、ヴァルド兵が警備していた場所でしたが——“総帥の兵ばかりに任せるな”という議会の意見で徐々に交代させられていた。まだ統制が甘く、隙が生じていたのです。その隙を突かれました」

リリウスは口を開けたまま言葉を失った。

胸の奥が冷たい水に沈められるようだった。

(……ヴァルド兵が外された場所……)

あまりにも露骨で、狡猾だった。

昨日の言葉が頭をよぎる——「結局お前も役割に縛られている」。

あれは、これを予兆していたのか。

「……まさか」

声にならない声が漏れる。

その横で、カイルが椅子を軋ませて立ち上がった。

深く息を吐き、瞳には冷たい炎を宿している。

「捕らえる」

その断言は、刃のように鋭く重かった。

「必ず捕まえる。二度と
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    朝の光が屋敷の窓を透かして差し込んでいた。柘榴の若木の葉が風に揺れ、夜露を弾いて光を散らす。昨日の涙が嘘のように、庭は静かで澄んでいた。リリウスは寝台の上で半ば目を閉じ、まだ夢と現の境を漂っていた。昨夜、カイルの胸に顔を埋めながら眠ったせいか、いつもより深く眠れた気がする。けれど心の奥の痛みは、まだ少しだけ残っていた。(……でも、あの人を選ばないって言えた。僕の言葉で)その小さな実感が胸に灯となっていた。柔らかな寝息が隣から聞こえる。そちらに目を落とせば、軍服を脱ぎ捨てたまま眠るカイルがいて、窓辺の光が髪に落ちていた。彼の存在は夜の闇を裂く剣のようであり、また、朝の静けさを包む大樹のようでもあった。穏やかで長い一瞬——けれどそれは、不意の足音によって破られる。扉が静かに叩かれた。普段なら昼まで遠慮を見せるセロが、朝早くに来るのはただ事ではない。「……入れ」カイルが足音を聞くなり起き上がる。その声はまだ寝起きの低さを残していた。だが一言で空気が引き締まる。扉が開き、セロが現れる。顔に汗はないが、目は強く結ばれている。「報告があります」短い言葉。リリウスは胸がざわつき、思わず寝台の端に腰を起こした。「……何か、あった?」セロは一歩進み、深く頭を垂れてから告げた。「レオンが逃亡しました」一瞬、空気が止まった。リリウスの鼓動も、柘榴の葉擦れさえも、すべてが遠のいた気がした。「……逃亡……? どうして」声が震える。セロは視線を落とし、淡々と告げた。「護送の途中で、です。都城へ向かう街道、橋の手前の区画。あそこは以前、ヴァルド兵が警備していた場所でしたが——“総帥の兵ばかりに任せるな”という議会の意見で徐々に交代させられていた。まだ統制が甘く、隙が生じていたのです。その隙を突かれました」リリウスは口を開けたまま言葉を失った。胸の奥が冷たい水に沈められるようだった。(……ヴァルド兵が外された場所……)あまりにも露骨で、狡猾だった。昨日の言葉が頭をよぎる——「結局お前も役割に縛られている」。あれは、これを予兆していたのか。「……まさか」声にならない声が漏れる。その横で、カイルが椅子を軋ませて立ち上がった。深く息を吐き、瞳には冷たい炎を宿している。「捕らえる」その断言は、刃のように鋭く重かった。「必ず捕まえる。二度と

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